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銭の花《商魂》 ♯009

2023-08-26 21:00:00 | 日記

 ■100円SHOP

 株式会社大創産業
 (だいそうさんぎょう)
 100円ショップのダイソー(DAISO)を運営する日本の企業である。
 日本国内に約3,300店舗、世界26の国家・地域に、約2,000店舗を展開している。


 《概要》

 ▼創業

 当初はスーパーマーケットの駐車場に店舗を構える、移動販売・露店方式の100円ショップを運営していた。    
 1980年頃の100円ショップは、問屋からすべての商品を70円以下で仕入れて100円で売る状態であったことから商品の質にも限界があった。
 当時、ある主婦客の一人が「安物買いの銭失い」とつぶやくのを創業者である矢野博丈が目にし、それ以来仕入れのスタイルを変えた。
 時には98円で仕入れた商品を100円で売ることもあるなど、売価100円の範囲で可能な限り質にこだわった商品構成に変更した。
 これにより「矢野の100円ショップは商品がいい」と評判を呼び、全国から引き合いが増えるようになった。
 スーパーマーケットのオーナーからテナントでの出店を誘われたことが、現在のダイソーのルーツとなる。
 100円商品は安価で品質は劣るという先入観を払拭するため、仕入れ原価が100円に近いものや原価割れしている商品も100円として販売する手法を取った。
 また、テナント形式の店舗により、顧客はいつでも来店して買い物することができ、商品に問題があった場合は店舗にクレームを申し入れられるようになったため、移動販売に比べて格段の信頼を得ることにもつながった。
 それらの理由により、屋内の店舗形式による100円ショップを展開していく大きな原動力となった。
 1991年3月、同社初めての直営100円均一ショップを、香川県高松市の丸亀町商店街内に開店する。
 創業時初期は商店街等への出店が多かった。
 また店舗にはNo.○○とナンバリングをしており、小倉魚町店(No.16)等、現在もその時期の外装で営業する店舗も存在する。

 ▼店舗展開

 バブル崩壊後の平成不況時代(失われた10年)において、消費者の購買意欲が低下している経済状況がチャンスとなり、安価な商品を求める当時の消費者のニーズに応えた。
 また生活に関わる雑貨品を中心に、多岐にわたるジャンルの商品を陳列し、「100円ショップ=多数のジャンルの商品がある」とのイメージを付加した。
 安価の魅力の他に、一度の来店で多様なジャンルの雑貨が購入できる利便性が、来店者数増加・売り上げ拡大の要因ともなる。
 付加価値の高い商品を多く揃えられた背景には、

 ・平成大不況時代において商品の原価や原材料の市中価格は著しい低水準価格であったこと

 ・製造メーカーや卸売業者から大量の商品・商材を、現金取引で行うことで、通常より仕入れコストを抑えていたこと

 が要因である。

 そして、積極的な出店を展開し、豊富な商品の品揃えの中で100円均一というスタイルが、近所の評判やメディアを通じて知名度を一気に上げ、ダイソーは全国区レベルの小売業に成長する結果となった。
 絶大なる知名度と大不況時代の国民からの支持により、売り場面積1,000 - 2,000坪超の超大型店舗や、アジアやアメリカ合衆国を中心とした日本国外への出店も実現した。
 製造メーカーが生産した商品でも、製造メーカー名を伏せて大創産業の社名のみと自社のロゴ(「素材発信」や「ザ○○」など)を明記して自社オリジナル商品仕様にすることにより、単なる小売業ではなく商品開発・管理が特化している企業となり、消費者からは「ダイソーのオリジナル商品」の呼称も多く見受けられるようになり、商品開発力をも持ち合わせる店舗として捉えられることにもなった。
 バブル崩壊後の平成不況時代の末期ごろから、「高額商品」という呼称で100円以上の商品の販売が開始された。
 当初は150円や200円などの、従来の100円商品に多少の付加価値を加えた程度の商品が多く、100円ショップの概念を打ち壊して批判を受けたり疑問を抱かれる不安材料があったものの、100円ショップブームが終焉して経営不振になることを懸念したため、脱・100円ショップ路線を模索する形で実施に踏み切った。
 これは創業者であり社長である矢野の創業以来の考えであった。
 結果的には極端な来店者数の減少を招くことなく、豊富な商品ラインナップにより来店する客が多いことを機軸にして、高額商品を自然な形で定着することができた。

 ▼社名

 創業当時、「会社の規模はまだまだ小さいけど、名前だけは大きな物にしよう」という意気込みから、「大きく創る」を「大創」としたのが社名の由来である。

 ▼キャッチコピー

 「だんぜん!ダイソー」

 ▼店舗ブランド

 ★100円ショップ

 ・ダイソー (DAISO)
 以前は「ザ・ダイソー」の名で出店していたが、2019年3月、店名の表記が「ダイソー」に変更された。

 ・オレンジ
 株式会社中部商会が運営していた100円ショップ。
 2015年10月にダイソーが買収した時点では54店舗存在していたが、「ダイソー」への転換や閉店が進み、2023年3月5日時点で現存するのは、泉たてば店(横浜市泉区)のみである。

 ★300円ショップ

 ・THREEPPY(スリーピー)
 若い女性にターゲットを絞り、専用ウェブサイトやInstagram公式アカウントを開設して宣伝している。

 ・CouCou(クゥクゥ)
 (一部500円の商品もある)
 かつてはビルジャンが運営していたが、2020年5月1日に大創産業がビルジャンから事業譲受した。
 Instagramの公式アカウントが「THREEPPY」と統合されている。

 ・PlusHeart(プラスハート) - 「THREEPPY」の商品も取り扱う。
 Instagramの公式アカウントが「THREEPPY」と統合されている。

 ・Standard Products
 (スタンダードプロダクツ)
 2021年3月26日、
 渋谷マークシティ1階にオープン。

 《沿革》

 ・1972年(昭和47年)
 矢野博丈が家庭用品の販売を目的として矢野商店を創業。

 ・1977年(昭和52年)
 株式会社大創産業として法人化。

 ・1987年(昭和62年)
 100円SHOPダイソー」の展開に着手

 ・1997年
 通産大臣賞「貿易貢献企業賞」を受賞。

 ・2001年
 台湾に出店。
 以後、世界各国に出店。

 ・2015年10月27日
 100円ショップオレンジを展開する中部商会の全株式を取得し、完全子会社化。

 ・2019年3月5日
 CI及びロゴマークを刷新。

 ・2019年4月1日
 ダイソー女子駅伝部を創部。

 《裁判》

 ▼商標権侵害裁判

 2012年に韓国でダイソー(다이소)を運営する大創アソン産業(日本の大創産業と韓国のアソン産業の合弁会社)が、ダイソーと同様に生活用品や雑貨を販売している「ダサソー」(다사소、韓国語の方言で「全部買ってください」の意味。仮処分申請を受けて「ダサヨー」(다사요)に改名)を相手に、商標使用禁止などを求める裁判を起こした。
 一審はダイソー側の敗訴となったが、二審では逆転勝訴。
 高裁判決では、「ダサソーの標章は外見や呼称、観念などを総合的に観察すると、取引上、一般消費者や取引業者がダイソーと誤認、混同する恐れがある」とし、「ダサソーがダイソーの周到性に便乗しようとする意図が推断できる」とも指摘した。
 2015年、韓国の最高裁判所である大法院によってダイソー側の勝訴が確定した。
 2017年、水原地方裁判所はダサソー側の敗訴確定後もダサソー名で営業を続けたとして、経営者に500万ウォンの罰金刑を言い渡したと公表した。

 《不祥事》

 ▼下請法違反

 2012年3月27日、下請会社に支払う代金を不当に減額したとして、公正取引委員会から下請法違反で勧告を受ける。
 2014年に2度目の勧告。公正取引委員会が大創産業に対し調査を行ってきたところ、下請代金支払遅延等防止法(下請法)第4条第1項第4号(返品の禁止)及び同項第5号(買いたたきの禁止)の規定に違反する行為が認められたため、2014年7月15日、下請法第7条第2項の規定に基づき、勧告を行う。

 ▼発癌性物質

 同社が2015年8月から発売開始したマニキュアの新製品について、全148商品のうち26商品から、発癌性物質の一つであるホルムアルデヒドが検出されたとして、同社は発売を中止し自主回収を実施した。
 その後、同年10月22日に全商品の検査の終了を受け、ホルムアルデヒドが検出された製品が当初の26商品から76商品に拡大したことを発表するとともに、万全を期すために、発売中止と自主回収の対象品をホルムアルデヒドが検出されなかった製品を含む全種類に拡大した。
 併せて、問い合わせの電話が繋がらない、質問内容に対する回答が曖昧、店頭での不遜な対応に客から叱りを受けるなど、返金の際に不適切な対応があったとして謝罪している。

 ▼著作権侵害

 子会社の大創出版が2017年12月に刊行し、ダイソーの店舗で発売していた「トリックアートギャラリー」・「トリックアートミュージアム」の2冊について、立命館大学教授の北岡明佳が考案した作品5点を無断転載していたことが2018年3月16日に明らかになった。
 北岡が同年2月下旬に「著作権侵害に該当する」として大創出版に警告書を送付。
 これを受けて大創出版は北岡に対して著作権侵害を認め謝罪すると同時に発売の中止と店舗からの回収を発表した。
 大創出版は「錯視自体には著作権がないと考え、錯視を利用した作品も同様だと考えていた」と釈明している。

 ▼白髪染めから有害物質検出など

 台湾で製造され、京都市の化粧品メーカー・サンパルコが輸入し、ダイソーの店舗で販売していた白髪染め3製品から、日本の基準で配合が認められていない有害物質のホルムアルデヒドが検出されたことが2018年4月13日に判明し、サンパルコが自主回収することを発表した。
 回収は200万個に及ぶという。
 またサンパルコはダイソー向けに発売していたファンデーションなど75品目についても必要な成分を表示していなかったとして自主回収することも合わせて発表した。

 ▼輸入書類改ざん

 台湾でダイソーを展開する台湾大創百貨が、輸入を禁止されている福島県など5県産食品を、他県産と偽って輸入を申請し、経済部から半年間の輸入停止処分が下された後も、輸入書類を改ざんするなどして輸入を続けていたとして、同社の元課長に対して猶予付きの有罪判決を言い渡した。

