2015/4/11
「東海道53次歩き旅⑧知立宿~御油宿 二日目」」 東海道53次歩き旅
歩き旅一日目の夕方に、岡崎市に到着したのだった。矢作(やはぎ)川にかかった長い橋を渡り、岡崎宿中心部を目指した。江戸時代にかかっていた東海道「矢作大橋」は、東海道一の長い橋である。(現在は存在しない。すぐ近くをコンクリートの橋がかけられて、国道1号線となっている。車がじゃんじゃん走っているので、横断することはできない。交通量が多すぎる。
遠回りをして、岡崎城跡・公園へ向かうことになった。公園が近づくにつれて、「八丁味噌の郷」(まるや八丁味噌)の前を通過していった。
「ここが八丁味噌の会社なのだ!」と、倉庫の古さと長さに感動した。何年か前に、名古屋で「味噌カツ」を食したことを思い出した。赤味噌のタレだったが、甘かったと記憶している。
ちなみに、私の好物の一つはトンカツである。トンカツを食することは人生の喜びでもある(笑)。
八丁味噌の本場を通過してから後の「東海道」のコースは無茶苦茶ややこしかった。とにかく直角に曲がるところが、やたらに多い。なんとまあ、27箇所もあるのだ。ちょっと行っては曲がり、また曲がり、100mほど進んでは、またまた曲がるという具合。そういう道にしている。「岡崎二十七曲」と呼ばれていた。その碑もあった。こんなややこしい道にあえてしていたのだ。私は地図と(曲がる辻に建てられている)道標の両方を見ながら、曲がるところと方向を確認しながら歩いたつもりだったが、それでも2回も間違ってしまった。間違ったら、元へ戻って確認するという歩き旅。「東海道と違う道を歩いているかも・・・」と早く気づかないと戻るのに時間がかかる。そういう失敗は今まで何回もしてきた。
とにかく「岡崎城」周辺の東海道は「難コース」であった。
岡崎城は徳川家康が1542年に生まれたところである。ゆえに江戸時代はにぎわったところだったのであろう。岡崎城下の東海道を短時間で通過させないために、ややこしくしてあった。その理由は、「お城を敵から守るため」と、旅人に「岡崎城下でお金を使わせるため」であろう。実際、私も岡崎城下で宿泊費を使うことになったから。時間がかかるコースでは、宿泊代や食事費用、わらじの買い替えなどでお金を落とさねばならないことになる。
東海道をこんなにややこしいコースにしても、誰も文句は言わない。松平家(徳川家)の直轄地だからである。岡崎城下の経済が潤うことは岡崎藩が裕福になる。
各大名たちの参勤交代などにおいて、岡崎宿に支払った料金は相当な額だったに違いない。
参勤交代における「岡崎二十七曲」通過は、難関だったに違いない。時間的にも経済的にも。
私が地図を持って歩いた道は二十七曲がりの難コースだったが、見るべき歴史的文化遺跡は(東海道沿いには)何もなかった。残っていなかった。たとえば、「岡崎宿・西本陣跡」はコンビニの駐車場になっていて、「東海道の味わい」はまったくなかった。川沿いの桜はきれいだったが・・・。
(ここから、今回の「歩き旅」二日目の記録になります。)
岡崎市内のホテルに宿泊し、朝食後、7時ごろ出発した。「東海道歩き旅・一日目到達地点」から宿泊ホテルまで、(昨日)2キロほど戻らなければならなかった。ホテルの近くまで行くバスがあれば・・・と思って探したのだが、なかった。しかたがないので、ホテルまで歩いた。
(今日)その地点まで、ホテルから歩いて行くことにした。タクシーは使いたくなかったから。「歩き旅」を楽しんでいるのだから、「タクシー利用はしない」と決めている。
日帰りや一泊しただけで堺に戻ってくるという、効率の悪い「東海道歩き旅」なのだが・・・。あえて、そういう旅にして、楽しんでいる私。(もっと遠くなれば、少しは効率を考えて、2泊3日の旅にする予定。)
さて、昨日の到達地点に着いた。(ホテルから徒歩で30分かかった。)
さあ、二日目のスタートだ。地図を見ると、岡崎宿中心部より約3kmの地点だった。次の藤川宿までは約7kmあった。
歩く道は分かりやすかった。国道1号線にほぼ沿っている道だった。国道1号線そのものが「東海道」とまったく一緒のところもあった。乗用車やトラック、バスなどがものすごいスピードで走っている国道を「一人のおっさん」が歩いている・・・。さびしそうに? 楽しそうに? もしくは「放浪者のごとく」?
運転手らに、私の「東海道歩き旅姿」はどういうふうに見えていたのであろうか?
とにかく国道1号線を歩く時は、「東海道苦痛歩き」である。国道歩きから解放されると、ほっとする。
藤川宿が近くなってきたころ、藤川松並木(東海道)があった。この松並木も知立松並木同様にすばらしかった。道が緩やかに曲がっている様子に、「東海道らしいなあ」と独り言。
知立宿・藤川宿近辺の東海道には、「松並木があっちこっちで残っているのだ」と感激しながら歩いていた。
「西棒鼻(にしのぼうはな)跡」に到着した。「棒鼻」とは、宿場の境を示す傍示杭の立つところ、とのこと。要するに、宿場の始まりまたは終わりの場所。宿場の西にあれば、「西棒鼻」。藤川宿の東には「東棒鼻跡」がある。
「西棒鼻」の近くには、芭蕉句碑があった。「ここも三河 むらさき麦の かきつばた」
という句であったが、解釈はできなかった。「むらさき麦」という麦と「かきつばた」との関係・関連が私にはわからなかった。
(この続きは次のブログへ)
写真右の橋が「矢作橋」 この橋のすぐ近くに平行して、(江戸時代ごろには)東海道で一番長い橋=矢作大橋がかかっていた。その橋の上で、二人の武将が出会ったとの話がある。蜂須賀小六と日吉丸(後の豊臣秀吉)との出会いの橋。その出会いを記念する碑であった。
新しい碑であったが、今はなき「歴史ある橋」を想像するのに好都合であった。日吉丸はまだ子どもの頃らしい。一方、この時の蜂須賀小六はすでに立派な武将だった。
現在の矢作川だが、土手から土手の「川原の幅」は、今でも結構長い。中世に、木造の橋を架けていたとするなら、やはり「すごい橋」だと想像できる。東海道一長い「矢作大橋」は浮世絵にも描かれているようである。
矢作橋(現・国道1号線)を渡ると、「まるや八丁味噌」倉庫群近辺に至る。
写真中心部 岡崎城跡・公園(東海道の道筋からは離れている。あえて離したのであろう。)
「岡崎二十七曲り」の道標 曲がるところに設置されているのだが、見落として(曲がらずに)まっすぐ進行したことが(私の場合)二度もあった。二十七箇所の曲がり角・・・誰が考えたのだろう?
