「誰も読まない、振り向かない泡沫ブログ」「虚仮の一念、岩を通せないブログ」と、当ブログについて、常々自虐気味に語っている筆者であるが、近年益々加速してやまない赤塚不二夫矮小化に歯止めを掛ける一翼を担えないにしても、毎日数百人単位、多い時は一〇〇〇を越える閲覧者が訪れて下さっており、感謝も一入である。
先日、当ブログの閲覧者であり、拙著である『赤塚不二夫大先生を読む』『赤塚不二夫というメディア 破戒と諧謔のギャグゲリラ伝説』(ともに社会評論社刊)の二冊を購入して下さったという、筆者にとって殊勝な御仁とリアルに酒を酌み交わした際、筆者の「赤塚マンガベスト10」を教えて欲しいとのリクエストがあった。
筆者にとって多勢に無勢とも言うべき存在が、赤塚不二夫の漫画家としての偉業から目を逸らし続けている、赤塚不二夫ヘイトを標榜する一般大衆である。
中には、赤塚マンガを一冊も通読したことなどないにも拘わらず、メディアによる印象操作から、赤塚不二夫というだけで、全ての赤塚作品が駄作であると信じて疑わないアンチ赤塚のネットユーザーも当然ながら多い。
しかしながら、赤塚マンガ、延いては赤塚不二夫本人に少なからず関心を抱かれるようになった若年層も確実に存在している。
今回は、そういった方々も含めて、焼け石に水は承知の上、赤塚マンガの得難い魅力をアピールすべく、取り敢えずは、現時点において、赤塚マンガの暫定的ベスト20をこの場にて発表してみたい。
尚、件の愛読者の御仁からは、ベスト10を教えて欲しいと言われたものの、ベスト10に特化するには、捨て難い作品も多く、更にもう10エピソードと次点を加えた21作品を選出した次第である。
1位…『ラーメン大脱走』(「増刊漫画アクション」86年10月24日号)
筆者、十二歳の時、たまたま入店したラーメン店で、掲載誌を手に取り、人生で初めて「赤塚マンガ」を意識した、個人的には記念碑的作品と言えよう。
熱烈なラーメンマニアである刑務所の所長が、夜な夜な一人の受刑者を脱走させ、究極の五ツ星ラーメンを探しに行かせるという、赤塚マンガらしい荒唐無稽なエピソードだが、生命の危険に晒されながらも、所長のために五ツ星ラーメンを探し求める主人公・五十番と、人間の生命が懸かったこの究極のラーメン探しにスリルと興奮を覚える所長との心理的葛藤を幾層にも重ねながら、物語は読む者の感情にカタルシスを投げ掛ける最高のラストシーンへと流れ込んでゆく…。
読後の衝撃は計り知れず、本作によって「赤塚不二夫=天才」という揺るぎないイメージが筆者の中で確立したことは言うまでもなく、我が人生において今日に至るまで続く赤塚不二夫研究の導火線にして天啓となった一作。
19年に筑摩書房から刊行された『赤塚不二夫のだめマンガ』(筑摩文庫、杉田淳子選)にも本作品は収録されているが、決して「だめ」の部類にカテゴライズされる作品ではないし、また赤塚の名誉のために喧伝しておけば、いずれも、カルト赤塚ワールドの粋ともいうべき良作であり、逆説的な意味において、「看板に偽りあり」のアンソロジー集だと語気を強めておきたい。
2位…「ニャロメの怒りとド根性」(『もーれつア太郎』/「週刊少年サンデー」70年3号)
『もーれつア太郎』に登場する野良猫のニャロメは、どんなに虐げられても負けずに人間どもへと立ち向かうその反骨反逆の精神から、「少年サンデー」の中心読者である小中学生のみならず、全共闘世代の大学生からも熱烈な支持を得るに至った。
本作は、そうしたニャロメ人気が最高潮の時に描かれたエピソードで、ニャロメの高潔なる魂と生き様が最も顕著に描き出された傑作の一つだ。
轢き逃げ事件を目撃したニャロメは、日頃の素行の悪さが祟り、犯人について真実を語るも、誰も信じてくれない。そこで、ハンガーストライキという形で愚直にも真実を訴えようとするが、意志薄弱なニャロメはとうとう挫折してしまう。
誰も味方がおらず、孤軍奮闘するニャロメ。意を決し、轢き逃げ犯人であるPTAの会長に遭遇する都度、「ひきニャゲ!! ひきニャゲ‼」と声が枯れるまで叫び続ける。
そんなニャロメを目の当たりにしたデコッ八が「ハッ!」と何かに気付いたかのような表情のアップで唐突に締め括られるが、真実を貫く魂が結果として何れ程の力を持ち得るのか、そんな言外のメッセージとニャロメの道義的生き様に触れたデコッ八の感情を鋭く掘り下げた演出に、赤塚ならではの表現力の深さを改めて痛感させられる。
3位…「オメガのジョーを消せ」(『おそ松くん』/「週刊少年サンデー」68年46号)
『おそ松くん』の長編バージョンは、いずれも傑作ばかりであるが、その中でも筆者が最も愛着を寄せるのが、ハタ坊を主役に据えたこの作品。
かつてのギャング仲間であったイヤミの裏切りにより、その後の人生に辛酸を舐めるに至ったハタ坊が、今や出世し、大会社の社長にまで登り詰めたイヤミに復讐すべく、コールドハンターと化す『おそ松』版ハードボイルド路線とも言うべき一編で、不敵な笑みとともに胸に秘めたる怒りの情念を滲ませた凄みに満ちたキャラクターを演じている。
オメガのジョーことハタ坊から暗殺予告を受けたイヤミが、デカパン率いるギャング団(六つ子、チビ太、ダヨーン)に用心棒を依頼するものの、屋敷に爆弾が仕掛けられていると知ったギャング団は、金だけ持ってずらかろうとするが、既に屋敷へと侵入していたハタ坊に粛正されてしまう。
本編で特筆すべきは、ハタ坊の銃弾に倒れ、二階から落下し、奪った現金が舞うシーンでの、寒々しいチビ太の断末魔の如き呟きだ。
「お おれのしあわせが……………に にげていく……」
その刹那、チビ太は息絶えるが、この一連のディレクションは、決して上っ面だけとは言えない、人間の奥底にある背徳の闇をクールな視線で浮かび上がらせており、ピカレスク映画を彷彿させる感興を読む者に齎すこと請け合いだ。
4位…「チビ太の金庫やぶり」(『新おそ松くん』/「週刊少年キング」72年5号)
O・ヘンリーの傑作掌編「よみがえった改心」より材を採った一編。
元々は、「週刊少年サンデー」(65年42号)に掲載され、好評を博したエピソードだが、その7年後となる72年、「週刊少年キング」誌上にて、赤塚不二夫、藤子不二雄A、永井豪、古谷三敏といった当代きっての人気ギャグ漫画家が一同に会した「新春ギャグビッグ4」と銘打たれた特別企画用にリメイクされた、謂わばリバイバル版「チビ太の金庫やぶり」である。
極寒の地で長い刑期を終え、心を改めたチビ太は、東京下町のトト子の父が経営する小さな鮮魚店で、住み込みの店員として働き、細やかな幸福を手に入れる。
