スタッフの一人が自分のミクシーに、片桐健二社長の人生の歩みのような物を上げているので紹介させて頂きます。
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1747692561&owner_id=3736851
皆で、物々交換コレコーレの社長の事をどれ位分かっているか歩みを書いてみようと言う事になって私もチャレンジしました。
やっぱり、読み返すと本当に破天荒な人物だった。
片桐健二
名古屋市在住 独身 離婚暦1回 子供2人
長野県飯田市に1952生1月21日(みずがめ座)生まれ(血液型A型)系譜は清和源氏の血筋柄である。
あまりにも極端で波乱万丈な人生を幼少の頃より経験してきている人物である。
絶好調の時期では、ファッション業界においては、名だたる一流商社との競合を退けてアルタモーダ(ローマオートクチュールの副会長が経営するラニエロ・ガッテノーニ)のデザイン商品の極東販売独占権の契約取得に成功させるという偉業や、通信業ではNTTグループの一次代理店として700名を超える従業員を抱える企業として高業績を伸ばし続け、遂にはNTTコミュニケーションズの部門別評価で、毎年のように1位表彰の授与を受けるほどで、帝国データーバンクにおいて全国優良企業47位にランクアップされるほどの頂点を極めるような業績での絶好調を体験している。かと思えば、その超優良事業を自ら停止して、 物々交換と言う,儲かりようが無い事業に全てを投資すると言うような破天荒な選択を行う変人でもある。
尋常ではない人生は、物心ついた子供の頃の記憶から始まっていたそうである。
その波乱万丈さを表すニックネームは、二つあるとのことであった。
ひとつはローマオートクチュール協会副会長が命名したニックネームである。あまりに思い切りの良い即断ぶりと「カタギリ」のゴロから「ミスターハラキリ」というネーミングしたことがきっかけで言われた経緯があった。そのときに、片桐健二氏はラッキーセブンの「七」とは、腹切の際に切り口から腸が飛び出す様を漢字にしたもので、武士道の誇りとなる意味であるとの説明を副会長にしたことがあったそうである。その内容に副会長がとても感激してくれたことからニックネームとしてイタリアファッションの関係者に広がった事情があった。 その結果、ファッション業界の買い付けの仕事で交流が深くなったヨーロッパのデザイナーやアパレル関係者からも呼ばれるようにもなったとのことである。
ファッション界において圧倒的に有名なジル・サンダーの幹部達が片桐健二氏のことを「ミスターハラキリ」と呼ぶようになったきっかけもユニークで ある。ジル・サンダーの幹部6人が手毬をもって片桐健二氏とその部下と一緒の写真が2010年9月16日放映のNHKホットイブニングの映像に流れた。その時の映像には、驚くことにジル・サンダーの正式な日本上陸決定における表敬訪問のためにと、来日した際の写真が採用されているものであった。
ドイツ本国から訪問して頂いた記念にと、片桐健二氏が社員たちに教え込んだ手作りの手毬を贈ったものであるが、その手毬の中心には「七」と「ラッキーセブン」の「七」の語源である腹切りの意味を記入した紙を入れた。そして、その説明に感銘してくれたことから幹部たちも「ミスターハラキリ」と呼ぶようになったそうである。
手毬の作り方を社員達に教えることが出来た理由には、片桐健二の壮絶な思春期時代があったようである。
片桐健二氏は、12歳から20歳まで、当時では生涯の完治はないと言われる骨の中が腐る難病で8回の大手術を繰り返すという状況で身体には無数の縫合の痕跡が今も痛々しく残っている。
闘病の8年間、難病により毎年のように手術入院を繰り返した事から、その入院生活時代に病室で教えて貰った手毬の手作りを会得していた。その数は、なんと、千個以上も作ったとの事である。しかも手毬を売る事で小銭稼ぎをしていたとの事であった。 そのような趣味のようなことさえあり得ない様なチャンスに活かしていたのであった。入院時においてもただ入院してだけでなく、国内初に近いような病院内のコイン式電気洗濯機や乾燥機の設置ビジネスを考案したとの事であった。
入院している患者の様子を見ていて、洗濯機を有料でレンタルする方法が無いものかと思案しているときに、偶然電器メーカーのサンヨー電器がコイン式の洗濯機を出すと言う情報を入手して、いち早く電気屋の息子に親を紹介してもらい分割で購入したとのことである。その支払いの元手に手毬を売ったこづかいが役立ったようである。
