きみの靴の中の砂

日本語では書けないほど気恥ずかしいこと





 いつだったかの梅雨明け頃のことだ。

 神社のおみくじほどの大きさの細長いの版木をどこからか工面してくると、イチ子は、彫刻刀でそれに何やら彫り始めたようだった。

 年賀状に使うなら余りにも準備が良すぎるとは思ったが、二日ほどして版画が完成すると、次の日曜日の朝、彼女は、それを薄い和紙に丁寧に三十枚程刷りあげた。

                    

 正午を過ぎて「お昼、お素麺にしたけど良かったかしら?」とイチ子が庭に面した和室に運んできた春慶塗のお盆を見て、イチ子の作品の実態が知れるところとなった。
 ちょうど箸袋大に折り畳まれた版画は、二ヶ所にはさみを入れられ、割り箸がそこに差し込まれてあり、言わば箸袋の代わりを為していた。

 食べる前に広げてみると、中央に『ぼく達が最初に暮らした、野比の神奈川大学研究所の裏手にあった家』らしい、見覚えのある平屋のイラストが刷られていた。下の余白にはイチ子の『イ』のひと文字とともに落款代わりに花をデザインした朱印が押してあり、上は余白のまま残してある。きっと、そこは時に応じて何か手書きするつもりなのだろう。

 よく見ると、その家のイラストに添えて、アルファベットの小さな花文字が刷り込まれている。どうやらラテン語らしい。
「これはなんて書いてあるの」とぼくが聞くと、
「それを説明するくらいなら、初めから日本語で書いたわよ」とイチ子。

 それは、きっと日本語では書けないほど気恥ずかしいことに違いないと、ぼくは勝手に納得したのだったが...。




【Cooper & Ross / You're The One】


 

最新の画像もっと見る

最近の「きみがいる時間」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事