だが、かつてチビ太を逮捕した鬼刑事のイヤミは、再び金庫破りに手を染めるであろうことを踏んで、出所後もチビ太を執拗に追い掛けまわしていた。
そんなある時、トト子の店に新しい金庫が搬入される。
チビ太の頑張りによって、店の売り上げが倍増したからだ。
だが、立派な金庫を見入る中、トト子は、その刹那、誤って中に閉じ込めらてしまう。
夜と金庫屋から金庫の暗証番号を聞き忘れたため、誰も金庫を開けることが出来ない。
金庫は密閉度が高く、中の酸素が次第に薄れてゆく。
トト子は、呼吸困難に陥り、やがて苦悶の声を呻き出す。
見兼ねたチビ太は、金庫に触れたら、即逮捕というイヤミ刑事の警告が脳裏に過るものの、意を決して金庫を開ける。
トト子が無事に救出され、トト子の父が安堵の溜め息をつく中、チビ太は、窓越しで一部始終を監視していたイヤミ刑事のもとに駆け寄り、金庫を開けてしまったことを告白する。
しかし、イヤミ刑事は、「ミーはチミなんかしらないざんすよ」ととぼけて、何事もなかったかのように去ってゆく。
翌朝、チビ太は、トト子の店に、たった一言「お世話になりました」と記された書き置きを残し、チビ太を探し求めてやって来た子分のハタ坊と二人、真面目に働ける場所を探そうと、新たな町へと旅立って行った…。
88年よりスタートしたリバイバルアニメでは、こちらの「少年キング」版をベースに同エピソードが作られたことからも窺えるように、リライトバージョンとはいえ、背景のディテールやドラマの時間的経過における緊迫性に神経を注ぐなど、作品全体の完成度たるや、前作をも凌ぐ結果となった。
ストーリー構成もまた、人物描写に重きを置くことで、高い純度と哀切に満ちた深みが表出され、その演出の完璧性は、膨大な赤塚作品の中でも無類と言っても良いだろう。
5位…『四大作家競作 拝啓おまわり様』(「ビッグゴールド」79年No.3)
花村えい子、里中満智子、赤塚不二夫、さいとうたかをらビッグ作家による、ポストをテーマに据えた課題競作シリーズ。
ある日、目ん玉つながりが勤務する交番に、指名手配中の怪盗23号から「このたび 左記の住所に落ち着きましたので ご近所にお出かけの節には ぜひわが家にお立ち寄り下さい」と書かれた手紙と一緒に、現在住居としているアパートの写真が送付される。
目ん玉つながりらは、アジトと見られるアパートに急行するが、何と、怪盗23号は、彼らが到着する一時間前に、既に別の場所へと引っ越していた。
だが、その翌日、交番に怪盗23号の速達がまたしても舞い込む。
今度は下落合一丁目のマンションにいるという。
再び、目ん玉つながりらは、そのマンションへと怪盗23号を確保すべく向かうが、またまた現場は藻抜けの殻だった。
しかし、そんな追跡劇を続けているうちに、警察は怪盗23号の立ち廻り先に関する一つの法則を見出す。
警察は、記者会見を開き、ホワイトボードに貼られた地図にこれまで怪盗23号がアジトとしていた場所と、これから立ち寄るであろう逃走経路を点と線で結び、そのエリア内をマジックで黒く塗り潰した。
そして、黒マジックで塗り潰したエリア内に、必ず犯人がいて、犯人逮捕も時間の問題であることを記者達に説明する。
だが、その地図上に浮かび上がった点と線は、大きく真っ黒な星状の形をしており、即ちこの追跡劇そのものが、警察の大黒星を意味していたという皮肉な展開へとドラマは更なる急転を見せる。
警察組織の愚鈍ぶりを嘲笑うかのような笑いが滅法シニカルで、その粋な落ちに至るまで、ドラマの劇的興奮をたっぷりと満喫出来る、まさに隠れた傑作と呼べるだろう。
6位…「バカは死んでもなおらない」(『天才バカボン』/「週刊少年マガジン」69年9号)
『天才バカボン』の世界観は、連載を重ねるにつれ、益々ナンセンスへの拍車を掛け、バカボンのパパの馬鹿さ加減も過激にヒートアップ。遂には、殺人行為すら、日常生活の一環でしかないと言わんばかりに実に多くの人間を死に追いやってゆく…。
そんなパパが最初の殺人を犯したのが、当該のエピソードで、あろうことかこの時、パパは一度に五人もの人間を連続して殺めているのだ。
ある日、パパは不景気の余り、「死にたい」という言葉を口癖とするショボくれた中年男に遭遇する。
パパは、男に同情し、その自殺願望を叶えてあげるべく、ビルの工事現場から大石を落下させ、死なせようとするが、石は男ではなく、止めに入った工事関係者の頭に命中し、全く関係のない人物が命を落としてしまう。
次にパパは、タクシーに乗り込み、運転手に「あいつをひいてあげろっ」と伝え、ハンドルを握るが、それを拒否する運転手と揉み合いの末、タクシーは壁に激突。運転手だけが事故死する。
二度も別の人間が死に至り、項垂れるパパのところに今度は目ん玉つながりが現れる。
パパは男を射殺しようと、目ん玉つながりから拳銃を借り出そうとするが、この時も揉み合いとなり、銃が暴発。銃弾が胸に当たり、目ん玉つながりの方が死んでしまう。
立て続けに別人を殺してしまったパパは、今度こそはと毒薬を調達し、再度男の殺害を企てるが、泥棒を追い掛け、喉がカラカラに乾いた警察官がパパの制止を無視し、用意した毒入りジュースを飲み干したため、死に至る。
遂に、万策尽き果てたパパは、男を原っぱに呼び出し、土管の中に閉じ込める。
土管の上に大きな石を置き、男を閉じ込めることに成功するが、その男は三日後、命からがら脱出する。
だが、男は三日間絶食していた反動から、レストランでカツ丼三つ、天丼五つ、カレーライス八つを平らげるという無茶をやらかし、肝硬変による急死を遂げるのであった。
当然、パパはそんな結末を知る由もない。
これらの殺人行為が、まだ悪意のない自殺幇助の延長にあったものとはいえ、多くの人々の人生がパパの無分別によって、文字通り破壊されてゆく様相には、ショッキングな戦慄と人間の不条理な巡り合わせの双方を覚えずにはいられない。
7位…『九平とねえちゃん』(「りぼん」66年4月号別冊付録)
数ある赤塚少女漫画の中でも、一部の読者の間で、取り分け、最高傑作との呼び名が高い一作。
別冊付録としてオリジナルが発表された以降も、複数回に渡り単行本化、アンソロジー集(『原爆といのち 漫画家たちの戦争』/中野晴行監修、金の星社、13年)へ併録されたりと、マイナーながらも一般の知名度は決して低くない。
幼い頃、父親を事故で亡くしたユキ子は、水質汚染されたドブ川が流れる、スモッグに覆われた工場だらけの下町の古寂れた家に、玩具工場で働く母親と腕白盛りの弟、九平とともに慎ましく暮らしていた。
ある日、ユキ子はふとしたきっかけで、写真館の青年、裕(ヒロシ)と幼い妹のヤエ子の兄妹と出会う。
