なんでも論破したがる人~
ミィですけど何か🐰
世の中の矛盾を鋭く突いて痛烈に批判する。
実にスカッとしますよね。
やったことあんのかよ🐻
でもヘーゲルは「精神現象学」で、このような「ああ言えばこう言う意識」を持つことをこう批判しています。
「自己自身をも他者をも欺くものとなるのである」
バカくさ🐷
絶対的に善いことや絶対的に悪いことはないとですか?🐮
もはやない、というふうに考えていい。
お前ボートサスの仲間だな🐀
実際私たちには神のような「これが絶対正しい」とか言えるような立場というのは、もはや存在しない。
お前はそれが絶対正しいと言える立場なのか?🦙
現代社会では人々が自由に自らの意見を交換できるSNSは重要なツールになっています。
その中で様々な社会問題を巧みな話術で切り込む人たちがいます。
そんなやつ見たことないでつね🐹
例えば、
「人の命を奪うことは、いかなる時でも許されない」
すると・・・
「では死刑制度はなぜ許されるのでしょうか」
う~
こういう矛盾を突いてきます。
質問しただけじゃん🐁
「何の罪もない人を殺すことと法に基づく刑罰とは異なると思います」
とかと打つと、
ほ~ら来ました。
「それは単なるあなたの感想ですよね?」
ギャハハ~👏🤣
それは感想じゃなくて思い込みですけどね(´・_・`)
「法は絶対正しい」という。
そもそも何の罪もないってどうしてわかるのさ🐛
エビデンスあんのかよ🐜
え~
議論がすり替えられてしまいました。
すり替えてんのはお前だろ、八嶋🦏
物事の善悪は見方ひとつで変わるわけですから、視点論点を次々と変え、相手を論破するための主張を延々と繰り出す。
彼らは社会的な問題を本気で解決しようなんて思っていません。
それってあなたの感想でちょ?🐇
正しさなんてどうでもいいんです。
自己の優位性を確保しようとしているにすぎないのです。
ああ、それか🦩
自称学者の又三郎がまさにそういうやつだ。
自分でいつも言ってるしな。
それはつまり一般的な欺瞞であって、自己自身をも他者をも欺くものとなるのである。
Exactly〜🗽
このような欺瞞を口にするとは恥知らずなことであるが、その無知こそがまさにそれゆえに最大の真理なのだ。
ミィが大ボラ吹きと呼んでるやつですね、だんな🦆
ヘーゲルは「ラモーの甥」という小説を取り上げています。
なんじゃそりゃ🦦
ラモーの甥は金持ちに寄生して過ごす中年男。
パトロンの機嫌を損じて街頭に投げ出され、だらしなくその日暮らしを送っています。
ある日、カフェで彼に声をかけられた哲学者の私は、何時間も議論をすることになり、、、
私が「人は有徳であるべきだ」と諭すと、彼は次のように述べ、「普遍的な道徳はない」と論破しにかかったのです。
徳や哲学は万人のために作られたものでしょうかね?
そんなものは、持てる奴が持ち、保存できる奴だけが保存するもんです。
いい酒を飲み、うまい料理をたらふく食い、きれいな女どもの上を転がりまわり、やんわりした蒲団に休む!
それ以外、すべては空の空ですよ。
やっぱニラレバ定食にクリソツだ🕷️
命短し〜 遊べやおっさん♪
というクソ歌作って喜んでますぜ🦂
このように論破を試みようとする人をヘーゲルはどう論破したのでしょうか🐼
ヘーゲルの「論破を試みる人」というのは、上流階級の人々が集まる18世紀フランスのサロンについて言及したものだった。
ヘーゲルはこのサロン文化について、「エスプリに富んだ会話だ」というふうに批判しているんです。
単に話術に長けていたり、奇抜なアイデアが出るような機知に富んだ会話は行われているけれども、そこでは確固たる思想みたいなものがない。
確固たる思想なんて必要ないしにゃー😹
よく討論番組とかで逆張り的な主張をして目立とうとするみたいなことが当時のサロンでも行われていたということですよね。
あれらはそうですね🤖
目立ってなんぼの世界ですから。
同じことやってるんですね、この頃と。
でも何か、それが今の時代の精神なのかなっていう。
時代の精神、エスプリですね^o^
機知に富んだ会話が行われているかどうかは別としてwww
何かその、極論の派手なやつで、人を論破していきたいって思う人を求めてるっていう傾向もたぶんあると思うんですね。
うんこスピ界隈とかねʕ⁎̯͡⁎ʔ༄
ここに自由があるわけですね。
だからそういう意味では、そうした別の見方が与えてくれる気づきであるとか、こう、何ですか、痛快感みたいなものがあるかもしれない。
しかしそれに惑わされて、じゃあそうやって見方を変えることだけを繰り返していくとどうなってしまうのか。
ボーとなってしまう(๑˃̵ᴗ˂̵)
それが例えば「ラモーの甥」の中で展開される話になるわけです。
ヘーゲルはこういう空虚な会話みたいなやり取りが蔓延すると、どうなるかということについては、こう書いています。
「固定されているものの一切が解体し、すべての契機を通じてその契機が世界が現に存在していることに関わる限りで引き裂かれ、骨という骨にいたるまで打ち砕かれているという感情である」
かっくいい(^ー^)
私たちの大事にしている規範とかルール、そういったものが「ラモーの甥」のようにすべてを疑っていく、すべて空の空、こんなことを考えるのは要するに無駄だというふうに言うわけです。
西洋版般若心経だな🦒
だけれども、ありとあらゆる私たちが大事にしている常識とか、例えば戦争や死刑があるのに、なんで人を殺しちゃいけないのとか、
なんで法律を守らなければいけないの?
