COTE D'IVOIRE

アビジャンに住んでいました(1999.3-2002.10)
サイト《象牙海岸にて》の続編を綴ってみます。

ラバトで聞くコートジボワール(象牙海岸)のこと

2004年11月12日 | 騒動と戦争
2004年11月9日 (photo by AP:mar 09 nov, 10h40) 

Le matin 紙より

事態は1999年の混沌とした状況に似て、100名程のモロッコ人が母国への帰還を強いられたことを思い起こさせる。
当時、我らの同胞は格好の標的となり、多くの商店経営者などがアビジャンに避難した。
こんにちは長い有効の歴史の中で約5000人のモロッコ人が住んでおり、約700名のモロッコ兵士が国連軍として貢献している。

現在コートジボワールの首長は2002年9月の反乱軍による勃発以来、南部だけしかコントロールできていない状況で11月4日から6日の北部反乱分子への爆撃は2003年1月の和平協定に抵触するものである。
この武器放棄に条件として、2003年のマルコシの協定による内閣の形成があり、このことはコフィ・アナン氏の庇護の下で2004年7月に決定したものである。
この協定には、コートジボワール政府と反武装グループが立法改革と憲法の1条項の改定そして武器の放棄を合意したものである。
ところがアビジャンではフランス軍とバボ大統領に近い青年グループが衝突した。
これはラジオ放送が大統領邸を人の盾で守ろうとの呼びかけによるものでもあった。

日曜日の夕方、沈静と帰宅の呼びかけによりおさまった。

大統領に近い高官はアビジャン市内に繰り出したフランス軍戦車の撤退を申し入れ、これがバボ大統領罷免の噂を招く事にもなった。

写真が多く報道されている:フランス版yahoo サイト

rfi(ラジオフランスインターナショナル)によると le7 nov. 04

2004年11月12日 | 騒動と戦争
map by ONUCI : http://www.un.org/french/peace/peace/cu_mission/onuci/
(ここの右上地球儀をクリックするとこの地図のpdfがダウンロード可)

ブアケとコロゴの中間くらい、カチョラの北に新反乱勢力があるとのことで、コートジボワール(以下CIで表示)政府は何とかこれを叩きたいと狙っていた。

11月4日からCI軍はこの反乱軍アジトに空爆をはじめた。

フランス(以下Fで表示)軍は停戦協定に従うべく、この地域で任務にあたっていた。

11月6日、午後まもなく、こういった和平的支援を行っているF軍を突然CI軍が空から攻撃。F軍兵士8人が死亡し、23人の負傷者が出た。(このときの飛行機はSukhoi 25)

この数時間後、CI当局は反乱軍と誤った誤爆であったとして遺憾の意を表した。

F大統領の命により停戦協定が破られたとしてヤムスクロに停泊してあったSukhoi2機と戦闘ヘリコプター5機がF空軍機により破壊された。

このことにより共同戦線を張っていたCI政府軍とF軍が突然敵になったような状況になり、特にアビジャン国際空港では両軍が共同で使用していたこともあり、混乱した。

もちろん空港は閉鎖され、その後フランス軍によるコントロール下におかれた。

一方CIの最大都市アビジャンでは緊張が一挙に爆発し、愛国青年団(バボ大統領の支持グループ)が中心となり、フランス人の車を破壊したり、高級住宅地ココディにあるフランス・リセ、メルモーズに火を放った。バボ大統領は7日の夜にフランス人市民への攻撃を停止するよう命令を出し、騒ぎは少し静かになったものの、反仏、反植民地感情が強まっている。