ユキ子は颯爽とした好青年の裕に対し、兄のように慕うとともに、恋心にも似た一途な感情を抱くようになり、やがてユキ子と九平、裕とヤエ子の四人は、母子家庭という同じハンデを背負った身の上から、お互いの苦労や喜びを理解し合い、本当の兄弟姉妹のような交流を結ぶようになった。
ある時、ユキ子は、裕から自身が原爆症を患っていること。そして、実の妹である筈のヤエ子の出生の秘密を告げられる。
裕が発症した原爆症は、放射線被曝であり、一〇年、二〇年の潜伏期間を経て、白血病や悪性リンパ腫を引き起こす晩発性のもので、当時は不治の病として認知されていた。
裕の独白にショックを受けるユキ子ではあったが、いつか元気になったら、裕とデートがしたいと、希望に胸を膨らませ、街のテーラーのショーウィンドウで見た素敵なコートを買おうと、冬休みにスキー場へとアルバイトに向かう。
だが、その時既に、東京で入院生活を送っていた裕の身体は、確実に原爆症の病魔に冒されつつあった……。
恋に対するピュアな憧れや、その裏側にある深い沈鬱、現実への戸惑いといった思春期特有の二律背反する心の機微を過不足なく綴ったドラマトゥルギーに、被爆者問題という社会的にもデリケートなテーマを妥協なく溶解したストーリーテリングが掛け値なしに素晴らしい。
少女漫画の枠組みを用いつつも、原爆の脅威が個人の人生に及ぼす具体的なトラジェディーを写し出した反戦漫画の力作。
尚、前出の『原爆といのち 漫画家たちの戦争』を監修した漫画評論家の中野晴行のほか、『こちら葛飾区亀有公園前派出所』の原作者、秋本治も、『赤塚不二夫ベスト 秋本治セレクション!』(集英社、06年)で、本作の魅力について触れており、自身の漫画の原点として、リスペクトを示している。
8位…「億万長者の家をご訪問なのだ」(『天才バカボン』/「週刊少年マガジン」76年14号)
75年、テレビアニメ「元祖天才バカボン」の放映開始に合わせ、中断していた「週刊少年マガジン」版『天才バカボン』も連載再開の運びとなるが、毎週5ページという限られたスペースでの復活であった。
この5ページ連載の『バカボン』は、かつての愛読者の間では、ショートショート・シリーズと呼ばれ、短いページ数ながらも、赤塚ならではの先鋭的表現を多分に含んだ挿話も少なくない。
そんな本エピソードでは、バカボンのパパがたい焼きで巨万の富を得た先輩の大邸宅に遊びに行くところから始まる。
パパが先輩の邸宅の庭番に「ご主人にバカボンのパパがきたとつたえてください」と伝える、何の変哲もない導入部だ。
だが、庭番が女中に「女中さん、バカファーザーがきました」と耳打ちしてから一転、女中は女中頭に「バカファーザーがおこしになりました!!」と告げ、ドラマはおかしな流れへと変転してゆく。
女中からその言葉を受けた女中頭は、執事に「バカファーザーがおころしにきました!!」と緊迫した面持ちで報告する。
大慌ての執事は、執事長に「バカファーザーが殺しにきました!!」と伝えるなど、伝言内容は更にエスカレートし、秘書室長の耳に入った時は、「ゴッドファーザーがご主人を殺しに!!」に変わり、その言葉は夫人を経由し、殺人予告として先輩の耳に入る。
怒った先輩は、「よーし こっちこそ やつのドテッぱらに風穴をあけてやれ!!」と夫人に伝える。
その言葉は、秘書室長に「ようし こっちこそ風穴をあけてやるのよ!!」と伝言され、今度は「「ようこそ」と風穴をあけるんだ!!」と執事長に伝えられる。
そして、執事長から「ようこそだ!! 風穴をとおすんだ!!」と報告を受けた執事は、女中頭に「ようこそきたなと風穴をとおせ!!」と託け、そのメッセージは「ようこそきたなととおすのよ!!」と歪曲され、女中へと取り次がれる。
最後に女中から「ようこそおいでくださいましたとおとおしするのよ」と耳打ちされた庭番が、「ようこそおいでくださいました!! どうぞ!! ご主人がお待ちです」と、より丁寧な言葉をパパに告げ、邸宅へと案内する。
テーマから大きく外れつつも、最後には、再び同一のテーマへと帰納する循環と反復の相互浸透を違和感のない笑いへと置換してゆく作劇上のテクニックが、既成のギャグ漫画の表出水準を上回る精度を殊の外際立たせており、通常の赤塚ナンセンスの発展形としての刻印を明瞭化せしめた傑作。
9位…「1票差」(『赤塚不二夫のギャグゲリラ』/「週刊文春」77年7月21日号)
毎回、決まった主人公を定めなかった『ギャグゲリラ』であるが、登場するキャラクターの過激ぶりは、成人向け時事漫画としては類例を見ず、その皮肉な切り口から繰り出される諧謔性と社会風刺は、「文春」読者より好評を博し、一〇年を越えるロングランなった。
77年当時、あらゆるメディアにおいて、保革逆転による政権移譲が示唆されるなど、波乱に満ちた第十一参議院選挙をモチーフに、赤塚は複数の選挙ネタを『ギャグゲリラ』にて発表するが、このエピソードもその一本で、落選候補者の悲歎をカリカチュアライズしている。
たった一票差といえ、再選を果たせなかった候補者に世間の対応は冷淡だった。
地位を失墜させた候補者には、親戚以外お中元を持って来る者すらいなかった。
だが、忠誠を誓う選挙スタッフ二人は、候補者に最高のお中元を贈呈する。
それは、二人が投票箱に入れずに取っておいた投票用紙で、候補者の氏名欄には、二枚とも彼の名前が記されていた。
選挙スタッフの二人は、忠誠の誓いの証明として残し、直接彼に手渡ししたのだ。
その行為に感涙する落選候補者。しかし、この二票が投票箱に入っていれば…。
目眩くギャグの展開力を僅か6ページの中に落とし込んだ『ギャグゲリラ』屈指の傑作エピソードだ。
因みに、93年にフジテレビでオンエアされていた「ビートたけしのつくり方」なるバラエティー番組内で、起承転結に至るまで、こちらの挿話と全く同様のコントが作られたことがあったが、恐らく番組内の構想作家が初出、もしくは単行本収録の際に本エピソードを読んでおり、そのままコントの素材として頂いたのであろう。
赤塚ギャグの時代を超越した普遍性を感じさせる。
10位…「秘話ここほれワンワン」(『赤塚不二夫のギャグランド』/「リイドコミック」79年4月5日号)
源氏三代による鎌倉幕府の樹立と東国武士団の興亡を描いたNHK大河ドラマ「草燃える」をヒントに据えた赤塚版時代劇パロディー。
殿様であるレレレのおじさんが滅亡した徳川家を再興すべく埋めた小判を巡り、様々な人間が数奇な運命に翻弄されてゆく様を軽妙且つシニックな笑いに染め上げて綴ったナンセンス叙事詩で、ラストに時代が現代へと飛び、小判を見付け出したチンピラが、それを元手に純和風高級トルコ風呂(現在の名称はソープランド)「江戸城」を立ち上げ、徳川家が再建されるという予想外の落ちへと雪崩込む。
