■世紀の遺書
ー きけ わだつみのこえ ー
世紀の遺書(せいきのいしょ)
第二次世界大戦敗戦後に戦犯として刑死および獄死した人々の遺書を編纂した遺稿集。
『世紀の遺書』という書名は、「二十世紀が後世にのこす遺書」の意図がこめられている。
巣鴨プリズン内に置かれた「巣鴨遺書編纂会」の呼びかけで遺族その他から遺書や遺稿が寄せられ、多くの人の協力と援助によって1953年(昭和28年)12月に初版4000部が出版された。
その後、第2版(1954.3)、第3版、第4版(1954.12)まで版を重ね、4版で延べ13,000部を数えた。
復刻版が1984年(昭和59年)8月、講談社で出版された。

《内容》
第二次世界大戦で日本が降伏した後、連合国から戦争犯罪容疑者として国際軍事法廷で裁かれ「戦争犯罪人」として、日本及び外地で亡くなった人々の遺書を可能な限り収集し、編纂したもの。
戦犯死没者約1000名は亡くなった場所もさまざまで、日本、中国、蘭印(蘭領東印度)、ビルマ、マレー・北ボルネオ、香港、豪州、仏印(仏領印度支那)、比島、グアム島など、広汎にわたる。また階級も大将から工員、民間人までさまざまである。
軍属や通訳であった朝鮮・台湾出身45名も含まれる。
『世紀の遺書』に掲載された遺書ないし遺稿は701篇に上った。
編纂委員会は、死刑となった人々だけでなく収容中に病死、事故死、あるいは自決した人も「戦争裁判のために斃れた人々」として、その遺書をこの中に含めている。
なお関係者は「法務死」と呼んでいる。
この書により、それまであまり知られていなかったBC級戦犯の存在に世間の注目が集まり、短期間に4版を重ねたという。
《名前の由来》
この出版実現に奔走した中村正行(のちに勝五郎に改名)は、「世紀の遺書」という書名は、「二十世紀が後世にのこす遺書」の意であるとする。
_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/
『きけ わだつみのこえ』は第二次世界大戦末期に戦没した日本の学徒兵の遺書を集めた遺稿集。
1947年(昭和22年)に東京大学協同組合出版部により編集されて出版された東京大学戦没学徒兵の手記集『はるかなる山河に』に続いて、1949年(昭和24年)10月20日に出版された。BC級戦犯として死刑に処された学徒兵の遺書も掲載されている。
編集顧問の主任は医師、そして戦没学徒の遺族である中村克郎をはじめ、あとの編集委員として渡辺一夫・真下信一・小田切秀雄・桜井恒次が関わった。
1963年(昭和38年)に続編として『戦没学生の遺書にみる15年戦争』が光文社から出版され、1966年(昭和41年)に『第2集 きけ わだつみのこえ』に改題された。
『きけ わだつみのこえ』の刊行をきっかけとして1950年(昭和25年)4月22日に日本戦没学生記念会(わだつみ会)が結成された。
類似した題名の映画が何本か製作されている。
また、この刊行収入を基金にして、戦没学生記念像わだつみ像が製作され、京都市北区の立命館大学国際平和ミュージアムで展示されている。
《名前の由来》
学徒兵の遺稿を出版する際に、全国から書名を公募し、応募のあった約2千通の中から京都府在住の藤谷多喜雄のものが採用された。
藤谷のそもそもの応募作は「はてしなきわだつみ」であったが、それに添えて応募用紙に「なげけるか いかれるか/はたもだせるか/きけ はてしなきわだつみのこえ」という短歌が添付されていた。
なお、この詩は同書の巻頭に記載されている。
「わたつみ(わだつみ)」は海神を意味する日本の古語である。
《書籍の内容に関して》
▼編集方針に関する批判
原版を作成した東大協同組合出版部は、戦没者遺族が編集に携わっていることもあり、編集方針として「平和への訴え」を掲げた。
