舞台は奈良県平群の安堵村の村祭りが画面にでている。
そして老人介護も入っている。少し見ると斑鳩という言葉も頻繁にでてきた。
この映画「老親」の原作者は門野晴子さんではないのかなと思ってつい最後まで映画を見てしまった。
最後にスタッフの名前が画面に出てきた。
やはり原作者は門野晴子さんだった。懐かしい名前だった。
奈良の斑鳩に住んでおられたころ地方紙の会合、ペングループによく顔を出しておられた。この方は当時の女性記者が取材で知り合って会合に呼びかけたのだろう。
しかしある日彼女は言った。
「私はこの会合には合っていないみたいだから」と言葉多く語らずにして会合に顔をださなくなった。
奈良の田舎では1歩も2歩も前に行っている人だった。
当時彼女と同年代の人たちは会合の代表になるかもしれないと思う人もいただろう。まだできたばかりの会合で不安感がいっぱいあった。そんなところに時代の先を行く彼女が現れた。
東京生まれの彼女は江戸っ子弁で話す。これでまた時代の先端を行っているようだった。門野晴子さんをインターネットで検索すると多くの著書を書き男女平等論を唱えフェミニストの言葉もたくさん盛り込まれていた。
どちらの言葉も当時彼女が使っていた。なつかしい言葉が並んでいた。
私は当時、会合では書記そして冊子の編集長で裏方ばかりしていたので表面で何があったのかしらないがいつしか彼女は会合に一切顔をださなくなった。
7年間暮らした斑鳩を後にして出身地の東京に戻っていかれたことは風の噂で聞いていた。
東京に戻った彼女は介護体験などの著書が多く出版された。
奈良の書店にも並び手に取ってみた。1冊購入した記憶があるがその著書のもう我が家にない。大掃除の時に捨ててしまった。
著書がでてから会合に彼女が講演にくるという案内を見たが私はもうすでに雑誌記者から在日韓国人の日刊紙の記者に転職して猛烈に忙しい日々を過ごしていたので出席する返事なんてかけなかった。
それからたまに書店で門野晴子さんの著書をみることもあったが私の中から記憶が遠ざかっていた。
そんなときに見た昨日の映画、門野さんが話していた内容と映画が重なり懐かしく映画を見ていた。最後のスタッフの字幕に門野晴子さんの名前があった。
斑鳩というところは昔からの人が住んでいる家が多い。姑の介護で斑鳩にきて1週間の介護は今度舅の介護になった。
当時の家庭状況も彼女の口から何度も飛び出して驚いたものだった。そんなことが考えられないものだった。今は門野晴子さんの家庭に似た若者たちも大勢いるようになってできちゃった結婚もよく見るケースになった。
こんなこと実践していた彼女の町では風当たりは強かったと思っている。
私も田舎の風習の多い町で子育てをしたが何か違うことをすると風あたりがつよかった。門野さんとであったころ私はまだ36歳だった。門野さんのことはずいぶんお姉さんと思っていた。時代の先端もそうだったが話すことは姉御肌で奈良には似合わない人だったがいつもはつらつとしていた。
インターネットで検索すると1937年生まれ。私より7歳も上でした。
今はもう70歳になっておられるでしょうか。
ご主人が大阪に転勤されたことを機会に離婚して東京に戻られて著書出版や講演活動など活発に活動しておられた。
奈良を去った後も奈良に来られたことはあるだろう。
奈良の鹿に心やすらぐことはなかったのだろうか。
私が地方紙に投稿をし始めたのは36歳、そしてペングループを作ったころもこの頃である。また思い出すことになった。
門野晴子さんが男女平等論を唱えているころは女性が結婚すると「嫁」という「枠」にくくられて「家」に仕えた。こんな社会制度に扉を空けていった世代とも言える。私も一時は男女平等論に魅力を感じたがそのうち私自身の問題、在日コリアンの問題が何も解決していないことに気がついてフェミニストや男女平等論などから外れた。
それからひたすら在日コリアンについて勉強する私になって門野晴子さんたちの活動からさらに遠ざかっていった。1980年代当時子育てをしていたお母さんが一番燃えた時代で心に響くものはいいことも悪いことも表に出して論議した時代だった。日本が高度成長の波にのりかけていた。
希望と夢が光りとして差し込んでいた時代だった。
いろんなことを思い出した映画だった。
