事実はひとつ、真実は複数?
『真実はいつもひとつ...』
とある名探偵のセリフです。
言葉があまりにも有名過ぎるのと、この言葉が人の心に突き刺さる語です。
しかし、実は『真実』なんて多数、存在していて、一つしかないのは「事実」の方です。
「事実」と『真実』の違いを明確にしておく必要があります。
「事実」も『真実』もあまりにも似た言葉ですが、言葉の使い方に若干のズレがあります。
例えば、「周知の事実」という言葉がありますが、『周知の真実』という言葉は聞いたことがありません。
「事実無根」はよく聞きますが、『真実無根』とは言いません。
また反対に、『真実味がある』とは聞きますが、「事実味がある」とは聞いたことがありません。
『真実を告白』とはよく聞きますが、「事実を告白」とは聞き慣れません。
「事実」と『真実』、似た意味合いなのですが、そのニュアンスは異なります。「事実」は、実際に起こった事柄を指し、『真実』にはその事柄に対する人の解釈が入っています。
「事実」が客観的であるのに対して、『真実』は主観的なのです。
そう考えると『真実』は、『事実に関わった人の数だけ存在していると言えます。
『真実』には主観が入るので、そこにはストーリーが生まれます。
要するに言葉にインパクトがあるわけです。
例えば、「コロンブスがアメリカ大陸を発見した」のは、「事実」なのか『真実』なのか?
所が、以前より先住民がそこに住んでいたわけです。
大陸を発見したのはコロンブス側の『真実』であって、先住民側の『真実』は、船に乗ってお客さんが来られた程度だと思います。
したがって、「事実」としては「西洋人ではじめてアメリカ大陸にたどり着いた」だと思っています。
「アメリカ大陸にたどり着いた」と語るよりも「アメリカ大陸を発見した!」と語ったほうが人々の印象に刻まれ易いわけです。
しかし、注意しないといけないのは、『真実』には人の意見が混ざっています。
巧みな印象操作をしようとしている可能性があるのです。
良い報告は誇張されがちで、悪い報告は「事実」が巧みに隠れているものです。
『真実』なのか「事実」なのかをしっかりと見極める目を養っておかないと、相手の土俵で勝負する事になりかねません。
▼『事実』と『真実』の違いについて
意味としては、
事実の方は、本当にあった事柄、現実に存在する事柄。
真実の方は、嘘偽りのないこと、本当のことを意味します。
意味としても似ていますが、事実はひとつで真実は複数あると言われるように、事実と真実は異なり、一致しないことの方が多いくらいである。
例えば、
男性が女性の足を触っている写真があったとする。
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そこから言える事実は、男性が女性の足を触っていることだけで、これが恋人同士の行為なのか、セクハラ行為なのかといった事まではわからない。
性別も見る側の勝手な想像であるため、厳密に言えば「男性らしき人が女性らしき人の足を触っている」というのが事実となる。
しかし、「歴史的事実」と言われることでも、本当にあったこととは限らないように、極端に言えば、多くの人が事実と信じているものは事実となるため、「男性が女性の……」でも事実といえる。
つまり、事実は「実際にあった」と多くの人が認められる事柄、客観的に認められる事柄のことである。
足を触っているのが男性として、それは恋人に対する行為なのか、セクハラ行為なのかといった真実は、男性の心の中にあるものである。
男性の真実としては恋人とのスキンシップであったとしても、女性からすれば付き合った覚えもなく、セクハラをされたと思っていれば、女性の真実としてはセクハラ行為となる。
つまり、真実は人それぞれが考える本当のこと(事実)で、客観的なものではなく、主観的なものである。
〔情報元 : 違いがわかる辞典〕
さて、本題に入りたいと思います。
このブログでは、”Number web“の記事や、フジテレビ系番組“ザ・ノンフィクション”の<見どころ>等を抜粋、引用しつつ、紹介させて頂きたいと思います。
■万引きランナーと呼ばれて
マラソンランナー・原裕美子、37歳。
2005年名古屋国際女子マラソン優勝、2007年大阪国際女子マラソン優勝など、日本の女子マラソン界に彗星のように現れた期待の星だった。