編集者の一人である渡辺一夫からは「かなり過激な日本精神主義的な、戦争謳歌にも近いようなものまでも全部採録するのが公正である」との意見も出たが、その後「痛ましすぎる声はしばらく伏せたが方がよい」として意見を撤回している。
このような方針に対して、立花隆は『天皇と東大』(文藝春秋)でこれを左側からの「歴史の改竄」であると批判した。
富岡幸一郎も『新大東亜戦争肯定論』にて「遺された言葉が、戦後の反戦平和運動のスローガンに利用された」と述べている。
ただし、後に続編として出版された『第2集 きけ わだつみのこえ』では右翼的表現や日本主義的言辞が含まれた手記も採録されている。
また、応募された候補作のうち不採用のものと採録されたものを比較しても内容に大きな差はなく、激しい軍国主義・愛国主義調の手記は存在しなかった。
むしろ当時の学生の間では概ね共通した軍国主義批判・国粋主義批判の風潮があったとされる。
第2集ははじめに岩波書店に出版を申し込んだが、岩波側が岩波文庫から出版するには新しすぎるとしたために、光文社のカッパブックスから出版された。
このほか、『きけ わだつみのこえ』は、当時ごく少数であった高等教育を受けたインテリの文章を集めたものであり、人間本来の死ではなく、インテリの死だけを美化したのではないかとの意見や、インテリと教育を受けていない一般民衆との間には価値観の違いがあり、一般民衆の戦争観の視点に編集側が欠けているのではないかとの批判がある。
三島由紀夫は『きけ わだつみのこえ』について、「テメエはインテリだから偉い、大学生がむりやり殺されたんだからかわいそうだ、それじゃ小学校しか出ていないで兵隊にいって死んだやつはどうなる」と批判している。
『はるかなる山河に』は、東大だけが大学ではあるまいとの批判を巷間から受けたが、『きけだつみのこえ』も、誰それはどこの学校を出ているといった事柄にこだわることで成り立っているとの評価もある。
▼改竄疑惑
上記に付随して、一部からは手記の内容を編集方針に沿うような形でに不当に改竄しているという批判がある[要出典]。実際に採録されたものの中には編集された内容のものもあり、例えば佐々木八郎のエッセイ「“愛”と“戦”と“死”」には「しかし僕の気持はもっとヒューマニスティックなもの,宮沢賢治の烏と同じようなものなのだ。
憎まないでいいものを憎みたくない、そんな気持なのだ。
正直な所、軍の指導者たちの言う事は単なる民衆煽動の為の空念仏としてしか響かないのだ。」と書かれているが、「軍指導者たちの言う事」という部分は原遺稿では「暴米暴英撃滅とか,十億の民の解放とか言う事」となっていた。
また高木孜の手記については、謄写稿で「ソ連兵来るの噂とぶ。
ゲーペーウー潜入,駆逐艦興南入港の噂入る。」となっていた点が筆写稿では「ゲーペーウー潜入」の部分が赤線で削除され、そのまま出版された。
どちらの内容も新版でも訂正されずにそのままとなっており、法政大学名誉教授の岡田裕之はこれについて編集者を批判している。
ただしどちらの手記も元々『はるかなる山河に』で採録されていたものであり、当時はGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の占領下検閲が行われていたため、このような表現の変更が行われた経緯がある。
岡田はそれを検閲がなくなった新版になっても訂正していない点について批判しているのであり、一部で問題とされる「編集方針に沿わない文章の改竄」つまり手記の意味している内容自体を変えてしまうような改竄はなかったと主張している。
『きけわだつみのこえ』
岩波書店 改変事件裁判
1994年(平成6年)4月23日のわだつみ会総会で、副理事長の高橋武智が理事長に就任し、第4次わだつみ会が発足する。
