2022/1/10
「古墳巡り」 古代への好奇心
先日、三重県と愛知県の古墳巡りをしてきた。
大阪府にもオミクロン株がどんどん広がるだろうと考えられる状況から予測して、(成人式が終わると)爆発的に感染が広がるように思われた。
「古墳巡りをするのは、一人だけで、今だ!」と判断し、どなたにも声をかけずに、古墳巡りをしてきた。
三重県で一番大きい「御墓山古墳(みはかやまこふん)」を見学してから、愛知県で一番大きい「断夫山古墳(だんぷやまこふん)」を見学してきた。
どちらの古墳も天皇の墓ではなかったので、登っていくことができた。
真冬に古墳巡りをする人はいなかった。一人だったので、「3密」になることはなかった。
あまり有名ではない古墳(私の場合、Tさんから教えていただいた古墳だった)を巡るのは、(コロナ感染対策として)安全な場所だろうと思ったので、出かけたのだった。
予想したとおり、古墳巡りで「出会った人」は誰もいなかった。
たぶん、爆発的感染力のあるオミクロン株にも感染していないだろう。電車内では、2重のマスクをして、感染対策もしていたから。(行きの関西本線は空いていたし、名古屋からの帰りの東海道本線も空いていた。)
以下、写真でどんな古墳だったかを紹介します。
関西本線・佐那具駅(単線区間で列車は2両だった。)駅は出入り自由で無人駅に近かった。駅舎に駅員はいるようだが…。この日、降りたのは私一人だった。
この駅で下車して、徒歩で約12分ほどのところに御墓山古墳があった。
古墳に入っていくところに、古墳の説明板があった。
古墳の長さは180mで、高さは14mだった。
三重県で一番大きな古墳とのことだった。
登っていくとすぐに史跡標柱があった。
前方後円墳 後円部頂上部の様子
真ん中がくぼんでいたので、たぶん盗掘された跡だろう
横から写した御墓山古墳の様子(大きすぎてカメラに入らない。)
(愛知県名古屋市熱田公園内)断夫山古墳の説明板
古墳は大きすぎて、全景を写すことはできなかった。
断夫山古墳の登り口、下山口(入下山口)
立ち入り禁止ではなかったので、登っていくことにした。
ロープを越えると、すぐに坂道だった。古墳の後円部から入山することができた。
後円部頂上部の様子(大きな古墳の割には、意外に低いところだと思った。)
前方部への道があったので、そこへ行ったところ、前方部の方が高い位置にあった。
一般的に前方後円墳の場合、後円部が一番高い場所なので、意外だった。
(へぇー、前方部の方が高い「前方後円墳」もあるのだなあ!)
説明板によると、長さが151mで、
前方部の高さ=16.2m 後円部の高さ=13m だった。
断夫山古墳 前方部(周濠には水はなかった。造られた当時はあったようだが。
大阪府にもオミクロン株がどんどん広がるだろうと考えられる状況から予測して、(成人式が終わると)爆発的に感染が広がるように思われた。
「古墳巡りをするのは、一人だけで、今だ!」と判断し、どなたにも声をかけずに、古墳巡りをしてきた。
三重県で一番大きい「御墓山古墳(みはかやまこふん)」を見学してから、愛知県で一番大きい「断夫山古墳(だんぷやまこふん)」を見学してきた。
どちらの古墳も天皇の墓ではなかったので、登っていくことができた。
真冬に古墳巡りをする人はいなかった。一人だったので、「3密」になることはなかった。
あまり有名ではない古墳(私の場合、Tさんから教えていただいた古墳だった)を巡るのは、(コロナ感染対策として)安全な場所だろうと思ったので、出かけたのだった。
予想したとおり、古墳巡りで「出会った人」は誰もいなかった。
たぶん、爆発的感染力のあるオミクロン株にも感染していないだろう。電車内では、2重のマスクをして、感染対策もしていたから。(行きの関西本線は空いていたし、名古屋からの帰りの東海道本線も空いていた。)
以下、写真でどんな古墳だったかを紹介します。
関西本線・佐那具駅(単線区間で列車は2両だった。)駅は出入り自由で無人駅に近かった。駅舎に駅員はいるようだが…。この日、降りたのは私一人だった。
この駅で下車して、徒歩で約12分ほどのところに御墓山古墳があった。
古墳に入っていくところに、古墳の説明板があった。
古墳の長さは180mで、高さは14mだった。
三重県で一番大きな古墳とのことだった。
登っていくとすぐに史跡標柱があった。
前方後円墳 後円部頂上部の様子
真ん中がくぼんでいたので、たぶん盗掘された跡だろう
横から写した御墓山古墳の様子(大きすぎてカメラに入らない。)
(愛知県名古屋市熱田公園内)断夫山古墳の説明板
古墳は大きすぎて、全景を写すことはできなかった。
断夫山古墳の登り口、下山口(入下山口)
立ち入り禁止ではなかったので、登っていくことにした。
ロープを越えると、すぐに坂道だった。古墳の後円部から入山することができた。
後円部頂上部の様子(大きな古墳の割には、意外に低いところだと思った。)
前方部への道があったので、そこへ行ったところ、前方部の方が高い位置にあった。
一般的に前方後円墳の場合、後円部が一番高い場所なので、意外だった。
(へぇー、前方部の方が高い「前方後円墳」もあるのだなあ!)
