紙のクリスマスツリー/2006年のライブレポート
瓜田タカヤ
2006年「北枕ライブ寛とふきたのヤーヤードー!」
前座コスモス、ボーカル千葉の雑感
-------------------
幼稚園の頃、家の庭に咲いたヒマワリと背比べをした。
母親が庭いじりをしていて、少し風の冷たい夏にそうした。
いくつかの細長い雲が、太陽を遮りその間外気は、
錆びたブランコや肉体に冷却を約束した。
小学生になってから、母親は消えた。
俺の子供が4年前の11月に、泣いた。
夫婦喧嘩で恐ろしくお互いを罵っていたのだ。
発端は子供の話なのだが、それは発端でしかなかった。
それ以外の様々な重い思いが、ストレスとしてあったのだ。
子供は何度も もうしないから、いい娘になるからと叫び、
大粒の涙をこぼした。
そのイノセントさを
少しだけ気にしながらも、怒りの感情の方が豪奢で、
物を蹴り、物が飛んだ。
その時、居間の小さな洋服ケースの上に置かれた厚紙の固まりが
華奢に床に落下した。
きっかけに
子供はパニックにごめんなさいと何度も叫び泣きじゃくった。
それはクリスマスツリーだった。
楽しい幼稚園などの、幼児向け雑誌の付録だ。
夫婦はお互いを、言い負かそうと必死に怒号中のさなか
子供は泣きながら、落ち、潰れた紙のクリスマスツリーを元の場所に戻し
いくつものキャラクターが印刷された星形を、一個一個拾い、元の形へ
直そうとしていた。
カミさんに切れながらも、とても心が痛かったが、
感情が怒りの斜面を快活に滑り落ちて行く事に手立てがなかった。
子供が一人だった頃の事だ。
何年かして今は
2番目と3番目の子供が産まれ、大変腕白盛りで(女でも腕白って言うかな)
家を散らかしたり、汚したりするアイディアは天才的だ。
時々その、あまりの狂乱の貴公子リックフレアーぶりに、嫌気がさし
俺とカミさんが機嫌悪くなってくる。
しかし上の子はそれを感じ取ると、なんとか楽しい雰囲気を保ちつつも
下の子のイタズラをやめさせようと、うまい感じで行動する。
俺はそれをみると、脳で薄く、紙のクリスマスツリーを思い出す。
あの一件の為に長女が学習した選択肢の取得方を、
決定づけてしまったような自責感に見舞われる。
5月14日、青森市のカフェバーアトムで繰り広げられたライブ
「三上寛とふきたの皮膚ネプタ祭トゥアー2006」は大変に良い感じだった。
個人的には演奏面や音の迫力は弘前の方が良かった感じで
二日目の方は、イベント全体としての完成度が高かったように思う。
青森では時間も押すこともなく6時半開演した。
エイト君(コスモスのドラム)の帰りの飛行機が8時40分発であったので
時間が押しては不味かったのだ。
一曲目「三部作」からイベントはスタート。
重めの変則的なリズムの曲、朗読の曲だ。
俺は、橋本が死んだ時の週刊ゴングを開き
適当に持ち込んだ椅子に座りながら喋る。
ステージを見回して、ライトを仰いで、音の内部への進入を試みる。
恍惚側に気持ちが混ざり始めるが、リーディングしていきながら
その感情を別の場所へ徐々に流し込む。
それは脳に残る記憶、カンブリア紀の環形動物の日常へか
小学生の頃の、桜祭りを歩いている感情へかへと移動したがる。
どっちでも良いし、どっちでも同じだ。
やりたいことは、万能感の所持だ。それがステージで自分を信じる為の保証なのだ。
まあそんな大げさには考えていない感じもするんだけど
なんか雰囲気的にはそうなのだ。
その儀式が終わってからの2曲目以降は大分楽だ。
怖いのは舞踏家の福士さんが入ってくることだ。
負けないように、うまく立ち回らなければならないのだ。
その結果上手くいくと、乗算で緊張感のある非常に素晴らしい空間になったりする。
曲目は1日目と2日目でちょっと変えた。
1日目は2曲目に「孤独なふりをする」という歌詞をライブ感のままに聴ける曲
(歌ったままの速度で意味が脳に入る曲、今回朗読抜けばこれだけ)を