『赤塚不二夫のギャグポスト』には、本エピソード以外にも、硬くなった読者の頭をほぐす赤塚版「頭の体操」とも言える「共通第3次試験」や、純和風の装いの世界観を画稿狭しと展観する「日本に来たことのない外国人の筆による日本のまんが」といった遊び心溢れる挿話も多く、短期連載ながらもなかなか侮れない。
11位…「イヤミはひとり風の中」(『おそ松くん』/「週刊少年サンデー」67年41号)
チャーリー・チャップリン監督、主演による不朽の名作「街の灯」をベースとした時代劇版『おそ松くん』。
世を捨て、世に捨てられた素浪人のイヤミは、貧困層が集中した江戸のハラペコ長屋で、グータラなその日暮しをする中年男だ。
そんなイヤミは、ある日道端で花売りの少女、お菊と出会う。
お菊は盲目であった。
彼女の辛い身の上と聞くうちに、イヤミは、慈悲とも思慕とも付かない、しかし、至純で尊い厚情を抱き、その目を治してあげようと決意する。
出会いは人の心を動かす。守るべき人を得たその時、イヤミの中で何かが弾けた。
以来、お菊の治療費を稼ぐ、寝食を忘れ、毎日馬車馬の如く必死に働く。
しかし、お菊の目の治療費は、一〇〇万円近い大金で、そんな金を用意出来ないイヤミは途方に暮れてしまう。
そんな中、江戸城城主の若チビ(チビ太)が御前試合を開催し、優勝者には一〇〇万円の褒奨金を贈呈するというニュースが江戸中を駆け巡る。
褒奨金で、お菊の目を治せると考えたイヤミは、一念発起して試合に挑むが、お菊に恋心を抱く若チビの策略にはまり、優勝を逃す破目になってしまう。
追い詰められたイヤミは、江戸城の御用金を奪い、お菊の治療費を捻出する計画を立てる。
そして、御用金強奪は成功し、その金はお菊へと渡り、長崎で治療を受けたお菊の目は晴れて見えるようになるが、一方のイヤミは、御用金強奪の罪に問われ、囚われの身となり、牢獄へと入れられる。
時を経て、無事に目が見えるようになったお菊は、街道の茶店で働きなから、イヤミを待ち続けていた。
運命の悪戯か、そこに身柄放免となったイヤミが立ち寄る。
だが、お菊はその男がイヤミであると気付かった。
牢獄から出て来たイヤミは、自らの落ちぶれた現状を思うと、自分がイヤミであることを告げることも出来なかった。
それはイヤミにとって、武士としての最後のプライドでもあったのだ。
そして、イヤミは、お菊に永遠の別れを告げ、彼女の幸福を願いつつ、一人風の中を去って行く…。
深い哀切を残したまま、物語の幕を閉じるラストシーンは、まさしく白眉の出来栄えで、痛切なまでに読者の胸に響き渡る。
尚、本エピソードは90年にスタジオぴえろ製作によるオリジナル・ビデオアニメとして日本コロムビア株式会社より単体でリリースされたほか、18年に「おそ松さん」(第二期)でも1エピソードとしてテレビ放映された。
「おそ松さん」版「イヤミはひとり風の中」は、ほぼ忠実に原作のドラマを再現しながらも、時代設定を江戸時代から昭和三〇年代へとスライドしており、モノクロアニメとしてオンエアされた。
原作の『おそ松くん』には全く興味がないであろう「おそ松さん」ファンにも絶賛され、今尚、当エピソードは、泣けるギャグ漫画、泣けるギャグアニメの名作中の名作としてその評価については揺るぎないものがある。
12位…「地球最後の日の王様」(『ギャグギゲギョ』/「週刊少年キング」74年31号)
後に、曙出版から『ギャグの王様』のタイトルで上下巻に分けて単行本化される『ギャグギゲギョ』は、『ギャグゲリラ』同様、特定の主人公を定めず、毎回、パンチの効いた特技と個性を持った異常人物達が、我こそがその道の王様だと言わんばかりに、どぎつく画稿狭しと暴れまくる、ブラックユーモアとセンス・オブ・ワンダーの分水嶺を境にした異端のシリーズだ。
連載後期に描かれたこのエピソードは、そんな漫画本来が持つデタラメなドラマが、奇抜な着想をもって展開し、読み手の脳を軟化させてやまない前代未聞となる笑いのセオリーを生み出してゆく。
長い雨が続き、また雨が止むと、今度は恐ろしく暑い異常気象となり、この世は辺り一面カビだらけの世界となる。
ノストラダムスの大予言にも記されていない天変地異に恐れおののく人間達。気象現象は悪化し、人々の身体が糸を引くように溶け出してゆく。
そして、この世の最期か、天空からは、黒い雨が降り注ぎ、今度は放射能なのか、真っ白い粉雪状の結晶が世界全土を覆い尽くす。
やがて、いくつもの円盤が地球に不時着し、最後には黄色く光る巨大な流星が地球を飲み込み、遂に全人類は一巻の終わりを告げる。
最後のコマは、一家団欒の食卓、母親がお皿に入っている何かを箸で掻き混ぜながら一言「きょうのナットウはよくねばるわ」。
実はこのエピソード、納豆が出来るまでを綴ったもので、作中登場する人類は水戸納豆、黒い雨は醤油、粉雪上の結晶は味の素、不時着した円盤は刻みネギ、黄色い巨大流星は生卵に見立てたギャグになっているのだ。
SFホラーを想起させる殺伐としたカタストロフィーが一気にナンセンスな笑いへと跨ってゆく脱線は、読者にひと時の放心を齎す、赤塚ならではの高度なスカシのテクニックと言えよう。
因みに、このアイデアは、赤塚自身、お気に入りだったと見え、後にバリエーションを変え、『大日本プータロー一家』の1エピソード(「納豆でネバネバ!!」/「コミックボンボン」91年6月号)でも、プロットの一つとして再利用されている。
13位…『赤塚不字夫のギャグ漫字』(「リイドコミック」79年1月4日号)
70年代、赤塚不二夫は「リイドコミック」誌上にて様々なスタイルの青年向けギャグの傑作、怪作を続々発表するが、本エピソードは、赤塚の実験精神の発露とも呼べる作品で、登場人物は文字で吹き出しの台詞が絵文字に変わっているという「□□□」(絵のため表記不可)(『天才バカボン』/「週刊少年マガジン」73年47号)をベースに幾何学的抽象の概念を更に突き詰めた意欲的な一編だ。
しかし本作は、単なるタイプグラフィに過ぎなかった登場人物や風景描写が主だったギャグである「□□□」とは異なり、登場する漢字を全て擬人化し、その文字や語句から滲み出る妙味を戯画化した、赤塚らしい言葉遊びが全編に渡って貫かれている。
本作品は、「新婚旅行」「非常口」「わり込み」「男と女」「羊」「成人式」「かくれる」の七編がオムニバス形式で描かれており、例えば、「成人式」では、成人となった三人の女がちょっぴりHな女子トークで盛り上がっているところ、町内一のスケベ男・強くんが三人の女を襲ってしまい、遂には「強姦罪」で逮捕されるというもの。