説明板によると、長さが151mで、
前方部の高さ=16.2m 後円部の高さ=13m だった。
断夫山古墳 前方部(周濠には水はなかった。造られた当時はあったようだが。
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2021/12/20
「千種川と「渡来人・秦氏」その2」 古代への好奇心
千種川の源流は中国山地。中国山地を源流とする川は多い。兵庫県には、千種川以外の主な川として、東側から武庫川・加古川・市川・揖保川があり、一番岡山県に近いのが、千種川である。大きな川は川船による水運もよく、川に沿って、大きな町が栄えてきた。
千種川で栄えた町として、佐用町などがある。中国山地にある江浪峠付近が源流になるということである。江浪峠のすぐ近くに、「三国平」(標高1128m)というところがあり、鳥取県・岡山県・兵庫県の3つの国の境になっているらしい。
千種川の源流を越えて、鳥取県側に向かうと千代川(上流)が流れている。千代川に沿って栄えた町が、智頭町である。智頭町は因幡街道の宿場町として栄えたところである。江戸時代、参勤交代の時の宿場としてにぎわったところでもある。
現代は、鳥取と(兵庫県)上郡を結ぶ「智頭急行」が走っている。上郡は千種川沿いの町で、智頭町は千代川沿いの町である。
古代の移動ルートは主に川だったと考えられる。日本海側の大きな川の近くに住み着いた渡来人たち(その一部)は、おそらく暖かい気候で晴れの日が多い山陽地方などへ移動したことだろう。一部の渡来人は、千代川を利用して南を目指し、中国山地を越え、(岡山県の)吉井川や(兵庫県の)千種川を利用して(中流域の)上郡や有年の地にやってきたのかもしれない。さらに下流域に移動した人は、瀬戸内海に面した「坂越(さこし)」一帯に住み着いたと考えられる。(私個人が、地図を見ながら考えたことだが・・・外れているかな?)
