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雑談ネタにもならない雑学 ♯04ー③

2023-08-22 21:00:00 | 日記

 平和って何?③

 ▼ピースマーク

 今日知られているピースマーク(ピースシンボル)は、1958年にジェラルド・ホルトムによって、イギリスの平和運動の最前線にいたグループである核軍縮キャンペーン(CND)のロゴとしてデザインされ、アメリカなどでの反戦運動やカウンターカルチャーの活動家により採用された。
 このシンボルは、手旗信号の"N"と"D"を重ね合わせたもので、「核軍縮」(Nuclear Disarmament)を意味すると同時に、ゴヤの1814年の作品『マドリード、1808年5月3日』(別名『プリンシペ・ピオの丘での虐殺』)において銃殺隊に対峙する反乱者を表しているとされている。


 このマークは、Unicodeのその他の記号ブロックにU+262E ☮ peace symbolとして収録されている。
 平和運動や反戦運動のシンボルとしても世界中で使われているマークである。
 円の中に鳥の足跡を逆さまにしたような形をしている。
 国際的には「ピースシンボル」や「ピースサイン」として知られる。

 1958年にイギリスの反核運動「核軍縮キャンペーン」(CND)で使用された、核による消滅の脅威を表すシンボルが起源となっている。
 1960年代のアメリカの反戦運動で広く採用され、一般的に世界平和を表すものとして再解釈された。
 しかし、1980年代になっても、原子力発電に反対する活動家の間では、本来の反核の意味で使われていた。

 《歴史》

 ▼起源

 このマークは、芸術家・デザイナーのジェラルド・ホルトム(1914年-1985年)がデザインしたものである。
 ホルトムは、1958年2月21日に直接行動委員会(DAC)に対してこのマークを提出し、同年4月4日に行われるロンドンのトラファルガー広場からバークシャー州オルダーマストンの核兵器研究機関までのデモ行進のシンボルとして即採用された。
 ホルトムのデザインは、エリック・オースティン(1922〜1999)がセラミック製のラペルバッジに採用した。
 オリジナルのデザインは、イギリス・ブラッドフォードの平和博物館にある。
 このマークは、手旗信号の"N"と"D"を重ね合わせたもので、「核軍縮」(Nuclear Disarmament)を意味する。
 これは、1958年4月5日付の『マンチェスター・ガーディアン』紙に掲載されている。
 このほか、ホルトムは、ゴヤの1814年の作品『マドリード、1808年5月3日』(別名『プリンシペ・ピオの丘での虐殺』)を参照していると語っている。

 ホルトムはゴヤの『マドリード、1808年5月3日』を参考にしたと言っているが、この絵に描かれた農民は、腕を下にではなく上に伸ばしている。
 ホルトムの代弁者だったケン・コルスバンによると、ホルトムは平和の象徴を絶望の象徴として描いたことを後悔するようになり、平和は祝福すべきものだと感じて、このマークを反転させたいと考えたという。
 エリック・オースティンは、「『絶望のジェスチャー』のモチーフが、長い間『人間の死』を連想させ、円が『生まれてこない子供』を連想させることを発見した」と言う。
 このマークはDACを支援した核軍縮キャンペーン(CND)がロゴとして使用し、CNDが配布したこのマークのバッジを身につけることは、イギリスの核軍縮を求めるキャンペーンへの支持の証となった。
 CNDの初期の歴史についての説明では、このイメージを「(オルダーマストンの)行進、そして後にはキャンペーン全体を結びつける視覚的な接着剤...おそらく世俗的な目的のためにデザインされた、最も強力で記憶に残り、適応性のあるイメージ」と表現している。
 なお、平和を象徴するハトの足跡のデザインとされることがあるが、これは事実ではない。

 ▼国際的な受容

 このマークは、著作権や商標などの制限を受けていないため、CNDを超えて広がり、より広範な軍縮運動や反戦運動にも採用された。
 1958年、平和活動家のアルバート・ビグロー(英語版)がピースマークの旗をつけた小舟を核実験の近くまで航行させたことで、このマークはアメリカで広く知られるようになった。
 1960年から1964年にかけて、アメリカ各地の大学のキャンパスで何千個ものピースマークのバッジが頒布された。
 1968年までに、このマークは一般的な平和の象徴として採用されており、特にヒッピー運動やベトナム戦争への反戦運動と関連していた。
 1970年、2つのアメリカの民間企業が、ピースマークを商標として登録しようとした。
 特許庁長官のウィリアム・E・スカイラー・ジュニアは、このマークは「特許庁による登録の対象となる商標として適切に機能しない」と述べて申請を却下した。
 1973年、南アフリカ政府はアパルトヘイトに反対する人々がこのマークを使用することを禁止しようとした。

 ▼虹色の旗(平和の旗)

 国際的に、虹色に「平和」を意味する単語を書いた旗は平和の旗とみなされている。
 この旗は、イタリアの平和主義者で社会哲学者のアルド・カピチニが1961年にペルージャからアッシジへの平和行進を行った際に初めて使用された。
 イギリスの平和行進で使われていた平和旗からヒントを得たもので、ペルージャの女性たちに急遽、色のついた細長い布を縫い合わせてもらった。
 この行進は、1961年以降何度も行われ、最近では2010年に行われた。
 オリジナルの旗は、カピチニの協力者であるLanfranco Mencaroniがトーディ近郊のCollevalenzaで保管している。
 この旗は虹色の7本のストライプで、中央に"Peace"の文字が入っているのが一般的である。


 この旗のデザインについては、次のように説明されている。

 大洪水の記述において、神は二度と大洪水を起こさないことを約束し、その契約の証として、空に虹をかけた。
 虹は、地と空、ひいては全ての人間の間の平和の象徴となった。

 旗の色は通常、上から紫、藍、青、緑、黄、橙、赤となっているが、青の下に紫のストライプが入っているもの、上に白のストライプが入っているものもある。
 カピチニが製作した最初の平和の旗では、赤、橙、白、緑、紫、藍、ラベンダーとなっている。

 ▼歴史

 イタリア

 ◆冷戦期

 最初の平和の旗は、1961年9月24日の第1回「ペルージャ-アッシジ平和行進」(it:Marcia per la Pace Perugia-Assisi) に現れた。
 この行動は、哲学者で非暴力主義の平和運動家であったアルド・カピチニらが呼びかけたものだった。
 イギリスの核軍縮キャンペーン(CND) は1958年から、オルダーマストンの原子兵器研究所(AWRE) での実験に反対する「ロンドン-オルダーマストン平和行進」を始めていた。
 カピチニは、その行進に登場したCND の旗に触発され、ペルージャの友人と共にさまざまな色の帯を縫い合わせた旗を作り、1961年のイタリアでの行動に持参したのだった。
 現在この旗は、アルド・カピチニの友人で彼と行動をともにした Lanfranco Mencaroni によって、ペルージャ県トーディのコレヴァレンツァに保存されている。

 ◆イラク戦争開始前後

 2002年9月、Emergency、Libera、Rete di Lilliput、Tavola della Pace の4団体が呼びかけて、イタリア政府のイラク戦争参戦を阻止するために「イタリアは戦争に参加するな」 (Fuori l'Italia dalla guerra) キャンペーンを開始した (数百団体が賛同)。
 このキャンペーンの一環として、「全てのバルコニーに平和を! - 街を平和で染めよう」 (Pace da tutti i balconi! - Dipingiamo di PACE le città) キャンペーンを行い、生活協同組合や労働団体の支援も得て、平和の旗を全国の都市で配布した。

 たくさんの家でバルコニーや窓に平和の旗が掲げられた。平和の旗による反戦の意思表示は広範なひろがりを見せ、ホテル、教会、市庁舎などの公共施設でも掲げられるようになった。
 2003年3月末までにイタリア全土で250万枚以上が配布されたとされる。
 2002年11月フィレンツェでの世界社会フォーラムや、2003年2月のローマ (参加者300万人) 、2003年3月のミラノ (同70万人) をはじめ、イタリア各地の反戦デモンストレーションで、平和の旗が用いられた。

 ◆ヨーロッパ

 スイスのイタリア語圏では早くから普及していたが、2003年2月、軍隊なきスイスのためのグループ (GSoA/GSsA/GSsE) が組織的にスイスへの輸入と頒布をはじめ、ドイツ語圏やフランス語圏でも広まった (同年4月末までに60,000枚以上を扱った)。
 また、ドイツやオーストリアでも他のグループが活動し、ドイツ国内では少なくとも50,000枚が頒布された。
 このころから、ドイツ語、ヘブライ語、アラビア語の平和の旗も制作されはじめる。
 なお、特にヨーロッパでは、過去のユダヤ人迫害への反省と現在のパレスチナ問題との両方への問題意識から、ヘブライ語とアラビア語の旗はしばしば並列した形で用いられる(例)。