この人事によって、わだつみ会は志を同じとする組織ながら、旧版の編集責任者である中村克郎らを支持する会員と新理事長の高橋武智らを支持する会員とで内紛が発生した。
第4次わだつみ会は1995年(平成7年)に『新版「きけ わだつみのこえ」』を出版したが、中村克郎を始めとする旧版支持者から「誤りが多い」、「遺族所有の原本を確認していない」、「遺稿が歪められている」、「遺稿に無い文が付け加えられている」、「訂正を申し入れたのに増刷でも反映されなかった」といった批判を浴びることとなる。
1998年(平成10年)、中村克郎らが新たに「わだつみ遺族の会」を結成。うち中村克郎と西原若菜が遺族代表として、わだつみ会と岩波書店に対して「勝手に原文を改変し、著作権を侵害した」として新版の出版差し止めと精神的苦痛に対する慰謝料を求める訴訟を起こす。
原告が提出した原本と新版第一刷の対照データをもとに岩波書店が修正した第8刷を1999年(平成11年)11月に出版し提出した結果、翌12月、原告は「要求のほとんどが認められた」として訴えを取り下げた。
ただし、新版は中村ら原告側が編集に携わっている『はるかなる山河に』などを源泉として作成されており、裁判では誤りを自ら訂正しなかった原告を含めた双方に過失があると判断された。
雲ながるる果てに
戦歿飛行予備学生の手記
『雲ながるる果てに 戦歿飛行予備学生の手記』
(くもながるるはてに せんぼつひこうよびがくせいのしゅき)
大学・高専を卒業若しくは在学中の1943年(昭和18年)9月に第13期海軍飛行専修予備学生として三重または土浦の両海軍航空隊に入隊して散華した神風特別攻撃隊の青年たちを中心とする遺稿集である。
《概要》
本書の発行は1952年。
版元は、後に出版協同社(「世界の艦船」発行元の海人社の関係企業、戦記物の単行本を出版)の社長となる福林正之が当時経営していた日本出版協同株式会社。本書は、社団法人白鴎遺族会によって編集され、刊行に向けて、第13期を中心に各期の海軍戦歿飛行専修予備学生の遺族・関係者から450通余りの遺書、遺詠、遺文が集められた。
緒方徹、神島利則、緒方襄、植島幸次郎、西田高光、植村真久、小島博らの遺稿60数編が収録されている。
白鴎遺族会の杉暁夫初代理事長による「序」では、学徒兵の手記集の先駆けとなった「きけ わだつみのこえ」と同名映画とは立場を異にすることが表明されていた。
西田高光の鹿屋基地からの出撃を見送ったという当時、海軍報道班員で作家の山岡荘八に対する謝意が付加されている。
関連項目 ー 海神(わだつみ) ー
海神(うながみ、かいじん)は、海を司る神。また、海に住んでいるという神。
世界各地の神話においても比較的高位の神とされている場合が多い。
ギリシャ神話においては、ポセイドーンまたはポセイドン。
日本神話においては、海神はワタツミ、ワダツミという。
ワタツミ・ワダツミ(海神・綿津見)とは、日本神話の海の神。転じて海や海原そのものを指す場合もある。
《概要》
『古事記』は綿津見神(わたつみのかみ)、大綿津見神(おおわたつみのかみ)、『日本書紀』は少童命(わたつみのみこと)、海神(わたつみ、わたのかみ)、海神豊玉彦(わたつみとよたまひこ)などの表記で書かれる。
「ワタ」は海の古語、「ツ」は「の」を表す上代語の格助詞、「ミ」は神霊の意であるので、「ワタツミ」は「海の神霊」という意味になる。
《神話での記述》
日本神話に最初に登場する綿津見神は、オオワタツミ(大綿津見神・大海神)である。神産みの段で伊邪那岐命(伊弉諾尊・いざなぎ)・伊邪那美命(伊弉冉尊・いざなみ)二神の間に生まれた。
神名から海の主宰神と考えられているが、『記紀』においては伊邪那岐命は後に生まれた三貴子の一柱須佐之男命(素戔嗚尊・すさのお)に海を治めるよう命じている。