坂越の港は北前船で栄えたところである。その坂越の海には、すぐ近くに小さな島があり、1年に一度のお祭りの時以外は上陸してはいけない、禁断の島。この島に、渡来人・秦氏の族長的人物である秦河勝(はたかわかつ)の墓があるようだ。
Tさんから送っていただいた資料 「秦氏伝説」によると、
【秦河勝は、太子死後、蘇我入鹿の迫害を避けるため皇極天皇3年(644年)に、坂越に移り、千種川流域の開拓を進めた。
秦河勝は大化3年(647年)に死去したが、その霊を祀る大避神社(大酒神社とも記す・おおさけじんじゃ)が地元に創建された。 】
とのことである。
大酒神社は秦氏の氏神である。京都市太秦にある大酒神社をはじめ、赤穂郡に大避神社のほかにも秦氏を祀る神社が多数あるようで、合計28社もあるとのこと。
「秦の始皇帝」の一族が、秦の滅亡によって、中国から逃避したようだ。中国の歴史は、一つの王朝が滅ぶと、その一族は皆殺しされてきた。ゆえに、一部は朝鮮半島へ逃げ、さらにその一部は、極東にある最果ての島=倭国へ逃げたのであろう。
倭国は、逃げ延びた人々にとって、平和な地であったようだ。見つけられると殺される中国大陸から(追手の来ることのない)安住の地を目指した「秦の始皇帝の一族および仲間たち」。その一部の人たちは、倭国(大和朝廷の権力者から氏を与えられ)において、「秦と名乗ってよい」と許可されたと考えられる。それほどに、渡来人の人々(特に秦氏一族)は、優秀な人が多かったに違いない。天皇の補佐役をするほどの役職についている人もでている。
「歴史人口学」という学問によると、弥生時代後期になると、少なくとも150万人以上の渡来者が日本列島に移住していることになるようだ。突如として、150万人以上の渡来人が日本にやってきたと考えられるそうだ。その中でも秦氏系の人々は数万から数十万人の規模でに達していたと予測されている。
ある資料には、
【 中国の圧政下から逃れて朝鮮半島に移住した秦氏が、ある時を境に新天地を目指して日本に渡り始め、その後においても、秦氏に限らず、大勢の渡来者が継続して日本列島を訪れたのです。】 と書かれている。たぶん、その推理は当たっているであろう。
渡来人がもたらした先進の文化は多い。なんといっても、鉄に関する技術(製鉄や鉄加工術)・漢字の文化・醸造・灌漑技術など。これらが渡来人によって日本にもたらされてから、日本は激変期・発展期に入っている。
鉄の農機具は穀物生産量の増加をもたらした。鉄の兵器は、戦争の仕方を変えた。鉄を制する者が日本という国を治める原動力になっていった。大和朝廷が「鉄」を制したからであった。
「秦氏」以外にも、渡来人たちは何らかの名を名乗ったであろうが、(私は詳しいことは知らないし)よくわからないのだが・・・。秦氏の末裔の方々は、現代日本の各地におられ、活躍中であることは事実である。
日本海ルートで日本にやってきた渡来人は多いだろう。
九州や山口県・島根県・鳥取県・兵庫県・京都府・福井県・石川県などの日本海沿岸部に住み着いた渡来人たち。渡来人は朝鮮半島や中国大陸から、為政者が変わるたびに(国が滅ぼされるたびに)殺される前に逃げ出してきた。それらの人々は、継続的に日本にやってきたのであろう。
古事記や日本書紀など、古代の神話的な世界において、川に関係する話がいろいろあるようだ。
島根県の斐伊川は「八岐大蛇」伝説と関係が深い。斐伊川の源流部は「船通山」という変わった名の山である。「船が通う山」って? 興味津々の山。
また、鳥取県米子には日野川という大きな川が流れている。この川の中流部には、日本最古の「鬼」伝説がある。そして、この川の源流部の近くには、岡山県側の高梁川(上流部)が流れている。高梁川が流れる岡山県総社市の山手に「鬼ノ城」という「鬼」にまつわる箇所がある。鉄と関係ある地で、「鬼=渡来人」と推定できる伝説もある。
鬼の名を「温羅(うら)」といい、岡山市民は「うらじゃー」という掛け声を出して踊る祭りを楽しんでいる。「温羅じゃー(じゃー=です)岡山方言らしい」と鬼(渡来人)を親しく思い評価している(鬼の衣装や顔つきをメイクして踊る)夏祭りになっている。
JR岡山駅の東改札口前に桃太郎像が設置されているが、西改札口前には、温羅像が設置されている。近年、設置された温羅像。顔や肌の色は「渡来人」の雰囲気がよく出ている。日本人の顔とは少し違っている。岡山駅へ行く機会があれば、温羅像もご覧になってください。桃太郎像よりも、温羅像の方がリアルですよ。上半身裸で、鉄加工をしている姿のようです。渡来人が鉄をもたらしたイメージの像ですね。(私の感想ですが…)
岡山県吉備地方の古代の発展は、渡来人の影響が大きい。特に渡来人は、鉄加工に関する文化を伝えたようだ。吉備は大和政権の軍門に下った。吉備には素晴らしい「鉄文化」があった。だから、大和政権は吉備の「鉄」を手に入れたかったに違いない。
「鉄を制する者が天下を制する」時代が、弥生時代後期並びに古墳時代だったから。
鉄に関する文化はまさに渡来人がもたらしてくれた。
弥生時代から古墳時代にかけて、渡来人が果たした役割は大きい。
有年周辺「歴史ウォーク」をしてみて、千種川と渡来人は関係が深いだろうなあ、と感じた。
秦氏以前の渡来人が千種川を利用して、日本海側からやってきたであろうと、勝手に想像している。(だから、京都の秦氏は坂越の地に来たのではないだろうか…と)
兵庫県の「有年」には千種川が流れている。縄文時代・弥生時代・古墳時代など・・・あらゆる時代の遺跡が残っている地域だった。千種川があることによって、古代から栄えてきた地であることが、発掘によってわかってきたようだ。
発掘された遺物の一部分に、「秦」と読める陶器(?)の破片もあった。赤穂市立有年考古館の展示物を目の前にして、(Tさんに教えてもらって、私も確認できた)「秦」と読める字が書かれた遺物に、ひそかに感動したのだった。
渡来人の一部の人たち(秦氏およびその他の渡来人)は、播磨地方や吉備地方にやってきていたに違いない。
そんなことを考えた今回の歴史ウォークでした.