 ◆日本

 「すべてのバルコニーに平和を!」キャンペーン以降、現地を旅行した個人が持ち帰ったり、現地の知人から譲り受けたりすることで、日本でも認知されるようになった。
 イタリアに本拠を置くベネトンが、このころ世界各地の拠点に平和の旗を配布したため、ベネトン・ジャパン社でも店内ディスプレイに使用する支店があった。
 個人輸入でイタリアや隣国スイスからまとまった数を入手して配布する者や、自作する者も現れた。
 2004年1月に有志によるぴーすばたプロジェクト(2004年夏にぴーすぐっづプロジェクトに発展)が活動を始め、日本での工業的な量産と頒布を行った。
 2004年3月までに日本全国の少なくとも37都道府県67市町村と一部海外に400枚を超える平和の旗を頒布した。
 後身の「ぴーすぐっづプロジェクト」が2006年9月に「冬眠」を宣言して活動を停止するまで、「PEACE」の旗約1600枚、「سلام」の旗約300枚などを有償頒布した。
 生活協同組合コープかごしまは、「PEACE」の文字をあしらった「平和の虹の旗」を製造し、2004年3月から組合員に供給した。
 ほかにも、多くの団体や個人が平和の旗や、それに意匠を借りたステッカー、シール、バッジ、絵はがき、画像データなどを制作している。
 現在、平和の旗は、必ずしも組織に属さず特定の思想的背景にも依らない市民が、個人として平和への意思を表示し、行動を起こす際のシンボルとして、日本ではある程度定着している。

 ▼Vサイン(ピースサイン)

 Vサイン
(英語: V sign、victory hand)

 人差し指と中指を、指先を離すようにして伸ばし、他の指は折ったままにする手のジェスチャー。
 文化的文脈やその形をとる手の提示の仕方などによって、様々な意味をもっている。
 特に、第二次世界大戦中の連合軍側の陣営においては、「勝利 (victory)」を意味する「V」の字を象った仕草として広く用いられた。
 イギリスや、それと文化的なつながりの深い地域の人々の間では、手のひらを自分の方に向ける形でこのサインを示し、相手への敵対、挑発のジェスチャーとする。
 また、多くの人々は、単に数字の「2」を意味してこのサインを用いる。
 1960年代以降、Vサインはカウンターカルチャー運動の中に広まり、通常は手のひらを相手側に向ける形で、ピースサインとしても用いられるようになった。

 《使い方》

 Vサインの意味合いは、ある程度までは、手がどのような位置で提示されるがによって異なってくる。

 ・手のひらがサインをする者自身に向いている場合、すなわち、手の甲が相手に向けられる場合は、次のいずれかを意味する。
 侮蔑として。
 この使い方は、おおむねオーストラリア、アイルランド、ニュージーランド、南アフリカ共和国、イギリスなどに限定されている。
 アメリカ手話における、数字の「2」。

 手の甲がサインをする者自身に向いている場合、すなわち、手のひらが相手に向けられる場合は、次のいずれかを意味する。
 数字の「2」。
 非言語コミュニケーションにおける量の表現として。
 特に戦時下や、何らかの競争における「勝利 (victory)」。
 これは、1941年1月にベルギーの政治家ヴィクトル・ド・ラブレー(フランス語版)が、ベルギー人たちに統一のシンボルとしてこのサインを用いるよう呼びかけたことが、普及の最初の契機となった。
 当初はもっぱらベルギー人たちの間で用いられていたが、程なくして他の連合軍側の兵士たちもこれを真似るようになった。
 時には、両手にこのサインを作り、それを高々と挙げることもあり、アメリカ合衆国大統領であったドワイト・D・アイゼンハワーや、それを真似たリチャード・ニクソンが、この仕草をしばしばしてみせた。
 「平和 (peace)」ないし「友人/味方 (friend)」。世界各地における平和運動やカウンターカルチャー運動のグループなどが用いている。
 1960年代にアメリカ合衆国における平和運動から広まったもの。

 二指の敬礼 - ポーランドでは、一定の条件の下で、右手の人差し指と中指を揃えて伸ばす敬礼をする。
 また、ボーイスカウトの幼年組織であるカブスカウトでは、右手の人差し指と中指の先を広げて伸ばす敬礼をする。
 アメリカ手話における、文字の「V」。

 ・動きを交えて用いる場合、次のいずれかを意味する可能性がある。
 エアクオート – 両手を使い指を曲げ、手のひらを相手側に向ける。
 この手の形は、様々な手話において多様な意味をもっており、アメリカ手話などでは手のひらを下に向けて「look (見る/凝視する)」、上に向けて「see (見える/了解する)」といった意味になる。
 人差し指と中指が、手話話者自身の目を指した後で誰かを指差す場合は、「私はあなたを見ている/注視している (I am watching you.)」という意味になる。
 序数の「2番目」を意味するアメリカ手話は、手のひらを前に出してVサインを作ってから手をひねって返す。

 ▼侮蔑の表現として

 このジェスチャーを、手のひらを自分の側に向けて侮蔑の表現として行なうことは、しばしば(中指だけを立てて手の甲を見せる)ファックサインに相当するものと見なされる。
 この手の形は英語では、
 "two-fingered salute"
 (二指の敬礼)、
 "The Longbowman Salute"
 (長弓の敬礼)、
 "the two"、"The Rods"
 (竿)、"The Agincourt Salute"
 (アジャンクールの敬礼)
 などと称され、さらに、スコットランド西部では
 "The Tongs"(トング)、
 オーストラリアでは
  "the forks"(フォークス)
 などとも呼ばれ、手首や肘からVサインを突き上げる形で示されるのが一般的である。
 手のひらを自分の側に向けるVサインは、イングランドでは久しく侮蔑のジェスチャーであり、やがてイギリスの他の地域にも普及したが、このような意味でのVサインの使用は、おおむねイギリス、アイルランド、ニュージーランド、オーストラリアの範囲に限られている。

 このようなVサインは、特に権力に対する挑発 (defiance) や、
 軽蔑 (contempt)、嘲笑 (derision) を表現する。
 このジェスチャーはアメリカ合衆国では用いられず、オーストラリアやニュージーランドでも既に古風な表現と見なされるようになっており、代わりにファックサインが用いられることが多い。
 侮蔑の表現としての、手のひらを自分の側に向けるVサインの例として、1990年11月1日付のイギリスのタブロイド紙『ザ・サン』は、一面に国旗ユニオンフラッグの袖口から突き上げられたVサインの図を掲げ、その横に「お前のケツにぶち込め、ドロール (Up Yours, Delors)」と見出しを打った。
 『ザ・サン』は、ヨーロッパ中央政府の構想を提唱していた当時の欧州共同体 (EC) 欧州委員会委員長ジャック・ドロールに対して二本指を掲げるよう、読者に呼びかけたのである。この記事はレイシズム(人種主義)だとして批判を集めたが、当時の新聞評議会(英語版)は、『ザ・サン』紙の編集長が、英国の利益のためには卑語を乱用することも正当であると表明したのを受け、苦情を採り上げなかった。

 イギリスでは一時期、「ハーヴェイ(・スミス)(a Harvey (Smith))」という呼称が、こうした侮蔑の表現としてのVサインを意味して用いられたが、これはフランスでは「カンブロンヌの言葉 (Le mot de Cambronne)」、カナダでは「トルドー敬礼 (Trudeau salute)」が、一本指を立てる同様の仕草を意味したことがあったのと同様の現象であった。この呼称は、障害飛越競技の選手であったハーヴェイ・スミス(英語版)が、1971年にヒクステッド全英飛越コース(英語版)において開催されたイギリス飛越競技ダービー (the British Show Jumping Derby) で優勝した際、テレビに映る形でVサインを行なったとして失格とされた(2日後に失格は取り消され、スミスの優勝が再確認された)ことが由来となっている。
 ハーヴェイ・スミスは、同様に公の注目を集めることになった他の人々と同じように、勝利のサイン (a Victory sign) をしたのだと主張した。
 また、時には外国から訪れた人々が「二指の敬礼 (two-fingered salute)」を、それが地元民にとっては不愉快なものであることを知らずにしてしまうこともあり、例えばアメリカ合衆国大統領だったジョージ・H・W・ブッシュは、1992年にオーストラリアを訪問した際、キャンベラで、アメリカ合衆国の農業助成金に対して抗議行動を行なっていた農民たちのグループに「ピースサイン」を出そうとして、結果的に侮蔑のVサインを出してしまった。