コンビニの駐車場に「本陣跡の標柱」 味気なかったですね。
遠回りをして、岡崎城跡・公園へ向かうことになった。公園が近づくにつれて、「八丁味噌の郷」(まるや八丁味噌)の前を通過していった。
「ここが八丁味噌の会社なのだ!」と、倉庫の古さと長さに感動した。何年か前に、名古屋で「味噌カツ」を食したことを思い出した。赤味噌のタレだったが、甘かったと記憶している。
ちなみに、私の好物の一つはトンカツである。トンカツを食することは人生の喜びでもある(笑)。
八丁味噌の本場を通過してから後の「東海道」のコースは無茶苦茶ややこしかった。とにかく直角に曲がるところが、やたらに多い。なんとまあ、27箇所もあるのだ。ちょっと行っては曲がり、また曲がり、100mほど進んでは、またまた曲がるという具合。そういう道にしている。「岡崎二十七曲」と呼ばれていた。その碑もあった。こんなややこしい道にあえてしていたのだ。私は地図と(曲がる辻に建てられている)道標の両方を見ながら、曲がるところと方向を確認しながら歩いたつもりだったが、それでも2回も間違ってしまった。間違ったら、元へ戻って確認するという歩き旅。「東海道と違う道を歩いているかも・・・」と早く気づかないと戻るのに時間がかかる。そういう失敗は今まで何回もしてきた。
とにかく「岡崎城」周辺の東海道は「難コース」であった。
岡崎城は徳川家康が1542年に生まれたところである。ゆえに江戸時代はにぎわったところだったのであろう。岡崎城下の東海道を短時間で通過させないために、ややこしくしてあった。その理由は、「お城を敵から守るため」と、旅人に「岡崎城下でお金を使わせるため」であろう。実際、私も岡崎城下で宿泊費を使うことになったから。時間がかかるコースでは、宿泊代や食事費用、わらじの買い替えなどでお金を落とさねばならないことになる。
東海道をこんなにややこしいコースにしても、誰も文句は言わない。松平家(徳川家)の直轄地だからである。岡崎城下の経済が潤うことは岡崎藩が裕福になる。
各大名たちの参勤交代などにおいて、岡崎宿に支払った料金は相当な額だったに違いない。
参勤交代における「岡崎二十七曲」通過は、難関だったに違いない。時間的にも経済的にも。
私が地図を持って歩いた道は二十七曲がりの難コースだったが、見るべき歴史的文化遺跡は(東海道沿いには)何もなかった。残っていなかった。たとえば、「岡崎宿・西本陣跡」はコンビニの駐車場になっていて、「東海道の味わい」はまったくなかった。川沿いの桜はきれいだったが・・・。
(ここから、今回の「歩き旅」二日目の記録になります。)
岡崎市内のホテルに宿泊し、朝食後、7時ごろ出発した。「東海道歩き旅・一日目到達地点」から宿泊ホテルまで、(昨日)2キロほど戻らなければならなかった。ホテルの近くまで行くバスがあれば・・・と思って探したのだが、なかった。しかたがないので、ホテルまで歩いた。
(今日)その地点まで、ホテルから歩いて行くことにした。タクシーは使いたくなかったから。「歩き旅」を楽しんでいるのだから、「タクシー利用はしない」と決めている。
日帰りや一泊しただけで堺に戻ってくるという、効率の悪い「東海道歩き旅」なのだが・・・。あえて、そういう旅にして、楽しんでいる私。(もっと遠くなれば、少しは効率を考えて、2泊3日の旅にする予定。)
さて、昨日の到達地点に着いた。(ホテルから徒歩で30分かかった。)
さあ、二日目のスタートだ。地図を見ると、岡崎宿中心部より約3kmの地点だった。次の藤川宿までは約7kmあった。
歩く道は分かりやすかった。国道1号線にほぼ沿っている道だった。国道1号線そのものが「東海道」とまったく一緒のところもあった。乗用車やトラック、バスなどがものすごいスピードで走っている国道を「一人のおっさん」が歩いている・・・。さびしそうに? 楽しそうに? もしくは「放浪者のごとく」?
運転手らに、私の「東海道歩き旅姿」はどういうふうに見えていたのであろうか?
とにかく国道1号線を歩く時は、「東海道苦痛歩き」である。国道歩きから解放されると、ほっとする。
藤川宿が近くなってきたころ、藤川松並木(東海道)があった。この松並木も知立松並木同様にすばらしかった。道が緩やかに曲がっている様子に、「東海道らしいなあ」と独り言。
知立宿・藤川宿近辺の東海道には、「松並木があっちこっちで残っているのだ」と感激しながら歩いていた。
「西棒鼻(にしのぼうはな)跡」に到着した。「棒鼻」とは、宿場の境を示す傍示杭の立つところ、とのこと。要するに、宿場の始まりまたは終わりの場所。宿場の西にあれば、「西棒鼻」。藤川宿の東には「東棒鼻跡」がある。
「西棒鼻」の近くには、芭蕉句碑があった。「ここも三河 むらさき麦の かきつばた」
という句であったが、解釈はできなかった。「むらさき麦」という麦と「かきつばた」との関係・関連が私にはわからなかった。
(この続きは次のブログへ)
写真右の橋が「矢作橋」 この橋のすぐ近くに平行して、(江戸時代ごろには)東海道で一番長い橋=矢作大橋がかかっていた。その橋の上で、二人の武将が出会ったとの話がある。蜂須賀小六と日吉丸(後の豊臣秀吉)との出会いの橋。その出会いを記念する碑であった。
新しい碑であったが、今はなき「歴史ある橋」を想像するのに好都合であった。日吉丸はまだ子どもの頃らしい。一方、この時の蜂須賀小六はすでに立派な武将だった。
現在の矢作川だが、土手から土手の「川原の幅」は、今でも結構長い。中世に、木造の橋を架けていたとするなら、やはり「すごい橋」だと想像できる。東海道一長い「矢作大橋」は浮世絵にも描かれているようである。
矢作橋(現・国道1号線)を渡ると、「まるや八丁味噌」倉庫群近辺に至る。
写真中心部 岡崎城跡・公園(東海道の道筋からは離れている。あえて離したのであろう。)
「岡崎二十七曲り」の道標 曲がるところに設置されているのだが、見落として(曲がらずに)まっすぐ進行したことが(私の場合)二度もあった。二十七箇所の曲がり角・・・誰が考えたのだろう?
コンビニの駐車場に「本陣跡の標柱」 味気なかったですね。
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2015/4/8
「東海道53次歩き旅⑧知立宿~御油宿 一日目」」 東海道53次歩き旅
「東海道五十三次歩き旅」の⑧回目。4月6日・7日で実施した。天気予報では雨模様であったが、ボランティアガイド担当日が9日に迫っていたので、出かけることにした。
小雨に降られるだろうと雨対策をして出発した。幸い、初日は雨に降られることはなく、曇天で寒いぐらいの気温だった。その寒さが、かえって「歩き旅」にとっては快かった。
二日目は、小雨に降られたが、歩き旅に支障はなかった。
今日(4月8日)、東京では雪が降っているとのニュース。大阪も寒かったが、雪が降るような寒さではなかった。堺も雨が午前中降り続き、春めいてきていたのに、寒かった。全国的に寒くなり、2月ごろの気温だったようである。すでに桜の満開が過ぎ、散り始めている季節にもかかわらず、雪が降るとは・・・珍しい。
さて、今回の旅の一日目の行程。 知立(ちりゅう)宿 → 岡崎宿。 岡崎宿で一泊した。
二日目は、岡崎宿 → 藤川宿 → 赤坂宿 → 御油(ごゆ)宿。
二日間での歩数は、81453歩。歩行距離は(万歩計による計算だが)約49km足らず。 一日24kmほど歩いたことになる。地図上での距離はこれよりもやや少ない。(道に迷って戻ったりした歩数も入っているから。)
今回は、足に豆ができなかった。ゆっくりと歩くようにしたからであろう。どういう歩き方をすれば豆ができてしまうのか、という(前回の)反省が活かされたようである。
一日に歩く距離は25km以下にしぼったので、足の裏に豆ができなかったと考えられる。たぶん、私の脚力はその辺が限度らしい。今後ともこのペースを守ろうと思っている。
前回の歩き旅で、中断した場所へたどり着くまで、ちょっと時間がかかった。
JR堺市駅午前5時51分発の快速利用で大阪駅に出ようとしたのだが、この快速は大阪駅に行かない。新大阪駅行きの快速なのである。早朝の「めずらしい快速」の一本である。
大阪駅に行きたい(新大阪駅では座れないかもしれないと予想したから)ので、西九条駅で降りて、普通に乗り換えて大阪駅へ行くことにした。(たぶん座れるだろう!)
