2015/12/15
「東海道53次歩き旅⑨御油宿~見付宿(2泊3日)二日目」 東海道53次歩き旅
歩き旅一日目を終え、JR二川駅から一駅戻って、豊橋駅近くのビジネスホテルに宿泊した。二川駅周辺には適当な(安価で、温泉付きの)ホテルがなかったので、豊橋駅周辺で探したわけである。足腰の疲れを取るには「温泉」が一番である。ビジネスホテルでありながら「温泉付きホテル」は探せばあるものだ。なければ仕方がないが・・・。
歩き旅の疲れを取るには、ホテル選びも重要な要素である。年金生活者にとって、高級ホテルは避けることになる。
朝食後、2日目がスタートした。JRに乗り、二川駅へ行き、一日目の東海道到達点に戻った。そこは二川宿の西のはずれであった。東へ1kmほど行ったところが、二川宿の中心地であった。
二川宿「本陣」が立派な建物で、きちんと保存されていた。「これは、すごい!」とうなった。さらに「東駒屋」(味噌醤油の醸造)という伝統的建造物(現在も経営中)が残っていた。豊橋市は戦災にあったが、二川宿は戦争の被害にあわなかったらしい。東海道の宿場で太平洋戦争の被害を免れたところは少ない。二川宿の中心部は味わいのある町並みだった。
二川宿を去り、約7.5km先の白須賀(しらすか)宿を目指して歩き出した。
太平洋がチラッと見えてきた頃、風がものすごく強くなっていた。進むために体を低くする体勢になって歩いた。こんなに強い風の中での「歩き旅」は、「強烈」でした。山登りなら、中止していたでしょう。
強風の中、東海道・白須賀宿周辺の「歩き旅」をしている人は、(私以外に)誰もいなかった。いつもなら、「それらしい東海道歩き旅人」に出会うのだが・・・。この日は誰にも出会うことはなかった。とにかく、すごい風でした。海(太平洋)は大荒れで、幾重にも白い大波が打ち寄せていた。
(続きは、後日に)
ここから続きです。(16日記)
二川宿と白須賀宿との間に、境川が流れている。この川が昔の国境である。境川の西側が三河国(=三州)で、東側が遠江(とおとうみ)国(=遠州)。現在は愛知県と静岡県の県境になっている。豊橋市と湖西市との市境でもある。「湖西」つまり浜名湖の西に位置するところからなづけられたのであろう。白須賀宿は静岡県湖西市にある宿である。
とうとう「東海道53次歩き旅」も、静岡県に到達したのだ。
白須賀(しらすか)宿は、1707年の宝永大地震が起こるまでは、太平洋の海岸近くにあったとのことである。その時の大津波によって「白須賀宿」は大半が流出してしまった。そこで「高台移転」を余儀なくされ、現在の位置(浜辺からやや離れた坂の上一帯)に宿場を復興したわけである。
そういう歴史を初めて知ったこともたいへん勉強になった。江戸時代にも「大津波被害による高台移転」はあったのだ。
宝永大地震といえば、確か富士山の宝永火口(五合目付近)爆発と関係が深かったにちがいない。あの(過去において)日本の歴史上最大級だと考えられる「宝永地震」。あれから約300年後に、史上最大級の大地震が2つも発生したことになる。阪神淡路大地震と東北大地震である。
富士山の頂上はすり鉢の火口跡がくっきりとしている山である。(若い頃、初めてその火口を目にした時、感動しましたよ。「おおっ、これこそ火山なのだ!」と。
(ちょっと、中断)
中断が長くなりました。(12月20日、続きを書いていきます。)
ええっと、富士山のことを書いていましたね。脱線ついでに・・・。
私は子どもの時から「富士山の山頂付近は平らな平原なのだろう」と、勝手に思い込んでいました。ほんとうに長い間、思い込んでいました。富士山を絵に書くときは、山の頂上はとがらずに描いたものでした。その頂上がすり鉢状にくぼんでいるのをはっきりと目にした時、びっくりしましたね。「思い込みって恐ろしいなあ!」と、つくづく思い知らされました。
ある意味で、「真実」を見る目を持たないまま大人になっていたのです。こういうことは私だけのことでしょうか? 洗脳されている状況を自覚できないままに、真実を知ることなく生きていく人間は「私以外にもいる」のではないでしょうか・・・。富士山の形の問題なら、たいしたことではないかもしれませんが、「TPPの真実」や「原発の真実」などは、日本全体を不幸にしていく要素を持っている。そういう問題の真実を見る目は持っていたいと自分に言い聞かせているところです。
歩き旅の報告から、脱線してしまいました。お許しを。
白須賀宿でのことに話を戻します。
白須賀宿に、資料館「おんやど白須賀」があり、そこで休憩を取りました。資料館の館長さんがお茶を勧めてくれ、いただきました。観光客は私一人だったので、がらがらでした。館長さんと私とが同世代らしく、「昔の頃の話」になると意気投合しました。私同様、今日は誰とも話をしていなかったらしく、話が弾みました。一人旅にはそれなりの出会いがあり、楽しみもあるものです。
その資料館を出てから、道を間違えてしまったのです。ところが、「地元の親切な方」が、軽トラックで私を追いかけてきてくれて、「東海道の正しい道」を教えてくれたのでした。
私が道を間違えていることに、なぜ気がつかれたのでしょうか・・・。たぶん、リュックを背負った旅人が、地図を見ながら歩いていたからでしょうね。たぶん、そうでしょう。
「東海道歩き旅の人のスタイル」は、みなさんよく似ていますから。
白須賀宿を過ぎると、新居宿に到着した。
新居関のあるところで、関所の通過可能時刻は決まっている。「明け6つ(午前6時)」から「暮れ6つ(午後6時)」の間しか、関所は開いていない。それ以外は閉じられている。だから、新居宿で泊まる人は多くなるようである。
午後6時を過ぎると関所を通過できず、泊まらねばならないからである。朝の旅立ちにしても、(お江戸日本橋7つ【=午前4時ごろ】立ち、と歌われたように、昔は午前4時ごろに出発しようとしたものだが、午前6時にしか関所は開かない。早朝に出発したい者にとっては、困ったものである。