伊邪那岐命が黄泉から帰って禊をした時に、ソコツワタツミ(底津綿津見神、底津少童命)、ナカツワタツミ(中津綿津見神、中津少童命)、ウワツワタツミ(上津綿津見神、表津少童命)の三神が生まれ、この三神を総称して綿津見三神と呼んでいる。
この三神はオオワタツミとは別神であるとの説や、同神との説がある。
この時、ソコツツノオノカミ(底筒之男神)、ナカツツノオノカミ(中筒之男神)、ウワツツノオノカミ(上筒之男神)の住吉三神(住吉大神)も一緒に生まれている。
また、綿津見神三神の子の宇都志日金析命(穂高見命)が阿曇連(阿曇氏)の祖神であると記している。
現在も末裔が宮司を務める志賀海神社は、安曇氏伝承の地である。
また、穂高見命は穂高の峯に降臨したとの伝説があり、信濃にも安曇氏が進出している。
▼山幸彦と海幸彦
山幸彦と海幸彦の段では、火照命または火須勢理命(海幸彦)の釣針をなくして困っていた火遠理命(山幸彦)が、塩土老翁の助言に従って綿津見大神(豊玉彦)のもとを訪れ、綿津見大神の娘である豊玉毘売と結婚している。
二神の間の子である鵜葺草葺不合命は豊玉毘売の妹である玉依毘売に育てられ、後に結婚して若御毛沼命(神倭伊波礼琵古命・かむやまといわれひこ)らを産んでいる。
綿津見大神の出自は書かれていないが、一般にはオオワタツミと同一神と考えられている。
関連項目 ー 靖国神社 ー
靖国神社(やすくにじんじゃ)
(旧字体: 靖國神社)
東京都千代田区九段北にある神社。
慶応4年(1868年)以降、戊辰戦争・明治維新期の戦没者を慰霊、顕彰する動きが活発になり、そのための施設である招魂社創立の動きが各地で起きた。
それらを背景に明治天皇の勅令によって明治2年(1869年)に建てられた招魂社に起源を発し、国家のために殉難した人の霊(英霊)246万6千余柱を祀る。
全国にある護国神社と深い関わりがある。
《祭神》
幕末から明治維新にかけて功のあった志士に始まり、嘉永6年(1853年)のペリー来航(いわゆる「黒船来航」)以降の日本の国内外の事変・戦争等、天皇を頂点とした国家体制のために殉じた軍人、軍属等の戦没者を「英霊」として祀り、その柱数(柱(はしら)は神を数える単位)は2004年(平成16年)10月17日現在で計246万6532柱にも及ぶ(詳細は「祭神の内訳」を参照)。当初は祭神は「忠霊」・「忠魂」と称されていたが、1904年(明治37年)から翌年にかけての日露戦争を機に新たに「英霊」と称されるようになった。
この語は直接的には幕末の藤田東湖の漢詩「文天祥の正気の歌に和す」の「英霊いまだかつて泯(ほろ)びず、とこしえに天地の間にあり」の句が志士に愛唱されていたことに由来する。
本殿での祭神の神座は当初は1座であったが、1959年(昭和34年)に創建90年を記念して台湾神宮および台南神社に祀られていた北白川宮能久親王と、蒙疆神社(張家口)に祀られていた北白川宮永久王とを遷座合祀して1座を新たに設けた。
従って現在の神座は、英霊を祀る1座と能久親王、永久王を祀る1座の2座である。 日本の旧植民地出身の軍人・軍属も祭祀対象となっている。
これに対し、日本に植民地として支配された台湾や韓国の遺族の一部が自らの先祖を対象から外すよう求める動きがある(靖国神社問題#旧日本植民地出身の軍人軍属の合祀)。
《歴史》
▼第二次世界大戦前
戊辰戦争終戦後の慶応4年旧暦6月2日(1868年7月21日)に、東征大総督有栖川宮熾仁親王が戦没した官軍(朝廷方)将校の招魂祭を江戸城西丸広間において斎行したり、同年旧暦5月10日(6月29日)に太政官布告で京都東山(現京都市東山区)に戦死者を祀ることが命ぜられたり(現京都霊山護国神社)、同旧暦7月10(8月27日)・11(8月28日)の両日には京都の河東操錬場において神祇官による嘉永6年(1853年)以降の戦没者・殉死者を慰霊する祭典が行われる等、幕末維新期の戦没者を慰霊、顕彰する動きが活発になり、そのための施設である招魂社創立の動きも各地で起きた。