米原駅行き新快速は12両編成で、大阪駅が始発であった。大阪駅から乗車した人は全員が座れていた。朝早い列車にもかかわらず、満席だった。次の駅の新大阪駅から乗ってきた人は立っていた。
「へえー、午前6時台の新快速を利用する人って、こんなに多いんだ!」と、驚きましたね。 「西九条で降りて乗り継いだのが、正解だった!」と満足した。米原までは、座って行きたかったから。
米原から大垣へ。大垣から(名古屋市内の)金山へ、快速を乗り継いですべて座っていくことができた。
青春18切符の利点は、快速には乗れることである。急行や特急に乗ることはできない。快速を利用できるので、ありがたい。
とはいうものの、堺から(名古屋駅の次の大きな駅の)金山駅までは時間がかかった。この日は運悪く、先を走っている列車にトラブルが発生したとのアナウンスがあり、金山駅到着時刻が約20分ほど遅れた。9時20分頃に到着する予定が、9時40分ごろになってしまった。
金山駅からは私鉄の名鉄名古屋本線に乗り換えて「富士松駅(=前回の「東海道53次歩き旅到達地点」近くの駅)」へ行かねばならなかった。
前回は「富士松駅」から「金山駅」を目指して電車に乗ることに、戸惑いや苦労はなかったのだが・・・。逆に、金山駅から「富士松駅」を目指すことは難しかった。
金山駅のホームには、とにかくいろいろな方面へ行く列車が次から次へと短い間隔で入線してくるのだ。空港へ行く列車と豊橋へ行く列車が同じホームに入ってくる。乗り慣れていない者にとっては、あわただしくて、(JRの遅れもあったので)あせる気分になった。その上、狭いホームで、人がごった返している。
「さて、私は急行に乗るべきなのか、乗ってはいけないのか? 特急もあるが、有料なのか無料なのか? それに、富士松駅へはどこで乗り換えれば良いのか?」
あれこれ考えて、時刻表を見ていたら、列車が入ってきた。
「駅員もホームにいないし・・・、乗ろうか、乗るまいか、どうしよう?」と迷っていたら、同じホームにいた外国人から、英語で話しかけられた。
「エアポート行きは、このホームでいいのですか?」という意味の質問(英語だということはわかった)であった。英語を話せない私。あせった、あせった。
外国人からの質問の意味が「旅行好きな私」なので、なんとなくわかった。そこで、すぐにホームにある掲示板時刻表で確かめた。そしたら、空港行きの列車が(我々がいる)ホームに入線してくることを確かめることができた。確認できてから、すぐに「ヒアー、OK。」と、立っているホームを指差して答えた。その外国人男性は私の返答に対して、安心したような顔になっていた。
(正しい英語は話せない私だが、単語を並べてなんとか伝えようと努力する、そういう反応がでるようになりつつある現在。仁徳天皇陵古墳(よく外国人が来るようになったガイド地点)のガイドでも、単語を並べている。外国人と接する度胸はできてきたらしい[笑]。今もって、英語力はさっぱりだが。)
質問してきた外国人のにっこりとしている顔を見て、私もほっとした。
一応、私の「英単語並べ言葉」が伝わったのだ。そして、すぐに空港行きの列車がホームに入ってきた。彼は無事、空港行きの列車に乗り込んだ。
さて、私はどの列車に乗ればいいのだろうか? 掲示板時刻表を見つめるのだが、よくわからない。名鉄の掲示板時刻表は難しいなあと、思案しているのに・・・、豊橋行きの急行が入ってきた。
「とにかく、乗ろう! 降りる駅は車内の駅案内を見れば分かるだろうから」と乗り込んだ。
乗ってみて、駅案内図を探したが、見つからなかった。こまった。車内を動いて、やっと見つけた。私の乗った列車は「富士松駅」には止まらないことがわかった。
そのうえ、そのことに気がついたときは、「富士松駅」までに途中で下車する駅がないことに気がついた。(えっ、次の停車駅から、もどらなければならないのだ!)
次の停車駅は「知立駅」だった。
走行中の車内から、降りなければならない「富士松駅」を恨めしくながめては、戻らねばならない距離を想像した。戻るのは、2駅分。(よかった・・・)
と、安心したのだが、どっこい!
知立駅から戻る列車は普通列車のみ。時刻表を見て驚いた。なんとまあ、普通列車は1時間に2本しかないのだ。
(えっ? 30分も待つのか!)と、あせった。
ホームに駅員がいたので、「富士松駅へ行きたいのですが?」と聞くことができた。15分ほど待てば、普通列車が来るので、それに乗れば良いということを教えていただけた。
安心、安心。やっと、「富士松駅に着けるぞ」と独り言。
富士松駅の改札を出た時は、10時30分を過ぎていた。計画していた到着時刻よりも、約1時間遅くなってしまった。
さあ、バリバリ歩くぞ! とスタート。
(ここから続きです。)
知立市内を歩き出したようであるが、知立宿中心地へは約1時間かかった。
「知立城跡」に着いた時刻は午前11時30分であった。小休憩を取り、水分補給をした。「城跡」とはいえ、城の痕跡はまったくなかった。東海道と同じ標高の平地で、大きな木が一本あるだけの小さな公園になっていた。
知立市内を歩いていったのだが、東海道に設置されている標柱には、すべて「池鯉鮒宿」と書かれていた。「ははーん、どっちかは当て字だな?」と想像した。
やはり、一方は当て字らしい。しかし、江戸時代から使われ始めた「歴史ある当て字」のようである。
8世紀の木簡には、「知立」と書かれているとのことである。この表記が一番古いらしい。平安時代の古文書に「智立」とあり、「知立」または「智立」と表記していた期間が長かったようである。しかし、 江戸時代に入り、東海道が整備されるのにともなって、東海道五十三次の宿になり、「池鯉鮒宿」と名づけられている。江戸時代の260年間は「池鯉鮒」という表記が一般化していたわけである。
なぜ、「池の鯉と鮒」という当て字めいた表記になってしまったのだろうか?
手がかりは、江戸時代の古文書『万治道中記』。その記述によると、「(知立の)地に池があり、明神の使いという鯉や鮒が多かったことから池鯉鮒と名付けられ・・・云々」とある。
「明神の使い・・云々」という命名譚。江戸時代になっての地名表記変更だったらしい。こういう胡散臭い話をいつまでも採用してなるものか、と誰かが言い出したのであろう。(なかなか偉い人が知立市にはおられたらしい。)
徳川幕府が崩壊し、明治時代に入ってから、歴史ある「知立」に戻ったわけである。「智立」とはならなかった。「知立」という漢字の方が、分かりやすく覚えやすい。この字で正解であろう。現在、知立市には、「知立神社」がある。この知立神社の歴史こそ「ちりゅう」に関する命名の根拠があるのだろう。詳しく調べてはいないが・・・。
「ちりゅう」の表記に関して、「知立」・「智立」・「池鯉鮒」にこだわり、(旅行記録の)寄り道をしてしまった。
さて、話を進めよう。
池鯉鮒宿の「本陣跡」や「脇本陣跡」を探してみたが、よくわからなかった。確認できたのは、「問屋場跡」だけで、「碑」があったので気がついた。池鯉鮒宿の中心部がよくわからない状況であった。
中心部を通過して、しばらく行くと、松並木があった。立派な松並木であった。東海道に残っていた松並木。江戸時代を連想し、松並木を歩いていった。
松並木が終わろうとする箇所に、高さ50センチほどの石造「男女双体道祖神」があり、「小林一茶句碑」もあった。松尾芭蕉の句碑が多い東海道だが、小林一茶の句碑もあった。
その句は、「はつ雪や ちりふの市の ぜにかます」。*「ぜにかます」とは、銭をいれる袋らしい。財布かな? で、句の意味は? 私には難しい句ですね。私なりの解釈はありますが、自信はありませんので・・・省略。(どなたか、教えてください)
知立市(池鯉鮒宿)を過ぎてから、岡崎市に入った表示を見たときは、うれしかった。疲れていたので、宿泊予約をしているホテル(岡崎市)のある市に入ったので、ほっとしたようである。
「お江戸日本橋七つ立ち」と言われているように、江戸時代の人の旅行の出発は「七つ」(=4時ごろ)だった。私の出発は、「七つ半」時。つまり午前5時過ぎに家を出た。
夕方になると、泊まるところが気になりだすものですよ。
とにかく、岡崎市に入った時はうれしかったですね。
【一日目の旅行記録はここまでとします。この続きは、次のブログへ。】
東海道(知立市内)の標柱 どれも「池鯉鮒宿」と表記されていた。
東海道の松並木 こんな立派な松並木が残っていた。幅が広く、真ん中が車道として現役の道として利用されていた。さらに、両サイドに歩道もあり、安全な道路であった。この周辺は広々としたところだったらしい。
「男女双体道祖神」 かわいらしい道祖神でした。
来迎寺一里塚 しっかりと残っている一里塚だった。
ここより500mほど東に猿沢川が流れていた。知立市は猿渡川より西側で、東側は安城市になる。いよいよ知立市ともおさらば。次は岡崎宿へ。
この標識を見たときはうれしかったですよ。
小雨に降られるだろうと雨対策をして出発した。幸い、初日は雨に降られることはなく、曇天で寒いぐらいの気温だった。その寒さが、かえって「歩き旅」にとっては快かった。
二日目は、小雨に降られたが、歩き旅に支障はなかった。
今日(4月8日)、東京では雪が降っているとのニュース。大阪も寒かったが、雪が降るような寒さではなかった。堺も雨が午前中降り続き、春めいてきていたのに、寒かった。全国的に寒くなり、2月ごろの気温だったようである。すでに桜の満開が過ぎ、散り始めている季節にもかかわらず、雪が降るとは・・・珍しい。
さて、今回の旅の一日目の行程。 知立(ちりゅう)宿 → 岡崎宿。 岡崎宿で一泊した。
二日目は、岡崎宿 → 藤川宿 → 赤坂宿 → 御油(ごゆ)宿。
二日間での歩数は、81453歩。歩行距離は(万歩計による計算だが)約49km足らず。 一日24kmほど歩いたことになる。地図上での距離はこれよりもやや少ない。(道に迷って戻ったりした歩数も入っているから。)
今回は、足に豆ができなかった。ゆっくりと歩くようにしたからであろう。どういう歩き方をすれば豆ができてしまうのか、という(前回の)反省が活かされたようである。
一日に歩く距離は25km以下にしぼったので、足の裏に豆ができなかったと考えられる。たぶん、私の脚力はその辺が限度らしい。今後ともこのペースを守ろうと思っている。
前回の歩き旅で、中断した場所へたどり着くまで、ちょっと時間がかかった。
JR堺市駅午前5時51分発の快速利用で大阪駅に出ようとしたのだが、この快速は大阪駅に行かない。新大阪駅行きの快速なのである。早朝の「めずらしい快速」の一本である。
大阪駅に行きたい(新大阪駅では座れないかもしれないと予想したから)ので、西九条駅で降りて、普通に乗り換えて大阪駅へ行くことにした。(たぶん座れるだろう!)