 スティーブ・マックイーンは、1971年のモータースポーツ映画『栄光のル・マン』の終幕の場面で、手の甲を外側に向けたイギリス式のVサインを見せている。
 このジェスチャーは、写真家ナイジェル・スノードン (Nigel Snowdon) によるスチル写真に残されており、マックイーンにとっても、この映画にとっても象徴的なイメージとなった。
 『バフィー 〜恋する十字架〜』第4シーズンの「静けさ (Hush)」のエピソード(通算第66話)においては、ジェームズ・マースターズが演じるスパイクが、このジェスチャーをやっている。
 この場面は第5シーズンのオープニングクレジットにも使われている。
 この部分を検閲除去して放送したのは、この番組を夕方の早い時間に放送していたBBC Twoだけであった。

 ◆起源についての俗説

 2007年に出版されたグラフィックノベル『Crécy』で、イングランド人の作家ウォーレン・エリス(英語版)は、「長弓の敬礼」が1346年のクレシーの戦いの際に、退却するフランス人騎士たちに対してイングランド軍の弓兵たちによって行なわれたという想像を盛り込んでいる。
 この物語の中では、イングランド軍の中でも身分の低い長弓兵たちが、1066年のノルマン征服以来イングランド人たちを臣従させてきた、上流階級のフランス人たちに対する怒りと挑発の象徴としてこのサインを用いたとされている。
 しかし、この作品はあくまでもフィクションである。
 広く繰り返し語られている伝説によれば、2本指の敬礼ないしVサインは、百年戦争中の1415年に起きたアジンコートの戦いにおいて、イングランドとウェールズの長弓兵たちが行なったジェスチャーに由来するものとされている。
 この説によると、フランス軍は、イングランドやウェールズの長弓兵たちを捕らえると、弓を引くために必要とされる指を切り落とす習慣があったとされ、このジェスチャーは、弓兵たちがまだ指があるぞと敵に誇示し、あるいは、駄洒落も込めて「pluck yew」(「イチイ(弓の材料)を引く」:yew を同音の you に置き換えると「お前からかっぱらってやる」の意)と挑発するものであったという。弓兵の話の起源は分かっていないが、「pluck yew」の駄洒落の方は1996年に書かれたある電子メールから広まったものと考えられている。

 この弓兵を起源とする説は、信頼できるものではなく、フランス軍なり、他のいずれかのヨーロッパ大陸の勢力の軍勢が、捕虜とした弓兵の指を切り落としたという証拠は何も存在しておらず、当時の一般的な習慣として、生かして捕らえれば大金の身代金が得られた貴族たちとは異なり、戦場で捕らえられた身分の低い敵兵(弓兵であれ、歩兵や、ほとんど武装していない砲兵であれ)は、捕虜としても身代金を得られる価値もなく、即決処刑(英語版)されるのが普通であった。
 伝えられる話の内容にもかかわらず、イングランドにおける侮辱としてのVサインの使用について、曖昧でない証拠といえる最古のものは、ロザラムのパークゲイト鉄工所 (Parkgate ironworks) の前で、撮影されるのは嫌だという意思表示でこのジェスチャーを行なった労働者の姿が映像に残された、1901年までしか遡れない。
 1950年代に子どもたちへの聞き取り調査を行ったピーター・オーピーは、著書『The Lore and Language of Schoolchildren』の中で、子どもたちの遊び場における侮辱のジェスチャーとしては、より古くからあった手を開いて親指を自分の鼻につける仕草 (cock-a-snook) が廃れ、Vサインに置き換わったのだ、と述べている。

 1975年から1977年にかけて、デズモンド・モリスら人類学者たちのグループが、ヨーロッパにおける様々なジェスチャーの歴史と普及の広がりを研究し、乱暴な含意をもつVサインが、基本的にはイギリス諸島の外では知られていないことを明らかにした。
 1979年に出版された『Gestures: Their Origins and Distribution』(日本語版: 多田道太郎・奥野卓司 訳 (『ジェスチュア―しぐさの西洋文化』)において、モリスはこのサインの起源として様々な可能性を議論したが、確定的な結論に至ることはできなかった。

   〔ウィキペディアより引用〕



雑談ネタにもならない雑学 ♯04ー④

2023-08-22 21:00:00 | 日記

 ■平和って何?④

 ▼折鶴

 折鶴(おりづる、折り鶴)は、正方形の紙を折って鶴に似せた形に作るもので、折り紙の一種。
 最もポピュラーな作品のひとつであり、折り方も簡単なため多くの世代に知られている。
 初心者向けの折り紙本の多くには作り方が掲載されている。

 1枚の紙に切り込みを入れて、多数の折鶴を完全に切り離さずにくっついた状態で折る「連鶴」や、単体の折鶴を多数折って繋げていく「千羽鶴」などもある。
 他に尻尾を引っ張ることで羽を動かすものもある。
 また、折り終えた際に鶴の下部に息を吹き込むことで、胴体部分を膨らませることができる。
 広島の七夕や仙台七夕などでは、七夕飾りの一つとして折り鶴を用いる。

 《歴史》

 折鶴が文献に現れるのは江戸時代であり、井原西鶴の1682年に出版された『好色一代男』の中で、主人公の世之介が「比翼の鳥のかたち」をした「をり居(おりすえ)」をつくるという記述がある。
 ただし『好色一代男』では図や絵がなく文章のみで書かれているため、「比翼の鳥」の折り紙がどのようなものなのかは定かではない。
 はっきりと折鶴が描かれるのは1700年に出版された『當流七寶 常盤ひいなかた』である。
 そのひいなかたの中の121番「落葉に折鶴」の項に、着物の模様として折鶴が描かれている。
 その後、折鶴を発展させた連鶴が誕生した。明確な形で連鶴が記載されているのは1797年に京都で出版された『秘伝千羽鶴折形』である。
 しかし1800年前後の複数の錦絵(浮世絵)には連鶴と思しき連なった鶴が描かれており、『秘伝千羽鶴折形』以前から連鶴が存在していたと考えられている。
 具体的には、少なくとも18世紀後半には江戸で連鶴が折られていたと考えられる。

 『秘伝千羽鶴折形』はその後その存在が忘れ去られていたが、1957年に吉澤章が国際折紙研究会の機関紙「O・T通信」で発表し、更に同年の『週刊朝日』の書評欄で紹介されたことにより、一般の人にも広く知られることとなった。
 折り鶴を1000羽作り、糸で束ねたものを千羽鶴という。
 現在折り鶴や特にこの千羽鶴を、幸福祈願、災害慰安、病気快癒・長寿などの願いをこめて、寺社に贈ったり、被災者や入院患者へ贈ったりする習慣がある。  
 この理由の一つには「鶴は千年、亀は万年」という慣用句があることがあげられる。

 ▼平和の祈り

 また広島市への原子爆弾投下により被爆し、後に白血病で死亡した佐々木禎子が、生前に病気の恢復を祈って折り鶴を折り続けたというエピソードも広く知られている。
 佐々木禎子のエピソードや千羽鶴・折り鶴はカルル・ブルックナーの"Sadako will leben"(サダコは生きる)やエレノア・コアの"Sadako and the Thousand Paper Cranes"(サダコと千羽鶴)によって広く英語圏にも知られることとなった。
 そのため千羽鶴は世界平和の象徴としてとらえられ、広島平和記念公園などに供えられている。
 また広島平和記念資料館には2016年に同地を訪問したアメリカのバラク・オバマ大統領が自ら折って持参した折り鶴がメッセージとともに展示されている。
 2017年には同大統領から長崎市にも折り鶴が贈られた。
 長崎の爆心地を中心に作られた平和公園には「折鶴の塔」がある。

 ▼千羽鶴

 千羽鶴(せんばづる)は、多数の鶴の描かれた模様や絵画、および折り紙である折り鶴を1000羽作り、糸などで綴じて束ねたものを指す。
 瑞鳥である鶴が千羽(多数)いることから更なる瑞兆を表す。
 千羽は多数の意味で、1000羽ちょうどでなくてもよい。
 かつては社寺に奉納されていたが、現在は祝福、幸福祈願、災害などへの慰安、病気平癒祈願、見舞いなどを目的に作成や贈呈が行われている。