 ▼商標法違反

 2023年3月3日、高級ブランド「フェンディ」のロゴ入りの布を東京都と神奈川県内の店舗で不正に販売していたとして、同社と仕入れ担当の20代女性社員が商標法違反の疑いで神奈川県警察に書類送検された。
 布は90センチ四方のはぎれとして販売され、「FENDI」のロゴが入っていた。   
 この布は元々フェンディの正規ライセンスを保有していた業者が傘製造用として生産した物であったが、検品で不合格となり、業者によって保管していたものの、業者が倒産したため、外部に流出した可能性があるといい、下請けから大量に仕入れた布に含まれていた。
 女性社員は同県警の調べに対し「仕入れ先から大丈夫と言われ、それ以上確認しなかった」と供述しているという。
 3月28日、横浜地方検察庁は同社と同社社員について不起訴処分とした。

 関連項目 ー 100円SHOP歴史 ー

 ▼前史

 ★江戸・明治時代における均一価格による店舗

 「商品を均一価格で売り出す」というアイデアは、日本国内においては古くは享保7年〜8年(1722年〜1723年)頃から江戸で流行した「十九文見世」(十九文店、十九文屋)、文化6年〜7年(1809年〜1810年)頃から江戸で流行した「三十八文見世」(三十八文店、三十八文屋)、同時期に江戸で流行した均一価格の食べ物屋台「四文屋」、明治時代前半の頃の天保通宝の8厘通用を意識した「8厘均一」や「2銭8厘均一」、松屋呉服店(現:松屋)が1908年(明治41年)に行った「均一法大売出し」や1910年(明治43年)に行った「一円均一」という例があ。

 ▼十銭ストア

 現在の100円ショップに近い業態を営んだ戦前の例として、髙島屋が全国に展開した「十銭ストア(テンせんストア)」が挙げられる。
 アメリカの「10セントストア」を参考にしたものとされる。
 消費者物価指数でみた場合、1935年時点の10銭は2015年の180円程度に相当する(1935年を1とした場合、概算で2015年は1,800前後)。
 1926年(大正15年)に大阪・長堀店に「なんでも十銭均一売場」を設置したのを皮切りに、1930年(昭和5年)には難波南海店に「髙島屋十銭ストア」を開業した。
 その後1932年(昭和7年)にかけて独立型の店舗50店を大阪・京都・名古屋・東京周辺に展開し、大好評を博したという。
 「十銭ストア」の取り扱い商品は「日常家庭生活に必要なものはほとんど全部」に及び、その種類は約2000種近くに達した。
 商品調達にあたっては均一店専門の納入業者を開拓、生産者との直接取引を導入するとともに、生産者への指導・援助も行い、均一店向けの商品開発や商品の標準化にも積極的に関与したという。

 1932年(昭和7年)には、同業他社の松屋も銀座に同種の均一店を展開した。
 「髙島屋十銭ストア」の成功は他業種の価格破壊に影響を与えたとみられ、作家の織田作之助は小説『世相』において、「テンセン(十銭)という言葉が流行して、十テン銭寿司、十テン銭ランチ、十銭マーケット、十銭博奕、十銭漫才、活動小屋も割引時間は十銭で、ニュース館も十銭均一、十銭で買え、十銭で食べ十銭で見られるものなら猫も杓子も飛びついた」と描写している。
 のち「髙島屋十銭ストア」は1932年(昭和7年)に「髙島屋十銭二十銭ストア」、1937年(昭和12年)に「髙島屋十銭二十銭五十銭ストア」へ改称した。
 1937年(昭和12年)に施行された百貨店法によって規制が強まると、髙島屋は均一店事業を本社から切り離して「株式会社丸高均一店」を設立。
 1941年(昭和16年)には全国に100店を超えるチェーンを築いたが、その後の太平洋戦争により経営基盤を奪われ実質的な廃業に至った。
 なお、残存したいくつかの店舗は1952年(昭和27年)に「株式会社丸高」のストア部門(後に「髙島屋ストア」)として再出発し、2003年(平成15年)にはイズミヤに買収され、商号を「カナート」へと変えて現在に至っているが、戦後のこれら店舗はいわゆる100円ショップの業態をとってはいない。

 ▼1960年代の催事販売

 100円ショップに見られるような均一低価格による販売手法は1960年代から行われていたが、当時のそれはスーパーや百貨店などの催し物として1週間程度の期間に限るものであった。
 この販売形式を「催事販売」、これを行う業者を「催事業者」と呼び、催事業者らは各店舗を定期的に巡回して催事販売を行った。
 催事販売で売られる商品の大半は「100均メーカー」と呼ばれるメーカーの商品を中心に安定供給できる定番商品と、これに質流れの金融品や仕入先が何らかの事情で現金化を急ぐために販売した「処分品」と称される商品からなり、当時100円以上で販売されていた商品も含め全品100円で販売した。
 さらに販売後のトラブルに対応するためスーパーなどに取引口座を開設し、催事販売をした店舗を通してクレーム対応などもしながら各地を移動して販売を行っていた。

 ▼1980年代 - 固定店舗の出現

 従来の催事販売はしばしば好評を博していたが、1985年3月に有限会社ライフの創業者・松林明が愛知県春日井市に日本初の固定店舗による100円均一店をオープンし「100円ショップ」と命名して販売を開始した。
 その後、現在の100円ショップチェーン最大手の大創産業(「ダイソー」)創業者の矢野博丈は商品の品質アップに力を入れる(一部には採算割れの商品も含む)ことで、催事販売を依頼するスーパーや百貨店の信用を勝ち取り、1991年に最初の常設店舗を開設した。
 これ以後は「キャンドゥ」「セリア」「ワッツ」といった、後に株式公開する同業の他社も参入して店舗網を広げた結果、新たな販売チャンネルとしてメーカーから認知されるようになり、バブル崩壊後の不況とデフレともあいまって急速に店舗数が増加し「不況時代の成長業界」とも称されるようになった。
 また、2000年代からは食料品中心の100円ショップ型の生鮮コンビニという業態も登場し、その先駆けとして1996年に九九プラスが「SHOP99」(現在はローソンストア100に吸収)が出店を開始した。
 その結果2010年までには、いわゆる「バッタ屋」時代に主流だった金融品や処分品を安く仕入れて販売することは少なくなり、大量の店舗による販売力を生かして国内外のメーカーへ自社専用商品(プライベートブランド)の形で大量に生産を委託することで、仕入れ価格のダウンと品質の確保を両立させることが多く行われるまでになった。
 たとえばダイソーでは、数百万個という単位での一括製造を行いコストダウンに努めている。
 しかし製造コストは下がるものの在庫コストは莫大なものとなる。

     〔ウィキペディアより引用〕




Wonder To Oneself ♯004

2023-08-25 21:00:00 | 日記

 ■SF(夢)のお話

 もし、タイムマシンが存在し、乗れる事になれば、アナタはタイムマシンに乗り、タイムスリップして、何処で誰に逢いますか?

 行き先は、未来?それとも過去?

 未来に行って“自分”に逢うのも良いでしょうし、過去に行って元カノに逢うのも良いでしょう。

 そういう事を考えると、懐かしいTVアニメ『タイムボカン』でしょうか。

 『タイムボカン』
 (英語表記:Time Bokan)
 1975年10月4日から1976年12月25日までフジテレビ系列で、毎週土曜18:30〜19:00(JST)に全61話が放映された、タツノコプロ制作のテレビアニメ。

 《概要》

 『タイムボカンシリーズ』の第1作目。
 本作品の企画は、ミニカーを売るためのアニメという発想で、1966年のアメリカ映画『グレート・レース』の影響を受けたカーレースものが源流である。
 1972年頃には「時空を超えた善悪のタイムマシンによるコミカルな競争」という本作品の企画が決定。
 『タンマー大混戦』や『ちょちょいのタンマー』『すっとびタンマー号』などのタイトルがつけられて、その時点でメカブトンのデザインは出来上がり、15分のパイロットフィルムを制作。
 このパイロットフィルムは第1話やオープニングに一部流用された。
 パイロットフィルムでの淳子は金髪だったため、テレビシリーズでは青の髪だった淳子の髪はその流用されたカットで金髪になっている。
 タツノコプロでは当時、ハードなアクションものが続いたためギャグものを、ということだったが、ギャグにしてはタイムトラベルやメカの要素などが盛り込まれた本作品は、監督の笹川ひろしによると中途半端な印象を与えたといい、スポンサーがつかずに放映決定まで3年を要することになった。
 主人公の名前は当時の人気アイドルから取られ、野口五郎と天地真理から五郎と真理だったのが、放映が決定するまで3年の間、アイドルの人気の変遷から、真理が桜田淳子から取った淳子になっており、放送の決定後、タイトルが『タイムボカン』と改められた。
 本作品は後のシリーズ作品のように、主人公の2人もしくは1人が、変身してヒーローにならない唯一の作品である。
 丹平役の太田、淳子役の岡本、チョロ坊役の桂は次作の『ヤッターマン』においても主人公キャラを担当した。
 丹平と淳子およびマージョは2つの山形の隆起がついたヘルメットを常に着用している。
 この隆起のモチーフは、キャラクターデザインを担当した天野嘉孝によれば、ブラジャーである。
 マージョ、グロッキー、ワルサーの「悪玉トリオ」には決まった名称は無いが、後年の出版物では便宜上「マージョ一味」と呼ばれている。
 木江田研究所での会話をあの手この手で盗聴し、出発した丹平達の後を追跡、木江田博士からダイナモンドの場所を聞き出そうと狙う。
 丹平たちと博士が再会した3クール目以降は、ダイナモンド探しの話が中心となるが、第36話や第46話などの様に、丹平たちがダイナモンド探しとは別の目的で時間旅行をし、それを盗聴した三悪が「その場所にダイナモンドが有る」と速断して後を追うという展開も時々行われた。
 当初は2クール全26話を予定。平均視聴率19.0%、最高視聴率26.3%(タツノコプロが所有する資料による)と好評を博し、まず2クール、その後さらに1クール延長され、最終的な放送期間は全5クール(全61話)となった。
 当初の目的の一つだった木江田博士と中盤で再会するのはその名残である。またこの好評ぶりにより、本作品の終了後も「タイムボカンシリーズ」として、基本的な設定やコンセプトを共有した作品群が世に送り出されていくこととなる。

 《ストーリー 概要》

 ある日の事、科学者・木江田博士は自ら開発したカブトムシ型タイムマシン「タイムボカン」の試運転に出かけたが、程なくして帰ってきたのはオウムのペラ助と世界最高級の宝石「ダイナモンド」だけで木江田博士の姿はどこにも無く、行方不明となってしまう。
 博士の孫娘・淳子と博士の助手の丹平はコンビを組み、どこかの時代に消えてしまった博士をタイムトラベルしながら探す事を決意する。
 一方博士をスパイしていた悪玉トリオ・マージョ一味は博士のいるところにダイナモンドが存在すると睨み、タイムボカンを追いかけ、妨害するのだった。
 その後、木江田博士は現代に帰還し丹平たちと再会する(第27話)。
 それ以降は、悪玉トリオのダイナモンド入手の阻止や、ペラ助の故郷探しなどの旅をする。