一見すると何か鋭いような問いに見えるけれども、規範みたいなものを疑ってかかることを続けていけば、やっぱり社会の中での共通認識であるとか、道徳みたいなものが完全に壊されていってしまう。
相手と協働して何か共通認識に辿り着こう。
私たちは他者の意見も踏まえながら新しい価値観を作っていかなければいけないけれども、教養の意識には価値観を固定化するための姿勢が欠如している。
そこなんだよな。
ほんとに議論はしたいんだけれども、
お前は目立ってなんぼ組だろ🐪
お互い、果し合いみたいな論破合戦をしたいわけでは、まあないし、
論破合戦からは何も生まれない。
生まれますよ🦚
まさにそれです。ヘーゲルが言っているのは。
まあそういうことですよね。
違えよ🦎
一時期ディベートゲームみたいのがあって、どっちが正しいみたいな話をして、
じゃあ後半、攻守入れ替えますっていうのって、
もうただのゲームだから。
ディベート合戦は視聴率目当てだよ、バカ🐝
まさに善も悪も、ちょっとした視点で切り替えられますよという話で、
あとはうまいこと言うなあ、っていうとこだけを競うもんなんだけど、
ほーれほれ🐞
このディベートと本当の議論みたいなものが何かどっかで一緒くたになっちゃって何も生まれなくていいっていう。
その相手を倒せばいい、みたいな。
しかも後ろにいっぱい加担してくるから、
要するにガキの遊びだよ🐌
機知に富んだ会話ではなく。
論破は相手を黙らせることはできるかもしれないけれども、相手が納得して説得されているかというとそんなことはなくて、否定的な感情だけが残る。
つまり社会はむしろ分断されていってしまう。
これが教養の意識の限界なんですね。
別にいいじゃん🦥
近代がもたらした疎外はポジティブなこと。
私たちは社会で前提と自明視されているものを批判的、反省的に捉え、自由な価値観を表明できるようになった。
ただし自由な価値観は人によって様々なので、ぶつかり合ってしまうし善悪が容易に反転するので、行き過ぎると何でもかんでも疑うようになっていって、社会の常識・規範・ルールが崩れていってしまう。
そういう時代なのさ🐿️
これが教養の意識が直面した最終的な限界であって、
どうやって疑うと同時に新しいルールや価値観を固定化していくことができるのか?
ということが問題になるんですね。
固定化しちゃだめじゃん🌴
結局これまでと同じじゃん🌵
個人の役割が固定化された前近代社会では、人々は国家の法や制度は自分たちの意志とは関係なく当たり前に存在するもので、コントロールできないものだと感じていた。
しかし近代に入ると、こうした状況から脱しようとする意識が芽生え、
人々は疑いも持たずに一心同体だった伝統や既存のルールから距離を置き、自由に自律的に物事を考えようとした。
一方で伝統的な規範や宗教的価値観から疎遠になるということは、共同体の皆が共有できる絶対的な基準がないということ。
そのため私の意識が「正しい」と確信していることが社会的に正しいと承認されるにはどのような条件をクリアすればよいか吟味を繰り返すことが必要とされる。
このようなよりよいものを自分なりに求め続けようとする態度をヘーゲルは「教養」と呼んだ。
ヘーゲルの言う教養は本読んで知識を詰め込むことではないのだよ、自称学者諸君🧞♀️
国家の立場からすると、一部の人が富を独占し格差を拡大させる自由経済は悪に見える。
一方経済活動をする資本家の立場から見ると、規制をかけ、高い税金を課す国家は自分たちを抑圧する悪となる。
秩序の維持こそ善とする立場と、経済成長こそ善とする立場。
しかーし、
国家の保障なくして自由な経済活動はできない。
経済の繁栄なくして安定した国家は築けない。
つまるところヘーゲルが言いたいことは、
見方や立場によって善悪の評価が変わる。ということ👾
ほんで私の言いたいことは🛸
上流階級の人々が集まる18世紀フランスのサロン文化と、労働者階級が集まる現代のSNS文化は、エスプリの質が違う。
上流は教養を競い、下流はいいね!を競う。
見方や立場によって評価が変わるのは昔も今も同じ。
ノータリンが賢者に見えたり、恥さらしが聖者に見えたり、
善人がキチガイに見えたりwww