『もーれつア太郎』、『ぶッかれ*ダン』の連載時期においても、赤塚は更に多忙を極め、「週刊少年サンデー」誌上でも、長編読み切り等、イレギュラーの作品を複数本同時執筆することになる。
1972年から「冒険王」にて連載開始された『はくち小五郎』(72年6月号~74年12月号)も、元々は69年、「サンデー」(33号)に読み切りとして描かれた短編をシリーズ化したものだった。
但し、「サンデー」掲載時のタイトルは、『大バカ探偵 白痴小五郎』となっている。
大正から昭和中期に掛け、大衆推理小説の第一人者として健筆を振るっていた江戸川乱歩の『怪人二十面相』シリーズの大ファンだった赤塚は、時代に置き去られ、現代では失笑の対象でしかなくなった名探偵・明智小五郎と怪人二十面相の、ともすれば色褪せて感じる台詞廻しや物語的偏執を、明晰なギャグの位相に嵌め込むことが出来ないかと、以前より構想を練っていたという。
『おそ松くん』絶頂時、ペンギンと九官鳥の合の子・カン太を助手に持つ、シャーロック・ホームズ探偵学校の落第生のキンちゃんと、怪盗アルセーヌ・ルパンのどろぼう学校を落第しつつも、本人は世界を股に掛けて暗躍する大泥棒を自称する駄目怪盗・1/2面相とのあくなき頭脳戦(⁉)をドタバタテイスト一杯に炸裂させた、『怪盗1/2面相』(「少年ブック」66年4月号~8月号)なる作品を執筆していたが、それでは飽き足らない赤塚が求めたのは、笑いの持つ破壊力を更に強化させ、頭脳明晰なヒーロー探偵と現実感稀薄な怪盗紳士による推理対決を、矛盾だらけの独断的推理による、混乱と翻弄に満ちた狂躁のドラマへとすげ替えてゆく一点にあった。
そして、『怪盗1/2面相』をドラマ進行の基本ラインにしつつも、主人公を可愛らしい落ちこぼれ少年探偵から、冴えない大バカ中年探偵へと180度転換。主役の探偵を自らのロジックと行動原理に忠実なトラブルメーカーの権化に準え、『はくち小五郎』は、純然たるスラップスティックナンセンスとして執筆される。
はくち小五郎は、大東京中落合にある、うらぶれたラーメン店の二階にオフィスを構える腹ペコ迷探偵だ。
このはくち迷探偵、敬愛する明智名探偵にあやかってか、唯一の助手である我が息子を小林少年と呼び、目白中落合署に舞い込むありとあらゆる事件に首を突っ込んでくる。
はくち探偵が調査に乗り出すと、もう大変。事件とは全く関係のない善良な市民を犯人にでっち上げ、捜査を撹乱し、あげくの果てには、幸福な家庭をも崩壊せしめるなど、私立探偵という立場にありながらも、その暴走は触法行為にまで及んでしまう。
そんなはくち探偵に振り回され、辟易する所轄の大バナ警部との遣り取りや、はくちが追い続ける怪人三十面相をはじめとする珍妙奇天烈な怪盗達との対決軸が、ミステリーとしての論理的整合性を転覆させ、その物語は毎回、無意味な道化とシュールな感触が紙一重となった、不可思議な奥行きを広げながら展開してゆく。
特に、「怪TOTO便器現わる」(「冒険王」73年3月号)や「怪盗カニーファイブ対迷探偵はくち小五郎‼」(「冒険王」74年2月号)で描かれた迷探偵はくち小五郎と、便器や蟹をイメージしたギミック満載の人物造形も含め、支離滅裂なキャラクター設定が施されたダウナー系怪人との途轍もなく馬鹿馬鹿しいコンフロンテーションは、その作風やプロットにおいて『ドッキリ仮面』(原作/神保史郎・漫画/日大健児)と並び、後の人気バラエティー『オレたちひょうきん族』のタケちゃんマンとブラックデビルといった敵キャラとのバーサスを描いたコントドラマや、『とんねるずのみなさんのおかげです』のコーナードラマ「仮面ノリダー」のノリダーと奇っ怪な縫いぐるみ怪人との脱力対決のルーツと位置付けられる、当時としては非常にアバンギャルドな笑いをリードしており、こんなところにも、赤塚の類稀なる進取性を感じ取ることが出来る。
『はくち小五郎』は、赤塚漫画としては一般的にはマイナーな部類に入るタイトルと言えようが、「サンデー」版が発表された直後、本作のシリーズ化を想定し、東映動画主導によりテレビアニメ化の企画が立ち上がっていたことは、全くと言っても良いくらい知られていない事実であろう。
東映動画の企画書によれば、30分番組で一話完結の物語を予定していたようだが、どういう事情で企画そのものが立ち消えになったのか、未だもってその理由は謎のままだ。
尚、Gペンを使った描線の強弱によって、顔芸などのリアクションを強調したタッチを見れば、安易に識別出来るが、『ニャンニャンニャンダ』の後半部分同様、エピソード中盤からは、ヘッドスタッフの斎藤あきらが全ページの代筆を受け持つようになり、やはりスタンダードな赤塚タッチからかけ離れたアメコミ的世界観が演出されるようになった。
このバタ臭い小洒落たタッチの仕上げなどをサポートしたのは、当時フジオ・プロのスタッフで、やはり「MAD」等のアメリカのパロディー・サタイア誌におけるアートイメージの影響を色濃く受けた絵柄を、自身のオリジナルとしていた青村純三だと思われる。
それと、オリジナルの「サンデー」掲載版と正規の「冒険王」の連載版、同じく1972年に執筆された『週刊漫画ゴラク』(1月13日・20日合併号)掲載の青年向け版(タイトルは『白痴小五郎』)とでは、小林少年のキャラクターメイクが大幅に異なるものであったことも、ここに付け加えておこう。