2004年11月9日  国軍とフランス軍の間が、、

2004年11月12日 | 騒動と戦争
2004/11/09(火) 18:17

マルコスィ案による内閣は軋轢ばかりでうまくいかないばかりか、政府と大統領の乖離を促進するシステムを作ったことになったかもしれません。
またまたアビジャンに火が放たれました。
狙いはフランス人とやはりアラサン・ワタラ氏の関連のようです。
先週末に象牙国軍が北の新反乱軍の基地(旧反乱軍分子か?)に飛行機による攻撃を加え、
それをフランスが停止させるために空軍基地の使用をコントロールしたところ、
例の愛国青年団が「独立国の防衛権利を蹂躙している」と騒ぎ始め、
フランス出て行け!に火がついたようです、11月6,7日は手がつけられなかったようです。
月曜日には何とか平静になったと報告されていますが、緊張は続いているようです。
現在アビジャンの空港は閉鎖中で、300人のフランス軍が市民の脱出(/救出)にあたっている模様です。
現地にはフランス軍はじめ国連軍、ECOWAS軍も6000人以上入っているはずですが、
人数はこれから調べてみましょう。

2004年3月25日 >平和の行進

2004年11月12日 | 騒動と戦争
Yasuhei 投稿日: 2004/03/26(金) 11:07

またです。【2004年3月25日】平和の行進がとんでもないことになったものです。
大統領官邸近くで警備の軍と衝突して、最終的には25名の死者と報じられています。
その内警察が2名含まれているそうです。
バボ大統領の党であるFPIを除くほぼ全部の主要政党が共同でデモを計画したそうで、PDCIが音頭を取ったようです。
2005年に向けた大統領選挙の準備というか、前奏というか、もう始まったようです。
各政党の代表は和解政府参加へのボイコットを表明して、FPIははたから見たらもう完全に悪者です。
気の毒だけど、バボさんここまで泥沼化したら指導力を疑われても仕方ないですね、、、遅すぎるか。

World Network BBSより

2003年11月29日 > 愛国青年

2004年11月12日 | 騒動と戦争
2003年11月29日
99年のクーデターに始まって、
いつもクーデターの噂が出回り、そのあとで騒動や事件が起こったり、、。
今回もまた起きてしまいました。
正確には11月29日(土)の夜、バイアクロ近くで9月以来監視を続けているフランス軍とコートジボワール軍のほぼ中間に、
バボ大統領の支持者である「若いパトリオット」が入り込んで軍と一緒に国を解放すると気勢をあげたのが始まりのようです。


6 名前: yasuhei 投稿日: 2003/12/02(火) 10:06

クーデターではないとテレビでは明言したそうです。
日曜日の夕方、10数名の軍と憲兵が国営テレビで、軍責任者とフランス軍の退陣要求を放映した際に、
バボ大統領への忠誠を確認し、クーデターではないことを確約しながら、
2002年から反乱軍により分裂しているコートジボワールの開放を宣言したのだそうです。


7 名前: yasuhei 投稿日: 2003/12/02(火) 10:08

12月1日には、アビジャン空港近くの、フランス第43海兵部隊のまえで、入り口前に火をつけるなど暴動となり、フランス軍からの催涙ガスと、当局機動隊によりおさまったようですが、
いつものパターンで、まるでウサ晴らしのようです。

これは週末に起きた国軍とフランス軍のトラブルのあとで、
国営テレビによりフランス軍の退陣を正式に要求した軍の青年への支持ということのようです


8 名前: yasuhei 投稿日: 2003/12/02(火) 10:08

軍事顧問は このような行為を「とんでもないこと」と認めながらも、
このような軍のテレビ声明の背景には、前線に居る彼ら兵士が自分達の国の二分されているのを見て、戦争とも平和ともどちらともつかない状況にいらだち、祖国解放のために戦いたいという気持ちになっているということで、これを理解すべきだ。といったとか、、。
こういう浅はかな軍顧問の考えでは真の平和はまた遠のきそうで、
悲しいことです。