そして老人介護も入っている。少し見ると斑鳩という言葉も頻繁にでてきた。
この映画「老親」の原作者は門野晴子さんではないのかなと思ってつい最後まで映画を見てしまった。
最後にスタッフの名前が画面に出てきた。
やはり原作者は門野晴子さんだった。懐かしい名前だった。
奈良の斑鳩に住んでおられたころ地方紙の会合、ペングループによく顔を出しておられた。この方は当時の女性記者が取材で知り合って会合に呼びかけたのだろう。
しかしある日彼女は言った。
「私はこの会合には合っていないみたいだから」と言葉多く語らずにして会合に顔をださなくなった。
奈良の田舎では1歩も2歩も前に行っている人だった。
当時彼女と同年代の人たちは会合の代表になるかもしれないと思う人もいただろう。まだできたばかりの会合で不安感がいっぱいあった。そんなところに時代の先を行く彼女が現れた。
東京生まれの彼女は江戸っ子弁で話す。これでまた時代の先端を行っているようだった。門野晴子さんをインターネットで検索すると多くの著書を書き男女平等論を唱えフェミニストの言葉もたくさん盛り込まれていた。
どちらの言葉も当時彼女が使っていた。なつかしい言葉が並んでいた。
私は当時、会合では書記そして冊子の編集長で裏方ばかりしていたので表面で何があったのかしらないがいつしか彼女は会合に一切顔をださなくなった。
7年間暮らした斑鳩を後にして出身地の東京に戻っていかれたことは風の噂で聞いていた。
東京に戻った彼女は介護体験などの著書が多く出版された。
奈良の書店にも並び手に取ってみた。1冊購入した記憶があるがその著書のもう我が家にない。大掃除の時に捨ててしまった。
著書がでてから会合に彼女が講演にくるという案内を見たが私はもうすでに雑誌記者から在日韓国人の日刊紙の記者に転職して猛烈に忙しい日々を過ごしていたので出席する返事なんてかけなかった。
それからたまに書店で門野晴子さんの著書をみることもあったが私の中から記憶が遠ざかっていた。
そんなときに見た昨日の映画、門野さんが話していた内容と映画が重なり懐かしく映画を見ていた。最後のスタッフの字幕に門野晴子さんの名前があった。
斑鳩というところは昔からの人が住んでいる家が多い。姑の介護で斑鳩にきて1週間の介護は今度舅の介護になった。
当時の家庭状況も彼女の口から何度も飛び出して驚いたものだった。そんなことが考えられないものだった。今は門野晴子さんの家庭に似た若者たちも大勢いるようになってできちゃった結婚もよく見るケースになった。
こんなこと実践していた彼女の町では風当たりは強かったと思っている。
私も田舎の風習の多い町で子育てをしたが何か違うことをすると風あたりがつよかった。門野さんとであったころ私はまだ36歳だった。門野さんのことはずいぶんお姉さんと思っていた。時代の先端もそうだったが話すことは姉御肌で奈良には似合わない人だったがいつもはつらつとしていた。
インターネットで検索すると1937年生まれ。私より7歳も上でした。
今はもう70歳になっておられるでしょうか。
ご主人が大阪に転勤されたことを機会に離婚して東京に戻られて著書出版や講演活動など活発に活動しておられた。
奈良を去った後も奈良に来られたことはあるだろう。
奈良の鹿に心やすらぐことはなかったのだろうか。
私が地方紙に投稿をし始めたのは36歳、そしてペングループを作ったころもこの頃である。また思い出すことになった。
門野晴子さんが男女平等論を唱えているころは女性が結婚すると「嫁」という「枠」にくくられて「家」に仕えた。こんな社会制度に扉を空けていった世代とも言える。私も一時は男女平等論に魅力を感じたがそのうち私自身の問題、在日コリアンの問題が何も解決していないことに気がついてフェミニストや男女平等論などから外れた。
それからひたすら在日コリアンについて勉強する私になって門野晴子さんたちの活動からさらに遠ざかっていった。1980年代当時子育てをしていたお母さんが一番燃えた時代で心に響くものはいいことも悪いことも表に出して論議した時代だった。日本が高度成長の波にのりかけていた。
希望と夢が光りとして差し込んでいた時代だった。
いろんなことを思い出した映画だった。
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