 話の内容から、モチーフは童話劇『青い鳥(チルチルミチル)』と思われる。

 『青い鳥』(あおいとり)
 (フランス語:L'Oiseau bleu)

 モーリス・メーテルリンク作の童話劇。
 1908年発表。
 初版は5幕10場、最終版は6幕12場。

 《内容》

 貧しい木こりの子供であるチルチル(Tyltyl)とミチル(Mytyl)の兄妹が、クリスマス・イヴの夢の中で老婆の姿をした妖精ベリリュンヌ(Bérylune)(若月訳では「ベリーリウンヌ」)に頼まれ、彼女の病気の娘のために、幸福の青い鳥を探しに行く。
 チルチルが、ベリリュンヌから与えられた帽子の額に付いているダイヤモンドを回すことによって、頭のコブが押され、物の本質を見通すことができ(“心眼”が開く)、動物や火や水などの元素が魂を持っているのがわかる。
 ふたりは光に案内され、青い鳥を探して思い出の国、夜の御殿、森、幸福の花園、墓地、未来の王国を冒険する。
 夢からさめた後、森や家の中が以前よりも幸福であるように見える。
 チルチルは自分の鳥かごの鳥が以前より青くなっているのに気づき、それを妖精に似た隣人のベルランゴ夫人(Berlingot)(若月訳では「ベランゴー」)の病気の娘に与える。
 病気が治った娘が礼を言いに来るが、彼女は鳥に逃けられてしまう。

 なお、メーテルリンクによる続編『チルチルの青春』(原題:Les Fiançailles(いいなづけ)、『チルチルの婚約』とも)がある。

 関連項目 ー青い鳥症候群 ー

 青い鳥症候群(あおいとりしょうこうぐん)

 モーリス・メーテルリンク作の童話「青い鳥」(仏: L'Oiseau bleu)の中で「主人公のチルチルとミチルが幸せの象徴である青い鳥を探しに行くが、意外と幸せの青い鳥は身近にあることに気付かされる」ことから、「今よりもっといい人が現れる」「今よりもっといい仕事が見つかる」など現実を直視せず根拠の無い「青い鳥」を探し続ける人たちを指す通俗的な呼称である。

 関連項目 ー キジバト ー

 キジバト(雉鳩、Streptopelia orientalis)は、鳥綱ハト目ハト科キジバト属に分類される鳥。
 別名ヤマバト。


 《分布》

 ユーラシア大陸東部、日本。
 日本では国内で繁殖する留鳥(北海道や本州北部に分布する個体群は越冬のため南下する夏鳥)。
 種小名 orientalisは「東洋の」の意で英名と同義。

 《生態》

 平地から山地の明るい森林に生息するが、都市部でも普通に見られる。
 樹上に小枝等を組み合わせた皿状の巣を作るが、古巣を利用することも多く、人工建築物に営巣することもある。
 このため野良猫などの獲物になることも多い。
 雄のさえずり声はかなり特徴的であり、伝統的には「デーデー ポッポー」と表現される。
 「ホーホー ホッホー」と表現する人もいる。
 主に早朝にさえずる。
 さえずり声は個体によって音程などに違いがあり通常5音の発声であるが、4音でさえずる個体も確認される。
 人によっては譜例のようにさえずり声を8分の9拍子、付点4分音符=約72のテンポで「クーク グッググー」あるいは「ホーホ ホッホホー」と表現したほうがわかりやすいであろう。
 食性は雑食で主に果実や種子を食べるが昆虫類、貝類、ミミズ等も食べる。
 繁殖期は春から夏が多いもののほぼ周年で行い、1回に2個の卵を産む。抱卵日数は15 - 16日。
 抱卵は夕方から朝までの夜間は雌、昼間は雄が行う。
 雛は孵化後、約15日で巣立つ。
 一般的には番つがいで見られることが多いが、繁殖がうまくいかなかった場合は、1シーズンで番を解消するパターンも多い。
 冬季には繁殖していない個体が群れを作ることもある。

 《人間との関係》

 日本においては鳥獣の保護及び管理並びに狩猟の適正化に関する法律の元で狩猟鳥に指定されている。
 ヤマバトという別名のとおり、かつては山岳地帯に生息し、めったに人前に姿を現さなかったが、1960年代に都市部での銃猟が制限されるようになってからあまり人間を恐れなくなり、1970年代には街路樹や建造物でも営巣するようになり、都市部への進出を果たした。
 但し、外来種のカワラバトに比較すれば警戒心は遥かに強い。
 耕地にまかれた豆などの種子を食害することもある。

     〔ウィキペディアより引用〕




in the name of ending the war Chord : 11 マンハッタン計画③

2023-08-24 21:00:00 | 日記

 マンハッタン計画③

 ▼原子爆弾投下都市の選定経緯

 広島市と長崎市が原子爆弾による攻撃目標となった経緯は、日本の各都市への通常兵器による精密爆撃や焼夷弾爆撃(日本本土空襲)が続けられる中で、以下のようなものであった。
 1943年5月5日の軍事政策委員会で最初の原子爆弾使用について議論がなされ、「トラック島に集結する日本艦隊に投下するのが適当」というのが大方の意見であった。
 1944年11月24日から翌3月9日は通常兵器による空爆第一期で、軍需工場を主要な目標とした精密爆撃が行われた。ただし、カーチス・ルメイ陸軍少将による焼夷弾爆撃も実験的に始められていた。
 ついで、1945年3月10日から6月15日は通常兵器による空爆第二期で以下のような大都市の市街地に対する焼夷弾爆撃が行われた。

 ・1945年
  3月10日:東京大空襲
  3月12日:名古屋大空襲
  3月13日:大阪大空襲
  3月17日:神戸大空襲

 1945年4月12日のルーズベルトの急死により、副大統領であったトルーマンが大統領に就任した。
 ルーズベルトの原子爆弾政策を継いだトルーマンに、「いつ・どこへ」を決定する仕事が残された。
 4月25日にスティムソン陸軍長官と、マンハッタン計画指揮官グローヴスがホワイトハウスを訪れ、原爆投下に関する資料を提出した。
 しかしこの際トルーマンは、「資料を見るのは嫌いだ」と語ったという。
 1945年4月中旬から5月中旬に、沖縄戦を支援するため九州と四国の飛行場を重点的に爆撃し、大都市への焼夷弾爆撃は中断された。
 このため京都大空襲が遅れた。
 1945年4月27日、陸軍の第1回目標選定委員会 (Target Committee) において以下の決定がなされた。
 これはアメリカ政府に対しては極秘の元に行われた。
 日本本土への爆撃状況について、第20航空軍が「邪魔な石は残らず取り除く」という第一の目的をもって、次の都市を系統的に爆撃しつつあると報告した。
 東京都区部、横浜市、名古屋市、大阪市、京都市、神戸市、八幡市、長崎市。
 次の17都市および地点が研究対象とされた。
 東京湾、川崎市、横浜市、名古屋市、京都市、大阪市、神戸市、広島市、呉市、下関市、山口市、八幡市、小倉市、福岡市、熊本市、長崎市、佐世保市。
  1945年5月10日と11日の第2回目標選定委員会がロスアラモスのオッペンハイマー博士の執務室で開かれ、8月初めに使用予定の2発の原子爆弾の投下目標として、次の4都市が初めて選定された。

 1.京都市:AA級目標
 2.広島市:AA級目標
 3.横浜市:A級目標
 4.小倉市:A級目標

 このとき以下の3基準が示された。

 ・直径3マイルを超える大きな都市地域にある重要目標であること。

 ・爆風によって効果的に破壊しうるものであること。

 ・1945年8月まで爆撃されないままでありそうなもの。

 1945年5月28日、第3回目標選定委員会が開かれた。
 京都市、広島市、新潟市に投下する地点について重要な決定がされ、横浜市と小倉市が目標から外された。

 ・投下地点は、気象条件によって都度、基地で決定する。

 ・投下地点は、工業地域の位置に限定しない。

 ・投下地点は、都市の中心に投下するよう努めて、1発で完全に破壊する。

 これらの原子爆弾投下目標都市への空爆の禁止が決定された。
 禁止の目的は、原爆のもたらす効果を正確に測定把握できるようにするためである。
 これが目標となった都市に「空襲がない」という流言を生み、一部疎開生徒の帰郷や、他の大都市からの流入を招くこととなった。
 1945年5月29日、目標から外された翌日に横浜大空襲が行われた。
 なお、この横浜大空襲は、第3回目標選定委員会で横浜が目標から外されたから行われたものでなく、横浜に対して通常空襲を行うために、原子爆弾の投下目標から外したものと思われる。
 1945年6月1日、スティムソン陸軍長官を委員長とする政府の暫定委員会は、 原子爆弾は日本に対してできるだけ早期に使用すべきであり、 それは労働者の住宅に囲まれた軍需工場に対して使用すべきである。
 その際、原子爆弾について何らの事前警告もしてはならない、と決定した。
 なお原子爆弾投下の事前警告については、BBC(ニューデリー放送)やVOA(サイパン放送)で通告されていたという説もあるが、確認されていない。

 この経過の中で、4つの目標都市のうち京都が次の理由から第一候補地とされていた。

 ・人口100万を超す大都市であること。

 ・日本の古都であること。

 ・多数の避難民と罹災工業が流れ込みつつあったこと。

 ・小さな軍需工場が多数存在していること。

 ・原子爆弾の破壊力を正確に測定し得る十分な広さの市街地を持っていること。

 しかし、フィリピン総督時代に京都を訪れたことのあるスティムソン陸軍長官の強い反対にあったことや、戦後、「アメリカと親しい日本」を創る上で、京都には千数百年の長い歴史があり、数多くの価値ある日本の文化財が点在、これらを破壊する可能性のある原子爆弾を京都に投下したならば、戦後、日本国民より大きな反感を買う懸念があるとの観点から、京都への原子爆弾投下は問題であるとされた。
 1945年6月14日、京都市が除外され、目標が小倉市、広島市、新潟市となる。
 しかし京都への爆撃禁止命令は継続された。
 1945年6月16日から終戦まで、通常兵器による空爆第三期となり、中小都市への焼夷弾爆撃が行われた。
 1945年6月30日、アメリカ軍統合参謀本部がダグラス・マッカーサー陸軍大将、チェスター・ニミッツ海軍大将、ヘンリー・アーノルド陸軍大将宛に、原子爆弾投下目標に選ばれた都市に対する爆撃の禁止を指令。
 同様の指令はこれ以前から発せられており、ほぼ完全に守られていた。