World network BBSより

2004年3月

2004年11月12日 | 騒動と戦争
平和の行進が・・・
2004年3月25日
平和の行進がとんでもないことになったものです。
大統領官邸近くで警備の軍と衝突して、
最終的には25名の死者と報じられています。その内警察が2名含まれているそうです。
バボ大統領の党であるFPIを除くほぼ全部の主要政党が共同でデモを計画したそうで、PDCIが音頭を取ったようです。
2005年に向けた大統領選挙の準備というか、前奏というか、もう始まったようです。
各政党の代表は和解政府参加へのボイコットを表明して、FPIはハタから見たらもう完全に悪者です。RFIもBBCも放送が中断されたそうで、アナウンサーは当局の技術的理由の放送中止を皮肉たっぷりに伝えてました。
シラク大統領は「実に遺憾である。全ての可能性を持った国なのに、、気の毒な国だ。」と吐き捨てるように言ってました。お二人が会見したのは2月5日だったから、約1ヵ月半前。本当に何とかならないものでしょうか、。
明日、(もう今日か)26日(金)にも抗議のデモをやるそうなのですが、、心配です。 2004年03月26日 10時58分51秒

やっぱり、マルクゥシがカギでした。 (日記から)

2004年11月12日 | 騒動と戦争
世界平和に貢献した「象」  2003年01月25日

《gouvernement de réconciliation nationale:国民的和解政府》を設立し、バボ氏は大統領の地位にとどまる。
このようないわゆるオチドコロでマルクゥスィの円卓会議は合意の上、署名に至ったようです。
バボ氏が署名したのは、 1月24日の早朝、実際には2時30分との事です。
前日(23日)、シラクさんはものすごい歓迎振りでバボ氏を大統領として迎い入れたようですし、バボ氏の許容しうる何らかのシナリオが用意されているものとは思いましたが、これがフランスのできる限界のようでもあります。クリバリ氏が中座した時に言い残した言葉、「マゾゥ議長の押し付けがましいやり方には我慢できぬ・・」は会議の実情を物語っているようですが、先ずは結果を歓迎したいところです。(現実面では問題が残るといいながらも・・・)

今回の象牙海岸の問題は、イラク攻撃問題と同時並行して進みました。象牙海岸と一貫した対応を取るためにも、フランスはアメリカがイラクへの攻撃を急ぐのに歯止めをかけたかも知れません。アメリカが遠く離れた画面越しの司令室で結論を練っているのに対して、フランスは庭先で窓越しに喧嘩している息子達を見ながら、息子達への説教と掌を返したような事も言えなかったはずです。何よりも実際窓越しに見ながら、馬鹿息子達の一方に手をかしたなら、窓に血しぶきがかかってくるかもしれません。画面越しとは違う判断になるのも当然のような気がします。

考えようによっては、窓の外で喧嘩を見せたことで、親への戦争参加を思いとどまらせ、仲直りへの道へと向わせたかもしれません。そう考えると、大きな代償ではあったけど、象牙海岸は世界平和に貢献したかと、、、。
今日の紙面には「イラク一転して交渉入り」というタイトルがあり、実に期せずして同時進行をしています。
イラク問題も象牙海岸もこれからが大変です。(投稿 2003年01月25日 12時01分00秒)

日記、コートジボワールの1月から

そして2003年

2004年11月12日 | 騒動と戦争
2003年 1月の出来事: 
和平交渉はなかなか進まず、休戦合意をまもっていないと、政府軍、反乱軍の双方で非難しあっています。フランス軍に代わりECOWAS軍が監視役をするのでしょうか?北部では市民への人道援助が必要な状況になっているようです。

  2月の出来事: 
マルクゥスィの円卓会議はうまく行くかに見えました。ところがその合意書には反乱軍に内務大臣と、国防大臣を明け渡す事、これに反対して大騒ぎが続いています。反フランス運動で、国外避難する人が増えています。

  3月の出来事: 
もうハルマッタンはとうに終わったでしょうが、砂埃はなくなっても、アビジャンの影は晴れないようです。一年で一番暑い時期をむかえても、気持ちは冷静に保っていただきたいものです。

  4月の出来事: 
ようやく「和解政府」が動き始めました。「3ヶ月持てばトラウマは拭い去れる」とバボ大統領。《狂気の賭け》にサイが投げられたという所でしょうか。はたしてどのような目がでるのか・・

  5月の出来事: 
恐ろしいボカリはいなくなり、少しはよくなるのでしょうか。もっと恐ろしいのは手を汚ず、ダイヤで富を築いている人がその利権を守るためには手段を選ばないという事でしょうか、、、ひょっとしたら、ボカリ氏もそれを知っていて、アフリカにゼロからのスタートを仕向けようと考えたのかも、そうでも思わないことにはあんなひどい事できないでしょう。

