「日本帝国主義と朝鮮人の民族独立運動」
■このころの日本(1910~1945)
政治・社会・文化の大衆化
1918年、初の本格的な政党内閣である原敬内閣が登場した。その後、1925年、普通選挙要求運動と政党を背景に加藤高明内閣が登場し普通選挙法(25歳以上の男子に選挙権)を制定した。同時に天皇制と資本主義に反対する運動を弾圧するために治安維持法を制定した。その後、1929年、5・15事件で犬養毅内閣が倒れるまで続き民政党と政友会が交替で内閣を組織した。1920年代にはワシントン体制のなかで西洋列強と強調し軍縮にも積極であった(民政党)。
1923年の関東大震災は日本社会を大きく変えた。東京や横浜が大きな被害を受けその中で朝鮮人や中国の虐殺事件も起こった。そのころから私鉄沿線には都市サラリーマンの住宅地や遊園地が作られ「文化生活」と言う言葉が生まれた。都心部ではターミナル駅や歓楽地が繁盛し映画や新聞・ラジオなどのメデイアの発達もあって大衆文化が広がった。
参考資料Ⅱ【韓国史】「大韓民国教育部国際教育振興院」発行(1995年に初版)
〓文書は原文のままで掲載。
■民族の受難
土地と食糧の掠奪
日帝が国権を強奪したのち重点において行った経済政策がすなわち土地掠奪政策であった。日帝は植民地化以前にもすでに多量の土地を掠奪していたけれども1910年には朝鮮総督府に臨時土地調査局を設置して莫大な資金と人員を動員して全国的な土地調査事業を展開した(1912―1918)
日帝は土地を奪うため土地所有の関係を近代的に整理するとした名分のものと農民たちの土地を登録するようにした。これに従わないとか申告の期限が過ぎた民間人の土地と公共機関の土地をすべて総督府の所有にしてしまった。
このようにして総督府が不当に取り上げた土地は全国の農地の約40%に達した。総督府はこの土地を東洋拓殖会社や日本人たちに安く売り渡した。
日帝が土地調査という名分で多量の土地を取り上げることにより農民たちは土地を失い他人の小作人になったり又は日雇い労働者に転落した。これすらもできなかった貧しい農民たちは山奥にはいり火田民となるか満州または日本へと放浪生活を余儀なくされた。
土地の掠奪とともに日帝は植民地朝鮮から毎年数百万石の米と大豆を日本に奪い去った。1920年から10余年間実施されたいわゆる産米増殖計画は米を如何にして多量に又効果的に持ち出すかを工夫して立てた計画であった。
米が日本へ流失になってことによってもうすでに不足していた食糧の事情が一層悪化した。韓国民たちは飢えをしのぐために草根で命をつなぐしかなかった。
今、スカイパークテレビの韓国(KN)テレビでは「明成皇后」が嫁ぎ興善大院君(高宗の父)とのやりとりそして周りの親類縁者、取り巻きの人間模様が描かれている。そしてそこで興善大院君が言うせりふが日本植民地支配に入る前の危機感を意識している。
景福宮は1553年、大火で焼かれた建物である。そして壬申の乱(文禄・慶長の役-1592年)の際、豊臣秀吉の侵略で放火されて再び焼失した。景福宮の焼けた建物は250年もの間放置されたままだった。
興善大院君が外圧によって滅びかけていた国の綱紀を正し王権を強化するために莫大な費用をかけて再建した。画面は再建当時財政難で苦しむ場面が何度かでてくる。そして興善大院君は話す。中国の紫禁城を例にだして話す。
「中国で英国からこられた客人を迎える。客人は門の前で歩いて行くというが輿にのって下さいという。そして1つ、2つと門を通り12の門を通ってやっと紫禁城に入ったという。そして客人は思った。この国はそう容易に国の中に入れないと悟ったという。それなら我が国は中国のように広大な土地ではないがせめてそれに近いものにするということで光化門が作っていく奥深い建物を建設していく。他の国が入ってこないように」という。
そしてドラマはまだまだこれから人間模様と当時の歴史模様を放映されていくこになるだろう。文献ではこれから日本植民地時代に入っていくが朝鮮王朝の末期、繰り広げられた人間模様に興味をそそってみている。土曜日午後4時20分から放映された「明成皇后」のドラマは水・木の午前中に再放送される。昨日、筆者は現場取材に入っていたので見ることができなかった。来週の再放送をみることにしよう。
