2017/3/18
「東海道53次歩き旅(14回目)小田原宿~保土ヶ谷宿(2泊3日)二日目その1」 東海道53次歩き旅
歩き旅二日目。
神奈川県内の国道1号線は「旧東海道」である部分が多い。もっとも国道1号線よりも、バイパスが海岸沿いに走っているので、それを利用する車が多い。高速道路なので、急ぐ車はそちらを利用することになる。それでも、国道1号線はどこも通行量が多い。
旧東海道の道らしき「街道」そのものを感じられる部分は少ない。「東海道53次歩き旅」の気分を味わえる道は皆無である。
箱根で実感できた「いい雰囲気の道」は(小田原から横浜にかけて)残っていなかった。
普通車やダンプなどがビュンビュン走っている道の側道を歩くのだから、ある意味で危険。「味気ない歩き旅」にならざるをえない。このまま日本橋まで続いているのかもしれない…。
ホテルでの朝食をさっさと済ませ、午前7時に歩き始めた。
(今日は歩くぞ!)気合十分。
小田原宿から大磯宿までの17㎞。結構離れている。標準的な宿間の距離は約10㎞だから、大磯宿は遠かった。途中地点で、一日目の「歩き旅」を中断しておいてよかった。
朝7時に歩きだしてから、大磯宿中心部(小島本陣跡)に到着したのは午前9時前であった。大磯には「滄浪閣(伊藤博文・初代総理大臣の邸跡)」や「旧吉田茂邸(平成21年焼失)」・島崎藤村旧宅などがある、トップレベルの地域である。湘南海岸が近く芸能人などの別荘地にもなっているところである。「湘南発祥之地碑」が東海道に面して建てられていた。その碑の近くに「新島襄終焉の地」の碑があった。同志社大学創立者・新島襄は、湘南で亡くなられていたのだ。晩年は湘南海岸を散歩することが多かったのだろうか・・・と、想像しながら碑に手を合わせた。
大磯宿には本陣が3軒あったようだが、すべてなかった。「本陣跡」の標示も見つけにくかった。すっかり「宿場」だったことが消されてしまった街だと感じた。
東京が近づくにつれて「宿場だった証・歴史」は消されていくように感じた。
(東海道53次=旧東海道の歴史的雰囲気はなくなってしまったなあ)
(歩き旅、車が多くなりすぎてうるさいのに、「歴史が寂しい道」になってしまった・・・)
大磯宿から4km行ったところに、平塚宿であった。宿間が短かったので、午前10時ごろに「平塚跡」(西中公園内)に到着できた。
「平塚」の名の起こりは、坂東平氏の始祖が旅の途次、この地で亡くなり塚が築かれた。この塚は「たいらつか」と呼ばれたが、後に転化して「ひらつか」となったとのこと。やはり、地名には「平氏」が関係していたようである。地名の語源を知ることは楽しい。
平塚宿は本陣が1軒(大きな宿なら本陣は数軒あった)の小宿だった。宿場だった痕跡は何も残されていなかった。本陣・脇本陣・問屋場・見付(宿の出入り口)など、すべて「跡」ばかりであった。
平塚宿を過ぎると、相模川(馬入川)にさしかかった。橋を渡る手前に「馬入(ばにゅう)の一里塚」碑があった。一里塚そのものは何も残っていなかった。
「馬入」って、どういうことかな? 資料によると、頼朝がこの川にかかっていた橋の上で落馬した際、馬は川に落ち、死んでしまった。このことによって、「馬入川」と呼ばれるようになった。という話である。この川は上流が桂川、中流を相模川、下流を馬入川と呼ばれるらしい。川の名前が(上流・下流などで)変化するのはよくあることだ。
頼朝落馬後、この川に架橋することは不吉だと言われ、舟渡しになったとのことである。
歴史と地名が絡んだ話である。