さらに、新居関には、その柵内に浜名湖を渡るための乗船場がある。なんとも珍しい関所である。「舟を絶対利用せよ」ということになる。舟で行き着くところは、浜名湖東側の「舞阪(舞坂)宿」である。ここもにぎわったようである。
舞坂宿には、脇本陣が残っていた。東海道の本陣や脇本陣は、ほとんど残っておらず、「跡」ばかりである。しかし、少しだけは残されており、補修・保存されている建物に出会うことある。うれしい出会いである。カメラで外観を撮り、中を見学できれば、するようにしている。
今回(時間に余裕がなくなり、)10分ほどだったが、脇本陣の内部を見学することができた。それも、観光ボランティアの方が説明してくださり、たいへん勉強になった。初めての者にとって、「現地ガイド」の説明はありがたい。「10分ぐらいでお願いします」とお願いしたら、希望通りの時間でガイドしてくれた。私自身、そのガイドぶりがたいへん参考になった。
日も暮れてきたので、宿泊予定のホテルへ向かった。
二日目の歩き旅(約24km)は終了した。
風呂に入って、足をとことんもんでから就寝した。さあ、明日が最終日だ。
二川宿・本陣(きちんと修復されていた。規模が大きい建物で、本陣は一階建てである。明治3年で「本陣」は廃止された。)
「東駒屋」の奥行き(写真は東海道から建物の奥行きを撮ったもの)の長さがすごかった。
東海道に面した間口は狭かったが・・・。本陣は街道に面するところが長いのに対して、本陣以外の建物は「うなぎの寝床」のようだった。たぶん、「間口の長さによって」、現代で言うところの「住民税」が違ったのであろう。街道に面する「建物の長さ」を短くすることが、「節税」になっていたのであろう。
この地域は広々とした畑が続いていた。おいしそうなキャベツが延々と・・・。
白須賀宿入り口の標識。太平洋の海が近い。
坂の上から太平洋が見えた。つい太平洋に向かって歩き出してしまった。
道を間違えていることに気がついた「地元の人」が、トラックで私に近づいてくれた。
「東海道はこの道じゃないよ。戻ったら、別の道があるから、そこを行けば良い」と教えてくれた。右か左か、迷ったところがあったとき、私はつい「広いほうの道」を選んでしまったのだ。実際は、狭いほうの道が「東海道」だったのだ。「旧東海道」はどの道も狭いことは分かっているのだが・・・、つい広いほうを選んで、失敗してしまう。
地元の人に、感謝。台風並みの風で、ほとんど人がいなかったが、トラックに乗っていた人が、「迷っている私」を見つけて、追いかけてくれたらしい。世の中、まだまだ親切な人がいるものだ。私も誰かに「親切」をして、お返しをしよう。
新居関所(柵内に渡船場がある関所) 建物は「現存する関所」として、国の特別史跡になっている。歴史を感じさせてくれた建物。(中に入れました。江戸時代の匂いがしましたね。よかったですよ。)
江戸時代、浜名湖を渡るためには、この関所を通らねばならなかった。上陸すると(または乗船する前に)、即取調べを受ける仕組みになっている。この関所での取り調べは、箱根関所同様に厳しかったらしい。江戸時代は「出女に入り鉄砲」を一番警戒している。
参勤交代制度を実施した幕府にとって、「出女」を取り締まることは「徳川幕府」安泰のために重要な政策だったにちがいない。各大名の正妻を江戸から出さないという政策は、効果的だったに違いない。
関所前での「高札」 いろいろな「禁止事項・通達事項」が再現掲示されていた。
新居宿の次は舞坂宿。新居の関所から舟に乗り、舞坂宿の渡船場に到着する。昔の東海道は、必ずここで渡船に乗る(または下船する)ことになる。舟に乗るのが苦手な人は、浜名湖の北側を大回りして歩くことになる。当然、その道にも関所はあった。ものすごく遠回りなので、多くの旅人は、この舞坂宿利用だったようである。
だから、関所のある「新居宿」と「舞坂宿」は、どちらもにぎわったようである。関所は通過できる時間が決まっていたから。
歩き旅の疲れを取るには、ホテル選びも重要な要素である。年金生活者にとって、高級ホテルは避けることになる。
朝食後、2日目がスタートした。JRに乗り、二川駅へ行き、一日目の東海道到達点に戻った。そこは二川宿の西のはずれであった。東へ1kmほど行ったところが、二川宿の中心地であった。
二川宿「本陣」が立派な建物で、きちんと保存されていた。「これは、すごい!」とうなった。さらに「東駒屋」(味噌醤油の醸造)という伝統的建造物(現在も経営中)が残っていた。豊橋市は戦災にあったが、二川宿は戦争の被害にあわなかったらしい。東海道の宿場で太平洋戦争の被害を免れたところは少ない。二川宿の中心部は味わいのある町並みだった。
二川宿を去り、約7.5km先の白須賀(しらすか)宿を目指して歩き出した。
太平洋がチラッと見えてきた頃、風がものすごく強くなっていた。進むために体を低くする体勢になって歩いた。こんなに強い風の中での「歩き旅」は、「強烈」でした。山登りなら、中止していたでしょう。
強風の中、東海道・白須賀宿周辺の「歩き旅」をしている人は、(私以外に)誰もいなかった。いつもなら、「それらしい東海道歩き旅人」に出会うのだが・・・。この日は誰にも出会うことはなかった。とにかく、すごい風でした。海(太平洋)は大荒れで、幾重にも白い大波が打ち寄せていた。
(続きは、後日に)
ここから続きです。(16日記)
二川宿と白須賀宿との間に、境川が流れている。この川が昔の国境である。境川の西側が三河国(=三州)で、東側が遠江(とおとうみ)国(=遠州)。現在は愛知県と静岡県の県境になっている。豊橋市と湖西市との市境でもある。「湖西」つまり浜名湖の西に位置するところからなづけられたのであろう。白須賀宿は静岡県湖西市にある宿である。
とうとう「東海道53次歩き旅」も、静岡県に到達したのだ。
白須賀(しらすか)宿は、1707年の宝永大地震が起こるまでは、太平洋の海岸近くにあったとのことである。その時の大津波によって「白須賀宿」は大半が流出してしまった。そこで「高台移転」を余儀なくされ、現在の位置(浜辺からやや離れた坂の上一帯)に宿場を復興したわけである。