 広島市への原子爆弾投下で被爆し、原爆症で死亡した佐々木禎子が自らの延命を祈って作ったことから、平和の象徴にもなっている。

 《歴史》

 千羽鶴の起源ははっきりとは分かっていない。
 かつては、1797年の魯縞庵義道の『秘傳千羽鶴折形』のように連鶴を「千羽鶴」と呼称していた。
 『秘傳千羽鶴折形』の序文では、鶴と富、折り鶴と長寿祈願を結びつけている。
 小川未明の作品「千羽鶴」(1916年)には、小さな紙で作った折り鶴を糸でつなぐという記述があり、少なくともこの時代には現代のような形の千羽鶴が存在していたことがわかる。
 戦前には、糸に通した折り鶴を「千羽鶴」と呼称し、女児の技芸上達祈願として淡島・鬼子母神などの寺社にささげていた。

 ◆平和の象徴に

 折り鶴や千羽鶴が平和の象徴となったのは、原爆の子の像のモデルになった原爆被爆者の少女、佐々木禎子が千羽鶴を折ったことによる。
 1955年2月に亜急性リンパ性白血病と診断され、広島赤十字病院に入院していた佐々木禎子は、1955年5月に岐阜県または愛知県の人からもらった慰問の手紙に、5cmほどのセロハンの折り鶴がはさんであるのを見て、折り鶴を千羽折れば病気が治ると信じて鶴を折り始めたようである。
 1995年の中国新聞によれば、愛知淑徳高青少年赤十字団員が原爆患者に贈った4千羽の折り鶴のうち、2千羽が広島赤十字病院に贈られている。
 佐々木禎子は、自分で折り鶴を折り上げることにこだわっていたようである。 
 佐々木禎子の折った折り鶴の数については諸説あるが、実兄の佐々木雅弘によれば、最初の千羽は自らの病気治癒祈願として、次の千羽は父の借金のことを祈っていたという。
 佐々木禎子は1955年10月に亡くなるが、その思いは同級生や他の被爆者により引き継がれ、原爆の犠牲になったすべての子供たちへの慰霊として1958年5月に原爆の子の像が平和記念公園に建てられる。
 この原爆の子の像の塔の鐘には、湯川秀樹により「千羽鶴」と彫られている。 
 この物語はフィクションも巻き込みながら海外へと紹介され、千羽鶴は単純な長寿祈願を超えて、「生きたい」という生存権利の主張という意味合いを持って世界に広がっていった。
 1999年と2000年の広島市のアンケートでは、佐々木禎子と千羽鶴について、日本以上に海外で知られているという結果が出ている。

 関連項目
      ー 秘傳千羽鶴折形 ー

 秘伝千羽鶴折形
 (ひでんせんばづるおりかた)
 (秘傳千羽鸖折形)

 1797年(寛政9年)に京都の吉野屋為八によって初版が発行された、連鶴49種を集めた書のことである。
 連鶴の作者は、伊勢国桑名の長円寺11世住職・義道一円(ぎどういちえん、1762年 - 1834年、漢詩を書く際の号は魯縞庵(ろこうあん))である。
 編著者は「東海道名所図会」などで知られる秋里籬島(あきさとりとう)、絵師は竹原春泉斎。木版一色刷りで、現代の文庫本とほぼ同サイズの和綴じ本である。
 これは、現存する世界で最も古い遊戯折り紙の本と言われている。
 また、この折り方は「桑名の千羽鶴」として桑名市の無形文化財に指定されている。

 《概要》

 千羽鶴折形には、全部で49種の連鶴の作り方が掲載されている。
 更に原本の挿絵には50番目の作品(拾餌に似ている)と51番目の作品(釣りふねに似ている)が描かれている。
 それぞれの完成形には、和名の銘と、その銘にちなんだ恋に関する狂歌が添えられている。
 作品の作り方として紙にどのような切り込みを入れるかどうかは開いた紙に実線を入れることで示されている。
 ただし、唯一「百鶴」では紙を三角に八折りし、一度に切り込みを入れる方法が指示されている。
 これは本が書かれた江戸時代に流行していた紋切り遊びの手法である。
 千羽鶴折形は近年までその存在が忘れ去られていたが、1957年9月に吉澤章が国際折紙研究会の機関紙「O・T通信」で発表し、更に同年の『週刊朝日』の書評欄で紹介されたことにより、一般の人にも広く知られることとなった。
 また中西康大が魯縞庵が桑名に実在した人物であることや、編著者が秋里籬島であることをつきとめた。
 編著者の秋里籬島はこの本の製作にあたり作者を「露菊」として記載し、秋里籬島の名は自身の判子「籬島」を押印することによってのみ使用した。
 このため増版時には印が押されなくなり、編著者が秋里籬島であることがわからなくなってしまった。

 この本は魯縞庵がまとめた49種の連鶴を、秋里籬島が和名をつけて狂歌を添え、順序や書籍のレイアウトにも工夫を施して製作された。
 魯縞庵はこの本以前に100種の千羽鶴に漢名をつけ『素雲鶴』(そうんかく)という本にまとめていた。
 『素雲鶴』は現存していないと考えられていたが、2014年11月に長円寺本堂の書庫から『新撰素雲鶴』と書かれた冊子が見つかり、その中に挟まれていた連鶴の展開図が描かれた縦28cm、横39cmの美濃紙が『素雲鶴』の一部とみられている。
 『素雲鶴』と考えられるものには30種、『新撰素雲鶴』には158種類が収録されている。
 本の題名『千羽鶴折形』のうち、「千羽鶴」という単語は現代における連鶴を意味していた。
 また千羽鶴折形は明確な形で連鶴が記載された最古の本であるが、連鶴はこの本が出版される以前から存在したと考えられている。

 関連項目 ー 佐々木禎子 ー

 佐々木 禎子、(ささき さだこ)
 (1943年〈昭和18年〉1月7日〜1955年〈昭和30年〉10月25日)

 太平洋戦争末期の広島市への原子爆弾投下による被爆者の一人。
 12歳の若さで白血病により亡くなり、広島平和記念公園にある『原爆の子の像』のモデルになった。
 原爆を投下したアメリカ合衆国のシアトルの平和公園にも銅像がある。
 2004年7月25日、国立広島原爆死没者追悼平和祈念館に遺影が登録された。

 このように彼女の死は日米で語り継がれているだけでなく、旧ソビエト連邦でも教科書に載るほど広く伝えられ、現在のロシア連邦でも千羽鶴を折るイベントが開かれるなどしているが、その意味合いは反核運動よりも、アメリカを非難して、それに対抗する核抑止力の必要性を訴える目的が濃厚であった。

 ▼生涯

 1943年1月7日、広島県広島市に生まれる。
 「禎子」という名前は、元気に育つようにという父母の願いをこめて、両親の店の客の姓名判断の先生に頼みつけてもらった。
 1945年8月6日、2歳のときに広島に投下された原爆によって、爆心地から約1.6km離れた楠木町(広島市西区)の自宅で被爆した。
 爆風により屋外まで飛ばされたものの、外傷は負わなかった。
 しかし母に背負われて避難する最中に、放射性降下物を含む「黒い雨」に打たれた。
 また祖母はその際に家に戻ったため亡くしている。
 ともに被爆した母親は体の不調を訴えたが、禎子は不調を訴えることなく元気に成長した。
 1954年8月の検査では異常はなかった。
 運動神経が抜群で足が速く、将来の夢は「中学校の体育の先生」になることであった。
 小学6年生の春の運動会で学級対抗リレーの選手の一人に選ばれたが6年竹組は最下位になった。
 が、その後もリレーの練習を続け秋の運動会では6年竹組は優勝した。
 その日付は1954年10月25日と記録されている。

 しかしその直後から体に異変がみられるようになる。
 同年11月下旬頃、軽い風邪をひき、首や耳の後ろにしこりができた。
 しこりは徐々に大きくなり、顔がおたふく風邪のように腫れる。
 正月明けに近所の病院で診察を受けるも、一向に腫れが引くことはなかった。
 さらに1月末には左足に紫色の斑点がみられるようになる。
 原因が解からぬまま1月18日、2月16日にABCC(原爆傷害調査委員会、現在の放射線影響研究所)で検査を受ける。
 2月18日、かかりつけの小児科医の畑川先生からABCCの検査結果をもとに父親に「病名は亜急性リンパ腺白血病で禎子さんはあと3ヶ月、長くても1年はもたんでしょう」と告げられる。
 2月21日、広島赤十字病院(現在の広島赤十字・原爆病院)に入院した。
 10月25日の朝に危篤となる。父親から食べたい物は何かと尋ねられた禎子は「お茶漬けを食べたい」と伝えた。家族が大急ぎで用意したお茶漬けをたくあんと共にふた口ほど食べ、「お父ちゃん、お母ちゃん、みんなありがとう。」と呟いた。
 これが最期の言葉となる。
 1955年10月25日午前9時57分、
 担当の沼田医師が臨終を家族に告げた。
 享年12歳。