 新しい指令が統合参謀本部によって発せられない限り、貴官指揮下のいかなる部隊も、京都・広島・小倉・新潟を攻撃してはならない。 右の指令の件は、この指令を実行するのに必要な最小限の者たちだけの知識にとどめておくこと。

 1945年7月3日、それでもなお、京都市が京都盆地に位置しているので原子爆弾の効果を確認するには最適として投下を強く求める将校、科学者も多く存在し、その巻き返し意見によって再び京都市が候補地となった。
 1945年7月16日、トリニティ実験。日の出前の早朝5時30分(現地時間、グリニッジ時間:11:29:21 GMT)、アメリカ ニューメキシコ州 アラモゴードから約80Km離れた半砂漠地帯で、グローブス少将など軍関係者やオッペンハイマーを代表とする科学者たちが見守るなか、プルトニウムを使った原子爆弾の爆発実験が極秘裏に行われ、人類史上初めて成功した。
 1945年7月20日、パンプキン爆弾による模擬原子爆弾の投下訓練が開始された。
 1945年7月21日、ワシントンのハリソン陸軍長官特別顧問(暫定委員会委員長代行)からポツダム会談に随行してドイツに滞在していたスティムソン陸軍長官に対して、京都を第一目標にすることの許可を求める電報があったが、スティムソンは直ちにそれを許可しない旨の返電をし、京都市の除外が決定した。

 1945年7月24日、京都市の代わりに長崎市が、地形的に不適当な問題があるものの目標に加えられた。
 スティムソン陸軍長官の7月24日の日記には「もし(京都の)除外がなされなければ、かかる無茶な行為によって生ずるであろう残酷な事態のために、その地域において日本人を我々と和解させることが戦後長期間不可能となり、むしろロシア人に接近させることになるだろう。 (中略)
 満州でロシアの侵攻があった場合に、日本を合衆国に同調させることを妨げる手段となるであろう、と私は指摘した。」とあり、アメリカが戦後の国際社会における政治的優位性を保つ目的から、京都投下案に反対したことが窺える。
 トルーマン大統領のポツダム日記7月25日の項にも「目標は、水兵などの軍事物を目標とし、決して女性や子供をターゲットにする事が無いようにと、スティムソンに言った。
 たとえ日本人が野蛮であっても、共通の福祉を守る世界の指導者たるわれわれとしては、この恐るべき爆弾を、かつての首都にも新しい首都にも投下することはできない。
 その点で私とスティムソンは完全に一致している。目標は、軍事物に限られる。」とある。

 1945年7月25日、マンハッタン計画の最高責任者グローヴスが作成した原爆投下指令書が発令される(しかし、それをトルーマンが承認した記録はない)。
 ここで「広島・小倉・新潟・長崎のいずれかの都市に8月3日ごろ以降の目視爆撃可能な天候の日に「特殊爆弾」を投下する」とされた。
 1945年8月2日、第20航空軍司令部が「野戦命令第13号」を発令し、8月6日に原子爆弾による攻撃を行うことが決定した。
 攻撃の第1目標は「広島市中心部と工業地域」(照準点は相生橋付近)、予備の第2目標は「小倉造兵廠ならびに同市中心部」、予備の第3目標は「長崎市中心部」であった。
 1945年8月6日、広島市にウラニウム型原子爆弾リトルボーイが投下された(広島市への原子爆弾投下)。

 1945年8月8日、第20航空軍司令部が「野戦命令第17号」を発令し、8月9日に2回目の原子爆弾による攻撃を行うことが決定した。
 攻撃の第1目標は「小倉造兵廠および市街地」、予備の第2目標は「長崎市街地」(照準点は中島川下流域の常盤橋から賑橋付近)であった。
 1945年8月9日、第1目標の小倉市上空が視界不良であったため、第2目標である長崎市にプルトニウム型原子爆弾ファットマンが投下された(長崎市への原子爆弾投下)。
 小倉が視界不良であった理由には天候不良のほか、八幡大空襲で生じた煙によるなどの説がある。

 ▼模擬原子爆弾「パンプキン」の投下訓練

 1945年7月20日以降、第509混成部隊は長崎に投下する原子爆弾(ファットマン)と同形状の爆弾に通常爆薬を詰めたパンプキン爆弾(総重量4,774キログラム、爆薬重量2,858キログラム)の投下訓練を繰り返した。
 すなわち、原子爆弾の投下予行演習である。
 テニアン島から日本列島の原子爆弾投下目標都市まで飛行して都市を目視観察した後に、その周辺の別な都市に設定した訓練用の目標地点に正確にパンプキンを投下する練習が延べ49回、30都市で行われた。
 パンプキン練習作戦は、1945年7月24日、7月26日、7月29日、8月8日及び8月14日と終戦直前まで行われた。

 ▼原子爆弾の輸送とインディアナポリス撃沈事件

 パンプキン爆弾による訓練に並行して、完成した原子爆弾を部品に分けての輸送が行われた。
 損傷の修理のために戦列を離れていたアメリカ海軍のポートランド級重巡洋艦インディアナポリスは、原子爆弾運搬の任務を与えられ1945年7月16日にサンフランシスコを出港し、7月28日にテニアン島に到着した。
 また、アメリカ陸軍航空隊(現・アメリカ空軍)のダグラスC-54スカイマスター輸送機がウラン235のターゲットピースを空輸した。
 この原子爆弾の最終組立は、テニアン島の基地ですべて極秘に行われた。
 このインディアナポリスは、帰路の1945年7月30日フィリピン海で、橋本以行海軍中佐が指揮する日本海軍の伊号第五八潜水艦の魚雷によって撃沈されている(インディアナポリス撃沈事件)。
 この潜水艦は、当時、特攻兵器である人間魚雷回天を搭載しており、回天隊員から出撃要求が出されたが、「雷撃でやれる時は雷撃でやる」と通常魚雷で撃沈した。インディアナポリスの遭難電報は無視され、海に投げ出された乗員の多くが疲労・低体温症・サメの襲撃にあって死亡した。
 そのため、原子爆弾には「インディアナポリス乗員の思い出に」と白墨(チョーク)で記された。
 インディアナポリス艦長チャールズ・バトラー・マクベイ3世大佐はその後軍法会議に処せられたが、自艦を戦闘で沈められたために処罰された艦長は珍しい。
 第二次世界大戦後、米軍は原爆輸送の機密漏洩を疑い、橋本潜水艦長を長く尋問したが、その襲撃は偶然であった。インディアナポリスがテニアン島への往路に撃沈されていれば、1945年8月6日の広島市への原子爆弾投下は不可能となっていた。

 ▼日本の対応

 1945年当時、大本営と大日本帝国陸軍中央特種情報部(特情部)は、サイパン島方面のB-29部隊について、主に電波傍受によってその動向を24時間体制で監視していた。
 大本営陸軍部第2部第6課(情報部米英課)に所属していた堀栄三が後に回想したところによれば、第509混成部隊がテニアン島に進出したことや、進出してきたB-29の中の一機が飛行中に長文の電報をワシントンに向けて打電したこと(このようなことは通常発生しない)、それ以前からサイパン方面に存在していた他のB-29部隊が基本的にV400番台、V500番台、V700番台のコールサインを用いていたのと異なり、第509混成部隊がV600番台のコールサインを使用していたことから、東京都杉並区にあった陸軍特殊情報部(現在、高井戸にある社会福祉法人浴風会本館内)では新部隊の進出を察知していた。
 その後1945年6月末ごろから、この「V600番台」のB-29がテニアン島近海を飛行し始め、7月中旬になると日本近海まで単機または2、3機の小編隊で進出しては帰投する行動を繰り返すようになったことから、これらの機体を特情部では「特殊任務機」と呼び警戒していた。
 しかし、これらのB-29が原爆投下任務のための部隊であったことは、原子爆弾投下後のトルーマンの演説によって判明したとのことであり、「特殊任務機」の目的を事前に察知することはできなかった。
 だが、事態が判明した後の長崎原爆投下を阻止しようとしなかったのかについては不明で、付近に当時日本軍の最新鋭機の一つである紫電改を装備した第三四三海軍航空隊が待機していたのに関わらず、海軍が部隊に出撃命令を下さなかったのかについては帝国陸軍中央特種情報部の高官が情報を握りつぶし、情報が海軍へ伝えられなかったからだと当時の関係者はインタビュー[要文献特定詳細情報]で答えている。

 そもそも、日本軍は当時日本でも原子爆弾開発が行われていたにもかかわらず、同盟国のドイツやイタリアから亡命してきた科学者たちによるアメリカにおける原子爆弾開発の進捗状況をほとんど把握しておらず、およそ特情部においては1945年「7月16日ニューメキシコ州で新しい実験が行われた」との外国通信社の記事が目についたのみであった。
 もちろん、これはトリニティ実験を指した報道であったのであるが、実験直後の時点ではその内容は公開されておらず、当時の日本軍にその内容を知る術はなかった。
 それを踏まえ、堀は「原爆という語は、その当時かけらほどもなかった」と語っている。
 また、特情部では、当時スウェーデンの日本大使館に勤務していた駐在武官を通じて経由して入手したアメリカ海軍のM-209暗号装置を用いた暗号解読も進めていたが、この暗号解読作業において「nuclear」(原子核)の文字列が現れたのが、広島と長崎に原子爆弾が投下された直後の8月11日のことであった。
 当初は、軍部(主に陸軍)は新爆弾投下に関する情報を国民に伏せていたが、広島及び長崎を襲った爆弾の正体が原爆であると確認した軍部は報道統制を解除。
 11日から12日にかけて日本の新聞各紙は広島に特派員を派遣し、広島を全滅させた新型爆弾の正体が原爆であると読者に明かした上、被爆地の写真入りで被害状況を詳細に報道した。
 これによって、当時自国でも開発が進められていたもののその詳細は機密扱いであったこともあり、一般にはSF小説、科学雑誌などで「近未来の架空兵器」と紹介されていた原爆が発明され、日本が攻撃を受けたことを日本国民は初めて知ったのである。