それらを背景に大村益次郎が東京に招魂社を創建することを献策すると、明治天皇の勅許を受けて明治2年旧暦6月12日(1869年7月20日)に現社地での招魂社創建が決定され、同月29日(8月6日)に五辻安仲が勅使として差遣され、時の軍務官知事仁和寺宮嘉彰親王を祭主に戊辰の戦没者3,588柱を合祀鎮祭、東京九段上に「東京招魂社」として創建された。
ただし、創祀時は未だ仮神殿の状態であり、本殿が竣工したのは明治5年(1872年)であった。
東京招魂社は軍が管轄するものとされ、一般の神社とは異なる存在で種々の不安定要素があったために、正規な神社へ改めようとする軍当局は社名の変更と別格官幣社への列格を要請し、明治天皇の裁可を得て1879年(明治12年)6月4日に「靖國神社」への改称と別格官幣社列格の太政官達が発せられた。
もっとも、正規な神社となった後も神社行政を総括した内務省が職員の人事権を有し、同省と陸軍省および海軍省によって共同管理され、しかも運営の主導権は財政を担った陸軍省が有する等、神社としては特殊な存在ではあった。
創祀以後、春秋の例大祭には勅使が差遣されての奉幣が行われ、また新たに神霊を合祀するに際しても勅使を差遣した他、天皇・皇后の行幸啓、皇族の参拝や代参も頻繁になされる等、皇室および国家から臣下を祀る神社としては異例の殊遇を受け、また合祀祭に当たっては諸官員(公務員)に休日を賜う例であった。
なお、祭主は陸・海軍武官が勤めた。
1891年11月5日、陸軍省は、維新前後の国事殉難者1277名を合祀した(告示)。
1932年(昭和7年)、上智大生靖国神社参拝拒否事件が起きる。
この事件を受けて、ローマ教皇庁福音宣教省(長官はピエトロ・フマゾーニ・ビオンディ枢機卿)が1936年(昭和11年)に訓令「祖国に対する信者のつとめ (Pluries Instanterque)」を駐日教皇庁使節パオロ・マレーラ(英語版)大司教に宛てて送り、愛国心の表明としての靖国神社参拝が容認される。
1940年(昭和15年)には「靖国神社の歌」が制作された。
▼第二次世界大戦後
戦後、GHQは1945年12月15日に神道指令を発布した。
GHQは、占領期間中、靖国神社の存続の容認を苦慮している。
靖国神社を崇敬社が管理するという文部省案もあった。
GHQ宗教課の特別調査班が、信教の自由の観点から、慎重に時間をかけて調査している間に、国際情勢が変化し、アメリカ政府は、ソ連を中心とした共産主義国家に対抗することに外交政策の軸足を移した。
靖国神社の存続容認に、いわゆる逆コース、もしくは、「日本の非軍事化・民主化の促進に重点を置いた政策」から「日本を共産主義国家に対抗するアメリカの同盟国に変える政策」という、アメリカ政府の日本に対する占領政策の変更が、作用したと見られている。
1947年11月には日本遺族厚生連盟が発足、1953年には日本遺族会へと発展した。
戦後は、政教分離政策の推進により靖国神社は国家管理を離れて宗教法人となり日本政府との直接的な関係は無くなったものの、軍人を祭神として祀る点や公職に就く者の参拝とそれに伴う玉串料の奉納等が批判され、様々な問題が生じている。
《靖國神社の諸問題》
▼争点
※具体的な論点としては以下の6つにまとめられる。
1.信教の自由に関する問題 日本国憲法においては、第20条第1項において「信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。」と定められている。
参拝を望むなら、たとえ大臣・官僚であっても国家権力によって靖国神社への参拝を禁止・制限することができないこと、また参拝を望まない人が国家によって靖国神社への参拝を強制されないこと、両方の側面を含む。