コスモスの詩のセンスを知り得て欲しい為にやったが
2日目はそれをやらないで「電気ミシン」という曲にした。
ドラムのエイト氏が
「電気ミシンは、このメンバーになってからゼロからみんなで作った曲だからやるべ」
とガラにも無い事を言ったからそれにしたのだ。
曲順もライブのテンポをもっと速くするため
アコーディオン工藤氏の、
ギターとアコーディオンのチェンジが一回で済む曲順にした。
その結果、非常に良い感じにテンポ良くなって、
全体が締まって無駄が省かれた感じであったが
その分、体力的にキツイ曲が三曲並んでしまってそこしんどかった。
まあテンションで乗り切った。
というか、それくらいこなせる体力つけろデブ俺って感じだ。
最後の曲「ペル名」が非常に気持ちよく歌えた。
ちょっと音程取れていないところがあったんけど、
ドラムのエイト氏が感情高ぶってしまって、大音量で叩きすぎたために
モニターでボーカルの音聞こえなくなった。
って事にした。
最後の「カメラ下がれ」って盛り上がって歌う箇所で
スタジオ練習の時に何となく別のメロディーラインと歌詞でテキトウに歌ったのを
思い出して歌った。
俺にしてはベタベタな歌詞だったんだけど、んでしかも大分アドリブ。
それでも、あとからビデオでそのシーン観たら、ビジュアル担当角田君の
チョイスした絵図らが、電車の車席から撮ったと思われる映像で
水墨画的なエフェクトがかかった山々や海を越えていく映像でそれに合わせて
「夜の海を越えて、朝の靄を越えて、君の街を越えて
君のいる夏の夢を見る。金の風を越えて、春の桜を越えて
秋の枯れ葉を砕いて、泥水の中で出会おう。カメラ下がれ!」
という歌詞がはまって、狙ってたのか分からないけど、スゲえ空気感を
醸し出していて、お互いがお互いを増幅してその場所、その空間でしか
完成し得ない非常にミラクルな、磁場を形成していた。
トリの寛さんは空間を自分の物にしてしまっている。
命の測りや覚悟のようなものが、初期装備、すでに所持って凄味がある。
それは血だ。
津軽人の血がアンチではなく、もしくはアンチであるが故なのか、
その血が逆にコンプレックスを磨き結晶化しているような完成感。
不足感それ自体が美しい完成型として機能する、闇も含めた人間賛歌。
きっと西暦2345年になっても、狂信的なファンがいるであろう
歌もステージングも挙動も含めた、素晴らしい全て。
いつも自分の表現の先端を考えていくと
血とノスタルジックな津軽の形式を妄想する空間に至り
どうしても、寺山修司と三上寛を踏んでしまう。
それがそれで良いのか。それともネオナチ、じゃなくてネオ津軽的な
何か新しいレーゾンテートルに至り、演出して行く方が良いのか。
今後の課題。
寛さんと福士さんの絡みを観ているときに
「青森ってカッコイイナア!」と思った。
ライブ終わってみんなで飲んだ酒は本当に美味しいものです。
俺は「サッパリしたあ!」と何回も喋った。
タクシーで家に帰り、無理矢理カップラーメンを食ってみながら
カミさんとライブのビデオを観る。
カミさんが喜んでくれているのが嬉しい。
とりとめもない話をするのが楽しい。
大して大袈裟な、未来はいらない。
夜中にカミさんと、
どうでもいい楽しい話をもて遊べればいいのだ。
それは
それだけで古い欲望の感覚に
少しは満たされるからなのかも知れない。
アリの隊列、まぶしい日差しを受けた瞳が
自宅へ戻った時の暗く見える居間、
クッキーの匂い、瓶のコカコーラ、
ヨーヨーチャンピオンの赤いジャケット、
俺は
母親が居なくなった時から、何も変わって無いのかも知れない。
俺のやっている事はずっと同じで
不可能な事を試みているのだ。
過去の構築。
8歳の体感のリセット。
細長い雲との約束。
そうなのだ。
俺は いまだに泣きながら、
紙の
クリスマスツリーを
組み上げ続けているだけなのかも知れない。
瓜田タカヤ