 なお、この原爆報道によって、新潟県は8月11日に新潟市民に対して「原爆疎開」命令を出し、大半の市民が新潟市から脱出し新潟市は無人都市になった。その情報は8月13日付の讀賣報知(現・読売新聞)に記載された。
 これは新潟市も原爆投下の目標リストに入っているらしいという情報が流れたからである。
 原爆疎開が行われた都市は新潟市だけであった。また東京でも、単機で偵察侵入してきたB-29を「原爆搭載機」、稲光を「原爆の閃光」と誤認することもあった。
 1945年8月15日終戦の日の午前のラジオ放送で、仁科芳雄博士は原爆の解説を行った。
 さらに8月15日正午、戦争の終結を日本国民に告げるために行われたラジオ放送(玉音放送)で、原爆について「敵ハ新ニ残虐ナル爆彈ヲ使用シテ無辜ヲ殺傷シ惨害ノ及フ所眞ニ測ルヘカラサルニ至ル(敵は新たに残虐な爆弾を使用して、罪もない者たちを殺傷し、悲惨な損害の程度は見当もつけられないまでに至った)而モ尚交戰ヲ繼續セムカ終ニ我カ民族ノ滅亡ヲ招來スルノミナラス延テ人類ノ文明ヲモ破却スヘシ(それなのになお戦争を継続すれば、ついには我が民族の滅亡を招くだけでなく、さらには人類の文明をも破滅させるに違いない。)」と詔があった(第二次世界大戦中、日本の軍部にも二つの原子爆弾開発計画が存在していた。陸軍の「ニ号研究」と海軍のF研究である)。
 正確な犠牲者数などは、連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ / SCAP) 占領下では言論統制され、サンフランシスコ講和条約発効で日本が主権を回復した1952年に初めて報道された。

 ◆新型爆弾への心得

 原子爆弾が広島・長崎に投下された後、日本の報道機関は号外を出し、原子爆弾への対策とその心得を国民へ伝達している。

 東京朝日新聞 昭和二十年八月十一日付特報(送り仮名等は実際に掲載されたものに則っている) 新型爆彈への心得 防空總本部發表 橫穴式防空壕が有效 初期防火・火傷に注意 國際法を無視した廣島の新型爆彈を、現地に出張、視察した陸海軍および防空總本部の專門家の調査に基いて新型爆彈に對する心得を防空總本部から十一日發表した、なほさきに二回にわたつて發表された注意は有效であるから今回の左記注意を追加すれば一層完璧である。

 一、落下傘やうのものが降下するから目撃したら確實に待避すること
 二、鐵筋コンクリート造りの建物は安全度が高いからこれを有效に利用すること しかし窓ガラスは破壞するからこれがための負傷を注意すること、壁、柱型、窓下、腰壁を待避所とすると有效である
 三、破壞された建物から火を發するから初期防火に注意すること
 四、傷害は爆風によるものと火傷であるがそのうちでも火傷が多いから火傷の手當を心得えておくこと、もつとも簡單な火傷の手當法は油類を塗るか鹽水で濕布をするがよい
 五、横穴式防空壕は堅固な待避壕と同樣に有效である
 六、白い衣類は火傷を防ぐために有效である(但し白い着衣は小型機の場合は目標となり易い、よく注意のこと)
 七、待避壕の入口は出來るだけふさぐのがよろしい 八、蛸壺式防空壕は板一枚でもしておくと有效である

 ▼第三の原子爆弾投下準備

 終戦直前、アメリカは出来る限りいくつかの原子爆弾の製造を順次進めており、長崎への原子爆弾投下後も、第三の原爆を落とす準備に入ろうとしていた。
 8月15日に日本が降伏を表明するわずか数時間前(米国時間14日)、トルーマンは英国外交官を前に「第三の原爆投下を命令する以外に選択肢はない」と漏らしていたが、日本が降伏したことで第三の原子爆弾が日本に投下されることはなかった。
 仮に第三の原子爆弾の投下命令が下った際、その候補地は小倉市、京都市、新潟市など諸説あるが、1945年8月14日に愛知県で行われた7発のパンプキン爆弾の投下は、3発目の原子爆弾の投下訓練であったとされ、いずれも爆撃機が京都上空を経由した後に愛知県に投下していることから、第三の原子爆弾の標的は京都市であったと考えられる理由の一つとなっている。
 また、プルトニウムコアの輸送が遂行されて原爆を完成させた後、8月19日か20日に東京に投下する予定であったという情報もある。
 また広島市・長崎市に投下された新型爆弾が、新潟市にも落とされるとの畠田昌福新潟県知事の見解により、「罪の無い市民を皆殺しにしようとする敵の作戦に肩透かしをくらわせる」と述べた上で、新潟市の中心から5里(約20キロメートル)以上疎開することを求めた布告を8月11日に出したため、新潟市の中心部が終戦直後まで無人状態になった。
 なお、新潟への投下については出撃基地のテニアン島から遠い上、目標の都市規模が小さすぎること等から、8月6日、8月9日共に予備投下目標にすら選ばれなかったという。

   〔ウィキペディアより引用〕



in the name of ending the war Chord : 10 マンハッタン計画②

2023-08-23 21:00:00 | 日記

 マンハッタン計画②

 ▼トリニティ実験

 1945年7月16日、アメリカのニューメキシコ州ソコロの南東48kmの地点にあるアラモゴード砂漠のホワイトサンズ射爆場において人類史上初の核実験「トリニティ」が実施された。爆発実験に使用された人類最初の原子爆弾はガジェットというコードネームをつけられ、爆縮レンズを用いたインプロージョン方式のテストを目的としたものだった。
 のちに長崎に投下された原子爆弾「ファットマン」が同様の構造をしていたが、ファットマンのように空中からの投下ではなく、鉄製のタワーの上に備え付けられた状態で爆発させた。
 ファットマンおよび、広島に投下されたリトルボーイは、このガジェットと並行して製造された。

 トリニティ実験
(トリニティじっけん)
 (英語: Trinity, Trinity test)

 1945年7月16日にアメリカ合衆国で行なわれた人類最初の核実験である。


 アメリカ・ニューメキシコ州ソコロの南東48キロメートル (km)(北緯33.675度、西経106.475度)の地点で行なわれた爆縮型プルトニウム原子爆弾(原爆)の爆発実験で、同型の爆弾『ファットマン』が、後に日本の長崎県長崎市に投下された。
 この実験による核爆発は、約25キロトン (kt) のTNTの爆発と同規模のものであった。
 この核実験をもってしばしば核の時代の幕開けとされるほか、人工放射性物質の環境への拡散が開始された時として地質年代である人新世の始まりとされることもある。

 《実験までの経緯》

 核兵器の開発は、1930年代後半の政治潮流と科学の発展に端を発する。この時代にヨーロッパでファシスト政権が誕生したことと、原子の性質に関する新たな発見がなされたこととが一つの流れにまとまり、アメリカ合衆国とイギリスにおいて、原子核分裂反応をエネルギー源とする、強力な兵器を開発する計画が生まれた。
 この計画はマンハッタン計画と呼ばれ、最終的には1945年7月に、トリニティ実験場と呼ばれる場所で行なわれた、人類初の核実験と、その数週間後の広島・長崎への原子爆弾投下へとつながった。

 《原爆投下》

 米国政府のヘンリー・スティムソン陸軍長官の下に設けられた暫定委員会は6月1日、原爆投下が複合的効果をもたらすよう、標的に無警告で投下すべきであると決議した。
 7月16日のトリニティ実験から一ヶ月も経たないうちに、日本に原子爆弾が投下された。原子爆弾は、8月6日に日本の広島に投下され(リトルボーイ)、さらに8月9日に長崎に投下された(ファットマン)。

 ■日本への原子爆弾投下■

 日本への原子爆弾投下
(にほんへのげんしばくだんとうか)

 第二次世界大戦(大東亜戦争/太平洋戦争)の末期である1945年(昭和20年)8月に、連合国のアメリカ合衆国が枢軸国の日本に投下した2発の原子爆弾による空爆。
 1945年7月に最初の原子爆弾が完成した。
 これらの投下は人類史上初、なおかつ世界で唯一核兵器が実戦使用されたものである。日本国においては、1963年の東京地方裁判所の判決により、これらの原爆投下は「国際法違反であった」という司法的判断が確定した。

 広島市に投下されたリトルボーイ、長崎市に投下されたファットマンの2発、および投下されなかった3発目の原子爆弾を含めて総論的に述べる。

 《投下の理由》

 第二次世界大戦(大東亜戦争/太平洋戦争)における日本列島での上陸直接戦闘(ダウンフォール作戦、日本軍では「決号作戦」)を回避し、早期に決着させるために原子爆弾が使用されたとするのが、アメリカ政府による公式な説明である。
  1932年から日米開戦時まで10年間駐日大使を務め、戦争末期には国務長官代理を務めたジョセフ・グルーは、「ハリー・S・トルーマン大統領が(グルーの勧告どおりに)、皇室維持条項を含む最後通告を1945年5月の段階で発していたなら、日本は6月か7月に降伏していたので原爆投下は必要なかった」と述べている。
 アメリカのABCテレビが1995年に放送した「ヒロシマ・なぜ原爆は投下されたのか(Hiroshima: Why the Bomb was Dropped)」という番組では「原爆投下か本土上陸作戦しか選択肢がなかったというのは歴史的事実ではない。
 他に皇室維持条項つきの降伏勧告(のちにこの条項が削除されてポツダム宣言となる)を出すなどの選択肢もあった。
 従って、原爆投下という選択はしっかりとした根拠に基づいて決断されたものとはいえない」という結論を示した。

 原爆を日本に使用する場合、大きく分けて以下の3つの選択肢があった。
 原爆を軍事目標(軍港や基地など)に落とし大量破壊する。

 1.原爆を無人島、あるいは日本本土以外の島に落として威力をデモンストレーションする。

 2.原爆を軍事目標(軍港や基地など)に落とし大量破壊する。

 3.原爆を人口が密集した大都市に投下して市民を無差別に大量殺戮する。

 また、原爆を使用するにしても、2つの方法があった。
 (A)事前警告してから使用する。
 (B)事前警告なしで使用する。
 1の使い方ならば、絶大な威力は持っているがただの爆弾ということになり、さらに2ならば大量破壊兵器、3ならば大量殺戮兵器になり、いずれも国際法に違反して、人道に反する大罪となる。
 しかし、3と(A)の組み合わせならば、警告がしっかりと受け止められて退避行動をとることができれば死傷者の数をかなり少なくできる可能性があり、大量殺戮兵器として使ったとは言えなくなるかもしれない。
 3と(B)の組み合わせならば、まちがいなく無差別大量殺戮であり、しかもその意図がより明確なので、それだけ罪が重くなると言える。
 この違いを、原爆を開発した科学者たちや、1945年5月31日に都市への無警告投下を決定した暫定委員会のメンバー、真珠湾攻撃の復讐を公言していたトルーマン大統領、彼とタッグを組んでいたジェームズ・F・バーンズ国務長官たちは非常によく理解していた。
 たとえば、海軍次官のラルフ・バードはあとになって、自分は事前警告なしでの使用には同意しないと文書で伝えた。
 フランクリン・ルーズベルト大統領は1944年9月22日の段階で、実際の原爆を日本に使用するのか、それとも、この国で実験して脅威として使用するのかという問題を取り上げていた。
 同年9月30日には、アメリカ科学研究開発局長官のヴァネヴァー・ブッシュとアメリカ国防研究委員会化学・爆発物部門の主任ジェイムス・コナントはヘンリー・スティムソン陸軍長官に「原爆は最初の使用は、敵国の領土か、さもなければわが国でするのがいい。
 そして、降伏しなければ、これが日本本土に使われることになると日本に警告するとよい」と勧めた。
 1945年5月、イギリスはアメリカに、日本に対して原爆使用前に警告を与えるべきであると文書で要望していた。