コイン式洗濯機は非常に評判がよく、長野県下の多くの病院に納品されて、確実な現金収入の基礎を作り出したそうである。
また、毬といえば、片桐健二氏は自身の長女に手毬と心をイメージした語源を持つ名前を命名したと説明している。その名前は「恵」であるが「糸巻きの玉」と「心」の組み合わせることで慈しむ力を人生のソリューションにして欲しいと言う考えからつけた名前であるらしい。
そのような名前をつけた理由として、片桐健二氏が大量の抗生物質投薬治療を長期的に受けていたことにある。医師から子供をもうけることの遺伝的な 影響を指摘されていた状況があった。そのことからの不安を抱えての初の出産でおきた長女の仮死出産という現実が「恵」という一文字の命名になったとのことであった。
「恵」を「ケイ」としたのも「ケイ」には、意思が形になるという意味があるからであるという説明をしていた。仮死出産により潜在的心理の不安症を抱える可能性が強い長女が優しさをソリューションできる人間にという願いを持っていたのに対して、次女には、本質を洞察する知力をもって参謀力をソリューションに出来る人物になって欲しいという願いを込めて「佐知」という名前をつけたそうである。
片桐健二氏は、漢字や言葉の語源に異常なほどに詳しく、深くこだわる傾向が強いことでも有名である。またその知識があったからこそ、金も学歴も健康すらない片桐健二氏が多くの奇跡的な出会いを次々と生み出す事になり、到底不可能そうな成功を射止める人生に変質させる事が出来たともいえる。
その例としてオートクチュール協会副会長ステファノ氏に「素手不吾能」という漢字を名前に置き換えてその漢字の語源を説明した事が交流を更に深める要因になったなどの事もあるが、最も大きな出来事は、不治の病から突然のように、治癒したきっかけを与えたのが「健二」という言葉が持つ語源と、その力を自身の奇跡 として、会得している事が大きなエピソードである。実際、左足が何度も再発を繰り返していた渦中に、医師から、切断をしないと転移が始まると言う通告を受け、その後の病魔の進展で右足へと転移したとのことであった。
そのような絶望の渦中に、見舞いに来たかつての中学の恩師で、自宅にも伺った事のある国語の先生から自身の名前の意味を自身で調べるように言われて、語源を学ぶ辞書を渡されて「健二」の言葉の意味から病への心の向き方の問題を学び、多くの人の反対を押しきって退院し、抗生物質投薬を一切止めて自然 食品摂取治療を行なった時から、難病を治癒させていると言う体験を持っている。
漢字や言葉の意味を学ぶという基本を持った事が片桐健二氏の人生観の中心に必然的に「理念」と「原理原則」という思考の原点をもった始まりだった と片桐健二氏は、主張していた。そして、片桐健二氏が自己のアイデンティティーの中心をなす為に追い求めていた真理への手がかりとなっていたようである。 片桐健二氏にはまったくと言うくらいに基礎教育を受けた経験が少ない。その理由は、酒癖の著しく悪い父親の暴力で家庭崩壊を経験し、その父親から逃れる為に、親戚の家を転々とする幼少体験と、兄弟3人全員が長野県飯田市の山奥の風越寮という孤児院に入所して育てられる体験をしている際に、脱走の常習犯であ り、学校へ行く事が著しく少なかったことと12歳からの入院生活が大きく影響していた。
片桐健二氏の幼少の頃の極貧生活をしのぶエピソードに、もうひとつのニックネームがある。それは、「青シャツ」というあだ名である。
そのように呼ばれた理由は、ヨゴレが目立たない濃い青色のシャツをいつも着ていたことにある。
片桐健二氏は、山口百恵似のスチュワーデスと20年ほどの結婚生活をしているがその結婚式において極貧時代の幼少期を知っている精肉店の息子であった小室氏が友人代表の一人として「青シャツ」のエピソードを披露したことから、幼少の頃とは異なる意味で再び青シャツと呼ばれるようになったようである。
片桐健二氏は、携帯電話も時計もメモ帳も持たない。その代わり常に持つように心掛けたり、誕生プレゼントに贈っているのが漢字源・字通・字統などの語源辞書である。
常に母親を求めて脱走を繰り返していたためにほとんど学校に通った事が無いという経歴を持っている事と、12歳からは大半が入院と通院という状況から学校教育を学ぶと言う経験が薄く、ほとんどが独学と言う経歴の片桐健二氏は、社内においては抜群な知恵袋でもある。その理由にも漢字や言葉の語源を 学ぶと言う基本が根付いており、従業員の全員が語源辞書と、伊藤肇著書の「帝王学の源流」を学びの書としている。
何よりも理念経営を第一に経営をしているのであるが、とことん徹底しており、一般社会通念からは驚嘆する事も多い経営方針である。