  8月の出来事: 
象牙海岸から傭兵がいなくなったと思ったら、リベリアではまた市街戦が始まって、まるでアフリカの戦国時代です。本当の自立には時間がかかりそうです。

  9月の出来事: 
いよいよモロッコへ行く日も間近になりました。忙中閑あり、などとよく言いあてたものです。本など読んで読書の秋を満喫・・、といいたいところだけれど、やるべきことが多すぎて、アキラメ状態なのかも・・。これが本来の忙中閑なのかもしれませんね(新解釈)、これからはマグレブから見た象牙海岸を加えていこうと考えています。

2002年10月の停戦交渉

2004年11月12日 | 騒動と戦争
10月4日(金)
「停戦」署名のニュース流れる。しかしながらこれに、政府側は署名していない事が後に判明。

10月7日(月)
フランス政府が停戦協定に署名による、平和的解決を要請。

10月8日(火)
バボ大統領が、前29日の首脳会議(ガーナ)で採択された内容として、反乱軍が武器を置くことを条件に交渉に臨むとの条項を説明。署名を拒否しているわけではない旨、説明。

10月10日(木)
アビジャンでの夜間外出禁止令昨日の22:00~6:00を21:00~6:00までに変更、期日は21日迄。

10月17日(木)
深夜に政府側と反乱軍との休戦署名がされる。フランスは政治的平和の道を選んだ事に対して評価。


10月22日(火)
フランス軍基地前のデモ、フランス大使館前でも集会を行い、白人への危害も発生。

10月23日(水)
Yasuhei一時避難のためアビジャンを発つ。

10月30日
トーゴ共和国の首都ロメにおいて、停戦交渉の開始。

11月2日
バボ大統領支持と反乱軍への従属反対の大規模集会開催、比較的平和的に終了。

クーデター 2002 (2002年9月17日からの出来事)

2004年11月12日 | 騒動と戦争
同じく「象牙海岸にて」からの抜粋です。

2002年9月19日(木)
早朝3:00~4:00 アビジャン、ココディ地区で、政府の軍・憲兵関連要人宅が襲撃され、現職内務大臣と元暫定政権首班ゲイ将軍が殺害された。国防大臣宅も襲撃されたものの大臣はこれを免れる。憲兵学校、軍の基地等もほぼ同時に襲撃され、政府軍との間に戦闘が始まった。さらに、北部の主要都市ブアケ(アビジャンから北300km)、コロゴ(アビジャンから北500km)でも複数の軍事施設が占拠された。襲撃を加えた集団は素性不明の武装勢力で、高精度の重火器を使用したと伝えられた。
アビジャン市内の銃声は午前10時頃で止み、政府がクーデター未遂として対応をしているとフランス国際ラジオ放送で伝えられた。アビジャン市内は昼頃までに鎮圧された。
原因としては、動員解除を宣告されていた750人の兵士達が同時に蜂起したとの報道もあるが、依然明確ではない。当日、バボ大統領は公式訪問でイタリアにいた。
夜間外出禁止令布告(18:00~8:00)

9月20日(金)
バボ大統領がイタリア公式訪問を中断して帰国。武装勢力の行為をクーデター、しかも他国の関与による攻撃であると断定すると共に、共和国としてこれに応戦するとして国民への「愛国心」を呼びかけた。また軍が抱えていた問題を説明し、99年ゲイ将軍が暫定政権を築いた時に、軍の上層部が信用出来ないと、退役軍人や正式の軍人でない人達を500人も雇用した。兵士を中心とした動員解除を予定していた事、退役者の職業指導計画をしていた事、ところがこの人達を、たぶらかして操った輩がいると言う背景を説明した。


9月21日(土)
アビジャンには比較的平常が戻り、スーパーマーケットも営業された。
北部では戦闘状態になっていないものの、ブアケ以北は反乱軍に制圧された状況が続く。