そういう歴史を初めて知ったこともたいへん勉強になった。江戸時代にも「大津波被害による高台移転」はあったのだ。
宝永大地震といえば、確か富士山の宝永火口(五合目付近)爆発と関係が深かったにちがいない。あの(過去において)日本の歴史上最大級だと考えられる「宝永地震」。あれから約300年後に、史上最大級の大地震が2つも発生したことになる。阪神淡路大地震と東北大地震である。
富士山の頂上はすり鉢の火口跡がくっきりとしている山である。(若い頃、初めてその火口を目にした時、感動しましたよ。「おおっ、これこそ火山なのだ!」と。
(ちょっと、中断)
中断が長くなりました。(12月20日、続きを書いていきます。)
ええっと、富士山のことを書いていましたね。脱線ついでに・・・。
私は子どもの時から「富士山の山頂付近は平らな平原なのだろう」と、勝手に思い込んでいました。ほんとうに長い間、思い込んでいました。富士山を絵に書くときは、山の頂上はとがらずに描いたものでした。その頂上がすり鉢状にくぼんでいるのをはっきりと目にした時、びっくりしましたね。「思い込みって恐ろしいなあ!」と、つくづく思い知らされました。
ある意味で、「真実」を見る目を持たないまま大人になっていたのです。こういうことは私だけのことでしょうか? 洗脳されている状況を自覚できないままに、真実を知ることなく生きていく人間は「私以外にもいる」のではないでしょうか・・・。富士山の形の問題なら、たいしたことではないかもしれませんが、「TPPの真実」や「原発の真実」などは、日本全体を不幸にしていく要素を持っている。そういう問題の真実を見る目は持っていたいと自分に言い聞かせているところです。
歩き旅の報告から、脱線してしまいました。お許しを。
白須賀宿でのことに話を戻します。
白須賀宿に、資料館「おんやど白須賀」があり、そこで休憩を取りました。資料館の館長さんがお茶を勧めてくれ、いただきました。観光客は私一人だったので、がらがらでした。館長さんと私とが同世代らしく、「昔の頃の話」になると意気投合しました。私同様、今日は誰とも話をしていなかったらしく、話が弾みました。一人旅にはそれなりの出会いがあり、楽しみもあるものです。
その資料館を出てから、道を間違えてしまったのです。ところが、「地元の親切な方」が、軽トラックで私を追いかけてきてくれて、「東海道の正しい道」を教えてくれたのでした。
私が道を間違えていることに、なぜ気がつかれたのでしょうか・・・。たぶん、リュックを背負った旅人が、地図を見ながら歩いていたからでしょうね。たぶん、そうでしょう。
「東海道歩き旅の人のスタイル」は、みなさんよく似ていますから。
白須賀宿を過ぎると、新居宿に到着した。
新居関のあるところで、関所の通過可能時刻は決まっている。「明け6つ(午前6時)」から「暮れ6つ(午後6時)」の間しか、関所は開いていない。それ以外は閉じられている。だから、新居宿で泊まる人は多くなるようである。
午後6時を過ぎると関所を通過できず、泊まらねばならないからである。朝の旅立ちにしても、(お江戸日本橋7つ【=午前4時ごろ】立ち、と歌われたように、昔は午前4時ごろに出発しようとしたものだが、午前6時にしか関所は開かない。早朝に出発したい者にとっては、困ったものである。
さらに、新居関には、その柵内に浜名湖を渡るための乗船場がある。なんとも珍しい関所である。「舟を絶対利用せよ」ということになる。舟で行き着くところは、浜名湖東側の「舞阪(舞坂)宿」である。ここもにぎわったようである。
舞坂宿には、脇本陣が残っていた。東海道の本陣や脇本陣は、ほとんど残っておらず、「跡」ばかりである。しかし、少しだけは残されており、補修・保存されている建物に出会うことある。うれしい出会いである。カメラで外観を撮り、中を見学できれば、するようにしている。
今回(時間に余裕がなくなり、)10分ほどだったが、脇本陣の内部を見学することができた。それも、観光ボランティアの方が説明してくださり、たいへん勉強になった。初めての者にとって、「現地ガイド」の説明はありがたい。「10分ぐらいでお願いします」とお願いしたら、希望通りの時間でガイドしてくれた。私自身、そのガイドぶりがたいへん参考になった。
日も暮れてきたので、宿泊予定のホテルへ向かった。
二日目の歩き旅(約24km)は終了した。
風呂に入って、足をとことんもんでから就寝した。さあ、明日が最終日だ。
二川宿・本陣(きちんと修復されていた。規模が大きい建物で、本陣は一階建てである。明治3年で「本陣」は廃止された。)
「東駒屋」の奥行き(写真は東海道から建物の奥行きを撮ったもの)の長さがすごかった。
東海道に面した間口は狭かったが・・・。本陣は街道に面するところが長いのに対して、本陣以外の建物は「うなぎの寝床」のようだった。たぶん、「間口の長さによって」、現代で言うところの「住民税」が違ったのであろう。街道に面する「建物の長さ」を短くすることが、「節税」になっていたのであろう。
この地域は広々とした畑が続いていた。おいしそうなキャベツが延々と・・・。
白須賀宿入り口の標識。太平洋の海が近い。
坂の上から太平洋が見えた。つい太平洋に向かって歩き出してしまった。
道を間違えていることに気がついた「地元の人」が、トラックで私に近づいてくれた。
「東海道はこの道じゃないよ。戻ったら、別の道があるから、そこを行けば良い」と教えてくれた。右か左か、迷ったところがあったとき、私はつい「広いほうの道」を選んでしまったのだ。実際は、狭いほうの道が「東海道」だったのだ。「旧東海道」はどの道も狭いことは分かっているのだが・・・、つい広いほうを選んで、失敗してしまう。
地元の人に、感謝。台風並みの風で、ほとんど人がいなかったが、トラックに乗っていた人が、「迷っている私」を見つけて、追いかけてくれたらしい。世の中、まだまだ親切な人がいるものだ。私も誰かに「親切」をして、お返しをしよう。
