■平和って何?③
▼ピースマーク
今日知られているピースマーク(ピースシンボル)は、1958年にジェラルド・ホルトムによって、イギリスの平和運動の最前線にいたグループである核軍縮キャンペーン(CND)のロゴとしてデザインされ、アメリカなどでの反戦運動やカウンターカルチャーの活動家により採用された。
このシンボルは、手旗信号の"N"と"D"を重ね合わせたもので、「核軍縮」(Nuclear Disarmament)を意味すると同時に、ゴヤの1814年の作品『マドリード、1808年5月3日』(別名『プリンシペ・ピオの丘での虐殺』)において銃殺隊に対峙する反乱者を表しているとされている。
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このマークは、Unicodeのその他の記号ブロックにU+262E ☮ peace symbolとして収録されている。
平和運動や反戦運動のシンボルとしても世界中で使われているマークである。
円の中に鳥の足跡を逆さまにしたような形をしている。
国際的には「ピースシンボル」や「ピースサイン」として知られる。
1958年にイギリスの反核運動「核軍縮キャンペーン」(CND)で使用された、核による消滅の脅威を表すシンボルが起源となっている。
1960年代のアメリカの反戦運動で広く採用され、一般的に世界平和を表すものとして再解釈された。
しかし、1980年代になっても、原子力発電に反対する活動家の間では、本来の反核の意味で使われていた。
《歴史》
▼起源
このマークは、芸術家・デザイナーのジェラルド・ホルトム(1914年-1985年)がデザインしたものである。
ホルトムは、1958年2月21日に直接行動委員会(DAC)に対してこのマークを提出し、同年4月4日に行われるロンドンのトラファルガー広場からバークシャー州オルダーマストンの核兵器研究機関までのデモ行進のシンボルとして即採用された。
ホルトムのデザインは、エリック・オースティン(1922〜1999)がセラミック製のラペルバッジに採用した。
オリジナルのデザインは、イギリス・ブラッドフォードの平和博物館にある。
このマークは、手旗信号の"N"と"D"を重ね合わせたもので、「核軍縮」(Nuclear Disarmament)を意味する。
これは、1958年4月5日付の『マンチェスター・ガーディアン』紙に掲載されている。
このほか、ホルトムは、ゴヤの1814年の作品『マドリード、1808年5月3日』(別名『プリンシペ・ピオの丘での虐殺』)を参照していると語っている。
ホルトムはゴヤの『マドリード、1808年5月3日』を参考にしたと言っているが、この絵に描かれた農民は、腕を下にではなく上に伸ばしている。
ホルトムの代弁者だったケン・コルスバンによると、ホルトムは平和の象徴を絶望の象徴として描いたことを後悔するようになり、平和は祝福すべきものだと感じて、このマークを反転させたいと考えたという。
エリック・オースティンは、「『絶望のジェスチャー』のモチーフが、長い間『人間の死』を連想させ、円が『生まれてこない子供』を連想させることを発見した」と言う。
このマークはDACを支援した核軍縮キャンペーン(CND)がロゴとして使用し、CNDが配布したこのマークのバッジを身につけることは、イギリスの核軍縮を求めるキャンペーンへの支持の証となった。
CNDの初期の歴史についての説明では、このイメージを「(オルダーマストンの)行進、そして後にはキャンペーン全体を結びつける視覚的な接着剤...おそらく世俗的な目的のためにデザインされた、最も強力で記憶に残り、適応性のあるイメージ」と表現している。
なお、平和を象徴するハトの足跡のデザインとされることがあるが、これは事実ではない。
▼国際的な受容
このマークは、著作権や商標などの制限を受けていないため、CNDを超えて広がり、より広範な軍縮運動や反戦運動にも採用された。
1958年、平和活動家のアルバート・ビグロー(英語版)がピースマークの旗をつけた小舟を核実験の近くまで航行させたことで、このマークはアメリカで広く知られるようになった。
1960年から1964年にかけて、アメリカ各地の大学のキャンパスで何千個ものピースマークのバッジが頒布された。
1968年までに、このマークは一般的な平和の象徴として採用されており、特にヒッピー運動やベトナム戦争への反戦運動と関連していた。