米原駅行き新快速は12両編成で、大阪駅が始発であった。大阪駅から乗車した人は全員が座れていた。朝早い列車にもかかわらず、満席だった。次の駅の新大阪駅から乗ってきた人は立っていた。
「へえー、午前6時台の新快速を利用する人って、こんなに多いんだ!」と、驚きましたね。 「西九条で降りて乗り継いだのが、正解だった!」と満足した。米原までは、座って行きたかったから。
米原から大垣へ。大垣から(名古屋市内の)金山へ、快速を乗り継いですべて座っていくことができた。
青春18切符の利点は、快速には乗れることである。急行や特急に乗ることはできない。快速を利用できるので、ありがたい。
とはいうものの、堺から(名古屋駅の次の大きな駅の)金山駅までは時間がかかった。この日は運悪く、先を走っている列車にトラブルが発生したとのアナウンスがあり、金山駅到着時刻が約20分ほど遅れた。9時20分頃に到着する予定が、9時40分ごろになってしまった。
金山駅からは私鉄の名鉄名古屋本線に乗り換えて「富士松駅(=前回の「東海道53次歩き旅到達地点」近くの駅)」へ行かねばならなかった。
前回は「富士松駅」から「金山駅」を目指して電車に乗ることに、戸惑いや苦労はなかったのだが・・・。逆に、金山駅から「富士松駅」を目指すことは難しかった。
金山駅のホームには、とにかくいろいろな方面へ行く列車が次から次へと短い間隔で入線してくるのだ。空港へ行く列車と豊橋へ行く列車が同じホームに入ってくる。乗り慣れていない者にとっては、あわただしくて、(JRの遅れもあったので)あせる気分になった。その上、狭いホームで、人がごった返している。
「さて、私は急行に乗るべきなのか、乗ってはいけないのか? 特急もあるが、有料なのか無料なのか? それに、富士松駅へはどこで乗り換えれば良いのか?」
あれこれ考えて、時刻表を見ていたら、列車が入ってきた。
「駅員もホームにいないし・・・、乗ろうか、乗るまいか、どうしよう?」と迷っていたら、同じホームにいた外国人から、英語で話しかけられた。
「エアポート行きは、このホームでいいのですか?」という意味の質問(英語だということはわかった)であった。英語を話せない私。あせった、あせった。
外国人からの質問の意味が「旅行好きな私」なので、なんとなくわかった。そこで、すぐにホームにある掲示板時刻表で確かめた。そしたら、空港行きの列車が(我々がいる)ホームに入線してくることを確かめることができた。確認できてから、すぐに「ヒアー、OK。」と、立っているホームを指差して答えた。その外国人男性は私の返答に対して、安心したような顔になっていた。
(正しい英語は話せない私だが、単語を並べてなんとか伝えようと努力する、そういう反応がでるようになりつつある現在。仁徳天皇陵古墳(よく外国人が来るようになったガイド地点)のガイドでも、単語を並べている。外国人と接する度胸はできてきたらしい[笑]。今もって、英語力はさっぱりだが。)
質問してきた外国人のにっこりとしている顔を見て、私もほっとした。
一応、私の「英単語並べ言葉」が伝わったのだ。そして、すぐに空港行きの列車がホームに入ってきた。彼は無事、空港行きの列車に乗り込んだ。
さて、私はどの列車に乗ればいいのだろうか? 掲示板時刻表を見つめるのだが、よくわからない。名鉄の掲示板時刻表は難しいなあと、思案しているのに・・・、豊橋行きの急行が入ってきた。
「とにかく、乗ろう! 降りる駅は車内の駅案内を見れば分かるだろうから」と乗り込んだ。
乗ってみて、駅案内図を探したが、見つからなかった。こまった。車内を動いて、やっと見つけた。私の乗った列車は「富士松駅」には止まらないことがわかった。
そのうえ、そのことに気がついたときは、「富士松駅」までに途中で下車する駅がないことに気がついた。(えっ、次の停車駅から、もどらなければならないのだ!)
次の停車駅は「知立駅」だった。
走行中の車内から、降りなければならない「富士松駅」を恨めしくながめては、戻らねばならない距離を想像した。戻るのは、2駅分。(よかった・・・)
と、安心したのだが、どっこい!
知立駅から戻る列車は普通列車のみ。時刻表を見て驚いた。なんとまあ、普通列車は1時間に2本しかないのだ。
(えっ? 30分も待つのか!)と、あせった。
ホームに駅員がいたので、「富士松駅へ行きたいのですが?」と聞くことができた。15分ほど待てば、普通列車が来るので、それに乗れば良いということを教えていただけた。
安心、安心。やっと、「富士松駅に着けるぞ」と独り言。
富士松駅の改札を出た時は、10時30分を過ぎていた。計画していた到着時刻よりも、約1時間遅くなってしまった。
さあ、バリバリ歩くぞ! とスタート。
(ここから続きです。)
知立市内を歩き出したようであるが、知立宿中心地へは約1時間かかった。
「知立城跡」に着いた時刻は午前11時30分であった。小休憩を取り、水分補給をした。「城跡」とはいえ、城の痕跡はまったくなかった。東海道と同じ標高の平地で、大きな木が一本あるだけの小さな公園になっていた。
知立市内を歩いていったのだが、東海道に設置されている標柱には、すべて「池鯉鮒宿」と書かれていた。「ははーん、どっちかは当て字だな?」と想像した。
やはり、一方は当て字らしい。しかし、江戸時代から使われ始めた「歴史ある当て字」のようである。
8世紀の木簡には、「知立」と書かれているとのことである。この表記が一番古いらしい。平安時代の古文書に「智立」とあり、「知立」または「智立」と表記していた期間が長かったようである。しかし、 江戸時代に入り、東海道が整備されるのにともなって、東海道五十三次の宿になり、「池鯉鮒宿」と名づけられている。江戸時代の260年間は「池鯉鮒」という表記が一般化していたわけである。
なぜ、「池の鯉と鮒」という当て字めいた表記になってしまったのだろうか?