しかし382円相当のお菓子の万引きで逮捕、起訴され、その栄光は地に落ちた。
原の故郷は栃木県足利市。
彼女は6人家族の次女。
しかし、度重なる原の万引きで、兄弟とは疎遠になり、両親は娘の犯した犯罪で肩身の狭い生活を余儀なくされていた。
原にとって大切な男性が現れる。
その男性は覚せい剤で3度の逮捕暦があり、現在は保釈中の身。
彼もまた結婚に失敗した過去があり、同じような心の傷を持つふたりの距離は縮まっていく。
しかし2人の時間は、あとわずかしか残されていなかった…。
万引きによってすべてを失ったマラソンランナー、原裕美子。
彼女が人生の再起をかけて走り続ける日々を送る。
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原 裕美子
宇都宮文星女子高等学校卒業後、2000年に京セラへ入社。
2005年3月13日の名古屋国際女子マラソンが初マラソンだった。
レース後半に入ると優勝候補だった渋井陽子が脱落、2位の大島めぐみや3位の北島良子らと競り合う。
その後38kmを過ぎてから原が満を持してスパート、いきなりマラソン初優勝を果たした。この成績で世界陸上ヘルシンキ大会女子マラソンの代表に選ばれた。 同年8月14日に行われたその本番では、レース序盤から優勝したポーラ・ラドクリフ(世界記録保持者)らのハイペースの先頭集団に積極果敢についていったが、16km過ぎ辺りで徐々に離されていった。
その後も終始表情は苦しげだったが粘り強さを発揮し、メダルには届かなかったものの日本女子トップの6位入賞となった。
なおゴールタイムは、初マラソン時のわずか1秒遅れだった。
女子マラソン団体で日本代表は銀メダルを獲得した(他選手は弘山晴美も8位入賞、大島めぐみ10位、小﨑まり15位、北島良子17位)。
その後、足に3カ所の疲労骨折のケガなどに悩まされ、1年以上大きな大会から遠ざかっていたが、徐々に故障が完治となる。
約1年半ぶりのマラソンとなった2007年1月28日の大阪国際女子マラソンでは、序盤からハイペースで飛ばした渋井陽子にぴったりとマーク。
その後、中盤の29km付近で渋井を突き放してからは原の独走となり、自身マラソン2度目の優勝を果たし、自己最高となる2時間23分48秒を記録した。
この成績により、同年9月開催の世界陸上大阪大会女子マラソン代表に、2大会連続で内定選出となった。
同年9月2日に行われたその本番は、代表を決めたレースと全く同じコースで行われたが、前回ヘルシンキ大会と打って変わってレース序盤から超スローペースとなる。
原は先頭集団のほぼ一番前の方で引っ張っていたが、中間点を過ぎた辺りで腹痛と、その後左太ももを痛めるアクシデントにより脱落。結局18位に終わり、2大会連続の世界陸上女子マラソン入賞もならなかった。
なお女子マラソン団体で日本代表は銅メダルを獲得した(他選手は土佐礼子が銅メダルを獲得し、翌年の2008年北京オリンピック代表に即内定。
嶋原清子は6位入賞、小﨑まり14位、橋本康子23位)。
北京五輪女子マラソンの国内選考レースである、2008年1月27日の大阪国際女子マラソンへ、ディフェンディングチャンピオンとして出場予定だった。
しかしレース2日前に記者会見が行われた1月25日、急性胃腸炎による体調不良で会見を急遽欠席、レース出場そのものも取り止める。
その後も練習が思うように積めなかったものの、最終選考レースである同年3月9日の名古屋国際女子マラソンへのスライド出場を決める。
その名古屋の本番レースでは、25kmを過ぎて原自ら先頭に立って仕掛ける場面もあったが、31km地点を過ぎた後で先頭集団から遅れ始めてしまう。
32km過ぎからは優勝した中村友梨香のロングスパートにも対応出来ず4位に留まり、念願の北京五輪代表入りはならなかった。
世界陸上ベルリン大会女子マラソンの国内選考レースである、2009年1月25日の大阪国際女子マラソンに出走したが、30km付近で先頭集団から抜け出した渋井陽子(優勝)と赤羽有紀子(2位)らについていけず、3位でゴール。
原の3大会連続の世界陸上女子マラソン代表選出はならなかった。
同年3月31日、京セラを大森国男らと共に退社、その後は地元栃木に帰郷。
2012年ロンドンオリンピック代表選出を目指し、一人で練習を続けていた。