そのもっとも大きな驚嘆は、大成功のはずのNTTというメガ企業の一次代理店という商社クラスの大きな既得利権を自ら手放し、700名もの従業員の独立を後押しさせて、本体は「物々交換」と言う、儲かりようが無い事業へ移行する信じ難い行動である。
独立させた12の通信会社の売上げからの上納収益体質が、てっきりあるはずと考えたが、NTTの説明では、株式会社ジャパンフィールドネットワークに対して1円も収益しない完全独立にさせているという。資本主義経営では理解し難い経営判断を行っている会社でもある。
また、ユニークなのは、社長の立候補制である。
今までに5人が社長に就任しているが、社長をやりたいと思うものがプレゼンテーションを行い、社員が承諾すれば、だれでも社長になれるという方法を今まで継承してきている。片桐健二氏の考えでは極力代表取締役には就任せず、顧問と言う相談役の立場をキープして、直接経営に関与しない方針を保持するように心がけていた。しかし、前社長が結婚と出産により非常勤役員に退いているために、新たな社長候補が決定するまでと言う考えで臨時的に代表取締役に就任している。
片桐健二氏が経営する物々交換店のコレコーレ本店は、名古屋市名東区の星ヶ丘三越デパートから5分ほど下った名東本通り5丁目の交差点にある。その店の知名度は圧倒的に高く有名である。その理由として物々交換を支えている片桐健二氏自身が蓄積している顧客筋の人脈のすごさもあるが、マスコミの力も大きい。
実際に物々交換の店を10年間運営している店は、国内中みても物々交換コレコーレしか存在しないと言う理由もあるが、その品揃えの質の高さにも関心を持たれる理由がある。国内指折りの人気番組でもある「ガイアの夜明け」や「NHK」による170ヶ国翻訳による海外への放映、海外国営放送からの取材と放映、日経新聞・地元テレビ・ラジオ・新聞・ファッション雑誌、情報誌など、多岐に渡って20ヶ月連続の取材を受け続けていた事から抜群の知名度があった。
しかし、3・11のフクシマ原発事故以来、マスコミへの関わり方を片桐健二氏が方針転換を図ったことから、そのマスコミ露出の連続記録は停止しているとの事である。そして、脱原発に残りの人生をかけたいという片桐健二氏は、ブログを中心とする脱原発への活動に猛チャージをかけている。その意気込みは連日ネットからの情報発信からも十分に伺える。
発信母体は、それまで継続してきたミクシーが中心であったが、今までの人生で、海外の人々との交流に日本語の語源を説明することがとても効果的であるということをよく理解している片桐健二氏は、「古代文字の書道教室」を物々交換コレコーレの話題の空間でもある「逆さまの部屋」にて開催している。その教室をはじめた動機は、フェイスブックを通じて日本語の意味、古代文字の意味などの説明の機会を店とネットをつなげることにあるとの事だった。
日本語に興味を持って頂く機会を通じて外国人とも人脈形成しながら、語源から理解が深まる脱原発の必要性を原理原則から学んでいく機会にしたい考えである。その目的は、日本だけではなく世界中の原子力や核の廃絶に貢献することを計画しているとの事である。
3・11より物々交換コレコーレの様相も変化し出している。それが「現物募金」という家に余っている贈答品などをチャリティーとして寄付して頂き、寄付して頂いた不要の贈答品を欲しいと考える人が品物を受け取る代わりに募金するという方法で、エンドレスに募金が繰り返される続ける仕組みを提案している。その活動に大きく貢献している為に店の個性にも脱原発カラーの変化が起きている。
写真は、全国脱原発100万人デモスタッフと共に参加した時の片桐健二の写真である。過労により40年治癒していた難病が再発する兆候があり、松葉杖でのデモ参加であった。
片桐健二プロデュース万博ファッションショー
http://<wbr></wbr>www.057<wbr></wbr>0.jp/fa<wbr></wbr>shionsh<wbr></wbr>ow.html
物々交換コレコーレブログ。
ブログ人http://<wbr></wbr>corecol<wbr></wbr>le.blog<wbr></wbr>.ocn.ne<wbr></wbr>.jp/
片桐健二個人ブログ
ミクシー(ハンドルネームグローバル顧問)
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(コレコーレの店名は=core collectionの略字で、コレコーレと名称しています。)