(うまくまとめられませんでしたが、今回はここまでとします。最後まで読んでいただき、ありがとうございました。)
JR岡山駅 西改札口近くの 「温羅像」
温羅像の説明
山陰地方は 日本古来の「製鉄(たたら製鉄)」発祥地
鬼ノ城 門が再現されている。
門に掛けられている看板の絵文字(?)は、不思議な字だった。
伯備線の駅 伯耆溝口駅(近くに鬼伝説の地がある。)
壁面に掲げられているのは「鬼」のようだった。
駅のホーム(列車内から撮影)
千種川で栄えた町として、佐用町などがある。中国山地にある江浪峠付近が源流になるということである。江浪峠のすぐ近くに、「三国平」(標高1128m)というところがあり、鳥取県・岡山県・兵庫県の3つの国の境になっているらしい。
千種川の源流を越えて、鳥取県側に向かうと千代川(上流)が流れている。千代川に沿って栄えた町が、智頭町である。智頭町は因幡街道の宿場町として栄えたところである。江戸時代、参勤交代の時の宿場としてにぎわったところでもある。
現代は、鳥取と(兵庫県)上郡を結ぶ「智頭急行」が走っている。上郡は千種川沿いの町で、智頭町は千代川沿いの町である。
古代の移動ルートは主に川だったと考えられる。日本海側の大きな川の近くに住み着いた渡来人たち(その一部)は、おそらく暖かい気候で晴れの日が多い山陽地方などへ移動したことだろう。一部の渡来人は、千代川を利用して南を目指し、中国山地を越え、(岡山県の)吉井川や(兵庫県の)千種川を利用して(中流域の)上郡や有年の地にやってきたのかもしれない。さらに下流域に移動した人は、瀬戸内海に面した「坂越(さこし)」一帯に住み着いたと考えられる。(私個人が、地図を見ながら考えたことだが・・・外れているかな?)
