鄭容順の直言!

日頃気が付いたこと徒然に。

1月16日土曜日、外は寒い。

2010-01-16 09:25:21 | 直言!
寒風の中も私の家の方に向いてとまっている。

15年前の1月17日、朝方の5時46分、地震が起きた。
地震の規模はこれまで体験したことのない揺れだった。
恐怖を感じてフトンを頭からかぶったものだった。
6時にいつも起きていたので地震の揺れた時間にまだあと15分、寝られると思ったのに目が覚めた。
この揺れは必ずテレビニユースで放映されると思ってそろそろと起きてテレビをつけた。テレビはマグネチュウド7といい神戸市では最も揺れが激しかったという。
さてそれから時間が刻々と過ぎていく中、テレビニュースは地震ばかりだった。
そしてテレビ画面に飛び込んできたニュース、高速道路の崩壊に普通の地震ではない。ただ事ではないと判断した。
そのうちに入るニユース、長田区が燃えているという。
私は韓国の知人にすぐ電話をした。
教育関係者の多くが神戸や大阪などに赴任している。
何かの参考になればと思って電話をした。
それからテレビのニユースを見ていた。
奈良でも体験したことがない地震の揺れ、今まで経験したことがなかった揺れだった。怖かったことにつきる。
今も地震があると上下に持ち上がって揺れる。そして地鳴りを聞いた地震も初めてだった。ゴォーという地鳴り、あの轟音もけっして忘れることができない。
古い家屋の私の実家はてっきり家が潰れていると思ったが何もなかった。
昔に建てた古い家だが基礎がしっかりしているのであんなに強い揺れの地震にもなんともなかった。昔の大工の技術に驚いたものだった。
父親の妹、叔母たちは「いっそうのことつぶれてくれたら家が建替えられるのに」という人もいた。私もそう思ったがそうはいかない何かの宇宙の原理があったのだろうと悟った。
神戸市長田区は在日コリアンが多い。そして西宮、芦屋、三宮、宝塚など在日コリアンが多く暮らしている。
救助に当時の金融機関、関西興銀の職員がバイクで震災の現地に入った。
民団兵庫県本部会館も少し建物がずれた。
もちろん水道も電気もストップした。
私は震災から10日目に現地に入ったが民団中央本部職員は現地にすでに入っていた。
新聞の死亡者の欄は日本名である。在日韓国人会館に登録されている在日韓国人の名簿と新聞の死亡欄との確認作業、気の遠くなるような調査をしたのが当時の民団中央本部民生局の職員だった。ずっと会館で寝泊りして警察など往来して調査して在日コリアンの死亡者の人数をはじき出した。
そんな目に見えない苦労は日本人には分からない。
この職員が後に民団新聞の編集局で一緒に仕事をするようなった。
けっして彼が地道に動いていたことは今も忘れていない。
混乱した中で新聞記事と照らし合わせて在日韓国人の犠牲者の確認作業されたことは今も私の脳裏に鮮明に残っている。
天保山から神戸ハーバラインドを何度、船で往復したことだろう。
辛い往来だったのに震災の現地に入るとそんなことが言葉に出していえなかった。神戸元町、今は年末もルミナルエで飾っているが震災で崩れた建物もあった元町商店街を歩いたことも今も覚えている。
なぜか当時は在日韓国人の記者は多くいた。
みんな一緒になって現地取材したものだった。
ずいぶん多くの男性記者に助けられて取材をした。このこともけっして忘れることはできない。

時代が変わったというのに関東大震災の被害が起きかねないと心配して韓国の国会議員が兵庫県入りしたことも忘れていない。
このころから関西興銀が下向し始めた。
何かが動いていたと今ようやく分かってきた。
そしてもちろん朝鮮銀行はすでに崩壊し始めていた。
何か動いていたのではと思っている。

さて久しぶりに建物探訪の番組をみよう。



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