2010年1月26日、ユニバーサルエンターテインメントに移籍。
同年8月29日、1年8か月ぶりのフルマラソンとなる北海道マラソンに出場。
2位の宮内宏子らと競り合う中32km手前で抜け出してからは独走となり優勝、復活を遂げた。
2連覇を目指した翌2011年8月28日の北海道マラソンは、足の痛みにより19km地点で途中棄権に終わった。
2013年3月、故障の悪化等を理由により退社。
マラソン元日本代表の原裕美子は『私が欲しかったもの』(双葉社)を刊行し、摂食障害や窃盗症に苦しんだ過去と現在を隠すことなく打ち明けた。
彼女が自身の経験から感じる、陸上界、スポーツ界への憂慮とは。
高校時代まで陸上競技に懸命に取り組んでいた原は2000年、会社に入社する。
待っていたのは、厳しい練習と、徹底した体重管理であった。
入社時、163センチ、49キロであった原に、大森国男監督はベスト体重として44キロを設定。
1日に4回以上体重計に乗り、0.1キロでも増えていれば指導にあたっていた監督らから「怒鳴られた」。
なかなか体重が落ちなかった原は、飲み物や食事の量、もちろん食事のメニューも徹底的に管理された。
「食べたいものを我慢していので、食べ物を見れば『食べたい食べたい』。
人が食べているのもうらやましい、でも自分は体重を減らさないといけない、という状態でした」
我慢が続くほど、渇望は強くなる。
我慢できず、練習前の間食用にと買いおきしてあった甘い菓子類をこっそり食べあさることもあった。
「一口くらいなら……と手をつけたはずが、気づいたときには全部食べてしまっていました。
その後、とてつもない後悔と恐怖に襲われ、誰もいない廊下で声を殺して涙を流して……。
そして、夜中にこっそり、電気もつけないで寮のトレーニング室で着込めるだけ着込んでエアロバイクを60分、90分と漕ぐ。
そんな毎日でした」 京セラ入社からおよそ1年経ったある日、生活を一変させる出来事が起こる。
入浴中、急に気分が悪くなり、浴室で胃の中のものを戻したのだ。
体重計に乗ると体重が減っていた。
――「食べたものを簡単に出せるなら、もう夜中にバイクを漕ぐことも、サウナに入ることもしなくて済むかもしれない!」(『私が欲しかったもの』より)。
食べたものを吐くことが、苦しまずに痩せられる方法としてインプットされた瞬間であった。
そしてそれは、好きなものを好きなだけ食べられる方法の発見でもあった。
以来、食べては吐き、食べては吐き、が日常となっていった。
1日中練習に励み、楽しみであるはずの食事を制限される。
他のチームから「(京セラは)厳しいよね」と言われることもたくさんあったと言う。
そんな毎日の中で、原は食べ吐きを繰り返す毎日をやめられなかった。
「当時は仕事だから仕方ない、強くなるためには仕方ない、あの環境に置かれたことを当たり前のように思っていました。
高校まではお金を払って陸上をしていて、実業団ではお金をもらって走っているわけですから」 まだ20前後の若い原にとって、世界は京セラだけにあった。
しかもレースでは、身体に負担を強いながらも結果を残せるようになっていた。
「強くなるために大切なトレーニングの積み重ねと、食べ吐きが始まる以前の栄養の蓄えがありました。
トレーニング面では、何が何でもかなえたい夢があり、絶対かなえたいという思いがあり、誰にも負けない努力をしていました。
質の高いメニューを更に高いレベルまで追い込んでトレーニングしていましたから。そして体重管理を除けば、大森監督の厳しい指導、練習は私にとって合っていたと思います。
(京セラの)稲盛名誉会長からいただいた、『自分の気持ち次第でどうにでもなるんだよ、心が体を動かす』という言葉との出会いもあります。
栄養面では、入社後、食べ吐きが始まるまでしっかりと体の中に栄養を補給し続けていて、体の中にマラソンを走れるエネルギーが細胞の中にしっかり蓄えられていたからだと思います。
ただその蓄えがあるのも数年だけ。徐々になくなっていき、ケガが増えてその回復も遅くなりました」
1つ結果が出たらやめようという思いもあったが、思っていた以上の結果が出たことで目標が大きくなっていった。
「ヘルシンキの世界選手権は、レースの1カ月前までゆっくりジョギングでさえもすることができない状態で6位入賞。これで体調が万全だったらメダルは夢じゃないと頑張れました」 何よりも支えとなったのはチーム、そして会社の応援だった。