坂越の港は北前船で栄えたところである。その坂越の海には、すぐ近くに小さな島があり、1年に一度のお祭りの時以外は上陸してはいけない、禁断の島。この島に、渡来人・秦氏の族長的人物である秦河勝(はたかわかつ)の墓があるようだ。
Tさんから送っていただいた資料 「秦氏伝説」によると、
【秦河勝は、太子死後、蘇我入鹿の迫害を避けるため皇極天皇3年(644年)に、坂越に移り、千種川流域の開拓を進めた。
秦河勝は大化3年(647年)に死去したが、その霊を祀る大避神社(大酒神社とも記す・おおさけじんじゃ)が地元に創建された。 】
とのことである。
大酒神社は秦氏の氏神である。京都市太秦にある大酒神社をはじめ、赤穂郡に大避神社のほかにも秦氏を祀る神社が多数あるようで、合計28社もあるとのこと。
「秦の始皇帝」の一族が、秦の滅亡によって、中国から逃避したようだ。中国の歴史は、一つの王朝が滅ぶと、その一族は皆殺しされてきた。ゆえに、一部は朝鮮半島へ逃げ、さらにその一部は、極東にある最果ての島=倭国へ逃げたのであろう。
倭国は、逃げ延びた人々にとって、平和な地であったようだ。見つけられると殺される中国大陸から(追手の来ることのない)安住の地を目指した「秦の始皇帝の一族および仲間たち」。その一部の人たちは、倭国(大和朝廷の権力者から氏を与えられ)において、「秦と名乗ってよい」と許可されたと考えられる。それほどに、渡来人の人々(特に秦氏一族)は、優秀な人が多かったに違いない。天皇の補佐役をするほどの役職についている人もでている。
「歴史人口学」という学問によると、弥生時代後期になると、少なくとも150万人以上の渡来者が日本列島に移住していることになるようだ。突如として、150万人以上の渡来人が日本にやってきたと考えられるそうだ。その中でも秦氏系の人々は数万から数十万人の規模でに達していたと予測されている。
ある資料には、
【 中国の圧政下から逃れて朝鮮半島に移住した秦氏が、ある時を境に新天地を目指して日本に渡り始め、その後においても、秦氏に限らず、大勢の渡来者が継続して日本列島を訪れたのです。】 と書かれている。たぶん、その推理は当たっているであろう。
渡来人がもたらした先進の文化は多い。なんといっても、鉄に関する技術(製鉄や鉄加工術)・漢字の文化・醸造・灌漑技術など。これらが渡来人によって日本にもたらされてから、日本は激変期・発展期に入っている。
鉄の農機具は穀物生産量の増加をもたらした。鉄の兵器は、戦争の仕方を変えた。鉄を制する者が日本という国を治める原動力になっていった。大和朝廷が「鉄」を制したからであった。
「秦氏」以外にも、渡来人たちは何らかの名を名乗ったであろうが、(私は詳しいことは知らないし)よくわからないのだが・・・。秦氏の末裔の方々は、現代日本の各地におられ、活躍中であることは事実である。
日本海ルートで日本にやってきた渡来人は多いだろう。
九州や山口県・島根県・鳥取県・兵庫県・京都府・福井県・石川県などの日本海沿岸部に住み着いた渡来人たち。渡来人は朝鮮半島や中国大陸から、為政者が変わるたびに(国が滅ぼされるたびに)殺される前に逃げ出してきた。それらの人々は、継続的に日本にやってきたのであろう。
古事記や日本書紀など、古代の神話的な世界において、川に関係する話がいろいろあるようだ。
島根県の斐伊川は「八岐大蛇」伝説と関係が深い。斐伊川の源流部は「船通山」という変わった名の山である。「船が通う山」って? 興味津々の山。
また、鳥取県米子には日野川という大きな川が流れている。この川の中流部には、日本最古の「鬼」伝説がある。そして、この川の源流部の近くには、岡山県側の高梁川(上流部)が流れている。高梁川が流れる岡山県総社市の山手に「鬼ノ城」という「鬼」にまつわる箇所がある。鉄と関係ある地で、「鬼=渡来人」と推定できる伝説もある。
鬼の名を「温羅(うら)」といい、岡山市民は「うらじゃー」という掛け声を出して踊る祭りを楽しんでいる。「温羅じゃー(じゃー=です)岡山方言らしい」と鬼(渡来人)を親しく思い評価している(鬼の衣装や顔つきをメイクして踊る)夏祭りになっている。
JR岡山駅の東改札口前に桃太郎像が設置されているが、西改札口前には、温羅像が設置されている。近年、設置された温羅像。顔や肌の色は「渡来人」の雰囲気がよく出ている。日本人の顔とは少し違っている。岡山駅へ行く機会があれば、温羅像もご覧になってください。桃太郎像よりも、温羅像の方がリアルですよ。上半身裸で、鉄加工をしている姿のようです。渡来人が鉄をもたらしたイメージの像ですね。(私の感想ですが…)
岡山県吉備地方の古代の発展は、渡来人の影響が大きい。特に渡来人は、鉄加工に関する文化を伝えたようだ。吉備は大和政権の軍門に下った。吉備には素晴らしい「鉄文化」があった。だから、大和政権は吉備の「鉄」を手に入れたかったに違いない。
「鉄を制する者が天下を制する」時代が、弥生時代後期並びに古墳時代だったから。
鉄に関する文化はまさに渡来人がもたらしてくれた。
弥生時代から古墳時代にかけて、渡来人が果たした役割は大きい。
有年周辺「歴史ウォーク」をしてみて、千種川と渡来人は関係が深いだろうなあ、と感じた。
秦氏以前の渡来人が千種川を利用して、日本海側からやってきたであろうと、勝手に想像している。(だから、京都の秦氏は坂越の地に来たのではないだろうか…と)
兵庫県の「有年」には千種川が流れている。縄文時代・弥生時代・古墳時代など・・・あらゆる時代の遺跡が残っている地域だった。千種川があることによって、古代から栄えてきた地であることが、発掘によってわかってきたようだ。
発掘された遺物の一部分に、「秦」と読める陶器(?)の破片もあった。赤穂市立有年考古館の展示物を目の前にして、(Tさんに教えてもらって、私も確認できた)「秦」と読める字が書かれた遺物に、ひそかに感動したのだった。
渡来人の一部の人たち(秦氏およびその他の渡来人)は、播磨地方や吉備地方にやってきていたに違いない。
そんなことを考えた今回の歴史ウォークでした.