 ▼折り鶴

 1955年8月に名古屋の高校生からお見舞いとして折り鶴が送られ、折り始める。
 禎子だけではなく多くの入院患者が折り始めた。
 病院では折り紙で千羽鶴を折れば元気になると信じて鶴を折りつづけた。
 8月の下旬に折った鶴は1000羽を超える。
 その時、同じ部屋に入院していた人は「もう1000羽折るわ」と聞いている。
 その後、折り鶴は小さい物になり、針を使って折るようになる。
 当時の折り紙には小さい大きさの物が無く、紙の質も悪かったので、小さい鶴は、折りやすい、小さな薬の包み紙のセロファンなどを用いて折る事が多かった。
 1000羽折ったものの病気が回復することはなく同年10月25日に亜急性リンパ性白血病で死亡した。
 死後、禎子が折った鶴は葬儀の時に2、3羽ずつ参列者に配られ、棺に入れて欲しいと呼びかけられ、そして遺品として配られた。
 禎子が生前、折った折り鶴の数は1300羽以上(広島平和記念資料館発表)とも、1500羽以上(「Hiroshima Starship」発表)とも言われ、甥でミュージシャンの佐々木祐滋は「2千以上のようです」と語っている。
 実際の数については遺族も数えておらず、不明である。
 また、三角に折られた折りかけの鶴が12羽有った。
 その後創られた、多くの創話により1000羽未満の話が広められ、折った数に関して多くの説が出ている。
 2013年10月、病床で作った折り鶴のうち1羽が母校の広島市立幟町小学校に寄贈されることとなった。
 また、2010年からは、日本への原子爆弾投下時のアメリカ合衆国大統領であったハリー・S・トルーマンの親族と佐々木禎子の親族の間で親交がもたれ、2015年11月にトルーマン元大統領の大統領図書館に折り鶴のうちの1羽が寄贈された。

 〔ウィキペディアより引用〕

 私は未だ“平和”という言葉の意味の周りを徘徊しています。
 私の脳裏には、ジョン・レノンの“IMAGINE”が流れていて...。
 何術もなく、途方に昏れてます。

 IMAGINE

 1971年にジョン・レノン
 (John Lennon)が作詞作曲した、平和を願う歌。

 imagine peace from every angle.
 あらゆる角度から平和を想像する。

■雑談ネタにもならない雑学 ♯04ー①

2023-08-22 21:00:00 | 日記

 平和って何?①

 差し当たり“経済平和研究所”を綴らせて貰います。

 経済平和研究所(IEP)は、
 Integrated ResearchLtdの創設者であるテクノロジー起業家のスティーブ・キレリアが、オーストラリアのシドニーに本社を置き、米国のニューヨーク、メキシコのメキシコシティ、オランダのハーグ、ベルギーのブリュッセルに支部を持つグローバルシンクタンクである。
 IEPは、平和を定義するための概念フレームワークを開発し、測定の指標を提供し、平和、ビジネス、繁栄の関係を明らかにし、平和を推進する文化的、経済的、政治的要因の理解を促進しようと努めている。
 IEPは、アスペン研究所、平和と安全のためのエコノミスト、国連グローバル・コンパクト、戦略国際問題研究所、クランフィールド大学と協力して活動している。
 また、経済協力開発機構、連邦事務局、 UNDP 、国連平和構築支援局とも協力している。
 スローガンの一つは「データと事実に基づく研究は、より平和な未来を創造するための第一歩であると私は信じている」である。

(経済平和研究所ロゴ)

 ペンシルベニア大学によって作成されたグローバルシンクタンクインデックスは、経済平和研究所を注目すべきシンクタンク、500万ドル未満の予算を持つトップ15のシンクタンクの1つ、および主要な機関としてリストした。

 2013年、スティーブキレリアによるIEPの設立は、マイヤーファミリーカンパニー、マイヤー財団、シドニーマイヤー基金、プロボノオーストラリア、スウィンバーン大学、フィランソロピーオーストラリアなどの連合によって、オーストラリアの歴史の中で最も影響力のある50の慈善寄付の1つとして認められた。
 2022年9月の「異文化間平和対話測定」が国連から出版され、経済平和研究所が単なる一非営利団体ではなく、国連と同レベルの世界で最も公に信頼される組織であることが示された。

 ▼「世界平和度指数」

「世界平和度指数(Global Peace Index)」とは、世界各国の平和度合いを数値化し、ランキング形式でまとめたもの。
 オーストラリアに本部をおく国際的なシンクタンク、経済平和研究所(IEP)が毎年発表を行っている。

 対象となるのは、世界人口の99.7%を占める世界163の国と地域だ。
 それぞれについて、以下の3つのカテゴリにわたる全23の項目について評価している。

 ・社会の安全・治安

 ・現在進行中の国内外の紛争

 ・軍事化

   〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 【2023年度】
 世界平和度指数ランキング

 1位 アイスランド 1.124

 2位 デンマーク 1.310  

 3位 アイルランド 1.312

 4位 ニュージーランド 1.313

 5位 オーストリア 1.316

 6位 シンガポール 1.332

 7位 ポルトガル 1.333

 8位 スロベニア 1.334

 9位 日本 1.336

 10位 スイス 1.339

  ⇅ ⇅ ⇅ (中略)

 153位 ウクライナ 2.971

 154位 スーダン 3.007

 155位 中央アフリカ 3.021

 156位 ソマリア 3.125

 157位 イラク 3.157

 158位 コンゴ(旧ザイール) 3.166

 159位 南スーダン 3.184

 160位 ロシア 3.275

 161位 シリア 3.356

 162位 イエメン 3.394

 163位 アフガニスタン 3.554 

 スコアは低いほど、平和度が高いことを示している。

   〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 ◆世界の平和度指数は悪化してるという...。

 2023年の世界平和度指数ランキングを振り返ると、前年に比べて平和度指数がよくなった国は84か国。
 悪くなった国は79か国だった。
 各国の平均スコアは0.42%上昇し、それだけ世界の平和度が悪化していることを表している。

 《平和》

 平和(英: peace)は、戦争や暴力で社会が乱れていない状態のこと。

 ▼概説

 戦争は人類と同じくらい古いように見えるが、平和は現代の発明である。

 国際関係において「平和」は戦争が発生していない状態を意味し、元来、戦争は宣戦布告に始まり平和(講和)条約をもって終了し、これにより平和が到来するとされてきた。
 国際連合憲章の下では、一般に、自衛権や安全保障理事会の決定に基づくもの以外の武力行使は禁止されており、伝統的な意味での戦争は認められなくなっている(戦争の違法化)。
 しかし、武力紛争は現実には発生しており、特に第二次世界大戦後の武力衝突では宣戦布告もなく休戦協定も頻繁に破られるなど旧来の戦争の定義をあてはめることが困難になり戦争と平和の時期的な区別も曖昧になっているという指摘がある。
 また、従来、国際平和秩序はあくまでも国家間での平和の維持を共通目標とするものにとどまり、各国の国内の人民の安全まで保障しようとするものではなかったため、各国の国内での人道的危機が国際社会から見放されてきたのではないかという問題も指摘されており、人間の安全保障と平和の両立が課題となっている。

 ▼思想

 戦争や暴力によって紛争を解決せず、暴力的手段を用いずに平和を達成しようとする思想のことを平和主義と呼ぶ。
 またこうした平和主義に基づき、世界各地で活発な平和運動が行われてきた。

 戦争や暴力に反対し、恒久的な平和を志向する思想的な立場。
 人権の経済的部分である経済的自由・国際化・世界経済などと併せて、平和主義は資本主義とも関連している。
 『世界大百科事典』では、現代世界における支配的な平和の一つは「パックス・エコノミカ」(経済による平和)だとされている。
 第二次世界大戦後に平和主義を提唱している憲法は日本国憲法、フランス共和国憲法、イタリア共和国憲法などがあり、これらに伴い平和的生存権も注目されるようになった(日本やフランスなど西側諸国の憲法は、資本主義憲法(市民憲法)に分類されている)。
 それらの事を平和主義
     (英 : Pacifism)という。

 平和主義(Pacifism)とは、戦争や暴力に反対し、恒久的な平和を志向する思想的な立場。
 人権の経済的部分である経済的自由権・国際化・世界経済などと併せて、平和主義は資本主義とも関連している。
 『世界大百科事典』では、現代世界における支配的な平和の一つは「パックス・エコノミカ」(経済による平和)だとされている。
 第二次世界大戦後に平和主義を提唱している憲法は日本国憲法、フランス共和国憲法、イタリア共和国憲法などがあり、これらに伴い平和的生存権も注目されるようになった(日本やフランスなど西側諸国の憲法は、資本主義憲法(市民憲法)に分類されている)。