2.政教分離に関する問題 靖国神社を国家による公的な慰霊施設として位置づけようとする運動があり、及びそれに付随して玉串奉納等の祭祀に関する寄付・奉納を政府・地方自治体が公的な支出によって行うことなどに関し、日本国憲法第20条が定める政教分離原則と抵触しないかとする問題。
これを問題とする人々は、内閣総理大臣・国会議員・都道府県知事など公職にある者が公的に靖国神社に参拝することが、第20条第1項において禁止されている宗教団体に対する国家による特別の特権であると主張している。
3.歴史認識に関する問題で靖国神社は、戦死者を英霊としてあがめ、戦争自体を肯定的にとらえているのだから、そのような神社に、特に公的な立場にある人物が参拝することはつまり、同社の第二次世界大戦に対する歴史観を公的に追認することになる、として問題視する意見が存在する。
そういった立場からは、日本の閣僚は同戦争における対戦国に配慮し靖国神社に対する参拝を禁止・制限あるいは自粛すべきとする主張がある。
日本人が同戦争における戦争責任をどのように認識し、敗戦以前の日本の軍事的な行動に対していかなる歴史認識を持つことが適切であるか、という論点を中心に展開され、特に極東国際軍事裁判で戦争犯罪人として裁かれた人々の合祀が適切か否かの議論がある。
対外的には、第二次世界大戦における交戦相手国である中国(中華民国)、また第二次世界大戦の開戦より数十年前に日本に併合されていた朝鮮半島諸国の国民に不快感を与え、外交的な摩擦も生むこともある靖国神社への参拝が適切かどうか、という論点を中心に展開される。
なおこの中韓及び北朝鮮以外の国からは、首相や閣僚の靖国神社参拝に対して公式に批判を受けることはない。
また、遊就館には歴史年表が掲示されているが、日本国憲法制定に関する記述(1946年11月3日公布、翌1947年5月3日施行)がなく、一方で“ポツダム宣言受諾拒否”が明記されている。
4.戦死者・戦没者慰霊の問題。
特に十五年戦争における日本軍軍人・軍属の戦死者(戦病死者・戦傷死者を含む)を、国家としてどのように慰霊するのが適切であるか、という問題。
戦後靖国神社が国家による慰霊施設から宗教団体として分離されたために日本には戦死軍人に対する公的な慰霊施設が存在しないが、靖国神社を戦前に近いかたちで国家管理して位置づける、あるいは慰霊のための新たな施設を整備するという意見がある。
遺族の同意を得ないまま同社に合祀されることがあることにも異議が出ている。
5.A級戦犯に対する評価の使い分け A級戦犯として靖国神社に合祀されるか合祀されないか差異は、死刑の執行・服役中の死亡・勾留中の死亡により、遺体として刑事施設から社会に戻ったか、恩赦による刑の執行終了・裁判の中止・不起訴処分により、生きて社会に戻ったかの差異だけである。
起訴され(28名)有罪宣告された25名のうち生きて社会に戻ったA級戦犯から重光葵は衆議院議員に3回選出され鳩山一郎内閣で4回目の外務大臣まで務めており、また戦犯指名されたものの不起訴となった者のなかからは衆議院議員に5人が選出され、国務大臣に5人が任命され、内閣総理大臣に1人が選出されている。
この中には在職中等の貢献により国家より受勲されたものが多数いる。
これに対して刑の執行や拘置中の病死などにより死亡し、刑事施設から遺体として社会に戻された者に対しては日本政府と日本国民が永久に糾弾し続けるべき対象者と評価するべきであるのかどうか、評価の使い分けの基準は全く説明されていない。
また、この判決について、東條をはじめ南京事件を抑えることができなかったとして訴因55で有罪・死刑となった広田・松井両被告を含め、東京裁判で死刑を宣告された7被告は全員がBC級戦争犯罪でも有罪となっていたのが特徴であって、これは「平和に対する罪」が事後法であって罪刑法定主義の原則に逸脱するのではないかとする批判に配慮するものであるとともに、BC級戦争犯罪を重視した結果であるとの指摘がある。