 レオ・シラードが、原爆と原子力利用について大統領に諮問する暫定委員会に大統領代理として加わっていたバーンズ(約1ヶ月後に国務長官となる)と、1945年5月28日に会見したときに得た「バーンズは戦後のロシアの振る舞いについて懸念していた。
 ロシア軍はルーマニアとハンガリーに入り込んでいて、これらの国々から撤退するよう説得するのは難しいと彼は思っていた。
 そして、アメリカの軍事力を印象づければ、そして原爆の威力を見せつければ、扱いやすくなると思っていた」という証言は、「アメリカはソ連のヨーロッパでの勢力拡大を抑止するために原爆を使った」という主張の根拠となっている。
 有馬哲夫によると、トルーマンとバーンズが無警告で都市への原爆投下を強行した理由は、人種的偏見と真珠湾攻撃に対する懲罰、原爆をもっとも国際社会(とりわけソ連)に衝撃を与える大量殺戮兵器として使用することで、戦後の世界政治を牛耳ろうという野心からであると主張する。
 戦後の世界覇権を狙うアメリカが、原子爆弾を実戦使用することによりその国力・軍事力を世界に誇示する戦略であったとする説や、併せてその放射線障害の人体実験を行うためであったという説、更にはアメリカ軍が主導で仕組んだ説があり、広島にはウラン型(リトルボーイ)、長崎へはプルトニウム型(ファットマン)とそれぞれ違うタイプの原子爆弾が使用された。
 豊田利幸はウランの核爆発が実験で確認できなかったためと推測している。

 《背景と経緯》

 日本への原子爆弾投下までの道程は、その6年前のルーズベルト大統領に届けられた科学者たちの手紙にさかのぼる。
 そして、マンハッタン計画(DSM計画)により開発中であった原子爆弾の使用対象として日本が決定されたのは1943年5月であった。
 一方で、原子爆弾投下を阻止しようと行動した人々の存在もあった。
 具体的に広島市が目標と決定されたのは1945年5月10日であり、長崎市は投下直前の7月24日に予備目標地として決定された。
 また、京都市や新潟市や小倉市(現・北九州市、長崎市に投下されたファットマンの当初目標地)などが候補地とされていた。

 ▼イギリスとアメリカと日本における政策上の背景と経緯

 1939年1月、イギリス国王書簡局発行『年2回刊 陸軍将校リスト 1939年1月号』に、昭和天皇の名がイギリス正規軍の陸軍元帥として掲載される。
 1939年8月2日、アメリカへの亡命物理学者のレオ・シラードらからの提案を受けたアルベルト・アインシュタインがルーズベルト大統領に宛てた手紙において、原子爆弾がドイツにより開発される可能性に言及し、核エネルギー開発の支援を進言。
 1939年9月1日、第二次世界大戦が始まる。 1939年10月11日、その手紙(アインシュタイン=シラードの手紙)がルーズベルト米大統領に届けられる。 1939年10月21日、アメリカはウラン諮問委員会を設置。 1940年4月10日、イギリスが、第一回ウラン爆発軍事応用委員会(MAUD委員会)の会議を開催。

 1940年4月、理化学研究所の仁科芳雄がウラン爆弾計画を安田武雄陸軍航空技術研究所長に進言。
 1940年4月、安田武雄中将が部下の鈴木辰三郎に「原子爆弾の製造が可能であるかどうか」について調査を命じた。
 1940年6月、鈴木辰三郎は東京帝国大学(現・東京大学)の物理学者嵯峨根遼吉(当時は助教授)の助言を得て、2か月後に「原子爆弾の製造が可能である」ことを主旨とする報告書を提出。
 1940年7月6日、すでに仁科芳雄等がイギリスの学術雑誌『ネイチャー』に投稿してあった『Fission Products of Uranium produced by Fast Neutrons(高速中性子によって生成された核分裂生成物)』と題する、2個の中性子が放出される (n. 2n) 反応や、複数の対象核分裂を伴う核分裂連鎖反応(臨界事故)を起こした実験成果が、掲載された。
 この実験では臨界量を超える天然ウラン(ウラン238-99.3%, ウラン235-0.7%)に高速中性子を照射したわけだが、現在ではそのことによってプルトニウム239が生成されることや、核爆発を起こすことが知られている。
 1941年4月、日本陸軍が理研に原爆の開発を依頼。
 ニ号研究と名付けられた。
 1941年7月15日、イギリスのMAUD委員会は、ウラン爆弾が実現可能だとする最終報告を承認して解散。

 1941年10月3日、MAUD委員会最終報告書が、公式にルーズベルト大統領に届けられる。
 1941年11月末、後に連合国軍最高司令官総司令部の主要メンバーとなるユダヤ人ベアテ・シロタ・ゴードンの母で、日本の貴族院議員のサロンを主催していたオーギュスティーヌが、夫レオ・シロタと共にハワイから再来日。
 1941年12月8日、日本がイギリス領マラヤでマレー作戦を、アメリカ準州のハワイで真珠湾攻撃を行ない、第二次世界大戦(大東亜戦争/太平洋戦争)が勃発。日本とアメリカは敵味方として第二次世界大戦に参戦することとなった。
 1942年9月26日、アメリカの軍需生産委員会(英語版)が、マンハッタン計画を最高の戦時優先等級に位置づけた。
 1942年10月11日、アメリカはイギリスにマンハッタン計画への参画を要請。
 1944年7月9日、朝日新聞に、『決勝の新兵器』と題して「ウラニウムに中性子を当てればよいわけだが、宇宙線には中性子が含まれているので、早期爆発の危険がある。
 そこで中性子を通さないカドミウムの箱に詰め、いざという時に覆をとり、連鎖反応を防ぐために別々に作ったウラニウムを一緒にして中性子を当てればよい。」という記事が掲載された。
 ウラン原爆の起爆操作と全く同じであった。
 1945年7月26日、日本への最後通告としてポツダム宣言を発表した。

 ▼ルーズベルトの決断

 1939年9月1日に第二次世界大戦が勃発した。
 ユダヤ人迫害政策を取るナチス党率いるドイツから逃れてアメリカに亡命していた物理学者のレオ・シラードたちは、当時研究が始まっていた原子爆弾をドイツが保有することを憂慮し、アインシュタインとの相談によって、原子爆弾の可能性と政府の注意喚起をルーズベルト大統領へ進言する手紙を作成した。
 アインシュタインの署名を得たこの手紙は1939年10月11日に届けられた。
 その手紙には原子爆弾の原材料となるウラニウム(ウラン)鉱石の埋蔵地の位置も示されていた。
 ヨーロッパのチェコのウラン鉱山はドイツの支配下であり、アフリカのコンゴのウラン鉱山をアメリカが早急におさえることをほのめかしている。
 ルーズベルト大統領は意見を受けてウラン諮問委員会を一応発足させたものの、この時点ではまだ核兵器の実現可能性は未知数であり、大きな関心は示さなかった。

 2年後の1941年7月、イギリスの亡命物理学者オットー・ロベルト・フリッシュ (Otto Robert Frisch) とドイツのルドルフ・パイエルスがウラン型原子爆弾の基本原理とこれに必要なウランの臨界量の理論計算をレポートにまとめ、これによってイギリスの原子爆弾開発を検討する委員会であるMAUD委員会が作られた。 
 そこで初めて原子爆弾が実現可能なものであり、航空爆撃機に搭載可能な大きさであることが明らかにされた。
 ウィンストン・チャーチル首相が北アフリカでのイギリス軍の大敗などを憂慮してアメリカに働きかけ、このレポートの内容を検討したルーズベルト大統領は1941年10月に原子爆弾の開発を決断した。
 1942年6月、ルーズベルトはマンハッタン計画を秘密裏に開始させた。総括責任者にはレズリー・グローヴス准将を任命した。
 1943年4月にはニューメキシコ州に有名なロスアラモス国立研究所が設置される。
 開発総責任者はロバート・オッペンハイマー博士。
 20億ドルの資金と科学者・技術者を総動員したこの国家計画の技術上の中心課題はウランの濃縮である。
 テネシー州オークリッジに巨大なウラン濃縮工場が建造され、2年後の1944年6月には高濃縮ウランの製造に目途がついた。
 1944年9月18日、ルーズベルトとチャーチルは、ニューヨーク州ハイドパークで米英首脳会談を行った。
 内容は核に関する秘密協定(ハイドパーク協定)であり、原爆が完成すれば日本への原子爆弾投下の意志が示され、核開発に関する米英の協力と将来の核管理についての合意がなされた。

 前後して、ルーズベルトは原子爆弾投下の実行部隊(第509混成部隊)の編成を指示した。
 混成部隊とは陸海軍から集めて編成されたための名前である。
 1944年9月1日に隊長を任命されたポール・ティベッツ陸軍中佐は、12月に編成を完了し(B-29計14機および部隊総員1,767人)、ユタ州のウェンドバー基地で原子爆弾投下の秘密訓練を開始した。
 1945年2月には原子爆弾投下機の基地はテニアン島に決定され、部隊は1945年5月18日にテニアン島に移動し、日本本土への原爆投下に向けた準備を開始した。

 ▼原子爆弾投下阻止の試みと挫折

 デンマークの理論物理学者ニールス・ボーアは、1939年2月7日、ウラン同位体の中でウラン235が低速中性子によって核分裂すると予言し、同年4月25日に核分裂の理論を米物理学会で発表した。
 この時点ではボーアは自分の発見が世界にもたらす影響の大きさに気づいていなかった。
 1939年9月1日、第二次世界大戦が勃発し、ドイツによるヨーロッパ支配拡大とユダヤ人迫害を見て、ボーアは1943年12月にイギリスへ逃れた。
 そこで彼は米英による原子力研究が平和利用ではなく、原子爆弾として開発が進められていることを知る。
 原子爆弾による世界の不安定化を怖れたボーアは、これ以後ソ連も含めた原子力国際管理協定の必要性を米英の指導者に訴えることに尽力することになる。
 1944年5月16日に、ボーアはチャーチルと会談したが説得に失敗、同年8月26日にはルーズベルトとも会談したが同様に失敗した。
 逆に同年9月18日の米英のハイドパーク協定では、ボーアの活動監視と、当時英米との対立姿勢が目立ってきたソ連との接触阻止が盛り込まれてしまう。
 さらに、ルーズベルト死後の1945年4月25日に、ボーアは科学行政官のヴァネヴァー・ブッシュと会談し説得を試みたが、彼の声が時の政権へ届くことはなかった。