手がかりは、江戸時代の古文書『万治道中記』。その記述によると、「(知立の)地に池があり、明神の使いという鯉や鮒が多かったことから池鯉鮒と名付けられ・・・云々」とある。
「明神の使い・・云々」という命名譚。江戸時代になっての地名表記変更だったらしい。こういう胡散臭い話をいつまでも採用してなるものか、と誰かが言い出したのであろう。(なかなか偉い人が知立市にはおられたらしい。)
徳川幕府が崩壊し、明治時代に入ってから、歴史ある「知立」に戻ったわけである。「智立」とはならなかった。「知立」という漢字の方が、分かりやすく覚えやすい。この字で正解であろう。現在、知立市には、「知立神社」がある。この知立神社の歴史こそ「ちりゅう」に関する命名の根拠があるのだろう。詳しく調べてはいないが・・・。
「ちりゅう」の表記に関して、「知立」・「智立」・「池鯉鮒」にこだわり、(旅行記録の)寄り道をしてしまった。
さて、話を進めよう。
池鯉鮒宿の「本陣跡」や「脇本陣跡」を探してみたが、よくわからなかった。確認できたのは、「問屋場跡」だけで、「碑」があったので気がついた。池鯉鮒宿の中心部がよくわからない状況であった。
中心部を通過して、しばらく行くと、松並木があった。立派な松並木であった。東海道に残っていた松並木。江戸時代を連想し、松並木を歩いていった。
松並木が終わろうとする箇所に、高さ50センチほどの石造「男女双体道祖神」があり、「小林一茶句碑」もあった。松尾芭蕉の句碑が多い東海道だが、小林一茶の句碑もあった。
その句は、「はつ雪や ちりふの市の ぜにかます」。*「ぜにかます」とは、銭をいれる袋らしい。財布かな? で、句の意味は? 私には難しい句ですね。私なりの解釈はありますが、自信はありませんので・・・省略。(どなたか、教えてください)
知立市(池鯉鮒宿)を過ぎてから、岡崎市に入った表示を見たときは、うれしかった。疲れていたので、宿泊予約をしているホテル(岡崎市)のある市に入ったので、ほっとしたようである。
「お江戸日本橋七つ立ち」と言われているように、江戸時代の人の旅行の出発は「七つ」(=4時ごろ)だった。私の出発は、「七つ半」時。つまり午前5時過ぎに家を出た。
夕方になると、泊まるところが気になりだすものですよ。
とにかく、岡崎市に入った時はうれしかったですね。
【一日目の旅行記録はここまでとします。この続きは、次のブログへ。】
東海道(知立市内)の標柱 どれも「池鯉鮒宿」と表記されていた。
東海道の松並木 こんな立派な松並木が残っていた。幅が広く、真ん中が車道として現役の道として利用されていた。さらに、両サイドに歩道もあり、安全な道路であった。この周辺は広々としたところだったらしい。
「男女双体道祖神」 かわいらしい道祖神でした。
来迎寺一里塚 しっかりと残っている一里塚だった。
ここより500mほど東に猿沢川が流れていた。知立市は猿渡川より西側で、東側は安城市になる。いよいよ知立市ともおさらば。次は岡崎宿へ。
この標識を見たときはうれしかったですよ。
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2015/3/19
「東海道53次歩き旅⑧石薬師宿~知立宿 二日目」 東海道53次歩き旅
歩き旅二日目。JR桑名駅から名古屋市内の金山総合駅まで電車で移動して、宮宿に近い場所のビジネスホテルに泊まった。
いよいよ二日目のスタート。熱田神宮に行ったことがなかったので、寄り道することにした。熱田神宮は広すぎるので、入り口付近を見ただけ。「おっ、ここが熱田神宮なんだ、流石に広い敷地の神社だ!」と金山駅から熱田神宮入り口まで歩いてみて、思った。
東海道を歩くことが目的の旅だから、お参りはしなかった。熱田神宮の「宮」ということから、「宮宿」の名称。宮宿は海に面しており、「七里の渡し」の乗船場でもあった。桑名の「七里の渡し舟」の渡し先が「宮」である。
桑名が「伊勢の国」であったのに対して、宮は「尾張の国」である。
いよいよ尾張の国「宮宿」から歩き旅を再スタートさせた。
宮宿は京から数えて、13番目の宿である。残り、江戸まで40宿だから・・・遥かかなたである。がんばろう!
東海道歩き旅=3年計画の旅である。(去年の3月から歩き始めたので、ほぼ1年が経過したことになる。)
宮宿 → 鳴海宿 → 知立宿(本陣跡にたどり着く前に足の痛みで帰宅した)
桑名と宮との間には、木曽川・長良川・揖斐川の3つの大きな川が流れている。河口はそれぞれ幅が広く、その上、日々流れを変えるという厄介な川であった。江戸時代の土木技術では、架橋は不可能であった。そこで、東海道(桑名~宮)は、海上七里を船で渡ったわけである。船酔いで苦労した人も多かったらしい。帆掛け舟で約28km(潮が引いた時は遠回りになり、10里だった。)以上を移動したのである。どうしても海上を行く船に乗れない(船酔いの激しい)旅人は、かなり河口から離れた陸地を、三川のそれぞれの「渡し舟」を利用して、移動したようである。歩きが中心で、時間と費用が余計にかかったらしい。だから、ほとんどの人は「七里の渡し」利用で移動している。船酔いしやすい人は大変な苦労だったにちがいない。海は荒れるとかなり揺れが激しいですから。
そんなことを想像しながら、宮の「七里の渡し」船着場周辺を歩いてみました。
写真には写っていませんが、すぐ近くに船着場があります。
笠寺一里塚(愛知県名古屋市)
榎の大木だった。江戸時代から枯れずに残った木である。
間(あい)の宿・有松
すばらしい町並みが関宿以外にもあったので、感動した。有松絞(しぼ)りで有名なところ。
弥次さん・喜多さんは、この有松で、有松絞りの手拭を買っているとのことなので、私も記念に「有松絞りの手拭」を一枚購入した。1000円だった。江戸時代はいくらしたのだろうか? お店の人に尋ねるのを忘れた。(私の購入したものは安価だったかな?)
連子(れんじ)格子(こうし)の美しい建物群
なまこ壁・虫籠(むしこ)窓・卯建のある家々 旧商家の家並みがすばらしかった。
桶狭間古戦場跡(史跡公園) 今川義元の墓がある公園。
驚いたのは、墓が7箇所ほどあることだった。とりあえず、一番古い墓だけはしっかり見ておいた。時代の変遷に伴って、次から次へと「今川義元の墓」を建てる人や団体が出てきたらしい。
古戦場跡に墓は一つだけでいいのに・・・と思った。
7箇所ほど多くはないが、千利休の墓(供養塔を含む)も複数ある。どこにも利休の遺骨は納められていない。京都にある墓は墓石だけらしい。
一方、私がボランティアガイドで案内している南宗寺の「千利休一族の供養塔」には、千利休の遺髪が納められているとのことである。
京都にある墓よりも、堺・南宗寺にある「供養塔」の方が「墓にふさわしい」と、私は思っている。
歴史上の人物の墓は、複数あるケースをよく耳にするが、いったいどこにある墓・供養塔が「墓にふさわしい」と認識するかは、人それぞれであろう。
それにしても、今川義元の墓が、桶狭間古戦場跡(意外に狭い史跡公園)に7つもあるということに、驚きましたね。
境川 尾張国と三河国との国境になっている川である。
一般に山や川が「国境」になっている場合がほとんどである。
唯一、一本の道路(竹内街道=日本で一番古い昔の国道)が「国境」になっているところがある。そこは「堺」である。
昔の堺は、摂津国と和泉国との国境(大小路という通り)に栄えたところである。
堺=境 どちらの字も意味はまったく同じ漢字である。
国境に栄えた街=堺
こんな都市は日本国中を探しても「堺」だけである。
国境は辺鄙なとこが多い。写真の「境川」周辺も辺鄙なところで、家は(現在でも)まばらである。
いよいよ二日目のスタート。熱田神宮に行ったことがなかったので、寄り道することにした。熱田神宮は広すぎるので、入り口付近を見ただけ。「おっ、ここが熱田神宮なんだ、流石に広い敷地の神社だ!」と金山駅から熱田神宮入り口まで歩いてみて、思った。
東海道を歩くことが目的の旅だから、お参りはしなかった。熱田神宮の「宮」ということから、「宮宿」の名称。宮宿は海に面しており、「七里の渡し」の乗船場でもあった。桑名の「七里の渡し舟」の渡し先が「宮」である。
桑名が「伊勢の国」であったのに対して、宮は「尾張の国」である。
いよいよ尾張の国「宮宿」から歩き旅を再スタートさせた。
宮宿は京から数えて、13番目の宿である。残り、江戸まで40宿だから・・・遥かかなたである。がんばろう!
