1960年頃から、赤塚は少女向け生活ユーモア漫画から、少年向けギャグ漫画へと比重を置くようになった。
いずれもヒットには至らなかったが、打てば空振り三振、守ればトンネルエラーという弱小少年野球チームの活躍(?)をドタバタテイストいっぱいに描いた『トンネルチーム』(「たのしい四年生」60年4月号~9月号)、長男、長女、次男の3人兄弟のうちの兄と弟の愚兄賢弟ぶりを、弟のイノセントな視点からユーモラスに綴ったハートウォーミング・コメディー『ボクはなんでもしっている』(「たのしい五年生」61年4月号~62年3月号)、『ナマちゃん』のレギュラーキャラを主人公にしたスピンオフ作品『カン太郎』(「冒険王」61年5月号~9月号)といったタイトルを月刊誌に連載した後、檜舞台の「週刊少年サンデー」、「週刊少年マガジン」に読み切りを単発で執筆してゆくことになる。
「サンデー」、では、お風呂に三分間浸かれば、たちまち頭が冴え渡り、難事件もすぐさま解決してしまう『インスタント君』(61年9号)、グローブを盗まれた少年と泥棒の知恵比べを珍妙に綴った『たまおのどろぼうたいじ』(「別冊少年サンデー 春季号」61年4月1日)、ナマちゃんよりも更に悪戯好きで、ドライな現代っ子が大人をへこます『チャン吉くん』(「別冊少年サンデー」62年1月1日お正月ゆかい号)、父親が務める会社の社長宅に倅がサラリーマン修業に出掛けて、シッチャッカメッチャッカなトラブルを巻き起こす『ぼくは・・・・・サラリーマン』(「別冊少年サンデー 春季号」62年4月1日)といった作品を執筆。「マガジン」では、エイプリルフールの日に、騙し騙され合う子供達の掛け合いを小気味良く綴った『だまそうくん』(61年15号、単行本収録時に『ダマちゃん』と改題)を単発で発表した後、初の週刊誌連載『キツツキ貫太』(61年23号~34号)を執筆する。
『キツツキ貫太』は、元気いっぱいの貫太少年が、真夏の炎天下に幽霊を取っ捕まえてルームクーラー代わりに使用するなど、毎回、ちょっぴり奇想天外な物語とノリの良いスラップスティックが日常の中で展開する、赤塚としても新生面を拓いたコメディーだったが、ページ数の少なさなどによる障壁から、その前衛的才覚をアピールするまでには至らず、連載回数全十二回をもって終了してしまう。
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月刊誌時代の黄金期が終焉に近付きつつあったこの時期、生活ユーモア漫画というジャンルそのものも過渡期を迎えていた。
月刊サイクルの生活ユーモア漫画では、その季節の出来事からルーティンなテーマをアレンジすることで、物語を構築してゆくことが可能だったのだが、月に四本もの作品を生み出さなければならない週刊サイクルでは、日常生活を中心とした笑いから飛躍し、テーマを拡張しなければならなかったのだ。
それまでの季節感を伴った生活ユーモア漫画は、お正月号では、凧揚げや餅つき、お年玉、雪合戦というテーマを筆頭に、4月号では、花見や新学期、8月号では、海や山に海水浴やキャンプに行き、9月号では、運動会で大騒動という一つの定型が、毎度の如くストーリーに織り込まれていた。
赤塚は、歯切れの悪いこれらの季節的テーマを主体とした従来の笑いのセオリーを打破すべく、試行錯誤を重ねてゆく。
赤塚にとっての圧倒的な命題は、スラップスティックとナンセンスという異なる二つの概念を同等の妥当性をもって結晶化せしめることだった。
そして、その試みは成功し、赤塚ギャグというハード&ラウドな笑いの形態を新たに打ち立て、戦後ギャグ漫画のメインストリームを切り開くことになるのだが、そこに到達するまでには、今暫くの時間が必要だったのだ。
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