新居関所(柵内に渡船場がある関所) 建物は「現存する関所」として、国の特別史跡になっている。歴史を感じさせてくれた建物。(中に入れました。江戸時代の匂いがしましたね。よかったですよ。)
江戸時代、浜名湖を渡るためには、この関所を通らねばならなかった。上陸すると(または乗船する前に)、即取調べを受ける仕組みになっている。この関所での取り調べは、箱根関所同様に厳しかったらしい。江戸時代は「出女に入り鉄砲」を一番警戒している。
参勤交代制度を実施した幕府にとって、「出女」を取り締まることは「徳川幕府」安泰のために重要な政策だったにちがいない。各大名の正妻を江戸から出さないという政策は、効果的だったに違いない。
関所前での「高札」 いろいろな「禁止事項・通達事項」が再現掲示されていた。
新居宿の次は舞坂宿。新居の関所から舟に乗り、舞坂宿の渡船場に到着する。昔の東海道は、必ずここで渡船に乗る(または下船する)ことになる。舟に乗るのが苦手な人は、浜名湖の北側を大回りして歩くことになる。当然、その道にも関所はあった。ものすごく遠回りなので、多くの旅人は、この舞坂宿利用だったようである。
だから、関所のある「新居宿」と「舞坂宿」は、どちらもにぎわったようである。関所は通過できる時間が決まっていたから。
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2015/12/13
「東海道53次歩き旅⑨御油宿~見付宿(2泊3日)一日目」 東海道53次歩き旅
12月10日の午前5時に起床。すぐに駅へ。この日が、青春18切符(冬の)利用可能スタート日であった。
新大阪行き(朝一番の)快速利用で大阪駅を目指した。新大阪行き快速は大阪駅へは行かないので、途中乗り換えなければならない。(ほとんどの快速は大阪駅へ行くのだが、たまに行かない快速がある。) 新大阪駅へ行ってもいいのだが、米原駅行き「新快速」に座れないことが多い。だから大阪駅へ行き、姫路から来る米原駅行き「新快速」に乗ることにしている。米原駅まで座っていくためである。
堺市駅午前5時51分発の快速利用で、途中乗り換え、大阪駅に着いた。大阪駅はすでに通勤・通学生でごった返していた。毎度の風景である。姫路から来た、米原駅行き「新快速」が到着すると、大勢の客が降りる。降りる人は多いが、それ以上に大勢の人が乗り込むので、うっかりすると席がなくなる。
米原駅終点まで座りたいので、この時はさっさと席を見つけ次第、すぐに座る。座れたら一安心。(今までの経験からすると)座れなかった時は、京都駅まで立ちっぱなしになることが多い。
長距離歩行のために、列車には座りたいものである。今回は無事に座れた。
(この続きは後日に)
*ここから続きです。12月14日記
米原駅・大垣駅・岐阜駅で乗り換え、 豊橋駅に到着した。さらに名鉄名古屋本線で「国府(こう)駅」へ。この駅近くの東海道が前回の最終地点である。「御油宿・本陣跡」から、約1kmほど東である。ここに到着できたのは午前10時40分であった。早朝に家を出ているので、快速利用だと意外に早く到着できた。やはり快速は急行並みのスピードを出してくれる。青春18切符が「普通しか乗れない切符」なら、こんなに早く到着しないだろう。
快速・新快速はありがたい存在である。
さて、久しぶりの歩き旅のスタート。夏休み期間はとにかく連日暑すぎて「歩き旅」をしなかった。あの暑さで歩いていたら、脱水症状を起こして、どこかが悪くなっていたかもしれない。歩き旅を我慢していたので、「東海道53次歩き旅」の再開がうれしかった。
御油宿から吉田宿(豊橋市)への行程は約11kmだった。見学しながら、写真を撮りながらなので、歩行時速は「約3km」である。(今までの経験から予想できるスピードである。)
予想通り、吉田宿(豊橋市中心部)に到着したのは、午後1時45分であった。約3時間かかった。(途中、12時ごろにコンビニで購入した弁当を短時間で食べた。)
江戸時代は吉田城があったところで、吉田宿は大きな宿であった。その「吉田」が明治になってからだろうか、「豊橋」という名称に変わってしまった。豊橋という橋は豊橋市の中心部を流れている「豊川」に架かっている橋である。なぜ、江戸時代に吉田城があった地名が「吉田市」とはならずに、「豊橋市」になったのかは、(私自身は調べていないので)よくわからない。きっと、何か理由があるのだろう。(どなたか、理由を教えてください。)
とにかく、豊川といえば、「豊川稲荷」が有名だ。豊川は古来からの名称であろう。その豊川にかかった橋が「豊橋」だが、江戸時代は橋がかかっていなかった。渡し舟でに乗っていた。東海道53次において、吉田宿・豊川を渡るための「船着場」があった。現在は「船着場跡」が保存されている。明治時代以後は、東海道中いろいろな川や海にあった「渡し舟そのもの」はまったくなくなってしまったが・・・。(ごく一部、渡し舟があった場所で、ボランティアが復活させている渡し舟があるらしい。団体客が予約できる「渡し舟」のようで、繁忙期の土日だけの運行らしい。一人旅の私には縁がない。)
愛知県には、豊橋市・豊川市が隣接してあり、その上「豊田市」がある。豊田市は元から豊田市ではなく、トヨタが栄えて、その地の地名まで変えてしまった。やはり、「トヨタ」の企業力はすごい!
まさに、愛知県の経済の中心はトヨタグループである。世界のトヨタなのだ。トヨタが元気をなくしていくと、愛知県の経済がどうなるか・・・。それぐらい影響力がある。
もっとも、トヨタががたつくことは当分の間はないだろう。
大阪のシャープは苦戦している。一方、トヨタは世界一の自動車会社になった。世界一の会社でも安心はできないのが現在の世界状況である。世界一の売り上げのあったドイツの自動車会社でも、没落が始まっているのだから・・・。油断してはいけない。
とにかく、企業も人間も、嘘をついてはいけない。トヨタは「嘘をつかない企業」であってほしい。
嘘がばれて、没落し始めている企業が多くなってきた。建設会社・自動車会社・タイヤ会社など、次から次から・・・、嘘がばれて・・・。そんなニュースが多すぎる!