東海道歩き旅=3年計画の旅である。(去年の3月から歩き始めたので、ほぼ1年が経過したことになる。)
宮宿 → 鳴海宿 → 知立宿(本陣跡にたどり着く前に足の痛みで帰宅した)
桑名と宮との間には、木曽川・長良川・揖斐川の3つの大きな川が流れている。河口はそれぞれ幅が広く、その上、日々流れを変えるという厄介な川であった。江戸時代の土木技術では、架橋は不可能であった。そこで、東海道(桑名~宮)は、海上七里を船で渡ったわけである。船酔いで苦労した人も多かったらしい。帆掛け舟で約28km(潮が引いた時は遠回りになり、10里だった。)以上を移動したのである。どうしても海上を行く船に乗れない(船酔いの激しい)旅人は、かなり河口から離れた陸地を、三川のそれぞれの「渡し舟」を利用して、移動したようである。歩きが中心で、時間と費用が余計にかかったらしい。だから、ほとんどの人は「七里の渡し」利用で移動している。船酔いしやすい人は大変な苦労だったにちがいない。海は荒れるとかなり揺れが激しいですから。
そんなことを想像しながら、宮の「七里の渡し」船着場周辺を歩いてみました。
写真には写っていませんが、すぐ近くに船着場があります。
笠寺一里塚(愛知県名古屋市)
榎の大木だった。江戸時代から枯れずに残った木である。
間(あい)の宿・有松
すばらしい町並みが関宿以外にもあったので、感動した。有松絞(しぼ)りで有名なところ。
弥次さん・喜多さんは、この有松で、有松絞りの手拭を買っているとのことなので、私も記念に「有松絞りの手拭」を一枚購入した。1000円だった。江戸時代はいくらしたのだろうか? お店の人に尋ねるのを忘れた。(私の購入したものは安価だったかな?)
連子(れんじ)格子(こうし)の美しい建物群
なまこ壁・虫籠(むしこ)窓・卯建のある家々 旧商家の家並みがすばらしかった。
桶狭間古戦場跡(史跡公園) 今川義元の墓がある公園。
驚いたのは、墓が7箇所ほどあることだった。とりあえず、一番古い墓だけはしっかり見ておいた。時代の変遷に伴って、次から次へと「今川義元の墓」を建てる人や団体が出てきたらしい。
古戦場跡に墓は一つだけでいいのに・・・と思った。
7箇所ほど多くはないが、千利休の墓(供養塔を含む)も複数ある。どこにも利休の遺骨は納められていない。京都にある墓は墓石だけらしい。
一方、私がボランティアガイドで案内している南宗寺の「千利休一族の供養塔」には、千利休の遺髪が納められているとのことである。
京都にある墓よりも、堺・南宗寺にある「供養塔」の方が「墓にふさわしい」と、私は思っている。
歴史上の人物の墓は、複数あるケースをよく耳にするが、いったいどこにある墓・供養塔が「墓にふさわしい」と認識するかは、人それぞれであろう。
それにしても、今川義元の墓が、桶狭間古戦場跡(意外に狭い史跡公園)に7つもあるということに、驚きましたね。
境川 尾張国と三河国との国境になっている川である。
一般に山や川が「国境」になっている場合がほとんどである。
唯一、一本の道路(竹内街道=日本で一番古い昔の国道)が「国境」になっているところがある。そこは「堺」である。
昔の堺は、摂津国と和泉国との国境(大小路という通り)に栄えたところである。
堺=境 どちらの字も意味はまったく同じ漢字である。
国境に栄えた街=堺
こんな都市は日本国中を探しても「堺」だけである。
国境は辺鄙なとこが多い。写真の「境川」周辺も辺鄙なところで、家は(現在でも)まばらである。
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2015/3/14
「東海道53次歩き旅⑦石薬師宿~知立宿 一日目」 東海道53次歩き旅
今回(3月13日・14日)は初めて「東海道53次歩き旅」で、日帰りではなくて、一泊しての旅に挑戦した。
足の疲れから考えると、日帰りのほうがいいのだが、行き帰りに時間がかかるようになってきたので、宿泊しての旅に切り替えた。
今夜帰宅したのだが、疲れた。歩きすぎたようである。
二日間で、87034歩だった。歩行距離は約52キロ。一日平均26キロだった。
足に豆ができ、その豆がつぶれていて、痛い。
明日は足の筋肉と豆ができた部分を休めて、手当てするつもり。両足とも豆がつぶれていた。 二日間で、50キロを超えて歩いたのは、「ちょっと無謀だった」。皮膚が持たなかった。皮膚を鍛えることも必要だと理解できた。反省して次に活かそう!
(旅の記録は後日に。今夜は疲れたので寝ます。)
関西本線・河曲駅 この駅名の読みが不思議だった。曲を「の」と読むとは! 前回、帰宅後辞書で調べてみたが、曲を「の」という読む例はなかった。地名ゆえの難読だろう。日本国中あっちこっちで地名の読みは難しいですね。ローマ字なら簡単に読めるのに・・・人名・地名の読みは難しい。
この駅から「石薬師宿」まで歩きました。東海道53次歩き旅の中断地点まで歩いて戻りました。約2キロ、30分ほどかかりました。
石薬師宿・本陣跡 風格のある建物が再建されていた。街道沿いの家の特徴は「格子」造り。格子の間隔やデザインは家によって、微妙な違いがあって、美しさを楽しめる。立派な家の二階には「虫籠窓(むしこまど)」や「卯建(うだつ)」があったりして、家々を見て歩く楽しみもある。「うだつのあがらないやつ」なんて言葉があるが、卯建とは「機能的には防火壁」なのだが、立派な家の象徴である。二階に隣からの火災防止用の厚い壁を設置している家は、やはり「すごい家」だと思う。家を建てるなら、「卯建」付の家を建てたい! 昔の庶民の願望であったのだろう。
ちなみに、街道筋の豪商らしき家の「卯建」は、屋根などが豪華で装飾もこっている。そういう卯建を見ていると、足が止まってしまって、前へ進まない。
私の人生、「うだつがあがらない」ままですが・・・。それなりに幸せですよ(笑)
石薬師宿標柱 江戸から来た人にとって、石薬師宿の入口。
私(京から江戸へ向かっている者)にとっては、石薬師宿の出口。宿の入口と出口には、標柱が立っていることが多い。
現在の国道1号線が目の前 遥かかなたには四日市コンビナートの煙が見えている。「あそこまで15kmか・・・ウーン」とうなっていた。四日市宿から、さらに先の桑名宿まで・・・。今日の夕方には到着したい! と、決意してがんばって歩いていきました。
日永の追分(ひながのおいわけ)四日市市 追分=道が分かれているところ。
追分は日本全国いたるところにある。江戸から来た人にとっては、「日永の追分」は重要な分岐点になる。向かって左の道が「伊勢街道」で、伊勢神宮遥拝鳥居が建てられている。鳥居をくぐっていく道が伊勢への道。鳥居をくぐらずに行く、右側の道が「東海道・京への道」である。写真=江戸から来た人からの追分周辺の眺め。
ところどころにある東海道わきの松
ほとんど残っていないが、残っている松は太くて、立派だ。
丹羽文雄氏はこの寺(四日市市・崇顕寺)の長男として生まれ、育ったとのこと。東海道に面したお寺であった。
四日市 スワ栄アーケード この商店街が「東海道」そのもの。
それほど長い商店街ではなかった。現代化された道には「東海道のなごり」はまったくなかった。
一方、大阪市住之江区にもアーケードのある商店街がある。安立(あんりゅう)商店街と言い、一寸法師の話に出てくるところでもある。この商店街は「紀州街道」である。参勤交代でも利用された道。この商店街には、紀州街道のなごりの建物がある。歴史を感じさせてくれる建物がちらほらとある。商店街に残されている古い家には味があって、私は好きである。
話は脱線するが・・・。
「一寸法師」なる人物は、女をだまして連れ去る悪いやつだ! こんな男には気をつけろ! という観点で、「古典の授業」をしたことがあった。(私が30代の頃だったので、かなり昔の話である。)『一寸法師』の古文原作を丁寧に読みながら、「一寸法師悪人説」という観点から、授業をした。結構、生徒たちが興味深く感じてくれて、熱心に取り組んでくれたものである。
懐かしいことを思い出した。(昔を振り返ることが多くなったのは、もう若くはないってことかな?)