宗教的合理性と神道儀軌に関する問題 波田永実によると、古代に存在したであろう神道による葬祭儀礼(神葬)は仏教の伝来以降衰退し近世初頭においては葬祭儀礼は仏教が独占する状態であったが、近世において神葬を興したのは卜部吉田家であり、これは従来の御霊信仰(「祟り」を鎮めるための祭祀)とは異なり「人間を神として祀る」祖先崇拝であった。
吉田神道からは豊国大明神や東照大権現が祭祀されるようになった(人神祭祀)が江戸末期までは例外的であり、とりわけ幕末期に行われるようになった招魂祭祀は江戸期の儒教的教義を踏まえた神儒一致すなわち神葬祭と儒葬を折衷したものであり、その普及と明治新政府への影響は津和野学派(福羽美静、大国隆正ら)の影響が大きい。
招魂祭祀は近世後期に幕府に対する朝廷の権威快復の下で「創始」されたものであり幕末維新の騒乱期に異郷の地で客死した者を慰霊追悼し顕彰するべき必然性から生み出されたものである、とする。
神社神道の遷霊(従来の死を確定させる儀礼とする説もある)では、木主・笏・鏡・幣串が用いられ、基本的には1柱ごとに諡を送って霊璽とすることが各派ほぼ共通の儀軌となっている。
これに対して、戊辰戦争の戦没者を祀るに際しては霊璽簿を用い、諡を送らずに生前の名前をもって霊璽としたため、靖国神社は当初は招魂社として創建された。
しかし、招魂社は招魂場(降霊場)であるために、後に「在天の神霊を一時招祭するのみなるや聞こえて万世不易神霊厳在の社号としては妥当を失する」という政府側の要請で神社の格をとるに至った。
しかし、この要請理由は宗教的合理性を転倒させた面があることは否めない。また、明治維新後に創建された他の神社も生前の名前を祭神の諡号としたため、神社神道を信仰する一般家庭でもそれに倣うケースが出始めた。
この状況に危機感を募らせていた神社神道関係者は言論統制が解けた第2次世界大戦後に、そうした祭祀の方式は神社神道共通の基本的な儀軌に反するものであり、元々が合理性に欠けるものであるとする主張を行ったが、他の争点に掻き消されて『神葬祭 総合大事典』でも版を重ねるごとにトーン・ダウンしていった。
いずれにしても、この争点は、朝日新聞だけではなく保守系の讀賣新聞などをも含んだマスコミと、靖国神社参拝派の政治家との間に起きた情念的とも言える争いのために、一般的にはほとんど知られていない。
関連項目 ー 護国神社 ー
護国神社(ごこくじんじゃ)
(旧字体: 護國神󠄀社󠄁)
国家のために殉難した人の霊(英霊)を祀るための神社。
1939年(昭和14年)に招魂社から改称。
第二次世界大戦前は内務省によって管轄されていたが、第二次世界大戦後は独立の宗教法人となる。
指定護国神社は東京都と神奈川県を除く道府県に建立され、その道府県出身ないし縁故の戦死者、自衛官・警察官・消防士等の公務殉職者を主祭神とする。
《概説》
護国神社は、明治時代に日本各地に設立された招魂社が、1939年(昭和14年)3月15日公布、同4月1日施行された「招魂社ヲ護國神社ト改称スルノ件」(昭和14年内務省令第12號)によって一斉に改称して成立した神社である。
「招魂社」の名称は、「招魂」が臨時・一時的な祭祀を指し、「社」が恒久施設を指すため、名称に矛盾があるとして護国神社に改称された。
「護国」の名称は、1872年12月28日(明治5年11月28日)の徴兵令詔書の一節「國家保護ノ基ヲ立ント欲ス」、1882年(明治15年)1月4日の『軍人勅諭』の一節「國家の保護に尽さば」など、祭神の勲功を称えるに最も相応しく、既に護国の英霊等の用語が用いられて親しみも深い、との理由で採用された。
護国神社の総数は、1939年(昭和14年)4月時点で131社とされている。