脱線してしまいました。話を戻します。
愛知県には、「豊」がつく市が多いなあ・・・と、いう「印象」を述べていただけの話です。
吉田宿を過ぎ、目指すは二川(ふたがわ)宿。この二川宿が歩き旅一日目の到着地点になった。
歩き旅一日目の歩行数は約32000歩。距離にして約19kmであった。
この日の歩行で、印象に残ったところは「豊川」という川であった。大きな川であった。
午後4時ごろまでひたすら歩いた一日であった。
以上、1日目の記録です。
今日歩いたコースでの「一里塚」は「跡」ばかりであった。
吉田宿において、ここから、豊川稲荷を拝むことができる。「豊川稲荷遥拝所」
豊川(写真の)左岸(ビル手前の)の坂を下ったところに渡し舟の「船着場跡」があり、保存されていた。水量も多く、大きな川であった。
たぶん太平洋戦争で、豊橋市も焼かれたのであろう。吉田宿の主な建物は「跡」ばかりであった。現在の豊橋市中心道路は広い道が多い。戦後、復興していった新しい道の幅は広い。
新大阪行き(朝一番の)快速利用で大阪駅を目指した。新大阪行き快速は大阪駅へは行かないので、途中乗り換えなければならない。(ほとんどの快速は大阪駅へ行くのだが、たまに行かない快速がある。) 新大阪駅へ行ってもいいのだが、米原駅行き「新快速」に座れないことが多い。だから大阪駅へ行き、姫路から来る米原駅行き「新快速」に乗ることにしている。米原駅まで座っていくためである。
堺市駅午前5時51分発の快速利用で、途中乗り換え、大阪駅に着いた。大阪駅はすでに通勤・通学生でごった返していた。毎度の風景である。姫路から来た、米原駅行き「新快速」が到着すると、大勢の客が降りる。降りる人は多いが、それ以上に大勢の人が乗り込むので、うっかりすると席がなくなる。
米原駅終点まで座りたいので、この時はさっさと席を見つけ次第、すぐに座る。座れたら一安心。(今までの経験からすると)座れなかった時は、京都駅まで立ちっぱなしになることが多い。
長距離歩行のために、列車には座りたいものである。今回は無事に座れた。
(この続きは後日に)
*ここから続きです。12月14日記
米原駅・大垣駅・岐阜駅で乗り換え、 豊橋駅に到着した。さらに名鉄名古屋本線で「国府(こう)駅」へ。この駅近くの東海道が前回の最終地点である。「御油宿・本陣跡」から、約1kmほど東である。ここに到着できたのは午前10時40分であった。早朝に家を出ているので、快速利用だと意外に早く到着できた。やはり快速は急行並みのスピードを出してくれる。青春18切符が「普通しか乗れない切符」なら、こんなに早く到着しないだろう。
快速・新快速はありがたい存在である。
さて、久しぶりの歩き旅のスタート。夏休み期間はとにかく連日暑すぎて「歩き旅」をしなかった。あの暑さで歩いていたら、脱水症状を起こして、どこかが悪くなっていたかもしれない。歩き旅を我慢していたので、「東海道53次歩き旅」の再開がうれしかった。
御油宿から吉田宿(豊橋市)への行程は約11kmだった。見学しながら、写真を撮りながらなので、歩行時速は「約3km」である。(今までの経験から予想できるスピードである。)
予想通り、吉田宿(豊橋市中心部)に到着したのは、午後1時45分であった。約3時間かかった。(途中、12時ごろにコンビニで購入した弁当を短時間で食べた。)
江戸時代は吉田城があったところで、吉田宿は大きな宿であった。その「吉田」が明治になってからだろうか、「豊橋」という名称に変わってしまった。豊橋という橋は豊橋市の中心部を流れている「豊川」に架かっている橋である。なぜ、江戸時代に吉田城があった地名が「吉田市」とはならずに、「豊橋市」になったのかは、(私自身は調べていないので)よくわからない。きっと、何か理由があるのだろう。(どなたか、理由を教えてください。)
とにかく、豊川といえば、「豊川稲荷」が有名だ。豊川は古来からの名称であろう。その豊川にかかった橋が「豊橋」だが、江戸時代は橋がかかっていなかった。渡し舟でに乗っていた。東海道53次において、吉田宿・豊川を渡るための「船着場」があった。現在は「船着場跡」が保存されている。明治時代以後は、東海道中いろいろな川や海にあった「渡し舟そのもの」はまったくなくなってしまったが・・・。(ごく一部、渡し舟があった場所で、ボランティアが復活させている渡し舟があるらしい。団体客が予約できる「渡し舟」のようで、繁忙期の土日だけの運行らしい。一人旅の私には縁がない。)
愛知県には、豊橋市・豊川市が隣接してあり、その上「豊田市」がある。豊田市は元から豊田市ではなく、トヨタが栄えて、その地の地名まで変えてしまった。やはり、「トヨタ」の企業力はすごい!
まさに、愛知県の経済の中心はトヨタグループである。世界のトヨタなのだ。トヨタが元気をなくしていくと、愛知県の経済がどうなるか・・・。それぐらい影響力がある。
もっとも、トヨタががたつくことは当分の間はないだろう。
大阪のシャープは苦戦している。一方、トヨタは世界一の自動車会社になった。世界一の会社でも安心はできないのが現在の世界状況である。世界一の売り上げのあったドイツの自動車会社でも、没落が始まっているのだから・・・。油断してはいけない。
とにかく、企業も人間も、嘘をついてはいけない。トヨタは「嘘をつかない企業」であってほしい。
嘘がばれて、没落し始めている企業が多くなってきた。建設会社・自動車会社・タイヤ会社など、次から次から・・・、嘘がばれて・・・。そんなニュースが多すぎる!
脱線してしまいました。話を戻します。
愛知県には、「豊」がつく市が多いなあ・・・と、いう「印象」を述べていただけの話です。
吉田宿を過ぎ、目指すは二川(ふたがわ)宿。この二川宿が歩き旅一日目の到着地点になった。
歩き旅一日目の歩行数は約32000歩。距離にして約19kmであった。
この日の歩行で、印象に残ったところは「豊川」という川であった。大きな川であった。
午後4時ごろまでひたすら歩いた一日であった。
以上、1日目の記録です。
今日歩いたコースでの「一里塚」は「跡」ばかりであった。
吉田宿において、ここから、豊川稲荷を拝むことができる。「豊川稲荷遥拝所」
豊川(写真の)左岸(ビル手前の)の坂を下ったところに渡し舟の「船着場跡」があり、保存されていた。水量も多く、大きな川であった。
たぶん太平洋戦争で、豊橋市も焼かれたのであろう。吉田宿の主な建物は「跡」ばかりであった。現在の豊橋市中心道路は広い道が多い。戦後、復興していった新しい道の幅は広い。
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2015/4/13
「歩き旅(つづき) 」 東海道53次歩き旅
(旅行記録の続きです。一部、文章変更しています。)
藤川宿の「脇本陣跡」や「本陣跡」は見晴らしのいい丘の上にあった。高札場が再現されていて、藤川宿に残されていたいろいろな高札の内容を読んでいたら、時間が過ぎていった。特にキリシタン取締りに関する高札が興味深かった。
【 定 きりしたん宗門は 累年御制禁たり 自然不審者有之ハ 申出べし御ほうびとして ばてれんの訴人 銀五百枚 いるまんの訴人 銀三百枚 立かへり者の訴人 同断 同宿並宗門の訴人 銀百枚 右の通下さるべし・・・・云々 】
との「定」が高札として掲げられていた。複数の高札(復刻板)が、私の心をときめかせてくれた。
本陣跡地の奥の方に「新しい畑」がつくられていた。その畑の説明書きを読むと、(この地方特産の)「むらさき麦」は戦後栽培されなくなり、幻の麦となっていたようである。しかし、平成6年、地元の人々の努力によって再び栽培されるようになったと記されていた。
私が畑見学をしている時、団塊の世代らしき男性3人が「むらさき麦」畑で作業をしておられた。おそらくボランティアで作業されているのだろう。
「こんにちは」と挨拶をした。そして、目を麦に近づけて、よーく茎を見ると、うっすらと紫色だった。「ははーん、これだな!」と、命名の根拠に気がついた。それにしても、珍しい麦だった。
麦は青々として(茎はうすい薄紫)すがすがしい畑になっていた。10坪ほどの狭い畑であったが、東海道に青い光を当てていた。久しぶりに麦畑を見た。
高校時代、麦畑のある農家に2年間下宿していた私。高校生の時に見た麦畑が、ふっと眼前の風景の中に浮かんできた。都会生活では見ることがなくなった麦畑。そこには「空に向かう青い力」が宿っていた。 歩き旅は「風景」との出会いだ!