平塚宿から藤沢宿まで、13㎞余りあった。地名などに歴史が絡んでいたものの、東海道そのものには、歴史を感じさせる建物などはほとんどなかった。ただ「東海道の松並木碑」周辺の松並木は残っていた。松並木だけが唯一「東海道」を実感させてくれた。
それに、道祖神(男女相体道祖神)は大切に残されていた。日本橋が近づくにつれ、「何も残されていない」とはいえ、道祖神は結構破壊されずに残されていた。
その中に一つだけ、ちょっと笑ってしまう「おしゃれ地蔵」(形態は男女双体道祖神)もあった。この地蔵、女性の願いをかなえてくれる、とのことであった。男女とも唇が赤く塗られた道祖神に見えたので、(なんじゃ、こりゃ!)とつい笑ってしまった。
(このつづきは「その2」へ)
伊藤博文初代総理大臣別邸跡 滄浪閣(そうろうかく)碑
鴫立庵(しぎたつあん)日本三大俳諧道場 この建物は湘南にありながら、歴史を感じさせてくれた。
湘南発祥之地碑
東海道に沿うように、湘南海岸が高速道路(バイパス道路)の向こうに見えていた。
新島襄先生終焉之地 碑
「平成の一里塚」なるものが新しく設置されていた。高麗(こま)山を描いた浮世絵が掲示板の中に書かれていた。安藤広重の浮世絵。
「平成の一里塚」背後に実際の高麗山。東海道を歩いた人は、全員この山を見たのだろう。こんもりとした目立つ山である。
「平塚跡」があった。実際見たところ、平らな塚でもあった。「平らな塚」ゆえに「たいらつか」→「ひらつか」という説も成り立つかな?
こういう標柱があるだけ、まだマシ。標柱すらない「本陣跡」が多くなってきた。いよいよ、なにも標示のない「東海道」を歩くことになってきた…。味気ない道。
馬入の一里塚 説明板
馬入川を渡る 日本橋まで62㎞。がんばるぞ!
男女双体道祖神 こういうものはきちんと残されていました。
「東海道歩き旅」の安全安心の神様ですね。
国道1号線=旧東海道 藤沢市に到達しました。車が真横をジャンジャン走る道なので、うるさいし味気ない。たぶん、日本橋までの道はこういう道ばかりだろう。
思わず笑ってしまった「おしゃれ地蔵」(失敬しました。)
女性の願いをかなえてくれるとのこと。(まあ、男性の私ゆえ、お許しを…。)
神奈川県内の国道1号線は「旧東海道」である部分が多い。もっとも国道1号線よりも、バイパスが海岸沿いに走っているので、それを利用する車が多い。高速道路なので、急ぐ車はそちらを利用することになる。それでも、国道1号線はどこも通行量が多い。
旧東海道の道らしき「街道」そのものを感じられる部分は少ない。「東海道53次歩き旅」の気分を味わえる道は皆無である。
箱根で実感できた「いい雰囲気の道」は(小田原から横浜にかけて)残っていなかった。
普通車やダンプなどがビュンビュン走っている道の側道を歩くのだから、ある意味で危険。「味気ない歩き旅」にならざるをえない。このまま日本橋まで続いているのかもしれない…。
ホテルでの朝食をさっさと済ませ、午前7時に歩き始めた。
(今日は歩くぞ!)気合十分。
小田原宿から大磯宿までの17㎞。結構離れている。標準的な宿間の距離は約10㎞だから、大磯宿は遠かった。途中地点で、一日目の「歩き旅」を中断しておいてよかった。
朝7時に歩きだしてから、大磯宿中心部(小島本陣跡)に到着したのは午前9時前であった。大磯には「滄浪閣(伊藤博文・初代総理大臣の邸跡)」や「旧吉田茂邸(平成21年焼失)」・島崎藤村旧宅などがある、トップレベルの地域である。湘南海岸が近く芸能人などの別荘地にもなっているところである。「湘南発祥之地碑」が東海道に面して建てられていた。その碑の近くに「新島襄終焉の地」の碑があった。同志社大学創立者・新島襄は、湘南で亡くなられていたのだ。晩年は湘南海岸を散歩することが多かったのだろうか・・・と、想像しながら碑に手を合わせた。