すぐ=「まっすぐ」の意味。 江戸時代は、こういう言葉遣いだったのですね。
やっと桑名市の標識 これを見た時は嬉しかった! かなり歩いてきて疲れていたから。
常夜燈(街道には一里塚同様、ポイントポイントに残されている。)
やっと本日の到着予定地に到着。桑名宿の「七里の渡し跡」の鳥居。東海道(陸路)はここまで。ここからは海上を舟で移動していた。江戸時代、七里=約28kmを舟で移動していた。現在、舟は(特別な日だけ運行しているが)運航していない。
写真左の海 ここが渡し舟の乗船場 後ろの建物=桑名城にあった櫓(航海の守護神であった)
桑名宿周辺を散策後、JR桑名駅から名古屋市内のビジネスホテルへ。もう日が暮れていた。
朝5時過ぎの電車に乗り、ホテルに着いたのは、午後8時ごろだった。疲れたが、満足できた一日だった。
足の疲れから考えると、日帰りのほうがいいのだが、行き帰りに時間がかかるようになってきたので、宿泊しての旅に切り替えた。
今夜帰宅したのだが、疲れた。歩きすぎたようである。
二日間で、87034歩だった。歩行距離は約52キロ。一日平均26キロだった。
足に豆ができ、その豆がつぶれていて、痛い。
明日は足の筋肉と豆ができた部分を休めて、手当てするつもり。両足とも豆がつぶれていた。 二日間で、50キロを超えて歩いたのは、「ちょっと無謀だった」。皮膚が持たなかった。皮膚を鍛えることも必要だと理解できた。反省して次に活かそう!
(旅の記録は後日に。今夜は疲れたので寝ます。)
関西本線・河曲駅 この駅名の読みが不思議だった。曲を「の」と読むとは! 前回、帰宅後辞書で調べてみたが、曲を「の」という読む例はなかった。地名ゆえの難読だろう。日本国中あっちこっちで地名の読みは難しいですね。ローマ字なら簡単に読めるのに・・・人名・地名の読みは難しい。
この駅から「石薬師宿」まで歩きました。東海道53次歩き旅の中断地点まで歩いて戻りました。約2キロ、30分ほどかかりました。
石薬師宿・本陣跡 風格のある建物が再建されていた。街道沿いの家の特徴は「格子」造り。格子の間隔やデザインは家によって、微妙な違いがあって、美しさを楽しめる。立派な家の二階には「虫籠窓(むしこまど)」や「卯建(うだつ)」があったりして、家々を見て歩く楽しみもある。「うだつのあがらないやつ」なんて言葉があるが、卯建とは「機能的には防火壁」なのだが、立派な家の象徴である。二階に隣からの火災防止用の厚い壁を設置している家は、やはり「すごい家」だと思う。家を建てるなら、「卯建」付の家を建てたい! 昔の庶民の願望であったのだろう。
ちなみに、街道筋の豪商らしき家の「卯建」は、屋根などが豪華で装飾もこっている。そういう卯建を見ていると、足が止まってしまって、前へ進まない。
私の人生、「うだつがあがらない」ままですが・・・。それなりに幸せですよ(笑)
石薬師宿標柱 江戸から来た人にとって、石薬師宿の入口。
私(京から江戸へ向かっている者)にとっては、石薬師宿の出口。宿の入口と出口には、標柱が立っていることが多い。
現在の国道1号線が目の前 遥かかなたには四日市コンビナートの煙が見えている。「あそこまで15kmか・・・ウーン」とうなっていた。四日市宿から、さらに先の桑名宿まで・・・。今日の夕方には到着したい! と、決意してがんばって歩いていきました。
日永の追分(ひながのおいわけ)四日市市 追分=道が分かれているところ。
追分は日本全国いたるところにある。江戸から来た人にとっては、「日永の追分」は重要な分岐点になる。向かって左の道が「伊勢街道」で、伊勢神宮遥拝鳥居が建てられている。鳥居をくぐっていく道が伊勢への道。鳥居をくぐらずに行く、右側の道が「東海道・京への道」である。写真=江戸から来た人からの追分周辺の眺め。
ところどころにある東海道わきの松
ほとんど残っていないが、残っている松は太くて、立派だ。
丹羽文雄氏はこの寺(四日市市・崇顕寺)の長男として生まれ、育ったとのこと。東海道に面したお寺であった。
四日市 スワ栄アーケード この商店街が「東海道」そのもの。
それほど長い商店街ではなかった。現代化された道には「東海道のなごり」はまったくなかった。
一方、大阪市住之江区にもアーケードのある商店街がある。安立(あんりゅう)商店街と言い、一寸法師の話に出てくるところでもある。この商店街は「紀州街道」である。参勤交代でも利用された道。この商店街には、紀州街道のなごりの建物がある。歴史を感じさせてくれる建物がちらほらとある。商店街に残されている古い家には味があって、私は好きである。
話は脱線するが・・・。
「一寸法師」なる人物は、女をだまして連れ去る悪いやつだ! こんな男には気をつけろ! という観点で、「古典の授業」をしたことがあった。(私が30代の頃だったので、かなり昔の話である。)『一寸法師』の古文原作を丁寧に読みながら、「一寸法師悪人説」という観点から、授業をした。結構、生徒たちが興味深く感じてくれて、熱心に取り組んでくれたものである。
懐かしいことを思い出した。(昔を振り返ることが多くなったのは、もう若くはないってことかな?)
すぐ=「まっすぐ」の意味。 江戸時代は、こういう言葉遣いだったのですね。
やっと桑名市の標識 これを見た時は嬉しかった! かなり歩いてきて疲れていたから。
常夜燈(街道には一里塚同様、ポイントポイントに残されている。)
やっと本日の到着予定地に到着。桑名宿の「七里の渡し跡」の鳥居。東海道(陸路)はここまで。ここからは海上を舟で移動していた。江戸時代、七里=約28kmを舟で移動していた。現在、舟は(特別な日だけ運行しているが)運航していない。
写真左の海 ここが渡し舟の乗船場 後ろの建物=桑名城にあった櫓(航海の守護神であった)
桑名宿周辺を散策後、JR桑名駅から名古屋市内のビジネスホテルへ。もう日が暮れていた。
朝5時過ぎの電車に乗り、ホテルに着いたのは、午後8時ごろだった。疲れたが、満足できた一日だった。
<form action="https://gold.ap.teacup.com/applet/keke7761/720/clap" method="POST"><input type="submit" value="拍手" /></form> 2
2015/3/2
「東海道53次歩き旅⑥関宿~石薬師宿」 東海道53次歩き旅
始発ではなかったが、早朝の列車利用で「東海道53次歩き旅」をしてきた。
JR堺市駅5時45分発の列車で出かけたのだが、すでに列車内に空席はなかった。
「こんなに早くから、列車を利用する人が多いのだ・・・」と驚いた。夏の早朝に畑へ行く時は始発(5時26分)に乗ったりしていたが、(早朝に)天王寺方面行きの列車に乗るのは久しぶりであった。
「早朝から、皆さん、お仕事ご苦労様です。」
私は、気楽な歩き旅のために列車を利用しています。青春18切符利用です。
今日は関宿からスタートしました。
関宿 → 亀山宿 → 庄野宿 → 石薬師宿 石薬師宿の途中で(本日の)歩き旅を終え、JR「河曲(かわの)」駅を目指した。そして、18切符利用で帰宅した。(次回は石薬師宿からスタートすることになる。)
本日の万歩計の歩数(家から家まで)は、37671歩でした。歩行距離は約22.6キロ。
地図から計算しても22キロほどの行程だった。本日の「歩き旅の距離(テキストによるデータ)」は万歩計のデータとほぼ同じだった。私の1歩=60cmは、ほぼ正しいことになる。
(一日に)20キロ以上を久しぶりに歩いたので、疲れました。
(前回⑥回目は12月25日でした)今回の歩き旅、久しぶりだったので足腰を痛めたかも? 明日が心配。今日は何とか・・・少しだけの痛みだが・・・。明日、明後日は?