1970年、2つのアメリカの民間企業が、ピースマークを商標として登録しようとした。
特許庁長官のウィリアム・E・スカイラー・ジュニアは、このマークは「特許庁による登録の対象となる商標として適切に機能しない」と述べて申請を却下した。
1973年、南アフリカ政府はアパルトヘイトに反対する人々がこのマークを使用することを禁止しようとした。
▼虹色の旗(平和の旗)
国際的に、虹色に「平和」を意味する単語を書いた旗は平和の旗とみなされている。
この旗は、イタリアの平和主義者で社会哲学者のアルド・カピチニが1961年にペルージャからアッシジへの平和行進を行った際に初めて使用された。
イギリスの平和行進で使われていた平和旗からヒントを得たもので、ペルージャの女性たちに急遽、色のついた細長い布を縫い合わせてもらった。
この行進は、1961年以降何度も行われ、最近では2010年に行われた。
オリジナルの旗は、カピチニの協力者であるLanfranco Mencaroniがトーディ近郊のCollevalenzaで保管している。
この旗は虹色の7本のストライプで、中央に"Peace"の文字が入っているのが一般的である。
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この旗のデザインについては、次のように説明されている。
大洪水の記述において、神は二度と大洪水を起こさないことを約束し、その契約の証として、空に虹をかけた。
虹は、地と空、ひいては全ての人間の間の平和の象徴となった。
旗の色は通常、上から紫、藍、青、緑、黄、橙、赤となっているが、青の下に紫のストライプが入っているもの、上に白のストライプが入っているものもある。
カピチニが製作した最初の平和の旗では、赤、橙、白、緑、紫、藍、ラベンダーとなっている。
▼歴史
イタリア
◆冷戦期
最初の平和の旗は、1961年9月24日の第1回「ペルージャ-アッシジ平和行進」(it:Marcia per la Pace Perugia-Assisi) に現れた。
この行動は、哲学者で非暴力主義の平和運動家であったアルド・カピチニらが呼びかけたものだった。
イギリスの核軍縮キャンペーン(CND) は1958年から、オルダーマストンの原子兵器研究所(AWRE) での実験に反対する「ロンドン-オルダーマストン平和行進」を始めていた。
カピチニは、その行進に登場したCND の旗に触発され、ペルージャの友人と共にさまざまな色の帯を縫い合わせた旗を作り、1961年のイタリアでの行動に持参したのだった。
現在この旗は、アルド・カピチニの友人で彼と行動をともにした Lanfranco Mencaroni によって、ペルージャ県トーディのコレヴァレンツァに保存されている。
◆イラク戦争開始前後
2002年9月、Emergency、Libera、Rete di Lilliput、Tavola della Pace の4団体が呼びかけて、イタリア政府のイラク戦争参戦を阻止するために「イタリアは戦争に参加するな」 (Fuori l'Italia dalla guerra) キャンペーンを開始した (数百団体が賛同)。
このキャンペーンの一環として、「全てのバルコニーに平和を! - 街を平和で染めよう」 (Pace da tutti i balconi! - Dipingiamo di PACE le città) キャンペーンを行い、生活協同組合や労働団体の支援も得て、平和の旗を全国の都市で配布した。
たくさんの家でバルコニーや窓に平和の旗が掲げられた。平和の旗による反戦の意思表示は広範なひろがりを見せ、ホテル、教会、市庁舎などの公共施設でも掲げられるようになった。
2003年3月末までにイタリア全土で250万枚以上が配布されたとされる。
2002年11月フィレンツェでの世界社会フォーラムや、2003年2月のローマ (参加者300万人) 、2003年3月のミラノ (同70万人) をはじめ、イタリア各地の反戦デモンストレーションで、平和の旗が用いられた。
◆ヨーロッパ
スイスのイタリア語圏では早くから普及していたが、2003年2月、軍隊なきスイスのためのグループ (GSoA/GSsA/GSsE) が組織的にスイスへの輸入と頒布をはじめ、ドイツ語圏やフランス語圏でも広まった (同年4月末までに60,000枚以上を扱った)。
また、ドイツやオーストリアでも他のグループが活動し、ドイツ国内では少なくとも50,000枚が頒布された。
