遙か昔、世の中でウインド・サーフィンがブームになりはじめていた頃のことだ。そんな時代のことだから、ましてやディンギーのインターナショナル・レーザーやシーホッパーなどで海に出るのは道楽息子、道楽お嬢の類と思われていたようだが、実際はオートバイや車など、より高価な趣味は他にも沢山あって、誤解の多くは海で遊ぶという些かブルジョア的な背景が大きく加担していたようだ。
ある夏の朝、由比ヶ浜のフリートに着くと、すでに強風注意報が出ていて、ぼくと仲間達は早々と出艇を諦めた。しかし、塩っ気の多い連中ばかりなので、さすがにそそくさと帰ることはなく、みんな今日いち日を海のそばでどう過ごすかと早くも相談を始めていた。
結局、長谷駅の近くの酒屋から生葡萄酒を買ってきて、海を見ながら宴会をしようと話がまとまった。
そんな折り、無頓着に出艇しようとしたビギナーの大学生がいて、危ないからと寄ってたかって止めさせたのが今朝のちょっとした事件だった。
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さて、九時を回った頃だったか、水口イチ子が、この春買ったという、とんでもなく古い軽自動車でやってきた。ツー・ストローク発動機の音は、海鳴りや浜風の吹く中でもすぐに聞きわけられた。
やたら排気煙を吐く —— 煙幕を張っているのかと言われても大げさではないほどの —— イチ子の車に乗せてもらって、ぼくは注文してあったコンパスを受け取りに長井港へ行ってくると仲間達に宣言した。
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横須賀長井漁港のそばに歴史ある船具屋があって、ぼくは、そこにスウェーデン製のヨット用羅針盤を注文していた。
「何台か注文が溜まったら発注するから気長に待ってもらえますかねぇ」というのは店主の冗談かと思っていたら、本当に半年以上待たされることとなった。
港のはずれに店を構える、その『長井船具』で、件のコンパスと引き換えに支払った67,800円(今なら税込十万でも買えるかどうか...)を見て、イチ子は大いに驚いていた。単体ではたいして役にも立たないものに、よくそんな大金を払うもんだということなのだろう。
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帰途、イチ子が、衣笠駅の近くに最近気に入っている湯葉とお豆腐を食べさせる店があるから行こうと誘う。
「昼には、まだ早いね。店が開くまで時間潰しに衣笠山へでも行こうか」交差点で信号を待ちながらぼくは答えた。
「いいわね。そうしましょう」
イチ子がそう言い終わると丁度シグナルが変わり、彼女は古い車のアクセルをいっぱいに踏み込んだ。交差点辺りにいた人がみんな振り返るほどの破裂音 —— まるで機関銃を発砲しているような —— エンジン音と煙幕を残し、スバル360は朝のクロスロードを突っ切って行った。
【The Beach Boys - Please Let Me Wonder】