りゅういちの心象風景現像所

これでもきままな日記のつもり

「フクロウの声」と「大きな魚の水音」から「宇宙の力」へ/オザケンの宇宙論(3)

2019-11-29 00:42:35 |  音 楽 

「So kakkoii 宇宙」を聴いていると、なぜだか知らんがカタチにならないくせに

言いたいことがあふれてくる。。。

これをこのまま黙っているのはどうにも不健康だなと思う。

いちリスナーではあるけれど、自分の思いつきを大げさに書き立てるなんて、

あんまりやったことない(ん?少しはあるかも?)。

なんでかって言うと、これはそもそもポップスなんだし、大衆音楽なんだし。

誰がどう聴いたっていいという自由はどこまでも担保されなきゃいけないし、

つくった本人だって自作を語りすぎるなんてマネはしないだろうし。。。

 

でも秘したままにしておく方が、自分に都合が悪い感じがする。

歌の話なんだし、その時々に感じたことを「あの時はそう聞こえた」

っていうくらいだって十分だし、それでファンとしては120%だろ?

とか開き直ると、恥ずかしながらもどこかに書いちゃった方がいいのかなって。

 

しかし、これはどうしたものか?とも思う。

いきなり「高い塔」の話をするっていうのはたぶん可能。

可能なんだけど、歌の背景にある大きなものが前提にあるような気がして、

この1曲を語るだけではやっぱり足りない、というか

言いたいことにまったく届かない気もする。。。

その大きなものって言うのが、「オザワくん不在」の時間の間に、

オザワくんが見てきたことはもちろんなんだろうけど、

僕らが見てきたことのすべてにも被さるはずなので、

そう考えはじめると急に始末に負えなくなる。

でも、オザワくんはさすがだなって思うことがあるとすれば、

物語的に抽象化してる作品もちゃんと音楽にしているところ。

なので、まずは「フクロウの声が聞こえる」のことから。

「甘い雲の上でずっと退屈でいるのさ」と歌っていた天使のような少年が、

大人になって、子どもたちを連れて「チョコレートのスープのある場所まで」

散歩に出かける話。

 

 

「ミネルヴァの梟は迫り来る黄昏に飛び立つ」のであれば、

「黄昏を実現するには梟を飛ばせばいい」。。。

それが真実かどうかは問題ではない。梟を強制的に飛ばす理由はそこにはない。

世界の終わりを宣言するなら梟はまず飛ばさなくてはならない。

「歴史の終わり」を、「世界の黄昏」を標榜し続けているヘーゲルに連なる

(ヘーゲルの威を借りる?)一派の話と、

オザワくんの「フクロウ」にどれほどの関係があるのか?

なんて、全然定かではないのだけど、

「フクロウの声が聞こえる」物語のはじまりのシーンでは、

少なくともすでに黄昏時は過ぎている。

「晩ご飯のあと」は「晩餐のあと」と言い換えても、問題ない!(。。。たぶん)。

そのタイミングで「散歩に行こう」と「パパ」が言いだす。

子どもたちは条件付きで賛成する。「チョコレートのスープがある場所まで」と。

でも、そのお散歩コースは子どもたちにとって馴染みがあるのかも。

だって「すぐ」に賛成して、サッと出かけるわけだし。

それはお決まりのいつものコースに違いない。

「フクロウの声が聞こえる」とき、フクロウが飛び交っているのか?

どこかの枝に留まっているのか?それはわからない。

わからないのだけど、その声が合図なのか?「大きな魚」が水音を立てて、

その気配だけをあたりに知らせる。気配はチョコレートのスープの下にあって、

姿はまったく見えない。。。甘い香りの、でも不透明な水の底に。

「大きな魚」で即座に「イクチュス」" ΙΧΘΥΣ " を連想してしまうのには理由があって、

ΙΗΣΟΥΣ ΧΡΙΣΤΟΣ ΘΕΟΥ ΥΙΟΣ ΣΩΤΗΡ「イエス、キリスト、神の、子、救世主」が

世界の黄昏に飛ぶミネルヴァのフクロウの声に応えるかのように、

再び姿をあらわす時が近いことを、周囲に予感させる。。。のだとしたら?

真っ暗な夜の「森」に、不透明な夜の「チョコレートのスープ」。

そこに唐突に、高らかに「宇宙の力」への大きな信頼が歌われて。。。

急に視線は「宇宙」へと向かう。

 

 

偶然を装うにはあまりにも出来過ぎているっ?!って僕は思っていた。

2017年にリリースされた「フクロウの声が聞こえる」に

SEKAI NO OWARIというバンドが参加をしているなんて?!

これが偶然でないなら、必然を言うにも、必然的に過ぎている。

アルバムのオリジナルバージョンを聴いていると、

というより、オザワくんの歌唱でこの曲を聴いていると、

20年以上前のことになった、苦々しくも懐かしい空気を、

僕はどうしようもなく思い出してしまう。「彗星」の冒頭で歌われているような。

曲の舞台設定よりも、核心は「宇宙の力」へと向かっているのだと思うけれど。

 

「チョコレートのスープ」はさらにナゾを深める。

けれど、答えがあるのではなくて。

「チョコレートのスープ」に映るのは天をゆく飛行機のつばさ。

空を引き裂くのではなく、天を縫い合わす、その様子を。

古い枝葉を飲み込みながら。。。

 

ところで。

黄昏に飛び立ったはずのフクロウに、本当のミネルヴァのフクロウはいるのだろうか?

なにかに要請された世界の終わりを設えるためではなく。

日が暮れたあとにしか飛べないフクロウ(たち)は、必然的に遅れてやってくるのだけど、

プラタナスの木のまわりに集って、ギリシャの哲学者よろしく、

何やら議論をしていたりするのだろうか。

はじまりの扉が開くのは、詩人の預言か? 期待か、予感か?

 

いや、もうとっくにあちこちで開きまくってるでしょっていうことかもしれない。 

 

 

 

 

オザケンの宇宙論

「高い塔」に吼える?/オザケンの宇宙論(2)

「フクロウの声」と「大きな魚の水音」から「宇宙の力」へ/オザケンの宇宙論(3)

言葉と音の匂い/オザケンの宇宙論(4)

「橋」がつなぐ/オザケンの宇宙論(5)

連想を呼ぶ/オザケンの宇宙論(6) 

 

 

 

 

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