「本陣跡」・「むらさき麦」栽培地にさよならをした。そして、「東棒鼻跡」(藤川宿東口)を通過し、藤川宿から離れるにつれて、また国道1号線そのものを歩かねばならなくなった。
この付近の東海道は、国道1号線そのものか、ほぼ並行している道が多かった。歴史を感じられない、単純で現代風の道だった。「東海道の香り」はしなかった。
藤川宿から赤坂宿までは約11km。単調な東海道であったが、ほぼ中間点に「法蔵寺」があった。
「家康が幼少時に過ごした寺」だということなので、寄り道をしてみた。
この寺には隠れた歴史があったのだ! 新撰組・近藤勇との関係に興味津々。
(ここから続きです。細切れの文章ですみません。)
「近藤勇の首塚が、なぜこの寺にあるのか?」と、好奇心が沸いてきた。家康が幼少時に過ごしたということには、さほど興味がわかなかったが・・・。
新撰組組長・近藤勇は慶応4年(明治元年・1868年)に東京都の板橋の刑場で処刑された。35歳だった。その遺体は東京都の寺に葬られたのだが、首は塩漬けにされ、京都まで運ばれ、三条大橋(東海道の終点・起点)の近くにさらされた。極悪人として「さらし者」にしたわけである。さらされた首は3晩目に盗まれている。近藤勇を慕う誰か(おそらく同士)が真夜中にひそかに盗んだのだ。
盗んだ首をどうしたのか? 近藤勇が生前から敬慕していた僧侶のもとへ持っていったようである。供養してもらおうとしたのであろう。しかし、その僧侶は京都の寺から別の寺に移っていた。転任していた。その転任先の寺が、「法蔵寺」だった。法蔵寺の管主になっていた。
そこで、同士は近藤勇の首を持って、法蔵寺へ運んだという話である。東京→京都→法蔵寺(愛知県)へと移動した首。長い間、この首のことは「行方不明」のまま秘匿されてきた。
なぜなら、法蔵寺に近藤勇の首を葬ったことは、管主が秘密にしたからである。無縁仏としての扱いで葬ったようである。明治新政府にとって、近藤勇は極悪人として処刑した男である。京都にさらした首が行方不明という状況。幕末、新政府スタート時は、騒然とした世の中であったにちがいない。「無縁仏のようにカモフラージュして、こっそり埋葬・供養」することが、管主にとって精一杯の、近藤勇への厚意だったのだろう。
この管主の厚意(思いやり)を推し量りながら、近藤勇の首塚のお参りをした。
ところで、無縁仏として埋葬した首が、なぜ「近藤勇の首」だと判明したのだろうか?
首塚の案内説明によると、「昭和33年総本山の記録などに基づいて調査した結果、埋葬の由来が明らかになりました。」と書かれていた。昭和33年(1958年)になって、世間に公表されたらしい。戦後の日本人にとって、「近藤勇=極悪人」と、言い切れないだろう。いろんな視点から、近藤勇は研究されている。新撰組の行動もいろんな見方ができるようになっている。
歴史は一断面だけで捉えては偏狭になるだろう。
ところで、法蔵寺には、徳川家先祖の松平一族の墓もある。江戸時代、参勤交代の大名は門前を通過する際、下馬している。境内には、家康の(手習いの紙=草紙を掛けた)「草紙掛けの松」があり、法蔵寺に敬意を表明している。
近藤勇の首塚はわかりにくい、薄暗い場所にあったが、すぐ上の明るい場所に、「東照宮」が建てられていた。やはり、お寺とはいえ、徳川家康を「神・権現」として祭っていた。
それにしても、東照宮はあっちこっちにあるものだなあ、と感心した。堺市にも「東照宮」があったのですよ。(南宗寺というお寺に。太平洋戦争の米軍の爆撃で焼けてしまいました。でも、唐門は残っているのですよ。)
(堺市の「東照宮」については、また何かの機会に書いてみたいが、今回は触れない。)
さて、法蔵寺でかなり時間を費やしていた。歩くスピードを上げて、赤坂宿を目指した。雨が降り出していた。傘をさしての歩行になった。なんとなく、あわただしかった。歩き旅にとって、傘はわずらわしい。
急ぎ足だったせいか、赤坂宿に早く到着した気がした。
赤坂宿中心部に、「大橋屋」という旅館があった。江戸時代の雰囲気をかもし出している家屋。連子・格子造りの二階建ての旅籠。なんとまあ、江戸時代の旅籠そのままだった。慶安2年(1649年)、旅籠「伊右ヱ門鯉屋」として創業していた。町指定の有形文化財にもなっている建物。現在も、旅館として営業していた。すごい! 旅館入り口に大きな提灯がぶら下がっていて、これが古い古い・・・。その古さに心ときめきましたよ。
大橋屋から10分ほど行ったところに、関川神社があった。樹齢八百年の楠があり、その下に芭蕉句碑。東海道は芭蕉句碑だらけ。
「夏の月 御油より出でて 赤坂や」という句であった。御油(ごゆ)宿と赤坂宿との距離は、たったの2キロ。その距離の短さを句にしたのであろう。
御油・赤坂間は、東海道で、最短の宿間なのである。
赤坂をさっと通り過ぎたら、30分ほどで御油宿についた。こんなに近いとは!