 《概説》

 平和主義は人間の共同体について幅広い関心を持っており、特に規範的な立場から戦争の廃止や暴力の抑制を主張することに特徴付けられる。
 平和主義者は一般に非暴力を肯定し、殺生を行わず、敵に対しても愛情を持ち、平和を構築していくために努力することをめざす。
 平和主義者は良心的兵役拒否に見られるように、しばしば戦闘に参加することを拒否し、同時に間接的に軍事行動に寄与するような労務を拒否する。

 《類型》

 ▼絶対的平和主義

 絶対的平和主義者
 (英: absolute pacifist)

 一般的に、人命は貴重なので、自己防衛においてさえも、人間は決して殺されるべきではなく戦争は決して引き起こすべきではないことを信奉するような者として、BBCによって描かれる。暴力は、傷ついたり殺されたりしているある人を助ける手段としてありえないから、その信念は矛盾なく耐えるには難しいものとして描かれる。
 このような平和主義者が、暴力は非暴力よりもさらに望ましくない結果に導くことを論理的に主張することができることも、さらに主張される。

 ▼相対的平和主義

 正戦論を活用して、相対的平和主義(英: conditional pacifism)は、絶対的平和主義の立場から離れた立場の幅を提示する。
 防衛をすることをしてもよいが防衛主義 (英語: Defensivism )の不履行を支持することではないしまた干渉主義 (英語版)(英: interventionism)ではなおさらない、ひとつの相対的平和主義は通例の平和主義である。

 《歴史》

 平和主義の歴史的な展開を調べる上では、前近代の平和主義、近代の平和主義、そして現代の平和主義と便宜的に区分することができる。

 ▼前近代の平和主義

 素朴な平和主義の考え方は古より西欧だけでなく世界各地の文化として認められる。古代中国においては思想家墨子における非攻の考え方、墨守から非戦が挙げられる。
 日本でも最初の成文基本法である十七条憲法の中で「一に曰く、和(やわらぎ)を以(もち)て貴(たっと)しとし、忤(さか)ふること無きを宗とせよ。」と記述されている。

 ▼近代の平和主義

 宗教戦争や近代戦争を歴史的な背景としながらヨーロッパを中心に戦争を抜本的に廃止するための試みが重要な政治的課題として検討されるようになる。

 18世紀のドイツの哲学者イマヌエル・カントはこれらの議論に哲学的な基礎付けを行い、古典的な平和主義の思想を確立した。カントの『永遠平和のために』の中でいくつかの提案を行っているが、その中でも共和制に基づいた政治体制の確立、そして共和制に基づいた国家の連合と国際法の秩序が必須の条件であると論じている。自由で平等な市民により民主的に統治された国家は戦争を忌避し、また共和制に基づいた国家連合もまた同様に戦争を回避しようとするとカントは考えていた。 第一次世界大戦の直前、ノーマン・エンジェルなどの多くの論客が、経済的相互依存と交通・通信技術の進展によって大国間戦争は経済的に非効率なものとなり、したがって大国間戦争は過去のものとなった、と主張した[15]。しかし、ナショナリズムの高揚と帝国主義政策をバックとした第一次世界大戦が勃発すると平和主義者はより具体的な計画を必要とするようになった。 「ヒーロー#反資本主義との関連」も参照 近代では商人(ブルジョア)は平和に、英雄(ヒーロー)は戦いに結び付けられて対立的に表現されてきた[16]。マックス・ヴェーバー、ゲオルク・ジンメル、ヴェルナー・ゾンバルトなどの社会学者らは、戦争を精神的・宗教的に高く評価し、民営的・民主的なブルジョア社会(市民社会・資本主義社会)を非難した[16]。例えばゾンバルトは、ブルジョア社会は国家の「破滅への道」であり、戦争は古き「英雄精神」を開花させ国家を救う、と述べた[17]。

 ドイツ・オーストリア・ハンガリーなどでは、戦争を理由に知識人が自由主義を捨て、左翼・右翼の原理主義に走るようになり、政治的二極化が起きた[18]。このような人々は、資本主義(近代世界システム)を「改革」しようとはせず「超克」しようとした、とされている[18]。 『十四か条の平和原則』(1918年)を発表したアメリカ合衆国の大統領ウッドロウ・ウィルソンによって主導された国際連盟の発足は、カント的な平和主義の構想を具体化したものであった。この取組みは第二次世界大戦によって一時的に失敗するが、戦後に改めて創設された国際連合は普遍的な国際機構として世界の平和を維持する役割が期待された。

 ▼現代の平和主義

 戦後に発生した核保有国であるアメリカ合衆国とソビエトの冷戦は従来の平和主義が目指していた平和の実現にとって修正を必要とするものであった。イギリスの哲学者バートランド・ラッセルは『変革する世界のための新しい希望』の中で核時代において平和を実現するためには世界国家を創設する以外に方法がないことを主張している。またフランスの哲学者レイモン・アロンは核兵器によって戦争が勃発する蓋然性は低下したものの、平和を実現する可能性はなくなったと考えていた。しかし、一方で異なる見解が政治学者ジョン・ルイス・ギャディスによって示されている。彼は二つの超大国による対立は国際関係の安定化をもたらし、局地的な紛争があったものの全体的には長い平和が実現されたと認識していた。だが、冷戦が終結すると新しい平和の問題が浮上し、テロリズム、貧困、内戦という戦争に至らないまでも人道の危機に陥っているために平和な状態とは言えない中間的な状態が頻発するようになる。平和学の提唱者であるヨハン・ガルトゥングは行為主体が特定できないような間接的、潜在的な暴力を構造的暴力として概念化し、これを取り除いた状態を改めて平和の目標と定め直している。また冷戦の終結は国際連合の平和維持活動にも発展の可能性を与え、事務総長ブトロス・ブトロス=ガーリは『平和への課題』の中で平和執行という新しい活動を国連の平和活動として位置づけた。

 関連項目 ー 世界人権宣言 ー

 世界人権宣言(Universal Declaration of Human Rights、
 (略称:UDHR)

 1948年12月10日の第3回国際連合総会で採択された、すべての人民とすべての国が達成すべき基本的人権についての宣言である(国際連合総会決議217(III))。
 正式名称は、人権に関する世界宣言。

 世界人権宣言は、この宣言の後に国際連合で結ばれた人権規約の基礎となっており、世界の人権に関する規律の中でもっとも基本的な意義を有する。
 これを記念して、1950年の第5回総会において、毎年12月10日を「世界人権の日」とすることが決議された。
 日本は、この日に先立つ1週間を人権週間としている。

 《歴史》

 国際連合経済社会理事会の機能委員会として1946年に国際連合人権委員会が設置されると、同委員会は国際人権章典と呼ばれる単一規範の作成を目指し起草委員会を設置したが、権利の範囲や拘束力の有無を巡って意見が対立し作成のめどが立たなかったため、いったん基礎となる宣言を採択し、その後それを補強する複数の条約及び実施措置を採択することとなった。
 起草委員会は、オーストラリア、ベルギー、白ロシア、チリ、中華民国、エジプト、フランス、インド、イラン、レバノン、パナマ、フィリピン、イギリス、アメリカ、ソビエト連邦、ウルグアイ、およびユーゴスラビアからの代表によって構成されており、広範囲に国際社会を代表できるよう設計されていた。
 委員会の著名なメンバーは、委員長であるアメリカのエレノア・ルーズベルトをはじめ、ルネ・カサン(フランス)、ジョン・ピーターズ・ハンフリー(カナダ)、張彭春(中華民国)、チャールズ・マリク(レバノン)、ハンサ・ジブラージ・メフタ(インド)などだった。
 ハンフリーは、委員会のたたき台になった最初の草案を提供した。

 こうして世界人権宣言が起草され、1948年12月10日に賛成48票、反対0、棄権8(ソビエト連邦、ウクライナ、ベラルーシ、ユーゴスラビア、ポーランド、南アフリカ連邦、チェコスロバキア、サウジアラビア)で採択された[6][7]。また、イエメンとホンジュラスの代表は欠席した[8]。南アフリカが棄権したのは、彼らが維持しようとしていたアパルトヘイトのシステムが世界人権宣言の内容に明確に違反していたためだった[6]。サウジアラビアの棄権は、世界人権宣言のうちの2つの項目、すなわち16条の結婚の権利、および18条の宗教変更の自由に同意できなかったためだった[6]。また、この宣言はファシズムやナチズムに対する批判を十分に行っていないとの理由でソ連をはじめとする6共産国が棄権に回った[9]。エレノア・ルーズベルトは、ソ連圏の棄権の理由として13条の移動の自由の保障を挙げた[10]。

