歎異抄は700年以上前に書かれた仏教の古典です。
正しくは鎌倉時代後期に書かれた日本の仏教書です🐯
阿弥陀仏がかつて全ての人を救おうと立てた願い「本願」に基づき、阿弥陀仏の名を唱えるだけで皆が浄土に導かれるとした本願念仏の思想。
阿弥陀仏は本当にそんな願いを立てたのか🐮
そもそも阿弥陀仏とは何者なのか🐷
法然によって説かれたその教えは親鸞らによって受け継がれました。
ほんで親鸞の言葉を門弟の唯円が正しく伝えようと書き残した書物が歎異抄と🐧
それを間違って伝えようと書き残しているのがボーと🐦
あらゆる人を差別なく救おうとする「慈悲」の根底にあったのは絶対平等の思想だよと、
宗教学者の阿満利麿さんは考えています。
あ、マロもそう考えますね( ^ω^ )
敵味方の区別なく、金持ちも貧乏人も関係なく、あらゆる人を救おうとするのが慈悲。
金持ちを助ける仕事はお断りしましたと自慢しているボランティア爺は慈悲を知らない餓鬼畜生でちゅ🐰
俺様は社会のために奉仕活動をしてるんだぞ!
これまでもずっとやってきたんだぞ!
要するに自分を偉く見せるために社会貢献という武器を利用しているだけなのさ🐞
彼らの信仰の対象が何かと言えば、そりゃ、「他者からの称賛」でしょうね。
そうそう🐢
私に言わせれば彼らが言うところの社会貢献というのは、要するに自分の所属するコミュニティである教団への「お布施」と同じ構造に見えます。
ジジ垢は逆にお布施を頂戴してますね🐛
本人に言わせると「僅か」だそうですが。
たくさんお布施してまちゅ
だから神様に愛されまちゅ。
そんなボクちんは他の信者よりエライでちゅ。
マロ子の真似すんじゃねーよ、ブス!🐉
そして、お前らも頑張れよ、なんで頑張らないんだよ、とドヤ顔して周りをきょろきょろ・・・。
ドヤ顔いただきまーちゅ)^o^(
社会貢献なんざやれる範囲で黙ってやってりゃいいようなもので、社会貢献やってまーすとかひけらかして言うこともないと思いますね。そういう人たちはこつこつ黙々と町のゴミを拾っているような人たちの足下にも及ばないと思いますわ。
マロ子の足下にも及ばない連中が自分は一番上だとドヤ顔しておりまちゅ🐹
評価は他人が下すもの。そこだけが現実。
明確に否定します🌻
マロ子みたいにこっそりやってると誰も気づかない。
自分しか知らない。
すなわち評価は自分が下すもの。
そこだけが現実。
阿弥陀仏は知っている🐝
そこに慈悲があるのか、
あらゆるものを救いたいという本願なのか、
それともただのワレヨシなのか🍄
阿弥陀仏の目で見れば、
自分が誰なのかがわかる。
というオチです🌹
めでたしめでたし( ◠‿◠ )