社格は、護国神社制度導入と同時に改正された「府縣社以下神社ノ神職ニ關スル件」(明治27年勅令第22號)第1條第1項により、内務大臣が指定した府県社に相当する指定護国神社と、それ以外の村社に相当する指定外護国神社に分けられる。
1945年(昭和20年)8月のポツダム宣言受諾により、日本がGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の占領統治下に置かれると、護国神社は軍国主義施設とみなされ、存続を図るために名称から「護国」の文字を外すなど改称を余儀なくされた。
改称した神社は、1952年(昭和27年)にサンフランシスコ講和条約が発効して日本が主権を回復すると、大多数は旧社名に戻している。第二次世界大戦後、いくつかの指定護国神社は神社本庁の別表神社となっている。
各護国神社の祭神は靖国神社[注 3]の祭神と一部重なるものの、靖国神社から分祀された霊ではなく、独自で招魂し祭祀を執り行っている。
そのため、公式には護国神社は「靖国神社とは本社分社の関係にはない」とされている。
しかし、共に英霊を祀る靖国神社と護国神社とは深い関わりがあり、各種の交流もある。
主要な護国神社52社で組織する全國護國神社會(旧・浦安会)は靖国神社と連携し、英霊顕彰のための様々な活動を行っている。
なお、沖縄県護国神社では沖縄戦で犠牲になった一般住民、遭難学童及び文官関係戦歿者も祭神として祀られている。
また、広島護国神社では原子爆弾の犠牲になった勤労奉仕中の動員学徒、女子挺身隊員等約一万柱も祭神として祀られている。
第二次世界大戦後のGHQによる神道指令発令後、国家が神社に指揮監督する権限が無くなり、護国神社の祭神を靖国神社の祭神と定めた法令は失効した。
法令の失効や、岸本英夫東京帝国大学文学部助教授(当時)の示唆もあってか、一部の護国神社でその護国神社に祀られるべき靖国神社以外の御祭神を奉祀する例が出始めた。
郷土の偉人や殉職自衛官を祀る護國神社は全部で札幌、秋田、新潟、福島、栃木、山梨、長野、富山、石川、福井、松江、愛媛、香川、徳島、高知、山口、佐賀、大分、長崎、熊本、宮崎、鹿児島、沖縄の計23社に及ぶ。
島矢大嗣の『護國神社における殉職自衛官の相殿奉斎等の詮衡の一考察』によれば「殆どの護國神社で靖國神社以外の御祭神を奉祀する際には、本殿とは別の御神体に奉祀され明確に区別されてきた。」と指摘している。
1960年(昭和35年)に全国の護国神社52社に対して昭和天皇・香淳皇后より幣帛が賜与されて以降、1945年(昭和20年)から数えて10年ごとに幣帛の賜与が続けられている。
護国神社は、建立以来、主として戦没者の遺族会や戦友会が運営的・財政的に支えてきた。
しかし、戦没者を直接知る遺族や戦友たちの高齢化とともに、その数は減りつつあり、財政的危機に見舞われる護国神社が増えると見られている。
そのため、旧指定護国神社を中心に崇敬会・崇敬奉賛会を設立している。
なお、東京都目黒区五本木に存在した目黒護国神社は、1959年(昭和34年)10月に目黒護国神社崇敬会を設立して管理していたが、役員が亡くなって引き継ぐ管理者もなかったため、目黒区の外部監査で指摘を受け、2008年(平成20年)5月に取り壊されている。
《論争》
自衛隊発足後、殉職した自衛官も護国神社に祀られるようになり、合祀申請は自衛隊地方連絡部(現・自衛隊地方協力本部)協力の下、社団法人隊友会により行われるようになった。
しかし、第二次世界大戦前と同様に合祀・合祀申請ともに遺族の同意を一切求めず行われるため、クリスチャンである殉職自衛官の妻が宗教的人格権を侵害されたとして、合祀の取消と損害賠償等を請求する事態に発展したことがある(山口自衛官合祀訴訟・最大判昭和63年6月1日民集第42巻5号277頁)。
〔ウィキペディアより引用〕