景福宮は1392年に高麗を滅ぼした朝鮮を建国した太祖・李成桂が高麗の首都開城を去ってソウルを新しい国の首都定め1395年、その新王朝の宮殿として立てたものである。景福宮は朝鮮時代に作られた5つの宮殿の中で最高の「法宮」である。王室の生活空間であると同時に王が執務を行う場所である。
12万6千坪という広大な敷地、殿閣が200余棟もあった。これが豊臣秀吉の壬申の乱で焼失した。財政難にもかかわらず興善大院君が意地と信念で1865年に再建された。日韓併合時に日本軍によって壊されてしまった。現在復元工事が行われ当時の姿にもどりつつある。
ソウルの町、光化門をこえていくと景福宮にいくことができる。この近辺にはサムゲタン(参鶏汁)雛鳥の入ったスープ専門の店がある。真夏に訪韓すると知人は筆者の体調を心配してこの店に必ず連れて行ってくれる。専門店だけに大勢の人が来ている。景福宮には興味があって1人で見学することもあった。表にでてすぐそばにある地下鉄に行こうとしたらタクシーがすっと横に止まった。在日韓国人でも日本の気候風土で育っているので日本からきた観光客に見えるという。
景福宮の中に楽善斎というところがある。日韓の政略結婚した李正子さんが日本から韓国に渡った後はここで過ごされて福祉事業に取り組まれた。李承晩大統領の時は入国を拒否したが朴正煕大統領は受け入れた。病身の末裔の殿下を帰国させて李正子さんの生涯の面倒を見られた。
日韓・韓日併合は韓国が独立してもかかわる人たちの人生は波乱万丈だった。景福宮を歩いているとなぜかこんなことを思い出し親日派の朝鮮人の手引きで日本人の官憲に殺害された明成皇后(閔妃)、興善大院君といつも対立していたという。政争は日本植民地支配が偲びよっていることに気がつかなかったのだろうか。浅学非才の筆者は考えてしまう。
【写真説明】1994年夏、韓国に訪問、1度ゆっくり見学したいと思って景福宮を訪ねた。今またテレビ放送で新たなことを知っていく。韓国のシンボルと言える建物でもあることを知った。テレビは日韓併合前の当時の様子を思い知ることができる。また訪韓したときは心をこめて見学したい。
■このころの日本(1910~1945)
政治・社会・文化の大衆化
1918年、初の本格的な政党内閣である原敬内閣が登場した。その後、1925年、普通選挙要求運動と政党を背景に加藤高明内閣が登場し普通選挙法(25歳以上の男子に選挙権)を制定した。同時に天皇制と資本主義に反対する運動を弾圧するために治安維持法を制定した。その後、1929年、5・15事件で犬養毅内閣が倒れるまで続き民政党と政友会が交替で内閣を組織した。1920年代にはワシントン体制のなかで西洋列強と強調し軍縮にも積極であった(民政党)。
1923年の関東大震災は日本社会を大きく変えた。東京や横浜が大きな被害を受けその中で朝鮮人や中国の虐殺事件も起こった。そのころから私鉄沿線には都市サラリーマンの住宅地や遊園地が作られ「文化生活」と言う言葉が生まれた。都心部ではターミナル駅や歓楽地が繁盛し映画や新聞・ラジオなどのメデイアの発達もあって大衆文化が広がった。
参考資料Ⅱ【韓国史】「大韓民国教育部国際教育振興院」発行(1995年に初版)
〓文書は原文のままで掲載。
■民族の受難
土地と食糧の掠奪
日帝が国権を強奪したのち重点において行った経済政策がすなわち土地掠奪政策であった。日帝は植民地化以前にもすでに多量の土地を掠奪していたけれども1910年には朝鮮総督府に臨時土地調査局を設置して莫大な資金と人員を動員して全国的な土地調査事業を展開した(1912―1918)
日帝は土地を奪うため土地所有の関係を近代的に整理するとした名分のものと農民たちの土地を登録するようにした。これに従わないとか申告の期限が過ぎた民間人の土地と公共機関の土地をすべて総督府の所有にしてしまった。
このようにして総督府が不当に取り上げた土地は全国の農地の約40%に達した。総督府はこの土地を東洋拓殖会社や日本人たちに安く売り渡した。
日帝が土地調査という名分で多量の土地を取り上げることにより農民たちは土地を失い他人の小作人になったり又は日雇い労働者に転落した。これすらもできなかった貧しい農民たちは山奥にはいり火田民となるか満州または日本へと放浪生活を余儀なくされた。