 以下の国々は、この案に賛成票を投じた。

 ・アフガニスタン ・アルゼンチン

 ・オーストラリア ・ベルギー

 ・ボリビア ・ブラジル ・ビルマ

 ・カナダ ・チリ ・中華民国

 ・コロンビア ・コスタリカ

 ・キューバ ・デンマーク

 ・ドミニカ共和国 ・エクアドル

 ・エジプト ・エルサルバドル

 ・エチオピア ・フランス ・ギリシア

 ・グアテマラ ・ハイチ

 ・アイスランド ・インド ・イラン

 ・イラク ・レバノン ・リベリア

 ・ルクセンブルク ・メキシコ

 ・オランダ ・ニュージーランド

 ・ニカラグア ・ノルウェー

 ・パキスタン ・パナマ ・パラグアイ 

 ・ペルー ・フィリピン ・シャム

 ・スウェーデン ・シリア ・トルコ

 ・イギリス ・アメリカ ・ウルグアイ

 ・ベネズエラ

 カナダのジョン・ピーターズ・ハンフリーが果たした中心的な役割にもかかわらず、カナダ政府は、最初の宣言の草案に棄権したものの、総会での最終案には賛成票を投じた。

   〔ウィキペディアより引用〕



雑談ネタにもならない雑学 ♯04ー②

2023-08-22 21:00:00 | 日記

 平和って何?②

 国際人権法

 国際人権法
 (英語: international human rights law)
 (フランス語: Droit international des droits de l'Homme)

 国際法の中の人権に関する分野。
 この法によって、いかなる国でも保護されるべき人権の種類・内容および、国際機関による人権保障実施が定められている。
 国際人権法に含まれているのは、国際人権章典(世界人権宣言・国際人権規約)と、人権条約(主に子どもの権利条約・女性差別撤廃条約・人種差別撤廃条約・拷問等禁止条約)と、それらを実施するための制度である。

 《概要》

 国際法によって個人の人権を保障する、国際法の一分野をいい、第二次世界大戦後に急速に発展してきた分野である。
 第二次世界大戦前は、人権は国内問題として、国内問題不干渉義務(国際連盟規約15条8項)の下、各国の専属的事項とされていた。
 しかし、第二次世界大戦の反省から、国際連合憲章において人権保護が規定され、戦後急速に国際平面における人権保護が発展しだした。
 その端緒は、1948年の国連総会において採択された世界人権宣言である。
 諸国の憲法で同宣言が言及されていることを根拠に、今日ではこれが慣習国際法の一部となっているとする見解もある。
 諸国の国内裁判所の判決では、日本においては1989年5月2日最高裁判決をはじめ同宣言の法的拘束力が否認されている。
 1980年6月30日米控訴裁第二巡回区判決(「フィラルティーガ事件」)では、世界人権宣言その他国際合意を基に証拠づけられ定義されている拷問から逃れる権利が慣習国際法になっていると判示された。(630 F.2d 876, 882.(2d Cir.1980)

 国際人権法は、二つに分類することができる。
 普遍的保障と地域的保障である。

 関連項目
      ー 鳩とオリーブの枝 ー

 ▼平和の象徴

 様々な文化や文脈の中で、様々な形の平和の象徴、
 平和のシンボル。
(英語: peace symbols)が用いられてきた。

 鳩とオリーブの枝は初期のキリスト教徒が象徴的に使用していたが、第二次世界大戦後にパブロ・ピカソが制作したリトグラフ『鳩』によって、世俗的な平和の象徴として広まった。

 国際的に「ピース・シンボル」や「ピース・サイン」として知られるピースマークは、1958年にイギリスの反核運動「核軍縮キャンペーン」(CND)で使用された、核による消滅の脅威を表すシンボルが起源となっている。
 1960年代のアメリカの反戦運動で広く採用され、一般的に世界平和を表すものとして再解釈された。
 しかし、1980年代になっても、原子力発電に反対する活動家の間では、本来の反核の意味で使われていた。
 ピースサイン(Vサイン)や平和の旗は、国際的な平和の象徴となった。

 オリーブや鳩は、平和の象徴とも言われ、その意味合いは世界共通。
 世界の平和を守る、国際連合の標章にもオリーブの枝が描かれています

   〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 オリーブと鳩は、聖書の一説である「ノアの箱舟」の話に登場します。

 《物語の要約》

 ノアは、アダムとイブの世代から数えて10代目の人間でした。
 人々はすでに堕落した生活を送っていたので、神は怒り、大洪水を起こして地上から人間をなくしてしまおうと考えます。
 そして神を敬うノアだけに、箱舟をつくって家族と地上のすべての生き物を1つがいずつ乗せるよう指示します。
 そのある日、ノアが大洪水から家族を守るため、方舟(はこぶね)を建設します。
 そして、神の言っていたとおり大雨が降り、やがてそれは大洪水へと発展していき、それによって人間のみならず、あらゆる生命がこの世から姿を消していきました。
 ノアはその方舟に、ノアの妻と3人の息子、それぞれの妻に加え、地球上にいた全ての動物を乗せて海に出て、皆と一緒に大洪水が収まるのを待ちました。
 地上の様子を調べるため、ノアはカラスと鳩を飛ばして、地上から水が引いた安全な場所があるかを確認させに行かせます。
 カラスは残念ながら帰ってきませんでしたが、なんと鳩はすぐ戻ってきたのです。
 鳩が飛び立ってすぐに舟に戻ってきたことから、ノアはまだ地上に安全な場所がないと判断します。
 その7日後に鳩を再び放つと、今度は鳩がオリーブの葉を口に咥えて戻ってきました。
 ノアは大洪水が終わったと判断します。
 それからさらに7日後に鳩を飛ばすと、鳩は戻ってきませんでした。
 ノアは地上が復活したことを知ります。
 つまり、世界に”平和”が訪れたのです。

 というお話。

  〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 ▼オリーブの枝

 ◆古典古代

 西洋文明において、平和の象徴としてオリーブの枝が使われるようになったのは、少なくとも紀元前5世紀のギリシャまで遡る。古代ギリシャでは、オリーブの枝は豊かさを表し、悪霊を追い払うと信じられており、ギリシャ神話の平和の女神エイレーネーの持ち物の1つであった。 
 ローマ帝国の硬貨にも、オリーブの枝を持った女神パークス(ギリシャ神話のエイレーネーに相当)が描かれている。
 古代ローマの詩人ウェルギリウス(紀元前70年 - 紀元前19年)は、「ふくよかなオリーブ」を女神パークスと結びつけ、『アエネーイス』の中でオリーブの枝を平和の象徴として用いている。

 ローマ人にとって、戦争と平和には密接な関係があり、戦争の神マールスは、マールス・パシファー(平和をもたらすマールス)という別の側面があり、後のローマ帝国のコインにはオリーブの枝を持ったマールスが描かれている。
 アッピアノスは、ヌマンティア戦争におけるローマの将軍スキピオ・アエミリアヌスの敵やカルタゴのハスドルバル・ボエタルクが、平和の象徴としてオリーブの枝を使用したことを記述している。

 ◆その後の表現

 17世紀の詩人たちは、オリーブの枝を平和と結びつけていた。
 1644年のチャールズ1世の金貨には、剣とオリーブの枝を持った君主が描かれている。
 18世紀を通じて、イギリスの硬貨には、槍とオリーブの枝を持ったブリタニアが描かれていた。
 グリニッジの旧王立海軍大学には、ジェームズ・ソーンヒルによる寓意的な絵画『暴政に勝利する平和と自由』(Peace and Liberty Triumphing Over Tyranny)が所蔵されている。
 ウィリアム3世とメアリー2世(イングランドを共同統治し、権利の章典を制定した)が天上に鎮座し、鳩と子羊を連れた平和が、ウィリアムにオリーブの枝を渡し、ウィリアムは絶対王政が支配するヨーロッパに自由の帽子を渡す。
 ウィリアムの下には、敗れたフランス王ルイ14世が描かれている。
 1775年1月、『ロンドン・マガジン』の表紙には、天から降りてきた平和の女神が、アメリカとブリタニアにオリーブの枝を授けるという版画が掲載された。
 同年7月、アメリカの大陸会議はイギリスとの本格的な戦争を回避するために、「オリーブの枝請願」を採択した。
 アメリカ合衆国の国章に描かれているオリーブの枝は平和を意味している。
 国章の原案をデザインした大陸会議書記のチャールズ・トムソンは、「オリーブの枝と矢は、議会に独占的に与えられている平和と戦争の権限を示している」と説明した。