大磯宿には本陣が3軒あったようだが、すべてなかった。「本陣跡」の標示も見つけにくかった。すっかり「宿場」だったことが消されてしまった街だと感じた。
東京が近づくにつれて「宿場だった証・歴史」は消されていくように感じた。
(東海道53次=旧東海道の歴史的雰囲気はなくなってしまったなあ)
(歩き旅、車が多くなりすぎてうるさいのに、「歴史が寂しい道」になってしまった・・・)
大磯宿から4km行ったところに、平塚宿であった。宿間が短かったので、午前10時ごろに「平塚跡」(西中公園内)に到着できた。
「平塚」の名の起こりは、坂東平氏の始祖が旅の途次、この地で亡くなり塚が築かれた。この塚は「たいらつか」と呼ばれたが、後に転化して「ひらつか」となったとのこと。やはり、地名には「平氏」が関係していたようである。地名の語源を知ることは楽しい。
平塚宿は本陣が1軒(大きな宿なら本陣は数軒あった)の小宿だった。宿場だった痕跡は何も残されていなかった。本陣・脇本陣・問屋場・見付(宿の出入り口)など、すべて「跡」ばかりであった。
平塚宿を過ぎると、相模川(馬入川)にさしかかった。橋を渡る手前に「馬入(ばにゅう)の一里塚」碑があった。一里塚そのものは何も残っていなかった。
「馬入」って、どういうことかな? 資料によると、頼朝がこの川にかかっていた橋の上で落馬した際、馬は川に落ち、死んでしまった。このことによって、「馬入川」と呼ばれるようになった。という話である。この川は上流が桂川、中流を相模川、下流を馬入川と呼ばれるらしい。川の名前が(上流・下流などで)変化するのはよくあることだ。
頼朝落馬後、この川に架橋することは不吉だと言われ、舟渡しになったとのことである。
歴史と地名が絡んだ話である。
平塚宿から藤沢宿まで、13㎞余りあった。地名などに歴史が絡んでいたものの、東海道そのものには、歴史を感じさせる建物などはほとんどなかった。ただ「東海道の松並木碑」周辺の松並木は残っていた。松並木だけが唯一「東海道」を実感させてくれた。
それに、道祖神(男女相体道祖神)は大切に残されていた。日本橋が近づくにつれ、「何も残されていない」とはいえ、道祖神は結構破壊されずに残されていた。
その中に一つだけ、ちょっと笑ってしまう「おしゃれ地蔵」(形態は男女双体道祖神)もあった。この地蔵、女性の願いをかなえてくれる、とのことであった。男女とも唇が赤く塗られた道祖神に見えたので、(なんじゃ、こりゃ!)とつい笑ってしまった。
(このつづきは「その2」へ)
伊藤博文初代総理大臣別邸跡 滄浪閣(そうろうかく)碑
鴫立庵(しぎたつあん)日本三大俳諧道場 この建物は湘南にありながら、歴史を感じさせてくれた。
湘南発祥之地碑
東海道に沿うように、湘南海岸が高速道路(バイパス道路)の向こうに見えていた。
新島襄先生終焉之地 碑
「平成の一里塚」なるものが新しく設置されていた。高麗(こま)山を描いた浮世絵が掲示板の中に書かれていた。安藤広重の浮世絵。
「平成の一里塚」背後に実際の高麗山。東海道を歩いた人は、全員この山を見たのだろう。こんもりとした目立つ山である。
「平塚跡」があった。実際見たところ、平らな塚でもあった。「平らな塚」ゆえに「たいらつか」→「ひらつか」という説も成り立つかな?
こういう標柱があるだけ、まだマシ。標柱すらない「本陣跡」が多くなってきた。いよいよ、なにも標示のない「東海道」を歩くことになってきた…。味気ない道。
馬入の一里塚 説明板
馬入川を渡る 日本橋まで62㎞。がんばるぞ!