2006年「北枕ライブ寛とふきたのヤーヤードー!」
前座コスモス、ボーカル千葉の雑感
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幼稚園の頃、家の庭に咲いたヒマワリと背比べをした。
母親が庭いじりをしていて、少し風の冷たい夏にそうした。
いくつかの細長い雲が、太陽を遮りその間外気は、
錆びたブランコや肉体に冷却を約束した。
小学生になってから、母親は消えた。
俺の子供が4年前の11月に、泣いた。
夫婦喧嘩で恐ろしくお互いを罵っていたのだ。
発端は子供の話なのだが、それは発端でしかなかった。
それ以外の様々な重い思いが、ストレスとしてあったのだ。
子供は何度も もうしないから、いい娘になるからと叫び、
大粒の涙をこぼした。
そのイノセントさを
少しだけ気にしながらも、怒りの感情の方が豪奢で、
物を蹴り、物が飛んだ。
その時、居間の小さな洋服ケースの上に置かれた厚紙の固まりが
華奢に床に落下した。
きっかけに
子供はパニックにごめんなさいと何度も叫び泣きじゃくった。
それはクリスマスツリーだった。
楽しい幼稚園などの、幼児向け雑誌の付録だ。
夫婦はお互いを、言い負かそうと必死に怒号中のさなか
子供は泣きながら、落ち、潰れた紙のクリスマスツリーを元の場所に戻し
いくつものキャラクターが印刷された星形を、一個一個拾い、元の形へ
直そうとしていた。
カミさんに切れながらも、とても心が痛かったが、
感情が怒りの斜面を快活に滑り落ちて行く事に手立てがなかった。
子供が一人だった頃の事だ。
何年かして今は
2番目と3番目の子供が産まれ、大変腕白盛りで(女でも腕白って言うかな)
家を散らかしたり、汚したりするアイディアは天才的だ。
時々その、あまりの狂乱の貴公子リックフレアーぶりに、嫌気がさし
俺とカミさんが機嫌悪くなってくる。
しかし上の子はそれを感じ取ると、なんとか楽しい雰囲気を保ちつつも
下の子のイタズラをやめさせようと、うまい感じで行動する。
俺はそれをみると、脳で薄く、紙のクリスマスツリーを思い出す。
あの一件の為に長女が学習した選択肢の取得方を、
決定づけてしまったような自責感に見舞われる。
5月14日、青森市のカフェバーアトムで繰り広げられたライブ
「三上寛とふきたの皮膚ネプタ祭トゥアー2006」は大変に良い感じだった。
個人的には演奏面や音の迫力は弘前の方が良かった感じで
二日目の方は、イベント全体としての完成度が高かったように思う。
青森では時間も押すこともなく6時半開演した。
エイト君(コスモスのドラム)の帰りの飛行機が8時40分発であったので
時間が押しては不味かったのだ。
一曲目「三部作」からイベントはスタート。
重めの変則的なリズムの曲、朗読の曲だ。
俺は、橋本が死んだ時の週刊ゴングを開き
適当に持ち込んだ椅子に座りながら喋る。
ステージを見回して、ライトを仰いで、音の内部への進入を試みる。
恍惚側に気持ちが混ざり始めるが、リーディングしていきながら
その感情を別の場所へ徐々に流し込む。
それは脳に残る記憶、カンブリア紀の環形動物の日常へか
小学生の頃の、桜祭りを歩いている感情へかへと移動したがる。
どっちでも良いし、どっちでも同じだ。
やりたいことは、万能感の所持だ。それがステージで自分を信じる為の保証なのだ。
まあそんな大げさには考えていない感じもするんだけど
なんか雰囲気的にはそうなのだ。
その儀式が終わってからの2曲目以降は大分楽だ。
怖いのは舞踏家の福士さんが入ってくることだ。
負けないように、うまく立ち回らなければならないのだ。
その結果上手くいくと、乗算で緊張感のある非常に素晴らしい空間になったりする。
曲目は1日目と2日目でちょっと変えた。
1日目は2曲目に「孤独なふりをする」という歌詞をライブ感のままに聴ける曲
(歌ったままの速度で意味が脳に入る曲、今回朗読抜けばこれだけ)を