到着するまでに、見事な松並木が保存されていた。
今回の歩き旅で3箇所も松並木を歩くことができた。その中で、この「御油の松並木」が最も長かった。樹齢300年以上の黒松350本が600mも続いていたのだ。国の天然記念物に指定され、「日本の名松百選」にもなっている。
今回は松並木に始まり、松並木で終了した「歩き旅」になった。
次回の歩き旅は7月「青春18切符のシーズン」になるだろう。愛知県(御油・吉田・二川宿)を過ぎれば、いよいよ静岡県(白須賀宿より東)だ。だんだん遠くなるが、楽しみだ。
歩き旅は、風景・歴史・思い出・夢との出会いだ。だから、ゆっくり旅はいいものだ。
藤川松並木
「従是東(これよりひがし) 藤川宿」の標示 藤川宿の西の入口(出口)である。
この場所が「西棒鼻」であった。現在は「跡」である。
高札 きりしたんを見つけ、奉行所へ知らせた者への褒美の額がリアルである。
ばてれん(伴天連=宣教師)は銀500枚 いるまん(伊留満=助修士)なら銀300枚
さて、銀1枚の価値、江戸時代はどれほどだったのだろう?(これは宿題です。どなたか詳しい方、教えてください。)
徳川家康は手習いで書いた紙をこの松の枝に掛けたとのこと。紙は貴重品で、捨てなかったのだろう・・・。この想像、あっているのかな?
法蔵寺 山門の後ろに本堂
本堂の左手には林があって、薄暗い。その林の中に「近藤勇の首塚」があった。目立たない場所であった。
東照宮は本堂左手の高地に建てられていた。太陽がしっかり当たり、明るい建物だった。日光東照宮の雰囲気が漂っていた。(私個人は、あの派手な色彩は好まないのだが・・・。)
近藤勇の胸像が新しく、なんとなく落ちつかなかった。こういう胸像はなくてもいいのに・・・と思った。小さな石だけでもよかったのに。島原の原城跡で見た「天草四郎の墓」は小さく質素であった。私はそれでいいのだと思っている。
「どなたですか? こんな目立つ胸像をこの場所に設置した方は?」と独り言。
長い長い松並木でした。S字カーブの松並木で、江戸時代の道でしたね。直線の道が少ない時代ですから、ここは昔のままの「東海道」でしょう。現代に至っても、いい松林が残されているのですから、感動しました。
『東海道中膝栗毛』では、弥次さん・喜多さんはこの松並木で狐に化かされるという、おもしらい話になっていた。江戸時代は、うっそうとした林が長々と続き、旅人にとって気持ちの悪い場所だったようである。「狐」が出てもおかしくなかったような暗さだったことを効果的に使って、話を展開している。
なお、現在は明るい松並木である。もちろん「狐」も出ない。
さあ、ここから江戸・日本橋までは七十六里(約300km余)だ!
がんばって、こつこつ歩くぞ! 2年後には到着したい。
藤川宿の「脇本陣跡」や「本陣跡」は見晴らしのいい丘の上にあった。高札場が再現されていて、藤川宿に残されていたいろいろな高札の内容を読んでいたら、時間が過ぎていった。特にキリシタン取締りに関する高札が興味深かった。
【 定 きりしたん宗門は 累年御制禁たり 自然不審者有之ハ 申出べし御ほうびとして ばてれんの訴人 銀五百枚 いるまんの訴人 銀三百枚 立かへり者の訴人 同断 同宿並宗門の訴人 銀百枚 右の通下さるべし・・・・云々 】
との「定」が高札として掲げられていた。複数の高札(復刻板)が、私の心をときめかせてくれた。
本陣跡地の奥の方に「新しい畑」がつくられていた。その畑の説明書きを読むと、(この地方特産の)「むらさき麦」は戦後栽培されなくなり、幻の麦となっていたようである。しかし、平成6年、地元の人々の努力によって再び栽培されるようになったと記されていた。
私が畑見学をしている時、団塊の世代らしき男性3人が「むらさき麦」畑で作業をしておられた。おそらくボランティアで作業されているのだろう。
「こんにちは」と挨拶をした。そして、目を麦に近づけて、よーく茎を見ると、うっすらと紫色だった。「ははーん、これだな!」と、命名の根拠に気がついた。それにしても、珍しい麦だった。
麦は青々として(茎はうすい薄紫)すがすがしい畑になっていた。10坪ほどの狭い畑であったが、東海道に青い光を当てていた。久しぶりに麦畑を見た。
高校時代、麦畑のある農家に2年間下宿していた私。高校生の時に見た麦畑が、ふっと眼前の風景の中に浮かんできた。都会生活では見ることがなくなった麦畑。そこには「空に向かう青い力」が宿っていた。 歩き旅は「風景」との出会いだ!
「本陣跡」・「むらさき麦」栽培地にさよならをした。そして、「東棒鼻跡」(藤川宿東口)を通過し、藤川宿から離れるにつれて、また国道1号線そのものを歩かねばならなくなった。
この付近の東海道は、国道1号線そのものか、ほぼ並行している道が多かった。歴史を感じられない、単純で現代風の道だった。「東海道の香り」はしなかった。
藤川宿から赤坂宿までは約11km。単調な東海道であったが、ほぼ中間点に「法蔵寺」があった。
「家康が幼少時に過ごした寺」だということなので、寄り道をしてみた。
この寺には隠れた歴史があったのだ! 新撰組・近藤勇との関係に興味津々。
(ここから続きです。細切れの文章ですみません。)
「近藤勇の首塚が、なぜこの寺にあるのか?」と、好奇心が沸いてきた。家康が幼少時に過ごしたということには、さほど興味がわかなかったが・・・。
新撰組組長・近藤勇は慶応4年(明治元年・1868年)に東京都の板橋の刑場で処刑された。35歳だった。その遺体は東京都の寺に葬られたのだが、首は塩漬けにされ、京都まで運ばれ、三条大橋(東海道の終点・起点)の近くにさらされた。極悪人として「さらし者」にしたわけである。さらされた首は3晩目に盗まれている。近藤勇を慕う誰か(おそらく同士)が真夜中にひそかに盗んだのだ。
盗んだ首をどうしたのか? 近藤勇が生前から敬慕していた僧侶のもとへ持っていったようである。供養してもらおうとしたのであろう。しかし、その僧侶は京都の寺から別の寺に移っていた。転任していた。その転任先の寺が、「法蔵寺」だった。法蔵寺の管主になっていた。
そこで、同士は近藤勇の首を持って、法蔵寺へ運んだという話である。東京→京都→法蔵寺(愛知県)へと移動した首。長い間、この首のことは「行方不明」のまま秘匿されてきた。
なぜなら、法蔵寺に近藤勇の首を葬ったことは、管主が秘密にしたからである。無縁仏としての扱いで葬ったようである。明治新政府にとって、近藤勇は極悪人として処刑した男である。京都にさらした首が行方不明という状況。幕末、新政府スタート時は、騒然とした世の中であったにちがいない。「無縁仏のようにカモフラージュして、こっそり埋葬・供養」することが、管主にとって精一杯の、近藤勇への厚意だったのだろう。
この管主の厚意(思いやり)を推し量りながら、近藤勇の首塚のお参りをした。
ところで、無縁仏として埋葬した首が、なぜ「近藤勇の首」だと判明したのだろうか?