ゆっくり風呂に入って、筋肉をほぐしてから寝ることにしよう。
関宿の東の端=「東の追分」
左の鳥居をくぐる道は、伊勢への道(伊勢別街道)。京を目指す、江戸から来た旅人は正面の道(東海道)を行くことになる。正面の山が鈴鹿山脈。
江戸時代、関には「鈴鹿の関」が置かれていた。旅人は難関の「鈴鹿越え」に備え、関宿で宿泊した。関宿の町並みはその当時の賑わいを物語っている。
また、関宿には「西の追分」があり、大和街道と東海道が交差していた。東海道・伊勢別街道・大和街道を利用する人々がすべてこの「関宿」を通行していたことになる。おそらく「日本一旅人の多い宿場町」だったにちがいない。
交通の要衝として繁盛したことを、「西の追分」から「東の追分」まで歩いてみたからこそ実感できた。ほんとうにすごい町並みだ!
野村一里塚(関宿と亀山宿との間)この木の名前を言える人は樹木博士かも? 幹だけで木が分かる人は少ない。それもこの写真一枚で、当てる人はすごい!
さて、何の木でしょうか? 樹齢400年の大木です。東海道の一里塚設置当時の木々は枯れてしまって、新たに植えられた木が多いのだが、これは江戸時代当時のままらしい。(国史跡)
*答えは最後の写真下に書いておきます。正解だった人は、すごい!
亀山宿 東海道などの街道に面した家の造りの特徴は「格子造り」と「二重の廂(ひさし)」。その二重の廂の間隔は狭い。街道を通る大名を見下さぬ配慮とのこと。江戸時代ならではの配慮である。(現代の家はそんな配慮はしない。下を通る人を見下ろしている。)
その狭い間隔のところに、虫籠窓(むしこまど)があると(私は足を止めて)見とれてしまう。この家の窓は菱形だったので、「おやっ」と感激。写真に撮っておいた。
亀山宿には写真のような木のプレート(どの家もほぼ同じサイズ・同じ字体だったので、美しかった)がどの家にもかけられていて、「東海道の宿場だったのだ」と強く実感できた。関宿同様に、亀山宿も住民みんな力を合わせて「東海道」を大切にしているんだ、と思った。
従是東(漢文調の読みで、「これよりひがし」)神戸(かんべ)領=神戸藩の領地。
領地の境界を示している標柱。こういう標柱は街道を歩いていると時々目にする。
庄野宿の町並みには古い家はあまりなかった。
東海道とはいえ、辺鄙な道だった。家は見当たらない。田畑が広大だった。
石薬師宿の一里塚。植えられていた木は榎(えのき)。一里塚に植えられる木は、榎が一般的らしい。
欅(けやき)と似ている木で、(葉っぱがないときは)ぱっと見た感じでは区別がつかない。
京都三条大橋からの歩き旅、石薬師宿に至り、10宿通過したことになる。もうすぐ四日市宿だ。残り、43宿通過達成に向けて、がんばろう!
石薬師寺(石薬師密寺)という寺があった。
*正解=椋(むく) 椋の一里塚は全国でもここだけとのことです。ものすごい巨木で、「野村一里塚」という標柱を一緒の入れて写すと、木が入りきらなかった。椋の木の葉っぱを見たことがないので、別の機会に、葉の茂る「椋」を見てみたいと思った。
樹齢400年の椋の巨木から、すごいパワーをいただきました。おかげで、長生きできるかも!?
JR堺市駅5時45分発の列車で出かけたのだが、すでに列車内に空席はなかった。
「こんなに早くから、列車を利用する人が多いのだ・・・」と驚いた。夏の早朝に畑へ行く時は始発(5時26分)に乗ったりしていたが、(早朝に)天王寺方面行きの列車に乗るのは久しぶりであった。
「早朝から、皆さん、お仕事ご苦労様です。」
私は、気楽な歩き旅のために列車を利用しています。青春18切符利用です。
今日は関宿からスタートしました。
関宿 → 亀山宿 → 庄野宿 → 石薬師宿 石薬師宿の途中で(本日の)歩き旅を終え、JR「河曲(かわの)」駅を目指した。そして、18切符利用で帰宅した。(次回は石薬師宿からスタートすることになる。)
本日の万歩計の歩数(家から家まで)は、37671歩でした。歩行距離は約22.6キロ。
地図から計算しても22キロほどの行程だった。本日の「歩き旅の距離(テキストによるデータ)」は万歩計のデータとほぼ同じだった。私の1歩=60cmは、ほぼ正しいことになる。
(一日に)20キロ以上を久しぶりに歩いたので、疲れました。
(前回⑥回目は12月25日でした)今回の歩き旅、久しぶりだったので足腰を痛めたかも? 明日が心配。今日は何とか・・・少しだけの痛みだが・・・。明日、明後日は?
ゆっくり風呂に入って、筋肉をほぐしてから寝ることにしよう。
関宿の東の端=「東の追分」
左の鳥居をくぐる道は、伊勢への道(伊勢別街道)。京を目指す、江戸から来た旅人は正面の道(東海道)を行くことになる。正面の山が鈴鹿山脈。
江戸時代、関には「鈴鹿の関」が置かれていた。旅人は難関の「鈴鹿越え」に備え、関宿で宿泊した。関宿の町並みはその当時の賑わいを物語っている。
また、関宿には「西の追分」があり、大和街道と東海道が交差していた。東海道・伊勢別街道・大和街道を利用する人々がすべてこの「関宿」を通行していたことになる。おそらく「日本一旅人の多い宿場町」だったにちがいない。
交通の要衝として繁盛したことを、「西の追分」から「東の追分」まで歩いてみたからこそ実感できた。ほんとうにすごい町並みだ!
野村一里塚(関宿と亀山宿との間)この木の名前を言える人は樹木博士かも? 幹だけで木が分かる人は少ない。それもこの写真一枚で、当てる人はすごい!
さて、何の木でしょうか? 樹齢400年の大木です。東海道の一里塚設置当時の木々は枯れてしまって、新たに植えられた木が多いのだが、これは江戸時代当時のままらしい。(国史跡)
*答えは最後の写真下に書いておきます。正解だった人は、すごい!
亀山宿 東海道などの街道に面した家の造りの特徴は「格子造り」と「二重の廂(ひさし)」。その二重の廂の間隔は狭い。街道を通る大名を見下さぬ配慮とのこと。江戸時代ならではの配慮である。(現代の家はそんな配慮はしない。下を通る人を見下ろしている。)
その狭い間隔のところに、虫籠窓(むしこまど)があると(私は足を止めて)見とれてしまう。この家の窓は菱形だったので、「おやっ」と感激。写真に撮っておいた。
亀山宿には写真のような木のプレート(どの家もほぼ同じサイズ・同じ字体だったので、美しかった)がどの家にもかけられていて、「東海道の宿場だったのだ」と強く実感できた。関宿同様に、亀山宿も住民みんな力を合わせて「東海道」を大切にしているんだ、と思った。
従是東(漢文調の読みで、「これよりひがし」)神戸(かんべ)領=神戸藩の領地。
領地の境界を示している標柱。こういう標柱は街道を歩いていると時々目にする。
庄野宿の町並みには古い家はあまりなかった。
東海道とはいえ、辺鄙な道だった。家は見当たらない。田畑が広大だった。
石薬師宿の一里塚。植えられていた木は榎(えのき)。一里塚に植えられる木は、榎が一般的らしい。
欅(けやき)と似ている木で、(葉っぱがないときは)ぱっと見た感じでは区別がつかない。
京都三条大橋からの歩き旅、石薬師宿に至り、10宿通過したことになる。もうすぐ四日市宿だ。残り、43宿通過達成に向けて、がんばろう!
石薬師寺(石薬師密寺)という寺があった。
*正解=椋(むく) 椋の一里塚は全国でもここだけとのことです。ものすごい巨木で、「野村一里塚」という標柱を一緒の入れて写すと、木が入りきらなかった。椋の木の葉っぱを見たことがないので、別の機会に、葉の茂る「椋」を見てみたいと思った。
樹齢400年の椋の巨木から、すごいパワーをいただきました。おかげで、長生きできるかも!?
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