このころから、ドイツ語、ヘブライ語、アラビア語の平和の旗も制作されはじめる。
なお、特にヨーロッパでは、過去のユダヤ人迫害への反省と現在のパレスチナ問題との両方への問題意識から、ヘブライ語とアラビア語の旗はしばしば並列した形で用いられる(例)。
◆日本
「すべてのバルコニーに平和を!」キャンペーン以降、現地を旅行した個人が持ち帰ったり、現地の知人から譲り受けたりすることで、日本でも認知されるようになった。
イタリアに本拠を置くベネトンが、このころ世界各地の拠点に平和の旗を配布したため、ベネトン・ジャパン社でも店内ディスプレイに使用する支店があった。
個人輸入でイタリアや隣国スイスからまとまった数を入手して配布する者や、自作する者も現れた。
2004年1月に有志によるぴーすばたプロジェクト(2004年夏にぴーすぐっづプロジェクトに発展)が活動を始め、日本での工業的な量産と頒布を行った。
2004年3月までに日本全国の少なくとも37都道府県67市町村と一部海外に400枚を超える平和の旗を頒布した。
後身の「ぴーすぐっづプロジェクト」が2006年9月に「冬眠」を宣言して活動を停止するまで、「PEACE」の旗約1600枚、「سلام」の旗約300枚などを有償頒布した。
生活協同組合コープかごしまは、「PEACE」の文字をあしらった「平和の虹の旗」を製造し、2004年3月から組合員に供給した。
ほかにも、多くの団体や個人が平和の旗や、それに意匠を借りたステッカー、シール、バッジ、絵はがき、画像データなどを制作している。
現在、平和の旗は、必ずしも組織に属さず特定の思想的背景にも依らない市民が、個人として平和への意思を表示し、行動を起こす際のシンボルとして、日本ではある程度定着している。
▼Vサイン(ピースサイン)
Vサイン
(英語: V sign、victory hand)
人差し指と中指を、指先を離すようにして伸ばし、他の指は折ったままにする手のジェスチャー。
文化的文脈やその形をとる手の提示の仕方などによって、様々な意味をもっている。
特に、第二次世界大戦中の連合軍側の陣営においては、「勝利 (victory)」を意味する「V」の字を象った仕草として広く用いられた。
イギリスや、それと文化的なつながりの深い地域の人々の間では、手のひらを自分の方に向ける形でこのサインを示し、相手への敵対、挑発のジェスチャーとする。
また、多くの人々は、単に数字の「2」を意味してこのサインを用いる。
1960年代以降、Vサインはカウンターカルチャー運動の中に広まり、通常は手のひらを相手側に向ける形で、ピースサインとしても用いられるようになった。
《使い方》
Vサインの意味合いは、ある程度までは、手がどのような位置で提示されるがによって異なってくる。
・手のひらがサインをする者自身に向いている場合、すなわち、手の甲が相手に向けられる場合は、次のいずれかを意味する。
侮蔑として。
この使い方は、おおむねオーストラリア、アイルランド、ニュージーランド、南アフリカ共和国、イギリスなどに限定されている。
アメリカ手話における、数字の「2」。
手の甲がサインをする者自身に向いている場合、すなわち、手のひらが相手に向けられる場合は、次のいずれかを意味する。
数字の「2」。
非言語コミュニケーションにおける量の表現として。
特に戦時下や、何らかの競争における「勝利 (victory)」。
これは、1941年1月にベルギーの政治家ヴィクトル・ド・ラブレー(フランス語版)が、ベルギー人たちに統一のシンボルとしてこのサインを用いるよう呼びかけたことが、普及の最初の契機となった。
当初はもっぱらベルギー人たちの間で用いられていたが、程なくして他の連合軍側の兵士たちもこれを真似るようになった。
時には、両手にこのサインを作り、それを高々と挙げることもあり、アメリカ合衆国大統領であったドワイト・D・アイゼンハワーや、それを真似たリチャード・ニクソンが、この仕草をしばしばしてみせた。
「平和 (peace)」ないし「友人/味方 (friend)」。世界各地における平和運動やカウンターカルチャー運動のグループなどが用いている。
1960年代にアメリカ合衆国における平和運動から広まったもの。
二指の敬礼 - ポーランドでは、一定の条件の下で、右手の人差し指と中指を揃えて伸ばす敬礼をする。
また、ボーイスカウトの幼年組織であるカブスカウトでは、右手の人差し指と中指の先を広げて伸ばす敬礼をする。