9月22日(日) 
夜間外出禁止令の延長が告げられ、次週29日(日曜日)まで、時間は20:00~6:00と緩和されたが、コロゴとブアケはこれまで通り18:00~8:00。翌日(月曜日)からは学校が始まるとの放送もされた。国際ラジオ放送は午後から停止。各国近隣諸国の代表団が大統領府に訪れ、支援表明を行なう。(現象牙海岸政府を支援する旨、憲法に違反する反乱軍は断じて受け入れられない旨)近隣国の支持取り付けが進められた。


9月23日(月)
アビジャンは平常機能をほぼ回復、ヤムスクロにフランス軍到着(外人救出目的)。
ワタラ氏の自宅が襲撃される。

9月24日(火)
国防大臣がブアケ以北を戦争地域と宣言。
夜間外出禁止令の延長発表、29日迄(20:00~6:00)


1999年12月からの1年間、

2004年11月12日 | 騒動と戦争
1999年12月23日のクーデターとその後・・・一年間の動き、

2001年 1月9日 夢だったのかな?
    1月7日 またもやクーデター
2001年 1月4日 18山岳地帯の疑惑
2000年12月16日 FPIとPDCI
   12月11日 選挙の行方
   12月5日 また暴動
   11月23日 議会選候補者発表
   11月14日 ゲイさん登場
   10月30日 内閣形成
   10月22日(大統領選挙)
2000年10月8日 大統領候補資格発表
   10月3日 頑張れ象牙海岸
   9月29日 一時避難
   9月21日 新聞のない日
   9月18日 またもや自宅待避
   8月29日 Junte
   7月24日 国民投票日
   7月4日 軍の暴動
2000年5月18日 第2次暫定政権

1999年12月23日 クーデター

これも過去の日記からです。

1999年クリスマスのクーデタ

2004年11月12日 | 騒動と戦争

2000年 1月 4日(月)
救国委員会は臨時政府閣僚名簿を発表。
臨時政府は21省22閣僚からなり、軍人5名中、救国委員会メンバーが4名、民間人3名、女性2名が入閣している。

1999年12月27日(月)
救国委員会は各国大使を招き、今後の象牙海岸共和国政局を説明する。

1999年12月26日(日)
13:10:ベディエ大統領フランス軍のヘリコプターにて国外脱出(ロメ/トーゴ)。続いて首相、国防大臣及び治安大臣も引き続き国外脱出。救国委員会は各省官房長官と財務責任者を招き、今後の指示及び各省の現状把握を開始。翌日からの平常業務を指示する。

1999年12月25日(土)
ゲイ将軍がテレビを通じて発表した声明を受けて、警察、近衛兵も軍を指示する旨、表明。

1999年12月24日(金)
空港は兵士により占拠され、発着停止。
アビジャン中心街から南へ通じる2つの橋も占拠される。
11時、ロベール ゲイ将軍がテレビを通じて声明を発表。自身は反乱軍の代弁者であること。憲法、議会、最高裁を停止する旨、及びベディエ大統領は既に何の力も持たない旨を国民に伝える。
午後に政治犯を釈放(数十人)、その後、機に乗じた6800名の囚人も逃走。
夕刻、ゲイ将軍は救国委員会(CNSP)を発表。彼自身が救国委員会の代表であり、同時に象牙海岸共和国の大統領であると発表。
3日間の夜間外出禁止令(18 :00~6 :00)を発動。

1999年12月23日
昼頃から、アビジャンの行政中心街であるプラトー地区において機銃を携帯した軍隊が上空に威嚇発砲。昼過ぎ1時50分頃にRTIラジオテレビ局本社が占拠される。その後ラジオ、テレビ共に中断。プラトー地区において、軍の兵士は車上から拡声器により、市民は18時までに事務所を去り、自宅に戻るよう指示18時、RFI(ラジオフランス国際放送)は、軍が国連平和維持軍として中央アフリカに派遣された軍人の未払い手当支給を要求。しているとの情報を伝える。

これらは
「象牙海岸にて」のクーデタからの抜粋です。