旧農林省鳥獣実験場跡地の尾根を登り詰めた先に水口イチ子の家はあった。
生活するには多少不便な場所だが、パイプオルガン職人の彼女の祖父が、昼夜、近所を気にせず楽器を鳴らすことができるということを考えれば、そこはそれなりに好立地ということなんだろう。
時折、イチ子は、おじいさんの作った楽器を弾くことがあるという。しかし、真剣に練習しているとは聞いたことがないので、余暇を楽しむ(暇つぶし)以上のことではないのだろう。
さて、その日、イチ子とぼくは夏休み中の部活をサボり、おじいさんの工房の庭にある藤棚の下にできた日陰のベンチに座っていた。
もう、ほとんど居眠りをしてしまいそうな程に静かな夏の風が多摩丘陵の尾根に吹く —— サマー・ブリーズとでも言うのだろう。
「ちょっと待ってて...」とイチ子は言うと傍らの戸口から工房の中に入っていった。
すぐに聞こえてきたのは、イチ子が比較的好んで弾くと言ってた『目覚めよと呼ぶ声が聞こえ』 —— 彼女が緊張した面持ちで弾いているのが想像できる。
さながら昼寝の夢に聴くような —— まるで天国から聞こえてくるような —— 荘厳な旋律。
*
薄く目を開けて見上げる空は、まばらに夏雲が浮かび、まるで楽園のようだ。
ぼくは、今が永遠になればいいのにと思うのだった。
【Faith Elizabeth Loewe - Wachet auf, ruft uns die Stimme, BWV 645】