「私がいい成績を出せば喜んでくれるし、逆に悪いとお葬式のあとのような、下を向いてひとことも話をしない無言の食事が待っています。
それがいやでいやで、みんなに喜んでもらいたくて、何が何でも勝つんだ、という気持ちが強かったです」 だが、代償を払うときがやがて訪れた。
疲労骨折をはじめとする怪我に、頻繁に見舞われるようになったのだ。
チームのキャプテンに食べ吐きを見られ、やめるように忠告されたこともあったという。
でも原は食べ吐きをやめられなかった。
「私がいい成績を出せば喜んでくれるし、逆に悪いとお葬式のあとのような、下を向いてひとことも話をしない無言の食事が待っています。
それがいやでいやで、みんなに喜んでもらいたくて、何が何でも勝つんだ、という気持ちが強かったです」
だが、代償を払うときがやがて訪れた。
疲労「そのときは練習もできていたし結果も出せていたし、怪我もそんなにない時期だったので。
そんな大したことないでしょ、と真剣に考えることができなくて」 摂食障害についての当時の陸上界における理解不足も関係している。
「病気に対しての認知度も低かったですし、もしもっと知れ渡っていれば、真剣に受け止めていたかもしれません」 心だけでは走れないことに気づいたのは、引退間際だったと言う。
「(もし京セラじゃなければ)結果が出せていたかはわからないけれど、競技自体を楽しめていたんじゃないかと思います」 過剰な体重管理は、しかし、競技生活のみに影響したわけではなかった。
苦しい日々は原をさらなる深みへと引きずり込んでいった。
初マラソンとなった2005年の名古屋国際女子マラソン(2012年より名古屋ウィメンズマラソンとして継承)で優勝し、同年の世界選手権でも6位入賞するなど輝かしい活躍を見せてオリンピックの有力候補とも評された原裕美子。
だが華々しい活躍の陰で、彼女は過剰な体重管理の指導から、食べ吐きを1日に何度も繰り返すほどの摂食障害に陥っていた。
いつしか体の回復能力は低下し、多発する怪我から成績も伸び悩むことになる。
2010年、京セラからユニバーサルエンターテインメントに移った原は、最初の1年ほどは調子のよい競技生活を送った。
だが、その後は再び怪我に苦しんだ。
ユニバーサルを離れると、チームにいたコーチの誘いを受け、同コーチの運営するランニングクラブで仕事をするようになった。
だが給料は未払い、コーチから依頼を受けての出資金も戻らないなど、それまでの競技生活で得た財産のほとんどを失うことになった。
「だまされたと分かってからは、寝ている時間以外は食べて吐いて、あるいはお店に行って盗って、でした」
原は振り返る。
盗って――原は、食料品を万引きするようになっていた。
初めて万引きをしたのは、京セラに在籍していた頃のことだ。
「2007年の中国での合宿でした。はじめは持っているお金で食べ吐き用の食料を買えるだけ買おうと思いましたが、途中で自分で使えるお金がなくなってしまったんです。
でも、ホテルの近くの店に入って、いざ品物を目にしたら全部ほしくなっていて、気づいたらパンやお菓子を服の中にまで入れていました」
その後、しばらく万引きからは遠ざかっていた。
しかしユニバーサル移籍後の2011年、万引きを再開するようになってしまった。
「テレビで警察に密着する番組があるじゃないですか。
『万引きだなんて、そんなことする人いるんだな』と思っていたのに自分がやった。
信じられなかった。さらに、はじめは気持ちのコントロールができたのが、いつのまにかコントロールできなくなった。
『なんで私はこんなに気持ちが弱いんだろう、だめな人間だ』。
気持ちとは反対のこと、やめたいことをやる自分をひたすら責める毎日が続きました」
「結局、私は万引きで7度、逮捕されました」
その後、事実を知った家族が悲しむ姿を見て「もう絶対にしない」と心に誓った原だったが、ユニバーサル退社後、人生がうまくいかなくなる中で、再び万引きを繰り返すようになってしまう。
「絶対に盗らない」と決め、財布にお金を入れて買い物に出かけても、店に入った途端、商品を物色している自分がいた。
何度逮捕されてもやめられない万引き。家族との関係も壊れていった。