「羊」では、この作品の発表年の干支が羊であったことから、羊がレポーターに色々と質問をぶつけるものの、「メエーメエー!!」しか答えられない。
業を煮やしたレポーターが羊に蹴りを入れると、羊の文字ががバラバラになって「¥」と「一」になってしまう。
そこで、再度レポーターが「お年玉はいくらもらいましたか?」と訊ねると、羊は「¥1」と答え、名前を訊ねられると、今度は逆さまになった¥の上に一が乗っかり、「一夫」と答える按配だ。
これは羊が一夫多妻制を習性としている動物であることを掛けている。
『ギャグ漫字』は、テーマをそのままに、この二年後の81年、現代出版から発売され、好評を博した『クイズ式ことばあそびカタログ』(ことばの会編/5月20日発行)でも、新たに描き下ろした「まさかのときに」「暴走族」「自主トレ」の三エピソードと一緒に「新婚旅行」が収録されている。
「まさかのときに」は、住友生命の生保レディが独身男のアパートに勧誘に赴くものの、ふとした拍子に男女の仲となってしまい、生保レディの大きくなったお腹(友の文字)に小さな生命が宿ってしまうという内容で、「自主トレ」は、雪だるまを真っ黒にしたような男が、とある「監督」から厳しいトレーニングを課せられ、すっかりスリムになると、その真っ黒の雪だるまの正体が実は「田淵」だったというもの。
当時、極度の肥満から成績不振を余儀なくされていた西武ライオンズ所属の田淵幸一選手を茶化した内容で、厳しい監督は、この時ライオンズの監督を務めていた根本陸夫という落ちだった。
尚、本タイトルは、「まさかのときに」「暴走族」「自主トレ」を除き、21年に大人向け赤塚マンガの未収録作品ばかりを集めた画期的なアンソロジー集『夜の赤塚不二夫』(なりなれ社、7月28日発行)に初収録され、漸く日の目を見るに至った。
また余談であるが、16年に第一期「おそ松さん」で放映された「十四松と概念」は、まさに本作の系譜と言っても差し支えないエピソードで、こうしたマイナータイトルにおいても、赤塚の類稀なる先取性を見て取ることが出来よう。
14位…「伊豆の踊子」(『レッツラゴン』/「週刊少年サンデー」72年21号)
『天才バカボン』の連載中断、『もーれつア太郎』の連載終了、そして、それらに変わって始まった新連載タイトルも思惑通りの人気を得られず、また、プライベートにおいても、最愛の母だったりよが鬼籍に入るなど、70年から71年に掛けては、赤塚にとって受難に見舞われた時期でもあった。
漫画家としても、一人の人間としても、大きな曲がり角に差し掛かったことを赤塚自身、痛感していたのであろう。
再度、創作のモチベーションを高めるとともに、自らの発想や想像力を今一度オーバーホールすべくニューヨークへの短期遊学を決意する。
この時、親友である漫画家の森田拳次がニューヨークで漫画家修行をし、現地に滞在していたことも、背中を押す切っ掛けになったのだろう。
そんな赤塚がニューヨークで体験した新鮮且つ驚倒に満ちた生活と、たっぷりと吸収した現地の文化や風俗をその世界観に対し、ダイレクトにぶつけたとされるのが、この『レッツラゴン』だった。
特に、当該のエピソードは、『レッツラゴン』の中でもターニングポイントとなった一作で、赤塚が『レッツラゴン』に関して、ネームを一切切らずに、ぶっつけ本番で清書用のケント紙に絵と台詞を入れてゆくその嚆矢となった。
このコマからコマへの緊張感だけで、ドラマを紡いでゆくアドリブ性重視の執筆スタイルは、計算していないからこそ得られる意外性に満ちたギャグや発想を盛り込めるメリットがあり、ネームを切るといった通常の制作工程を経ては、恐らく削ぎ落とされてゆくであろう初期衝動に満ちたグルーヴが、その世界観において横溢するというのも客観現象の一つとしてあるだろう。
ノーベル文学賞受賞作家として令名高い川端康成のガス自殺にインスパイアされて描かれた本作は、「長いトンネルをすぎると…」で有名な同じ川端文学の代表作「雪国」を模倣したプロローグから始まり、学帽にマントを身に纏った出で立ちのベラマッチャが、旅の道中、ブスの踊り子、ジュリエットと出会い、恋に落ちるというパロディーとして展開するが、中盤よりその設定は、尾崎紅葉の「金色夜叉」へと変貌する。
そして最後は、貫一とお宮の如く、ベラマッチャがジュリエットを波間で蹴飛ばし、再び長い旅路へと向かうという、パロディーでありながらも川端原作の原型を留めていない、パラレルな二つの世界が異種結合した不可解な結末を迎える。
この作品を機に、赤塚は意図して、ドラマも落ちも含め、既定性への着地を拒否するシュールレアリスムとの類縁を帯びた意匠をシリーズにおいて徹底化してゆく。
近年、アンチ赤塚の泡沫ユーザーが、『レッツラゴン』は毎回人気最下位だったと某SNSでポストし、当該ポストが至るところで拡散されていた。
確かに、『レッツラゴン』は、『おそ松くん』『天才バカボン』『もーれつア太郎』のようにテレビアニメ化され、爆発的人気を呼んだわけではないが、毎回人気最下位であるタイトルが3年もの長期連載を果たすことはなかろうし、そのキャラクターが頻繁に掲載誌の表紙を飾ることもないであろうことは、語るに及ばずだ。
こうした思慮深さの欠片もないアンチ赤塚の愚鈍ぶりには、毎度のこととはいえ、ほとほと呆れ果ててしまう……(溜め息)。
15位..「天才アルコール」(『天才バカボン』/「月刊少年マガジン」88年8月号)
87年、テレビ東京の「まんがのひろば」枠にて、東京ムービー製作の「天才バカボン」(71年〜72年)、「元祖天才バカボン」(75年〜77年)が立て続けに再放送される。
一連の『バカボン』リピート放送は、同局の番組、NHKを含む同時間帯全てのプログラムの中で、ナンバーワンの視聴率を獲得したほか、オンエア中の全アニメ番組においても、三位に食い込むという異常な盛り上がりを見せ、小中学生を中心に『バカボン』人気が再熱する起爆剤となった。
その後、「コミックボンボン」「テレビマガジン」といった講談社系の児童雑誌に、『バカボン』や『おそ松くん』がリバイバル連載され、88年から91年に掛けては、これらに加え、「ひみつのアッコちゃん」や「もーれつア太郎」といった他の代表作も続々とリメイク放映された。
第四次赤塚ブームの到来である。
その一環としてリバイバル時代初期に「月刊少年マガジン」でも、『天才バカボン』か再執筆された。