 また、1944年7月にシカゴ大学冶金研究所のアーサー・コンプトンが発足させたジェフリーズ委員会が原子力計画の将来について検討を行い、1944年11月18日に「ニュークレオニクス要綱」をまとめ、原子力は平和利用のための開発に注力すべきで、原子爆弾として都市破壊を行うことを目的とすべきではないと提言した。
 しかし、この提言が生かされることがなくなったのは、トルーマンが政権を引き継いでからのことである。
 当初、ルーズベルトは、原子爆弾を最初から日本に投下するつもりはなく、1944年5月に日本への無条件降伏の要求を取り下げ、アメリカ国務省極東局長を対日強硬策を布いたスタンリー・クール・ホーンベックから、駐日大使を歴任したジョセフ・グルーに交代するなど、日本への和平工作を行っていた。
 これらのアメリカ側の動きを日本側は、アメリカ軍の損耗を最小限にするため行っているという認識であったが、ルーズベルトは、中国で国共内戦が勃発することを恐れており、その予防に兵力を振り向けたい思いで、動いていたのであった。

 ▼トルーマン政権と軍の攻防、和平工作の破綻

 1945年4月12日にルーズベルトが急死したことによって、急遽、副大統領だったハリー・S・トルーマンが第33代大統領に昇進した。
 ナチス・ドイツ降伏後の1945年5月28日には、アメリカに核開発を進言したその人であるレオ・シラードが、後の国務長官バーンズに原子爆弾使用の反対を訴えている。
 バーンズはマンハッタン計画の責任者の一人として、東ヨーロッパで覇権を強めるソ連を牽制するために、日本に対する原爆攻撃を支持しており、天皇の護持が容れられれば、日本には終戦交渉の余地があるとする、戦後日本を有望な投資先と考える国務次官グルー、陸軍長官スティムソン、海軍長官ジェームズ・フォレスタルら三人委員会とは正反対の路線であった。
 「一発で都市を吹っ飛ばせる兵器を、我々アメリカが所有していることを事前警告すべきである。
 それでも降伏しなければ原爆を投下すると日本政府に伝えるべきだ」と主張し無警告の原爆投下に反対を訴えた陸軍次官のジョン・J・マクロイに対して、バーンズは「それはアメリカの弱さを示すものだ、原爆投下前に天皇制を保証し降伏を呼びかけるのは反対だ」と述べる。

 1945年6月11日には、シカゴ大学のジェイムス・フランクが、グレン・シーボーグ、レオ・シラード、ドナルド・ヒューズ、J・C・スターンス、ユージン・ラビノウィッチ、J・J・ニクソンたち7名の科学者と連名で報告書「フランクレポート」を大統領諮問委員会である暫定委員会に提出した。
 その中で、社会倫理的に都市への原子爆弾投下に反対し、砂漠か無人島でその威力を各国にデモンストレーションすることにより戦争終結の目的が果たせると提案したが、暫定委員会の決定が覆ることはなかった。
 また同レポートで、核兵器の国際管理の必要性をも訴えていた。
 1945年7月1日、チャーチル英首相がアメリカによる日本への原爆使用に最終同意して署名していたことが、後に英国立公文書館所蔵の秘密文書で判明した。
 打診は、アメリカが核兵器開発に成功してもイギリスが同意しなければ使用できないなどと定めた1943年8月の「ケベック協定」に基づく。
 なお、原爆投下前にチャーチルは首相を退任している。
 さらに1945年7月12日、シカゴ大学冶金研究所で原爆の対日使用に関するアンケートがあった。
 それによると、科学者150人のうちの85%が無警告での原爆投下に反対を表明している。
 7月17日にもシラードら科学者たちが連名で原子爆弾使用反対の大統領への請願書を提出したが、原爆投下前にトルーマンに届けられることはなかった。
 マンハッタン計画の指揮官であるグローヴス陸軍少将が請願書を手元に置き、大統領に届かないように妨害したためであった。
 軍人では、ドワイト・D・アイゼンハワー将軍が、対日戦にもはや原子爆弾の使用は不要であることを、1945年7月20日にトルーマンに進言しており、アメリカ太平洋艦隊司令長官チェスター・ニミッツ提督も、都市への投下には消極的で、ロタ島への爆撃を示唆している。

 また連邦政府側近でも、ラルフ・バードのように原子爆弾を使用するとしても、事前警告無しに投下することに反対する者もいた。
 7月24日のポツダム会談でチャーチルは、1944年9月にトルーマンの前任のルーズベルトと日本への原爆使用を密約した「ハイドパーク協定」を持ち出し、「警告なしで使用すべきだ」とトルーマンに迫った。
 また、大統領だったトルーマン自身も、自身の日記に「原爆の投下場所は、軍事基地を目標にする事。
 決して一般市民をターゲットにする事がないようにとスティムソンに言った。」と記述していたため、非戦闘員である民間人を殺戮する原爆投下には反対していたことが明らかになっている。

 しかしマンハッタン計画の責任者だったグローヴスは、原爆による最大の破壊効果を得たいが為に「広島は軍事都市である」との偽装した報告書を提出した挙げ句、勝手に原爆投下指令書を作成した(当然ながら大統領だったトルーマンがそれを許可した証拠はない)

 そして、ワシントンで原爆投下の一報を聞いたグローブスは、原爆開発をした科学者たちに対し「君たちを誇りに思う。」とねぎらったという。

   〔ウィキペディアより引用〕

 

雑談ネタにもならない雑学 ♯04ー④

2023-08-22 21:00:00 | 日記

 ■平和って何?④

 ▼折鶴

 折鶴(おりづる、折り鶴)は、正方形の紙を折って鶴に似せた形に作るもので、折り紙の一種。
 最もポピュラーな作品のひとつであり、折り方も簡単なため多くの世代に知られている。
 初心者向けの折り紙本の多くには作り方が掲載されている。

 1枚の紙に切り込みを入れて、多数の折鶴を完全に切り離さずにくっついた状態で折る「連鶴」や、単体の折鶴を多数折って繋げていく「千羽鶴」などもある。
 他に尻尾を引っ張ることで羽を動かすものもある。
 また、折り終えた際に鶴の下部に息を吹き込むことで、胴体部分を膨らませることができる。
 広島の七夕や仙台七夕などでは、七夕飾りの一つとして折り鶴を用いる。

 《歴史》

 折鶴が文献に現れるのは江戸時代であり、井原西鶴の1682年に出版された『好色一代男』の中で、主人公の世之介が「比翼の鳥のかたち」をした「をり居(おりすえ)」をつくるという記述がある。
 ただし『好色一代男』では図や絵がなく文章のみで書かれているため、「比翼の鳥」の折り紙がどのようなものなのかは定かではない。
 はっきりと折鶴が描かれるのは1700年に出版された『當流七寶 常盤ひいなかた』である。
 そのひいなかたの中の121番「落葉に折鶴」の項に、着物の模様として折鶴が描かれている。
 その後、折鶴を発展させた連鶴が誕生した。明確な形で連鶴が記載されているのは1797年に京都で出版された『秘伝千羽鶴折形』である。
 しかし1800年前後の複数の錦絵(浮世絵)には連鶴と思しき連なった鶴が描かれており、『秘伝千羽鶴折形』以前から連鶴が存在していたと考えられている。
 具体的には、少なくとも18世紀後半には江戸で連鶴が折られていたと考えられる。

 『秘伝千羽鶴折形』はその後その存在が忘れ去られていたが、1957年に吉澤章が国際折紙研究会の機関紙「O・T通信」で発表し、更に同年の『週刊朝日』の書評欄で紹介されたことにより、一般の人にも広く知られることとなった。
 折り鶴を1000羽作り、糸で束ねたものを千羽鶴という。
 現在折り鶴や特にこの千羽鶴を、幸福祈願、災害慰安、病気快癒・長寿などの願いをこめて、寺社に贈ったり、被災者や入院患者へ贈ったりする習慣がある。  
 この理由の一つには「鶴は千年、亀は万年」という慣用句があることがあげられる。

 ▼平和の祈り

 また広島市への原子爆弾投下により被爆し、後に白血病で死亡した佐々木禎子が、生前に病気の恢復を祈って折り鶴を折り続けたというエピソードも広く知られている。
 佐々木禎子のエピソードや千羽鶴・折り鶴はカルル・ブルックナーの"Sadako will leben"(サダコは生きる)やエレノア・コアの"Sadako and the Thousand Paper Cranes"(サダコと千羽鶴)によって広く英語圏にも知られることとなった。
 そのため千羽鶴は世界平和の象徴としてとらえられ、広島平和記念公園などに供えられている。
 また広島平和記念資料館には2016年に同地を訪問したアメリカのバラク・オバマ大統領が自ら折って持参した折り鶴がメッセージとともに展示されている。
 2017年には同大統領から長崎市にも折り鶴が贈られた。
 長崎の爆心地を中心に作られた平和公園には「折鶴の塔」がある。

 ▼千羽鶴

 千羽鶴(せんばづる)は、多数の鶴の描かれた模様や絵画、および折り紙である折り鶴を1000羽作り、糸などで綴じて束ねたものを指す。
 瑞鳥である鶴が千羽(多数)いることから更なる瑞兆を表す。
 千羽は多数の意味で、1000羽ちょうどでなくてもよい。
 かつては社寺に奉納されていたが、現在は祝福、幸福祈願、災害などへの慰安、病気平癒祈願、見舞いなどを目的に作成や贈呈が行われている。

 広島市への原子爆弾投下で被爆し、原爆症で死亡した佐々木禎子が自らの延命を祈って作ったことから、平和の象徴にもなっている。

 《歴史》

 千羽鶴の起源ははっきりとは分かっていない。
 かつては、1797年の魯縞庵義道の『秘傳千羽鶴折形』のように連鶴を「千羽鶴」と呼称していた。
 『秘傳千羽鶴折形』の序文では、鶴と富、折り鶴と長寿祈願を結びつけている。
 小川未明の作品「千羽鶴」(1916年)には、小さな紙で作った折り鶴を糸でつなぐという記述があり、少なくともこの時代には現代のような形の千羽鶴が存在していたことがわかる。
 戦前には、糸に通した折り鶴を「千羽鶴」と呼称し、女児の技芸上達祈願として淡島・鬼子母神などの寺社にささげていた。

