スランプに陥り、ペンも思うように運ばす、ともすれば、創作へのモチベーションさえも損ないかけた赤塚は、当時、西武新宿駅前にあり、後に交流を持つ先輩漫画家の冨永一朗の親族が経営していた老舗ジャズ喫茶「ラ・セーヌ」で募集している住み込みのウェイターにでもなろうかと思い立つ。
そして、既にトキワ荘を退出し、目白に住んでいた寺田ヒロオの下宿を、その時描きかけの少女漫画を持参し訪れた。
この時の状況を赤塚はこう述べている。
「もう僕はマンガ家になるのは、無理かもしれない。いっそのことマンガはきれいさっぱり諦めて、まったく違う仕事をやろう。たとえばボーイなんてどうだろう。そう思って「ラ・セーヌ」というジャズ喫茶に行って、ボーイの動きを観察してみたんだ。そうしたら、ボーイの動きが鈍い。なんだ、これなら僕にもできるって。それで僕は、寺田ヒロオに相談に行ったのだった。」
(『赤塚不二夫120%』アートン、99年)
もし、この作品が駄目だったら、もう漫画家からはきっぱりと足を洗おう。
そんな想いで持参した赤塚の原稿に目を落とし、じっくりと読んだ寺田は、赤塚にこうアドバイスをしたという。
「僕ならこれから、五本の作品が描けるよ。君は詰め込み過ぎだよ」
つまり、ページ数が限られているにも拘わらず、描きたいプロットを全て詰め込んで描いているため、テーマが一本に絞れていないことを、寺田は指摘したのだ。
この時、赤塚はトキワ荘の家賃を四ヶ月間滞納していた。
寺田はそのことを見越して、赤塚にその場で五万円もの大金を貸してあげた。
トキワ荘の家賃が一ヶ月、三千円だった頃の五万円である。
寺田の激励に支えられ、赤塚は、オリジナル執筆に情熱を注ぎつつ、来るべき日に備えて、夜はギャグのアイデアや物語のプロットをプールしていった。
日記帳に一つでも面白いと思えるアイデアを書き込むまで、寝ないという誓いを立てたうえでの日課だったため、突発的な原稿依頼にもネタに事欠くことはなかったという。
そして、この年の秋、赤塚にとって千載一遇のチャンスが訪れる。
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