コスモスの詩のセンスを知り得て欲しい為にやったが
2日目はそれをやらないで「電気ミシン」という曲にした。
ドラムのエイト氏が
「電気ミシンは、このメンバーになってからゼロからみんなで作った曲だからやるべ」
とガラにも無い事を言ったからそれにしたのだ。
曲順もライブのテンポをもっと速くするため
アコーディオン工藤氏の、
ギターとアコーディオンのチェンジが一回で済む曲順にした。
その結果、非常に良い感じにテンポ良くなって、
全体が締まって無駄が省かれた感じであったが
その分、体力的にキツイ曲が三曲並んでしまってそこしんどかった。
まあテンションで乗り切った。
というか、それくらいこなせる体力つけろデブ俺って感じだ。
最後の曲「ペル名」が非常に気持ちよく歌えた。
ちょっと音程取れていないところがあったんけど、
ドラムのエイト氏が感情高ぶってしまって、大音量で叩きすぎたために
モニターでボーカルの音聞こえなくなった。
って事にした。
最後の「カメラ下がれ」って盛り上がって歌う箇所で
スタジオ練習の時に何となく別のメロディーラインと歌詞でテキトウに歌ったのを
思い出して歌った。
俺にしてはベタベタな歌詞だったんだけど、んでしかも大分アドリブ。
それでも、あとからビデオでそのシーン観たら、ビジュアル担当角田君の
チョイスした絵図らが、電車の車席から撮ったと思われる映像で
水墨画的なエフェクトがかかった山々や海を越えていく映像でそれに合わせて
「夜の海を越えて、朝の靄を越えて、君の街を越えて
君のいる夏の夢を見る。金の風を越えて、春の桜を越えて
秋の枯れ葉を砕いて、泥水の中で出会おう。カメラ下がれ!」
という歌詞がはまって、狙ってたのか分からないけど、スゲえ空気感を
醸し出していて、お互いがお互いを増幅してその場所、その空間でしか
完成し得ない非常にミラクルな、磁場を形成していた。
トリの寛さんは空間を自分の物にしてしまっている。
命の測りや覚悟のようなものが、初期装備、すでに所持って凄味がある。
それは血だ。
津軽人の血がアンチではなく、もしくはアンチであるが故なのか、
その血が逆にコンプレックスを磨き結晶化しているような完成感。
不足感それ自体が美しい完成型として機能する、闇も含めた人間賛歌。
きっと西暦2345年になっても、狂信的なファンがいるであろう
歌もステージングも挙動も含めた、素晴らしい全て。
いつも自分の表現の先端を考えていくと
血とノスタルジックな津軽の形式を妄想する空間に至り
どうしても、寺山修司と三上寛を踏んでしまう。
それがそれで良いのか。それともネオナチ、じゃなくてネオ津軽的な
何か新しいレーゾンテートルに至り、演出して行く方が良いのか。
今後の課題。
寛さんと福士さんの絡みを観ているときに
「青森ってカッコイイナア!」と思った。
ライブ終わってみんなで飲んだ酒は本当に美味しいものです。
俺は「サッパリしたあ!」と何回も喋った。
タクシーで家に帰り、無理矢理カップラーメンを食ってみながら
カミさんとライブのビデオを観る。
カミさんが喜んでくれているのが嬉しい。
とりとめもない話をするのが楽しい。
大して大袈裟な、未来はいらない。
夜中にカミさんと、
どうでもいい楽しい話をもて遊べればいいのだ。
それは
それだけで古い欲望の感覚に
少しは満たされるからなのかも知れない。
アリの隊列、まぶしい日差しを受けた瞳が
自宅へ戻った時の暗く見える居間、
クッキーの匂い、瓶のコカコーラ、
ヨーヨーチャンピオンの赤いジャケット、
俺は
母親が居なくなった時から、何も変わって無いのかも知れない。
俺のやっている事はずっと同じで
不可能な事を試みているのだ。
過去の構築。
8歳の体感のリセット。
細長い雲との約束。
そうなのだ。
俺は いまだに泣きながら、
紙の
クリスマスツリーを
組み上げ続けているだけなのかも知れない。