本作は、数ある『バカボン』エピソードの中でも異色中の異色作で、登場人物が全て酒という、一見支離滅裂な状況生成を織り成しながらも、そのエクスプレッションは、シュールの概念を超え、更なる前衛への視野を開陳した、シュールの形而上学と例えて然るべき超常的ナンセンスへと仕上がっている。
バカボンのパパが恵比寿顔だけにエビスビール、バカボンが子供だけに、ノンアルコールのバービカン、ママがサントリーのママ(生)ビール、取り締まりがドライな目ん玉つながりにはサッポロ・ドライと、『バカボン』キャラクターが酒に変換された驚倒の仮想的並列世界が繰り広げられるが、弁慶の如く、ビールの千本抜きを目指す栓抜きとエビスビールのパパとの対決軸にドラマの焦点を絞っているため、これといったストーリーはなく、ヤマ場もオチもない。
さりとて、キャンベルのスープ缶のポスターに代表されるアンディ・ウォーホルのポップアートと同じく、平坦な空間の中にも奥行きある彩度を表出しており、漫画の本道から外れた特異な世界観を呈示しつつも、その根底には、ウイットに富んだ赤塚特有の遊び心が注がれている。
16位…「ガーブの世界」(『お笑いはこれからだ』/「小説新潮」84年2月号)
82年より連載開始した『お笑いはこれからだ』は、和田誠の名著「お楽しみはこれからだ」のギャグ版を目指した意欲作で、各話、名作映画、話題映画をサブタイトルに用いつつも、そのタイトルと合致する社会事象や時事問題をテーマに据え、戯画化した成人向けパロディーだ。
その中でも、当エピソードは、当時エッセイ集「ルンルンを買っておうちに帰ろう」を発表し、一躍ベストセラー作家となった林真理子を主役に迎え、男に全く相手にされない、しかし、何処までも欲望に忠実なブス女の痛々しい迷走ぶりをドギツイまでに笑い飛ばした痛快作である。
ジョン・アーヴィングの原作及びジョージ・ロイ・ヒル監督による「カーブの世界」は、男性を拒否しながらも、意識不明である植物人間の元軍人と一方的に性交し、子供を宿した一人の看護婦が、自らの半生を赤裸々に綴った自伝を刊行し、一躍フェミニストの旗手となるストーリーだが、この赤塚版「ガーブの世界」では、欲求不満の林真理子が巨額の印税でハーレムを建造するものの、オチは、集ったメンズ達が皆、古代中国の宦官と同じく、イチモツを去勢し、林真理子にお遣いするという悲哀に満ちた帰結を見る。
個人的には、禍々しい赤塚時事ナンセンスとして、傑作の範疇に入る作品ではあるが、血祭りにあげられた当の林真理子にしたら、腸が煮えくり返る代物だったのは当然のようで、後年、長谷邦夫の述懐によれば、当時新進気鋭のエッセイストとして売れに売れていた林真理子の本エピソードに対する怒りは相当なものだったようで、「小説新潮」編集部に対し、「私を取るか、赤塚を取るか」と言わんばかりに恫喝まがいの要求をしてきたという。
その結果、『お笑いはこれからだ』は打ち切られたと語るが、『お笑いはこれからだ』の連載が終了したのは、この挿話が描かれたおよそ一年後のことで、長谷の発言からはタイムラグが生じている。
実際、林はこの時代、新潮社で仕事をしておらず、初めて新潮社より小説集「胡桃の家」を刊行するのは、『お笑いはこれからだ』の連載終了から更に時を経た86年のことだ。
また、この件について、林は泣き寝入りするしかなかったと自著「成熟スイッチ」にて述懐しているものの、この直後、林が訪れたバー(恐らく四谷の「ホワイト」だと思われる)で赤塚とバッタリ出食わし、「あの時はごめんね」と謝罪を受けたとも語っている。
従って、この長谷証言も、記憶違いだか、赤塚がこの時代、既に出版界において求心力が失われていたことを殊更に強調したいがために吐いた虚言だかは、当然ながら筆者の知る所ではないが、こちらもまた、例によって相変わらずの誤謬であることに論を俟つまでもないだろう。
因みに、その後も林と赤塚は、雑誌等で対談をしたりと、林の太っ腹且つ女傑のような性格もあって、その関係が悪化することはなかったようだ。
17位…「いまにみていろミーだって」(『ア太郎+おそ松』/「週刊少年サンデー」69年21号)
『おそ松くん』の週刊連載終了により『もーれつア太郎』の連載がスタート。ライバル誌「週刊少年マガジン」で人気を博した『天才バカボン』の「サンデー」移籍により、『ア太郎』『おそ松』『バカボン』の赤塚ギャグ三大タイトルの人気キャラクターが一同に介した長編漫画が69年から70年に掛けて、複数本執筆されることになる。
「いまにみていろミーだって」は、そうしたジョイント企画の中でも特段に評価の高い一作であり、曙出版、講談社、竹書房といった通常の『おそ松くん』コミックス以外にも、『ギャグほどステキな商売はない』(広済堂、77年)や『赤塚不二夫のマンガバカなのだ ア太郎+おそ松』(朝日新聞出版社、09年)といった赤塚関連書籍や赤塚アンソロジー集にも複数回に渡り収録されている。
イヤミとバカボンのパパをダブル主演に迎えたこの作品は、二人が唐辛子メーカー(「八色(ぱーいろ)とうがらし」)に勤務するうだつの上がらないセールスマンという設定の中、バカボンのパパはイヤミの父親役を務めるといった異色のキャスティング。また、彼らを取り巻く会社の人間達も、ワンマン社長にデカパン、日和見専務にハタ坊、パワハラ部長にチビ太、美人秘書にトト子、トップセールスマンコンビにア太郎とデコッ八、給仕にココロのボス、清掃係(?)にレレレのおじさん、そして、会社に居付いている野良猫としてこの時人気絶頂だったニャロメが名を連ねており、赤塚スターシステ厶の本領がフルに発揮されている点も大きな魅力の一つだ。
ストーリーは、全く業績を上げられず、会社では疎まれる存在であるバカボンのパパ、イヤミ親子が、ある日、巷を騒がしていた四億円強盗犯人が奪ったとおぼしきトランクの積まれたカローラを発見。犯人が乗り捨てた車であると判断したイヤミは、警察に通報し、遺失物法によりその一割である四千万円を謝礼金としてもらおうと皮算用し、これまでの意趣返しとばかりに会社で傍若無人な振る舞いをするが、実はトランクの中味はカラッポという落ちだった……。
68年12月10日、東京都府中市で発生した三億円強奪事件をモチーフとした本作品は、翌年の4月9日、国分寺市の本町団地敷地内にある駐車場にて、実際、犯人が乗り捨てた逃走用カローラと奪ったジュラルミンケース三つが発見され、発生から数ヶ月、新情報が途絶えていた三億円事件が再び世の耳目を集めていたまさにその時期、タイムリーに描かれた喧騒劇だ。
児童ギャグ漫画でありながら、こうした時事性の高さは赤塚ワールドの独壇場であり、この後も時宜に適したナンセンスな笑いが、その世界観において幾度となく弾き出されてゆく。