アメリカ手話における、文字の「V」。
・動きを交えて用いる場合、次のいずれかを意味する可能性がある。
エアクオート – 両手を使い指を曲げ、手のひらを相手側に向ける。
この手の形は、様々な手話において多様な意味をもっており、アメリカ手話などでは手のひらを下に向けて「look (見る/凝視する)」、上に向けて「see (見える/了解する)」といった意味になる。
人差し指と中指が、手話話者自身の目を指した後で誰かを指差す場合は、「私はあなたを見ている/注視している (I am watching you.)」という意味になる。
序数の「2番目」を意味するアメリカ手話は、手のひらを前に出してVサインを作ってから手をひねって返す。
▼侮蔑の表現として
このジェスチャーを、手のひらを自分の側に向けて侮蔑の表現として行なうことは、しばしば(中指だけを立てて手の甲を見せる)ファックサインに相当するものと見なされる。
この手の形は英語では、
"two-fingered salute"
(二指の敬礼)、
"The Longbowman Salute"
(長弓の敬礼)、
"the two"、"The Rods"
(竿)、"The Agincourt Salute"
(アジャンクールの敬礼)
などと称され、さらに、スコットランド西部では
"The Tongs"(トング)、
オーストラリアでは
"the forks"(フォークス)
などとも呼ばれ、手首や肘からVサインを突き上げる形で示されるのが一般的である。
手のひらを自分の側に向けるVサインは、イングランドでは久しく侮蔑のジェスチャーであり、やがてイギリスの他の地域にも普及したが、このような意味でのVサインの使用は、おおむねイギリス、アイルランド、ニュージーランド、オーストラリアの範囲に限られている。
このようなVサインは、特に権力に対する挑発 (defiance) や、
軽蔑 (contempt)、嘲笑 (derision) を表現する。
このジェスチャーはアメリカ合衆国では用いられず、オーストラリアやニュージーランドでも既に古風な表現と見なされるようになっており、代わりにファックサインが用いられることが多い。
侮蔑の表現としての、手のひらを自分の側に向けるVサインの例として、1990年11月1日付のイギリスのタブロイド紙『ザ・サン』は、一面に国旗ユニオンフラッグの袖口から突き上げられたVサインの図を掲げ、その横に「お前のケツにぶち込め、ドロール (Up Yours, Delors)」と見出しを打った。
『ザ・サン』は、ヨーロッパ中央政府の構想を提唱していた当時の欧州共同体 (EC) 欧州委員会委員長ジャック・ドロールに対して二本指を掲げるよう、読者に呼びかけたのである。この記事はレイシズム(人種主義)だとして批判を集めたが、当時の新聞評議会(英語版)は、『ザ・サン』紙の編集長が、英国の利益のためには卑語を乱用することも正当であると表明したのを受け、苦情を採り上げなかった。
イギリスでは一時期、「ハーヴェイ(・スミス)(a Harvey (Smith))」という呼称が、こうした侮蔑の表現としてのVサインを意味して用いられたが、これはフランスでは「カンブロンヌの言葉 (Le mot de Cambronne)」、カナダでは「トルドー敬礼 (Trudeau salute)」が、一本指を立てる同様の仕草を意味したことがあったのと同様の現象であった。この呼称は、障害飛越競技の選手であったハーヴェイ・スミス(英語版)が、1971年にヒクステッド全英飛越コース(英語版)において開催されたイギリス飛越競技ダービー (the British Show Jumping Derby) で優勝した際、テレビに映る形でVサインを行なったとして失格とされた(2日後に失格は取り消され、スミスの優勝が再確認された)ことが由来となっている。
ハーヴェイ・スミスは、同様に公の注目を集めることになった他の人々と同じように、勝利のサイン (a Victory sign) をしたのだと主張した。
また、時には外国から訪れた人々が「二指の敬礼 (two-fingered salute)」を、それが地元民にとっては不愉快なものであることを知らずにしてしまうこともあり、例えばアメリカ合衆国大統領だったジョージ・H・W・ブッシュは、1992年にオーストラリアを訪問した際、キャンベラで、アメリカ合衆国の農業助成金に対して抗議行動を行なっていた農民たちのグループに「ピースサイン」を出そうとして、結果的に侮蔑のVサインを出してしまった。