男女双体道祖神 こういうものはきちんと残されていました。
「東海道歩き旅」の安全安心の神様ですね。
国道1号線=旧東海道 藤沢市に到達しました。車が真横をジャンジャン走る道なので、うるさいし味気ない。たぶん、日本橋までの道はこういう道ばかりだろう。
思わず笑ってしまった「おしゃれ地蔵」(失敬しました。)
女性の願いをかなえてくれるとのこと。(まあ、男性の私ゆえ、お許しを…。)
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タグ: 歩き旅
2017/3/17
「東海道53次歩き旅(14回目)小田原宿~保土ヶ谷宿(2泊3日)一日目」 東海道53次歩き旅
「東海道53次歩き旅」は、京都三条大橋をスタートしてから約3年経過している。3年計画の「数珠繋ぎ旅」。2017年3月14日~16日の歩き旅、今回が14回目となる。
(3年前)初めの頃は日帰りや1泊2日で「歩き旅」をしていたが、東京が近づくにつれて、2泊3日にならざるを得なくなった。再スタート地点が、堺から遠くなったからである。
新幹線利用なら、短時間で再スタート地点へ行くことができるが、「節約旅行」ゆえに「青春18切符」利用になった。青春18切符は「安い」のが一番の利点である。難点は「乗っている時間が長い+乗り換える列車が多い」ことである。
今回、その難点がもろに出た。堺市駅午前5時台の快速に乗ったが、小田原駅到着は午後2時40分ごろになった。快速や普通列車など、数回乗り継いだ。前回の「東海道53次歩き旅・小田原宿地点」に到着した時刻は午後3時過ぎであった。約10時間かかった。さすがに、「堺からここまで遠かった!」と、ゴクンと唾。
2017年3月14日。午後3時過ぎから、一日目の歩き旅がスタート。暗くなるまでに予約しているホテルにチェックインしたいので、約2時間半ぐらいしか歩けない。
小田原宿の次は大磯宿なのだが、17㎞先だから大磯宿でホテルを予約することはあきらめた。
小田原宿から10㎞ほどの地点で(一日目の歩き旅を中断し)予約しているホテルへ。この日は、時速約4㎞の歩き旅だった。
見学個所はカメラでパチリ、「さあ、いくぞ!」のペースでした。
(時速4㎞の歩きは、結構速いペースですよ。いつもは見学時間や休憩時間込みで、平均3㎞のペースで旅を楽しんでいますが・・・。)
江戸時代の人は江戸・日本橋から小田原宿(約80㎞)まで、1泊2日だったようです。よく歩いていた時代ですね。私は一日30㎞ぐらいが「ほぼ限界」のようです。一日40㎞は未経験の世界です。
宿中心部には、何軒か、こういう幟の店がありました。
現在も、こういう道祖神が残っていて、ほっと一息。
(3年前)初めの頃は日帰りや1泊2日で「歩き旅」をしていたが、東京が近づくにつれて、2泊3日にならざるを得なくなった。再スタート地点が、堺から遠くなったからである。
新幹線利用なら、短時間で再スタート地点へ行くことができるが、「節約旅行」ゆえに「青春18切符」利用になった。青春18切符は「安い」のが一番の利点である。難点は「乗っている時間が長い+乗り換える列車が多い」ことである。
今回、その難点がもろに出た。堺市駅午前5時台の快速に乗ったが、小田原駅到着は午後2時40分ごろになった。快速や普通列車など、数回乗り継いだ。前回の「東海道53次歩き旅・小田原宿地点」に到着した時刻は午後3時過ぎであった。約10時間かかった。さすがに、「堺からここまで遠かった!」と、ゴクンと唾。
2017年3月14日。午後3時過ぎから、一日目の歩き旅がスタート。暗くなるまでに予約しているホテルにチェックインしたいので、約2時間半ぐらいしか歩けない。
小田原宿の次は大磯宿なのだが、17㎞先だから大磯宿でホテルを予約することはあきらめた。
小田原宿から10㎞ほどの地点で(一日目の歩き旅を中断し)予約しているホテルへ。この日は、時速約4㎞の歩き旅だった。
見学個所はカメラでパチリ、「さあ、いくぞ!」のペースでした。
(時速4㎞の歩きは、結構速いペースですよ。いつもは見学時間や休憩時間込みで、平均3㎞のペースで旅を楽しんでいますが・・・。)
江戸時代の人は江戸・日本橋から小田原宿(約80㎞)まで、1泊2日だったようです。よく歩いていた時代ですね。私は一日30㎞ぐらいが「ほぼ限界」のようです。一日40㎞は未経験の世界です。
宿中心部には、何軒か、こういう幟の店がありました。
現在も、こういう道祖神が残っていて、ほっと一息。