三億円事件は、赤塚にとっても興味の尽きないテーマだったと見え、「週刊文春」連載の『赤塚不二夫のギャグゲリラ』でも、「私は泣いています」(74年11月11日号)、「デブデブ」(75年9月11日号)、「時の過ぎゆくままに」(75年12月18日号)の三本でカリカチュアライズしたほか、「週刊読売」の三億円事件特集号でも、三億円犯人逮捕を夢見るダメ刑事の悲哀を描いた『私バカよネ おバカさんよネ』(75年9月13日号)を寄稿している。
いずれも、赤塚ならではのシニック且つ烏滸の笑いへと染め上げた傑作掌編だ。
尚、当エピソードの舞台となった「八色とうがらし」は、遡ること一年前、『天才バカボン』の「タリラリラ〜ンのとうがらしなのだ」(「週刊少年マガジン」67年40号)で、パパが味見係として入社した会社であったことも、赤塚マンガトリビアの一環としてこの場にて追記しておきたい。
18位…「リインカーネーション」(『不二夫のギャグありき』/「週刊少年サンデー」77年39号)
赤塚不二夫にとって「週刊少年サンデー」最後のシリーズ連載となった『ギャグありき』は、連載当初、犬と人間の合の子とおぼしき次男坊の活躍を中心に、メンデルの遺伝の法則を無視したワケあり親子が総出演するファミリー喜劇として展開していたが、一億総中流時代における一般家庭のステレオティピカルな日常に映し出された倒錯的奇性をテーマに、ホームドラマの常識を意識的に覆す、メタフィクショナルな笑いを標榜したその世界構造にあっては、ドラマの柔軟性を失うことは必至で、テコ入れも兼ね、内容を一新するしかなかったのだろう。
連載途中から、キャラクターを総入れ替えし、何と、父親役にバカボンのパパが登板。このように劇構成の基盤となるシチュエーションをキャラクターシステムに依拠した流れから、ワケありファミリーの定住型コメディーは、『レッツラゴン』のリバイバルへと、ドラマそのものが突如として変貌し、その後三週に渡って続くことになる。
リバイバル版『レッツラゴン』に代わって登場新生『ギャグありき』は、主人公を定めない、より自由度を高めたシュールなナンセンスコメディーへと捻りを効かせる。
取り分け、この「リインカーネーション」は、その最たるエピソードで、亡くなった一人娘の魂が、ある日、髭面の中年醜男(カオルちゃん)の身体に宿り、最愛の両親と奇妙な同居生活を始めるというのが主なあらましで、花子の魂が乗り移った中年男に警戒する父親は、遂に寝不足のあまり突然死してしまうという大きなヤマ場を迎える。
だが、父親も魂だけは生き残るものの、あろうことか蝿に転生し、蝿の姿で遺した妻子を見守りに来るも、愛する妻から殺虫剤を一吹き掛けられ、ジ・エンドとなってしまう痛烈な落ちへと転がり込む。
読者の展開予想を遥かに上回る驚愕のクライマックスが独壇場の赤塚ワールドだが、本シリーズにおいても健在で、これが赤塚にとってホームグラウンドであった「週刊少年サンデー」の最後の連載作品だと思うと、一抹の寂しさを禁じ得ない。
19位…『逃げろや逃げろ』(「少年チャレンジ」79年8月号)
「少年チャレンジ」に夏休み特別企画として発表された『逃げろや逃げろ』は、100ページに渡って発表された、赤塚にとっても渾身の長編読み切りだ。
小学校を卒業すると同時に、東大へ飛び級入学させるという驚異のスーパー進学塾・東大一直線塾に入塾した江川学少年を待ち受けていたものは、夏休みも冬休みも返上し、二十四時間勉強に勤しむ過酷極まるカリキュラムだった。
この東大一直線塾には、何と、東大に合格出来ないと見なした生徒は、一人残らず処刑されるという恐るべき秘密があった。
このままでは、命がないと戦慄した学は、塾で親しくなった仲間の久美やタコ八とともに脱出を企てる。
だが、富士の樹海の中、四方八方を高い鉄壁に囲まれた要塞のようなこの塾を脱出することは完全に不可能だった。
そこで学は、塾長の鬼田の懐刀であるガリ勉の勉を利用し、脱出するというある奇策を思い付く……。
勉強浸けの生活に、毎日がんじがらめになっている子供達を救うべく、学、久美、タコ八の三人が自衛隊の戦車を使って東大一直線塾を総攻撃したり、瓦礫の山となった塾から、巨大ロケットが轟音とともに宇宙に飛び立ったりと、中盤から終盤に掛け、ブレーキが壊れたかのようにドラマが加速してゆく、興奮度満点のエンターテイメント作品として、読者の目を釘付けにしつつも、作品の論意は過熱の度を深めていた当時の受験教育政策の不毛性を茶化した、痛烈なシニシズムによって支えられており、その根底には、いつの世も子供は子供らしく腕白で逞しくあって欲しいと願う赤塚自身の想いがテーゼとして盛り込まれている。
舞台となった東大一直線塾は、ネーミングこそ同時期に人気を博していた小林よしのりの『東大一直線』のパロディーになっているものの、その教育理念は、徹底したスパルタ教育による学習指導をスローガンに掲げ、一流進学校への驚異的な合格実績を上げるなど、エリート養成機関としてその名を全国に知らしめていた学習塾・伸学社(別名・入江塾)をイメージしたものと思われる。
20位…「天然痘?」(『赤塚不二夫のギャグゲリラ』/「週刊文春」73年4月30日号)
スペインが生んだ前衛芸術家、パブロ・ピカソ逝去のニュースに合わせて発表された「天然痘?」は、モデルの肢体を抽象絵画のように人体改造し、それをリアリズムとしてしか表現出来ない三文画家を主人公に迎え、芸術本来の崇高さから背き離れたその即物的な創作風景をラディカルな笑いへと昇華した珠玉の一編だ。
このエピソードでは、キュビズムに追従するその後の現代美術家の多くが、図式化されたその幾何学的エッセンスを単にファッションとして組み換え、客体化せしめているに過ぎないという一面の真理が明徹なまでに喝破されている。
つまりは、キュビズムのエピゴーネンは、ピカソが写実から抽象へと作風を変遷させていった先鋭性、深遠さとは真逆の脆弱性が作風の核となって渦巻いているという解釈である。
悪酔いして嘔吐した人間をモデルにした「ゲロニカ」や、音楽の街、浜松までロケーションに赴き創作したとされる「ハモニカ」、そして三洋電機の工場へと忍び込み、拝借した乾電池からイメージを膨らませた「カドニカ」等、劇中挟み込まれたご本尊「ゲルニカ」のアンサーともいうべきダジャレ画もピカソ同様、幾何学的形象で描かれており、その巧みなパロディーセンスにニヤリとさせられること請け合いだ。