首塚の案内説明によると、「昭和33年総本山の記録などに基づいて調査した結果、埋葬の由来が明らかになりました。」と書かれていた。昭和33年(1958年)になって、世間に公表されたらしい。戦後の日本人にとって、「近藤勇=極悪人」と、言い切れないだろう。いろんな視点から、近藤勇は研究されている。新撰組の行動もいろんな見方ができるようになっている。
歴史は一断面だけで捉えては偏狭になるだろう。
ところで、法蔵寺には、徳川家先祖の松平一族の墓もある。江戸時代、参勤交代の大名は門前を通過する際、下馬している。境内には、家康の(手習いの紙=草紙を掛けた)「草紙掛けの松」があり、法蔵寺に敬意を表明している。
近藤勇の首塚はわかりにくい、薄暗い場所にあったが、すぐ上の明るい場所に、「東照宮」が建てられていた。やはり、お寺とはいえ、徳川家康を「神・権現」として祭っていた。
それにしても、東照宮はあっちこっちにあるものだなあ、と感心した。堺市にも「東照宮」があったのですよ。(南宗寺というお寺に。太平洋戦争の米軍の爆撃で焼けてしまいました。でも、唐門は残っているのですよ。)
(堺市の「東照宮」については、また何かの機会に書いてみたいが、今回は触れない。)
さて、法蔵寺でかなり時間を費やしていた。歩くスピードを上げて、赤坂宿を目指した。雨が降り出していた。傘をさしての歩行になった。なんとなく、あわただしかった。歩き旅にとって、傘はわずらわしい。
急ぎ足だったせいか、赤坂宿に早く到着した気がした。
赤坂宿中心部に、「大橋屋」という旅館があった。江戸時代の雰囲気をかもし出している家屋。連子・格子造りの二階建ての旅籠。なんとまあ、江戸時代の旅籠そのままだった。慶安2年(1649年)、旅籠「伊右ヱ門鯉屋」として創業していた。町指定の有形文化財にもなっている建物。現在も、旅館として営業していた。すごい! 旅館入り口に大きな提灯がぶら下がっていて、これが古い古い・・・。その古さに心ときめきましたよ。
大橋屋から10分ほど行ったところに、関川神社があった。樹齢八百年の楠があり、その下に芭蕉句碑。東海道は芭蕉句碑だらけ。
「夏の月 御油より出でて 赤坂や」という句であった。御油(ごゆ)宿と赤坂宿との距離は、たったの2キロ。その距離の短さを句にしたのであろう。
御油・赤坂間は、東海道で、最短の宿間なのである。
赤坂をさっと通り過ぎたら、30分ほどで御油宿についた。こんなに近いとは!
到着するまでに、見事な松並木が保存されていた。
今回の歩き旅で3箇所も松並木を歩くことができた。その中で、この「御油の松並木」が最も長かった。樹齢300年以上の黒松350本が600mも続いていたのだ。国の天然記念物に指定され、「日本の名松百選」にもなっている。
今回は松並木に始まり、松並木で終了した「歩き旅」になった。
次回の歩き旅は7月「青春18切符のシーズン」になるだろう。愛知県(御油・吉田・二川宿)を過ぎれば、いよいよ静岡県(白須賀宿より東)だ。だんだん遠くなるが、楽しみだ。
歩き旅は、風景・歴史・思い出・夢との出会いだ。だから、ゆっくり旅はいいものだ。
藤川松並木
「従是東(これよりひがし) 藤川宿」の標示 藤川宿の西の入口(出口)である。
この場所が「西棒鼻」であった。現在は「跡」である。
高札 きりしたんを見つけ、奉行所へ知らせた者への褒美の額がリアルである。
ばてれん(伴天連=宣教師)は銀500枚 いるまん(伊留満=助修士)なら銀300枚
さて、銀1枚の価値、江戸時代はどれほどだったのだろう?(これは宿題です。どなたか詳しい方、教えてください。)
徳川家康は手習いで書いた紙をこの松の枝に掛けたとのこと。紙は貴重品で、捨てなかったのだろう・・・。この想像、あっているのかな?
法蔵寺 山門の後ろに本堂
本堂の左手には林があって、薄暗い。その林の中に「近藤勇の首塚」があった。目立たない場所であった。
東照宮は本堂左手の高地に建てられていた。太陽がしっかり当たり、明るい建物だった。日光東照宮の雰囲気が漂っていた。(私個人は、あの派手な色彩は好まないのだが・・・。)
近藤勇の胸像が新しく、なんとなく落ちつかなかった。こういう胸像はなくてもいいのに・・・と思った。小さな石だけでもよかったのに。島原の原城跡で見た「天草四郎の墓」は小さく質素であった。私はそれでいいのだと思っている。
「どなたですか? こんな目立つ胸像をこの場所に設置した方は?」と独り言。
長い長い松並木でした。S字カーブの松並木で、江戸時代の道でしたね。直線の道が少ない時代ですから、ここは昔のままの「東海道」でしょう。現代に至っても、いい松林が残されているのですから、感動しました。
『東海道中膝栗毛』では、弥次さん・喜多さんはこの松並木で狐に化かされるという、おもしらい話になっていた。江戸時代は、うっそうとした林が長々と続き、旅人にとって気持ちの悪い場所だったようである。「狐」が出てもおかしくなかったような暗さだったことを効果的に使って、話を展開している。
なお、現在は明るい松並木である。もちろん「狐」も出ない。
さあ、ここから江戸・日本橋までは七十六里(約300km余)だ!
がんばって、こつこつ歩くぞ! 2年後には到着したい。
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