「結局、私は万引きで7度、逮捕されました。特に6度目と7度目の逮捕は全国的なニュースとなり、家族にも大きな迷惑をかけてしまったことには申し訳ない気持ちしかありません」
だがその中で、原にとって大きな出来事があった。
2017年2月の6度目の逮捕後、原の弁護を担当した林大悟弁護士の紹介で、下総精神医療センターで医師の診察を受けることになったのだ。
ここで原は「窃盗症」と診断され、専門的な治療を受けることとなった。
「それまで、万引きをやめられない自分がおかしいとは思いながらも、病気だと思ったことはありませんでした。
専門的な治療を受けると、万引きへの欲求がなくなっていくことを実感しました」
2017年2月の6度目の逮捕後、原の弁護を担当した林大悟弁護士の紹介で、下総精神医療センターで医師の診察を受けることになったのだ。
ここで原は「窃盗症」と診断され、専門的な治療を受けることとなった。
「私の過去を知っても、今までと変わらず接してくれて」
「それまで、万引きをやめられない自分がおかしいとは思いながらも、病気だと思ったことはありませんでした。
専門的な治療を受けると、万引きへの欲求がなくなっていくことを実感しました」
6度目の逮捕後に治療を受け、一度よくなって実家に戻った原だったが、世間の目というストレスがあり、さらに窃盗症の治療作業を怠ってしまっていたため、再び万引きをしてしまう。
「7度目の逮捕となり、警察の留置場で絶望していましたが、検察に身柄を移された際、林弁護士が『病気を克服することでたくさんの人に勇気を与えられるよ』と言って励ましてくださった。
この言葉をきっかけに、自分の抱える病を公表し、闘う姿を皆さんに見せることで、摂食障害、窃盗症を克服していこうという決意ができました」 原は専門的な治療を受け、今も毎日、その維持作業を続けているという。
「同じ病、悩みを抱える人に自分の体験を伝えたい。
そして、少しでも勇気を与えられたら」という思いから書籍を出版。隠したいことも含め、自身の経験を率直に綴った。
千葉県内で事務の仕事、居酒屋の仕事に従事する原。
弱い自分さえも受け入れてくれる人の存在。
「病気と関係ない人、例えば今Wワークで働いている居酒屋のお客さんが私の過去を知っても、今までと変わらず接してくれて、今まで以上に応援してくれています。応援してくれるのは、隠していることをすべて打ち明けたからでしょうか」
得られた「財産」もある。
自分を受け入れられるようになったことだ。
「自分を肯定しようと思って肯定しているわけではなくて、だめなところ、弱い部分を打ち明けたうえで、それでも私を受け入れてくれる人がいる。
だめな自分を隠さなくていいんだと思えるようになったところが肯定感につながっているように思います。
今は、過去は変えられないけれど未来は変えられるんだと思えるようになりました」 いつしか手にしていたものもあった。
「居場所」である。
「たぶん京セラに入ってからかな、1人でやっていけるんだ、強くなれるんだ、自分は1人でいいんだと思うようになっていました。
ユニバーサルでも無理して仲間を作る必要はないと思っていました。
自分がいちばんの敵だと思っていましたし」 だが度重なる苦しみに、心が安らぐ場所が欲しいと思った。
こもっていたシェルターから出るように隠しごとを打ち明けると、周囲の支えが目に映るようになった。
信頼できる店主夫婦が営む居酒屋で働く中で心許せる仲間ができ、取り組み始めたマラソン大会の手伝いではスタッフやランナーと楽しみを分かち合った。
いる場所ができた思いがした。
食べ吐きは「まだ克服していない」という。
「体重に関してはぜんぜん気にしていなくて、家には体重計もないし、体重測定も3月に会社の健康診断でしたのが数年ぶりのことです。
でも食べ吐きに完治はなくて、するときはしてしまいます。
でもだいぶ減ってきたし、何とかしようと真剣に考えてくれる友達、仲間が増えてその人達を頼ることができるようになりました。
それが今と昔のいちばん大きな違いです」
ふと、原は切り出した。
「朝から晩まで食べ吐きを繰り返しているときは、お腹がいっぱいになればいいという感覚でした。
今は料理1つ1つを楽しめるようになって、五感で味わえるようになってきました。
ビールでも1つ1つ味も香りも違うし、コーヒーもそう。
作る人に感謝の気持ちも持てるようになりました。」
〔情報元 : Number web〕