また、ラストのコマで描かれた、全身改造により歩く抽象オブジェと化した三文画家、モデル、画商の三人が「レッツゴー・グロニカ」なるお笑いトリオを結成し、ヤケクソになってテレビカメラの前で見世物芸を披露するというグロテスクなジョークも、ナンセンスな捻りを加えてパロディー化した、赤塚マンガならではの見事な着地点と言えよう。
余談であるが、本エピソードは、08年、「週刊文春」(8月28日号)の赤塚追悼企画「追悼赤塚不二夫 『ギャグゲリラ』大傑作 26ページ一挙公開」なる特集に、四本のうちの一本として再録され、あまねく読者の評判を呼んだこともこの場にて列記しておきたい。
また、本エピソードのタイトル部分にはめ込まれたナンセンスフォトに、ボディペインティングをして写っている女性は、この時、前衛の女王なる異名で名を馳せていた現代アーティストの草間彌生その人である。
次点…「文豪の末路」(『不二夫のギャグありき』/「週刊少年サンデー」77年34号)
72年、仕事場の逗子マリーナでガス自殺を遂げたとされる文豪・川端康成のその死の真相を綴り、遺族から名誉毀損として訴えられるなど裁判沙汰へと発展した曰く付きの実録風小説「事故のてんまつ」(臼井吉見著)をモチーフとした一編。
年老いた文豪作家・イヤミには、アイ子という名の若くて美人のお手伝いさんがいたが、彼女から郷里に帰って結婚したい旨を聞かされ、激しく動揺する。
イヤミは、アイ子を繋ぎ止めておきたい一心から、執筆そっちのけでアイ子の身の回りの世話をし、家政婦業が板に付くものの、彼女が里帰りしたとたん、すっかり小説が書けなくなってしまう。
しかし、転んでもただでは起きないイヤミは、貫禄たっぷりの売れっ子女流作家(「恍惚の人」で有名な有吉佐和子がモデルだろうか?)のお手伝い嬢へと転身し、彼女に宮仕えすることで、文学界の末席に身を寄せるという諧謔に満ちた落ちへと帰結を見る。
ネタ元となった「事故のてんまつ」は、大作家の家に雇われた若い家政婦が、作家から熱烈な寵愛を受け、また彼女が郷里に帰ったその翌日、作家が自らの生命を絶ってしまうまでの日常を家政婦目線で綴ったストーリーだが、赤塚版川端康成のイヤミは、何処までもしたたかで、イヤミを通し、人間の有り様におけるデカダンな根源特性をカリカチュアライズしているところに、本エピソードの苦味を越えたコクがある。
返信が遅くなってしまい、恐縮です😅
「サンデー」版後期の長編版『おそ松くん』や『ア太郎+おそ松』の諸タイトルとか、いずれも甲乙付け難い傑作ですね!
当時、赤塚作品同様、藤子不二雄作品の愛読者だったキッズ達から、「藤子作品でもキャラクターがクロスオーバーするタイトルが見たかった!大長編『オバケのQ太郎』とか『パーマン+オバQ』とか」なんて言っていたのが印象的でした。
もし、そんな長編作品が描かれたら、かの大長編『ドラえもん』の原点になっていたのではないかと、ついつい妄想してしまいますね😅
まぁ、それくらい長編版の『おそ松くん』などのインパクトが甚大だったということでしょう。
これらの作品を傑作たらしめるのは、何と言っても、赤塚本人の映画に対する造詣の深さだと思います。
「六つ子対大日本ギャング」に至っては、個人的に大好きな「おかしなおかしなおかしな世界」や「クレージーの大冒険」にダイレクトな影響を受け、それでいながら見事に赤塚マンガとして昇華されていますものね☺
そんな赤塚ワールドに対し、理解と愛着を示して下さるM・Tさんには有り難い思いで一杯です!
いずれ、お気持ちが落ち着きましたら、M・Tさんの赤塚マンガ・ベスト10をお聞かせ下さいね👍
元々「バカボン」は当初からチビ太らがゲスト、そして「ア太郎」でもゲストキャラが出てましたが、この年の初期に合体企画「ア太郎+おそ松」(単行本名「時のかなたの森の石松」)を発表、そして今回の作品へとなっていくことに。
内容は「ア太+おそ」が「おそ松」キャラ(加えてパパ)で、「ア太郎」キャラは通常キャラという、「ア太郎」通常版の延長だったのに対し、今回は完全なる番外編、そして「バカボン」の「タリラリラーンのとうがらし」の舞台だった「八色とうがらし」(パパが務めた経験あり)が舞台になるというもの。
今回は業績の悪いイヤミとバカボンパパが中心、前半ではデカパン社長らの「会社業績不振」の八つ当たりに耐えながらも、後半では偶然から見つけた大金アタック種ケースで一発逆転を計画するという、イヤミのもう一つのキャラ「貧乏人」「金の力に物を言わせようとする」を見せました。
客演キャラは「ア太・おそ」での×五郎・神様・助手・ココロの子分2人・ブタ松の子分ブタが出なくなった分、イヤ・パパが訪れた客役で、六つ子の両親(松造・松代)・大工の熊さん・おかみさん(「八百×」常連客で熊さんの妻)がクロスオーバー唯一の登場です。熊さん夫婦のゲスト出演なんて珍しいじゃないですか。
その一方で「ア太・おそ」で、都鳥一家(親分はイヤミ)役で登場した六つ子、そして清水次郎長(ダヨーン)の娘役で登場したトト子の出番が極端に減ってしまいました。特にトト子は秘書らしくワンピースやバンプス(さすがにソックスは履かない。ストッキングでも履いてるだろ)姿なのに対し、わずか4コマ登場、そしてイヤ・パパとは会社の中では全く絡みませんでした。「チビ太は億万長者」や「突撃イヤミ小隊」みたいにイヤミをかばい、デカパン社長らを叱り飛ばして欲しかったですが、この時期ではもうトト子はおしとやかな少女になってしまいましたし。
私の「赤塚マンガベスト10」ですか。それは私も発表してみたいですが、今現在は両親を失った「ア太郎状態」。気分が落ち着いたら発表してみたいと思います。
そうですね! アニメではあの後味すっきりしないとされる結末ではなく、万人にわかりやすいその後の展開がきっちり描かれていて、清いですよね👍
でも、私は原作の方のラストに衝撃を受け、実はあれこそが個人的に正解だと勝手に思っております。
ところで、MTさんの赤塚マンガベスト10なども教えて下さいましたら幸いです😊💐
名作「チビ太の金庫やぶり」(新)や、「ア太郎」や「はくち小五郎」でも似た話が登場する「イヤミはひとり風の中」などがありますが、一番なのは「ニャロメの怒りとド根性」、普段のワルが高じて、会長のひき逃げの事も信用できず、それでもラストに「ひきニャげ!!」と絶叫し、デコッ八がハッと思ったところで幕。結局どうなったのかは語られないまま終わりました。
後にアニメ化された時は、第2作では会長が捕まってめでたしめでたしですが、第1作では「八百×の野菜を寄付した」という、身も蓋も無い話題から会長の謎が分かってくるという結末になりました。決着を着けてくれるというのは良かったです。