土地の掠奪とともに日帝は植民地朝鮮から毎年数百万石の米と大豆を日本に奪い去った。1920年から10余年間実施されたいわゆる産米増殖計画は米を如何にして多量に又効果的に持ち出すかを工夫して立てた計画であった。
米が日本へ流失になってことによってもうすでに不足していた食糧の事情が一層悪化した。韓国民たちは飢えをしのぐために草根で命をつなぐしかなかった。
今、スカイパークテレビの韓国(KN)テレビでは「明成皇后」が嫁ぎ興善大院君(高宗の父)とのやりとりそして周りの親類縁者、取り巻きの人間模様が描かれている。そしてそこで興善大院君が言うせりふが日本植民地支配に入る前の危機感を意識している。
景福宮は1553年、大火で焼かれた建物である。そして壬申の乱(文禄・慶長の役-1592年)の際、豊臣秀吉の侵略で放火されて再び焼失した。景福宮の焼けた建物は250年もの間放置されたままだった。
興善大院君が外圧によって滅びかけていた国の綱紀を正し王権を強化するために莫大な費用をかけて再建した。画面は再建当時財政難で苦しむ場面が何度かでてくる。そして興善大院君は話す。中国の紫禁城を例にだして話す。
「中国で英国からこられた客人を迎える。客人は門の前で歩いて行くというが輿にのって下さいという。そして1つ、2つと門を通り12の門を通ってやっと紫禁城に入ったという。そして客人は思った。この国はそう容易に国の中に入れないと悟ったという。それなら我が国は中国のように広大な土地ではないがせめてそれに近いものにするということで光化門が作っていく奥深い建物を建設していく。他の国が入ってこないように」という。
そしてドラマはまだまだこれから人間模様と当時の歴史模様を放映されていくこになるだろう。文献ではこれから日本植民地時代に入っていくが朝鮮王朝の末期、繰り広げられた人間模様に興味をそそってみている。土曜日午後4時20分から放映された「明成皇后」のドラマは水・木の午前中に再放送される。昨日、筆者は現場取材に入っていたので見ることができなかった。来週の再放送をみることにしよう。
景福宮は1392年に高麗を滅ぼした朝鮮を建国した太祖・李成桂が高麗の首都開城を去ってソウルを新しい国の首都定め1395年、その新王朝の宮殿として立てたものである。景福宮は朝鮮時代に作られた5つの宮殿の中で最高の「法宮」である。王室の生活空間であると同時に王が執務を行う場所である。
12万6千坪という広大な敷地、殿閣が200余棟もあった。これが豊臣秀吉の壬申の乱で焼失した。財政難にもかかわらず興善大院君が意地と信念で1865年に再建された。日韓併合時に日本軍によって壊されてしまった。現在復元工事が行われ当時の姿にもどりつつある。
ソウルの町、光化門をこえていくと景福宮にいくことができる。この近辺にはサムゲタン(参鶏汁)雛鳥の入ったスープ専門の店がある。真夏に訪韓すると知人は筆者の体調を心配してこの店に必ず連れて行ってくれる。専門店だけに大勢の人が来ている。景福宮には興味があって1人で見学することもあった。表にでてすぐそばにある地下鉄に行こうとしたらタクシーがすっと横に止まった。在日韓国人でも日本の気候風土で育っているので日本からきた観光客に見えるという。
景福宮の中に楽善斎というところがある。日韓の政略結婚した李正子さんが日本から韓国に渡った後はここで過ごされて福祉事業に取り組まれた。李承晩大統領の時は入国を拒否したが朴正煕大統領は受け入れた。病身の末裔の殿下を帰国させて李正子さんの生涯の面倒を見られた。
日韓・韓日併合は韓国が独立してもかかわる人たちの人生は波乱万丈だった。景福宮を歩いているとなぜかこんなことを思い出し親日派の朝鮮人の手引きで日本人の官憲に殺害された明成皇后(閔妃)、興善大院君といつも対立していたという。政争は日本植民地支配が偲びよっていることに気がつかなかったのだろうか。浅学非才の筆者は考えてしまう。
【写真説明】1994年夏、韓国に訪問、1度ゆっくり見学したいと思って景福宮を訪ねた。今またテレビ放送で新たなことを知っていく。韓国のシンボルと言える建物でもあることを知った。テレビは日韓併合前の当時の様子を思い知ることができる。また訪韓したときは心をこめて見学したい。
正直、始めてだから緊張して覚えてないけど、僕のムスコが喜ばれたのがものすごくうれしかった!!!http://18erosta.net/hk/457