スティーブ・マックイーンは、1971年のモータースポーツ映画『栄光のル・マン』の終幕の場面で、手の甲を外側に向けたイギリス式のVサインを見せている。
このジェスチャーは、写真家ナイジェル・スノードン (Nigel Snowdon) によるスチル写真に残されており、マックイーンにとっても、この映画にとっても象徴的なイメージとなった。
『バフィー 〜恋する十字架〜』第4シーズンの「静けさ (Hush)」のエピソード(通算第66話)においては、ジェームズ・マースターズが演じるスパイクが、このジェスチャーをやっている。
この場面は第5シーズンのオープニングクレジットにも使われている。
この部分を検閲除去して放送したのは、この番組を夕方の早い時間に放送していたBBC Twoだけであった。
◆起源についての俗説
2007年に出版されたグラフィックノベル『Crécy』で、イングランド人の作家ウォーレン・エリス(英語版)は、「長弓の敬礼」が1346年のクレシーの戦いの際に、退却するフランス人騎士たちに対してイングランド軍の弓兵たちによって行なわれたという想像を盛り込んでいる。
この物語の中では、イングランド軍の中でも身分の低い長弓兵たちが、1066年のノルマン征服以来イングランド人たちを臣従させてきた、上流階級のフランス人たちに対する怒りと挑発の象徴としてこのサインを用いたとされている。
しかし、この作品はあくまでもフィクションである。
広く繰り返し語られている伝説によれば、2本指の敬礼ないしVサインは、百年戦争中の1415年に起きたアジンコートの戦いにおいて、イングランドとウェールズの長弓兵たちが行なったジェスチャーに由来するものとされている。
この説によると、フランス軍は、イングランドやウェールズの長弓兵たちを捕らえると、弓を引くために必要とされる指を切り落とす習慣があったとされ、このジェスチャーは、弓兵たちがまだ指があるぞと敵に誇示し、あるいは、駄洒落も込めて「pluck yew」(「イチイ(弓の材料)を引く」:yew を同音の you に置き換えると「お前からかっぱらってやる」の意)と挑発するものであったという。弓兵の話の起源は分かっていないが、「pluck yew」の駄洒落の方は1996年に書かれたある電子メールから広まったものと考えられている。
この弓兵を起源とする説は、信頼できるものではなく、フランス軍なり、他のいずれかのヨーロッパ大陸の勢力の軍勢が、捕虜とした弓兵の指を切り落としたという証拠は何も存在しておらず、当時の一般的な習慣として、生かして捕らえれば大金の身代金が得られた貴族たちとは異なり、戦場で捕らえられた身分の低い敵兵(弓兵であれ、歩兵や、ほとんど武装していない砲兵であれ)は、捕虜としても身代金を得られる価値もなく、即決処刑(英語版)されるのが普通であった。
伝えられる話の内容にもかかわらず、イングランドにおける侮辱としてのVサインの使用について、曖昧でない証拠といえる最古のものは、ロザラムのパークゲイト鉄工所 (Parkgate ironworks) の前で、撮影されるのは嫌だという意思表示でこのジェスチャーを行なった労働者の姿が映像に残された、1901年までしか遡れない。
1950年代に子どもたちへの聞き取り調査を行ったピーター・オーピーは、著書『The Lore and Language of Schoolchildren』の中で、子どもたちの遊び場における侮辱のジェスチャーとしては、より古くからあった手を開いて親指を自分の鼻につける仕草 (cock-a-snook) が廃れ、Vサインに置き換わったのだ、と述べている。
1975年から1977年にかけて、デズモンド・モリスら人類学者たちのグループが、ヨーロッパにおける様々なジェスチャーの歴史と普及の広がりを研究し、乱暴な含意をもつVサインが、基本的にはイギリス諸島の外では知られていないことを明らかにした。
1979年に出版された『Gestures: Their Origins and Distribution』(日本語版: 多田道太郎・奥野卓司 訳 (『ジェスチュア―しぐさの西洋文化』)において、モリスはこのサインの起源として様々な可能性を議論したが、確定的な結論に至ることはできなかった。
〔ウィキペディアより引用〕
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