 ◆現代の用法

 18世紀のイギリスやアメリカでは、鳩が持つオリーブの枝が平和のシンボルとして使われていた。
 1771年のノースカロライナ州の2ポンド紙幣には、「平和の回復」を意味する標語とともに鳩とオリーブが描かれている。
 1778年のジョージア州の40ポンド紙幣には、鳩とオリーブ、そして短剣を持つ手が描かれており、「戦争と平和、そのどちらにも備える」という意味の標語が付けられていた。
 オリーブの枝は、18世紀の他の版画にも平和のシンボルとして登場している。
 1775年1月の『ロンドン・マガジン』の表紙には、「平和の女神がアメリカとブリタニアにオリーブの枝を持って行く」という内容の彫刻が掲載されていた。
 1775年7月、アメリカの大陸会議がイギリスとの本格的な戦争を回避するために採択した請願書は、「オリーブの枝請願」と呼ばれた。

 1776年7月4日、アメリカ合衆国の国章の作成を許可する決議がなされた。
 国章には、右脚の爪でオリーブの枝を掴んでいる鷲が描かれている。
 オリーブの枝は、伝統的に平和の象徴として認識されている。
 オリーブの枝は、1780年3月に議会で任命された第2委員会によって追加された。
 オリーブの枝には13個の実と13枚の葉が描かれており、これは13植民地を表している。
 その後、束ねられた13本の矢が加えられた。
 オリーブの枝と矢の束が対になっているのは、「議会に独占的に与えられている平和と戦争の権限」を示すためである。
 キプロスの国旗と国章には、平和の象徴として、また古代ギリシャの伝統を反映して、オリーブの枝が使われている。オリーブの枝のデザインは、世界中の多くの 国旗や国章、警察の徽章などで平和の象徴として使用されている。
 国際連合の旗には、世界地図を囲むようにオリーブの枝が描かれている。
 オリーブの枝は、アラブの民間伝承においても平和の象徴とされている。
 1974年、パレスチナの指導者ヤーセル・アラファートは、国連総会にオリーブの枝を持参し、「今日、私はオリーブの枝と自由戦士の銃を持ってやってきた。オリーブの枝を私の手から落としてはならない」と言った。

 ▼平和の象徴としての鳩

 ◆キリスト教

 平和の象徴としての鳩の使用は、初期のキリスト教に由来している。
 初期のキリスト教徒は、鳩を伴うイエスの洗礼を、しばしば墓に描いていた。

 新約聖書では、鳩を、イエスの洗礼の際に降りてきた聖霊になぞらえている(マタイ3:16)。
 紀元1世紀末頃に書かれたペトロの手紙一では、水による救いをもたらした大洪水は、洗礼を予見したものであると述べている(3:20-21)。

 テルトゥリアヌス(160年頃 - 220年頃)は、ヘブライ語聖書に登場するノアの鳩を、「方舟から送り出されてオリーブの枝を持って戻ってきたとき、神の怒りが和らいだことを世界に告げた」とし、「天から送り出された神の平和をもたらす」洗礼における聖霊と比較した。

 当初、鳩は主観的な個人の平和の体験、つまり魂の平安を表しており、最古のキリスト教美術では洗礼の表現に添えられていた。
 2世紀末(例えばテルトゥリアヌスの著書)には、鳩は社会的・政治的な平和、すなわち「諸国民への平和」も表しており、3世紀以降は、ノアと方舟、ダニエルとライオン、炉の中の三人の若者、スザンナと長老たちなど、対立を描いた作品にも登場するようになった。

 鳩は、ローマのカタコンベにあるキリスト教の碑文にも登場し、時には、in pace(ラテン語で「平和のうちに」の意)という言葉を伴っている。
 例えば、カリクストゥスのカタコンベでは、鳩と枝が次のラテン語の碑文の横に描かれている。
 "NICELLA VIRCO DEI OVE VI XIT ANNOS P M XXXV DE POSITA XV KAL MAIAS BENE MERENTI IN PACE"(神の処女であるニセラは、35年ほど生きた。
 彼女は5月のカレンデスの15日前(4月17日)に(ここに)置かれた。
 安らかに眠るべき者のために)[21]。別の例では、浅いレリーフに、ギリシャ語で"ΕΙΡΗΝΗ"(エイレーネー、平和)と記された人物のもとへ、枝を持った鳩が飛んでいる。
 このシンボルは、チュニジアのスース(古代カルタゴ)にある紀元1世紀末のキリスト教のカタコンベからも発見されている。
 キリスト教において、象徴としてのオリーブの枝は常に鳩が持っているが、これはギリシャ語の用法とヘブライ語聖書のノアの方舟の物語に由来している。
 ノアの方舟の物語は、摘み取ったばかりのオリーブの葉(ヘブライ語: עלה זית alay zayit)を鳩が持ってくるところで終わっている(創世記 8:11)。
 これは、大洪水の後の生命の証であり、神がノアとその家族、動物たちを陸地に連れてきたことを示している。
 ラビ派の文献では、オリーブの葉を「イスラエルの地の若芽」と解釈したり、鳩が人間のための甘い食べ物ではなく、神のための苦い食べ物を好むと解釈したりしていた。
 ユダヤの思想においては、鳩もオリーブの枝も平和を表すものではなかったが、キリスト教でその意味を獲得した。

 313年の教会の和平(英語版)によってローマがキリスト教徒への迫害をやめる以前は、ノアは通常、祈りの姿勢で描かれていた。
 グレイドン・スナイダーによれば、「ノアの物語は、ローマの迫害という脅威的な環境に耐えうる器として、初期キリスト教共同体に敬虔さと平和を表現する機会を与えた」という。
 また、ルートヴィヒ・ブッデやピエール・プリジェントは、鳩はノアの平和ではなく聖霊の降臨を意味するとしている。
 教会の和平以降、キリスト教美術においてノアが登場することは少なくなった。
 4世紀に出版されたノアの物語のラテン語訳で、ヒエロニムスは、創世記8章11節の「オリーブの葉」(ヘブライ語でalé zayit)を「オリーブの枝」(ラテン語でramum olivae)と表現した。
 これは、洗礼によってもたらされる平和と、大洪水の終焉によってもたらされる平和がキリスト教的に等価であることを反映していると考えられる。
 5世紀には、オリーブの枝を咥えた鳩がキリスト教における平和の象徴として定着しており、アウグスティヌスは著書『キリスト教の教え』(De doctrina Christiana) の中で、「永遠の平和は、鳩が方舟に戻るときに持ってきたオリーブの枝 (olleae ramusculo) によって示される」と書いている。
 ホルカム聖書などの中世の装飾写本では、鳩が枝を持ってノアのもとに戻ってくる様子が描かれている。
 14世紀のウィクリフの聖書(英語版)では、創世記8:11で"a braunche of olyue tre with greene leeuys"(緑の葉をつけたオリーブの木の枝)と表現している。

 ◆世俗的表現

 15世紀

 ニッコロ・マキャヴェッリを主事とする「自由と平和の十人委員会」として知られるフィレンツェの委員会Dieci di Baliaの印章には、Pax et Defencio Libertatis(平和と自由の擁護)という標語とともに、オリーブの枝を咥えた鳩が使われていた。

 18世紀

 18世紀のアメリカでは、ノースカロライナ州の2ポンド紙幣(1771年)に鳩とオリーブが描かれており、「平和の回復」という州のモットーを表していた。1778年のジョージア州の40ドル紙幣には鳩とオリーブ、短剣を持つ手が描かれており、「戦争か平和か、両方に備える」という意味のモットーが書かれていた。

 19世紀

 1816年にクエーカー教徒の主導で結成された「恒久的かつ普遍的な平和の促進のための協会」(通称「ロンドン平和協会」)は、鳩とオリーブの枝をシンボルにしていた。

 20世紀

 パブロ・ピカソが制作したリトグラフ『鳩』は、伝統的で写実的な鳩の絵で、オリーブの枝は描かれていないが、1949年4月にパリで開催された世界平和評議会のエンブレムに選ばれた。
 この鳩は、平和運動と共産党の理想を象徴するものとなり、当時の共産党のデモでも使用された。
 1950年にシェフィールドで開催された世界平和評議会で、ピカソは父親から鳩の絵を教わったと語り、「私は、死よりも生を、戦争よりも平和を支持する」と締めくくった。
 1952年にベルリンで開催された世界平和評議会では、舞台上のバナーにピカソの『鳩』が描かれた。
 鳩のシンボルは、戦後の平和運動で多用された。反共主義者は、平和の鳩を独自に解釈していた。
 フランスのPaix et Libertéというグループは、平和の鳩がソ連の戦車へと変化する様子を描いたポスターを配布した。

   〔ウィキペディアより引用〕