 ◆平和の象徴に

 折り鶴や千羽鶴が平和の象徴となったのは、原爆の子の像のモデルになった原爆被爆者の少女、佐々木禎子が千羽鶴を折ったことによる。
 1955年2月に亜急性リンパ性白血病と診断され、広島赤十字病院に入院していた佐々木禎子は、1955年5月に岐阜県または愛知県の人からもらった慰問の手紙に、5cmほどのセロハンの折り鶴がはさんであるのを見て、折り鶴を千羽折れば病気が治ると信じて鶴を折り始めたようである。
 1995年の中国新聞によれば、愛知淑徳高青少年赤十字団員が原爆患者に贈った4千羽の折り鶴のうち、2千羽が広島赤十字病院に贈られている。
 佐々木禎子は、自分で折り鶴を折り上げることにこだわっていたようである。 
 佐々木禎子の折った折り鶴の数については諸説あるが、実兄の佐々木雅弘によれば、最初の千羽は自らの病気治癒祈願として、次の千羽は父の借金のことを祈っていたという。
 佐々木禎子は1955年10月に亡くなるが、その思いは同級生や他の被爆者により引き継がれ、原爆の犠牲になったすべての子供たちへの慰霊として1958年5月に原爆の子の像が平和記念公園に建てられる。
 この原爆の子の像の塔の鐘には、湯川秀樹により「千羽鶴」と彫られている。 
 この物語はフィクションも巻き込みながら海外へと紹介され、千羽鶴は単純な長寿祈願を超えて、「生きたい」という生存権利の主張という意味合いを持って世界に広がっていった。
 1999年と2000年の広島市のアンケートでは、佐々木禎子と千羽鶴について、日本以上に海外で知られているという結果が出ている。

 関連項目
      ー 秘傳千羽鶴折形 ー

 秘伝千羽鶴折形
 (ひでんせんばづるおりかた)
 (秘傳千羽鸖折形)

 1797年(寛政9年)に京都の吉野屋為八によって初版が発行された、連鶴49種を集めた書のことである。
 連鶴の作者は、伊勢国桑名の長円寺11世住職・義道一円(ぎどういちえん、1762年 - 1834年、漢詩を書く際の号は魯縞庵(ろこうあん))である。
 編著者は「東海道名所図会」などで知られる秋里籬島(あきさとりとう)、絵師は竹原春泉斎。木版一色刷りで、現代の文庫本とほぼ同サイズの和綴じ本である。
 これは、現存する世界で最も古い遊戯折り紙の本と言われている。
 また、この折り方は「桑名の千羽鶴」として桑名市の無形文化財に指定されている。

 《概要》

 千羽鶴折形には、全部で49種の連鶴の作り方が掲載されている。
 更に原本の挿絵には50番目の作品(拾餌に似ている)と51番目の作品(釣りふねに似ている)が描かれている。
 それぞれの完成形には、和名の銘と、その銘にちなんだ恋に関する狂歌が添えられている。
 作品の作り方として紙にどのような切り込みを入れるかどうかは開いた紙に実線を入れることで示されている。
 ただし、唯一「百鶴」では紙を三角に八折りし、一度に切り込みを入れる方法が指示されている。
 これは本が書かれた江戸時代に流行していた紋切り遊びの手法である。
 千羽鶴折形は近年までその存在が忘れ去られていたが、1957年9月に吉澤章が国際折紙研究会の機関紙「O・T通信」で発表し、更に同年の『週刊朝日』の書評欄で紹介されたことにより、一般の人にも広く知られることとなった。
 また中西康大が魯縞庵が桑名に実在した人物であることや、編著者が秋里籬島であることをつきとめた。
 編著者の秋里籬島はこの本の製作にあたり作者を「露菊」として記載し、秋里籬島の名は自身の判子「籬島」を押印することによってのみ使用した。
 このため増版時には印が押されなくなり、編著者が秋里籬島であることがわからなくなってしまった。

 この本は魯縞庵がまとめた49種の連鶴を、秋里籬島が和名をつけて狂歌を添え、順序や書籍のレイアウトにも工夫を施して製作された。
 魯縞庵はこの本以前に100種の千羽鶴に漢名をつけ『素雲鶴』(そうんかく)という本にまとめていた。
 『素雲鶴』は現存していないと考えられていたが、2014年11月に長円寺本堂の書庫から『新撰素雲鶴』と書かれた冊子が見つかり、その中に挟まれていた連鶴の展開図が描かれた縦28cm、横39cmの美濃紙が『素雲鶴』の一部とみられている。
 『素雲鶴』と考えられるものには30種、『新撰素雲鶴』には158種類が収録されている。
 本の題名『千羽鶴折形』のうち、「千羽鶴」という単語は現代における連鶴を意味していた。
 また千羽鶴折形は明確な形で連鶴が記載された最古の本であるが、連鶴はこの本が出版される以前から存在したと考えられている。

 関連項目 ー 佐々木禎子 ー

 佐々木 禎子、(ささき さだこ)
 (1943年〈昭和18年〉1月7日〜1955年〈昭和30年〉10月25日)

 太平洋戦争末期の広島市への原子爆弾投下による被爆者の一人。
 12歳の若さで白血病により亡くなり、広島平和記念公園にある『原爆の子の像』のモデルになった。
 原爆を投下したアメリカ合衆国のシアトルの平和公園にも銅像がある。
 2004年7月25日、国立広島原爆死没者追悼平和祈念館に遺影が登録された。

 このように彼女の死は日米で語り継がれているだけでなく、旧ソビエト連邦でも教科書に載るほど広く伝えられ、現在のロシア連邦でも千羽鶴を折るイベントが開かれるなどしているが、その意味合いは反核運動よりも、アメリカを非難して、それに対抗する核抑止力の必要性を訴える目的が濃厚であった。

 ▼生涯

 1943年1月7日、広島県広島市に生まれる。
 「禎子」という名前は、元気に育つようにという父母の願いをこめて、両親の店の客の姓名判断の先生に頼みつけてもらった。
 1945年8月6日、2歳のときに広島に投下された原爆によって、爆心地から約1.6km離れた楠木町(広島市西区)の自宅で被爆した。
 爆風により屋外まで飛ばされたものの、外傷は負わなかった。
 しかし母に背負われて避難する最中に、放射性降下物を含む「黒い雨」に打たれた。
 また祖母はその際に家に戻ったため亡くしている。
 ともに被爆した母親は体の不調を訴えたが、禎子は不調を訴えることなく元気に成長した。
 1954年8月の検査では異常はなかった。
 運動神経が抜群で足が速く、将来の夢は「中学校の体育の先生」になることであった。
 小学6年生の春の運動会で学級対抗リレーの選手の一人に選ばれたが6年竹組は最下位になった。
 が、その後もリレーの練習を続け秋の運動会では6年竹組は優勝した。
 その日付は1954年10月25日と記録されている。

 しかしその直後から体に異変がみられるようになる。
 同年11月下旬頃、軽い風邪をひき、首や耳の後ろにしこりができた。
 しこりは徐々に大きくなり、顔がおたふく風邪のように腫れる。
 正月明けに近所の病院で診察を受けるも、一向に腫れが引くことはなかった。
 さらに1月末には左足に紫色の斑点がみられるようになる。
 原因が解からぬまま1月18日、2月16日にABCC(原爆傷害調査委員会、現在の放射線影響研究所)で検査を受ける。
 2月18日、かかりつけの小児科医の畑川先生からABCCの検査結果をもとに父親に「病名は亜急性リンパ腺白血病で禎子さんはあと3ヶ月、長くても1年はもたんでしょう」と告げられる。
 2月21日、広島赤十字病院(現在の広島赤十字・原爆病院)に入院した。
 10月25日の朝に危篤となる。父親から食べたい物は何かと尋ねられた禎子は「お茶漬けを食べたい」と伝えた。家族が大急ぎで用意したお茶漬けをたくあんと共にふた口ほど食べ、「お父ちゃん、お母ちゃん、みんなありがとう。」と呟いた。
 これが最期の言葉となる。
 1955年10月25日午前9時57分、
 担当の沼田医師が臨終を家族に告げた。
 享年12歳。

 ▼折り鶴

 1955年8月に名古屋の高校生からお見舞いとして折り鶴が送られ、折り始める。
 禎子だけではなく多くの入院患者が折り始めた。
 病院では折り紙で千羽鶴を折れば元気になると信じて鶴を折りつづけた。
 8月の下旬に折った鶴は1000羽を超える。
 その時、同じ部屋に入院していた人は「もう1000羽折るわ」と聞いている。
 その後、折り鶴は小さい物になり、針を使って折るようになる。
 当時の折り紙には小さい大きさの物が無く、紙の質も悪かったので、小さい鶴は、折りやすい、小さな薬の包み紙のセロファンなどを用いて折る事が多かった。
 1000羽折ったものの病気が回復することはなく同年10月25日に亜急性リンパ性白血病で死亡した。
 死後、禎子が折った鶴は葬儀の時に2、3羽ずつ参列者に配られ、棺に入れて欲しいと呼びかけられ、そして遺品として配られた。
 禎子が生前、折った折り鶴の数は1300羽以上(広島平和記念資料館発表)とも、1500羽以上(「Hiroshima Starship」発表)とも言われ、甥でミュージシャンの佐々木祐滋は「2千以上のようです」と語っている。
 実際の数については遺族も数えておらず、不明である。
 また、三角に折られた折りかけの鶴が12羽有った。
 その後創られた、多くの創話により1000羽未満の話が広められ、折った数に関して多くの説が出ている。
 2013年10月、病床で作った折り鶴のうち1羽が母校の広島市立幟町小学校に寄贈されることとなった。
 また、2010年からは、日本への原子爆弾投下時のアメリカ合衆国大統領であったハリー・S・トルーマンの親族と佐々木禎子の親族の間で親交がもたれ、2015年11月にトルーマン元大統領の大統領図書館に折り鶴のうちの1羽が寄贈された。

 〔ウィキペディアより引用〕

 私は未だ“平和”という言葉の意味の周りを徘徊しています。
 私の脳裏には、ジョン・レノンの“IMAGINE”が流れていて...。
 何術もなく、途方に昏れてます。

 IMAGINE

 1971年にジョン・レノン
 (John Lennon)が作詞作曲した、平和を願う歌。

 imagine peace from every angle.
 あらゆる角度から平和を想像する。