(うまくまとめられませんでしたが、今回はここまでとします。最後まで読んでいただき、ありがとうございました。)
JR岡山駅 西改札口近くの 「温羅像」
温羅像の説明
山陰地方は 日本古来の「製鉄(たたら製鉄)」発祥地
鬼ノ城 門が再現されている。
門に掛けられている看板の絵文字(?)は、不思議な字だった。
伯備線の駅 伯耆溝口駅(近くに鬼伝説の地がある。)
壁面に掲げられているのは「鬼」のようだった。
駅のホーム(列車内から撮影)
<form action="https://gold.ap.teacup.com/applet/keke7761/1499/clap" method="POST"><input type="submit" value="拍手" /></form> 2
2021/12/13
「千種川と「渡来人・秦氏」その1」 古代への好奇心
(前回のブログの続きです。)
千種川と「渡来人・秦氏」とが、何らかの関わりがあるかどうかについて、日本地図をしっかり見ながら、私なりに考えてみたこと。
弥生時代の後期になると、朝鮮半島や中国大陸から文化が伝わってきた。邪馬台国の時代(3世紀ころ)には、日本から朝鮮半島へ渡るルートが確立していったようだ。しかし、外洋を移動するには、それに適した船が必要であり、航海ルートおよび航海術が必要になる。
邪馬台国の卑弥呼は航海に適した季節・時季を占う第一人者だったと思われる。弥生時代後期のころ、(日本が「倭」と呼ばれていた時代)、航海のルートは日本海が中心ルートだった。渡来人がやってきた航海ルートも日本海ルートだったと考えられる。
中国大陸や朝鮮半島からやってきた渡来人の多くも、日本海ルートを利用して渡ってきたと推定される。証拠もいろいろ見つかっている。
弥生時代の遺跡が発見されるのは、日本海側に多い。例としてあげると、山口県「土井ヶ浜遺跡」・島根県「西谷古墳群」「荒神谷遺跡」「加茂岩倉遺跡」・鳥取県「妻木晩田遺跡」「青谷上寺地遺跡」・・・と、有名な遺跡や古墳をあげてみたが、すべて日本海ルートと関係が深い位置にある。
島根半島は現代は「半島」だが、古代においては「島」だった。出雲大社の位置は、日本海ルートにおいて、対馬海流がぶつかる重要な島の(西の)先端部に位置していたことになる。
(古代において)渡来人の多くは、朝鮮半島南部から、対馬へ。そして、対馬から(沖ノ島を経由して)福岡県や山口県を目指したことであろう。対馬海流の流れに乗れば、早く安全に日本に到達することができたに違いない。
現代において、北朝鮮からの脱出民が乗った漁船や難破船が漂流・到着するルートも古代と変わりないルートである。
朝鮮半島東側の海域からリマン海流に乗って南下し、対馬気流の流れる位置まで南下したら、対馬気流の流れに乗って、島根半島・丹後半島・能登半島にたどり着くことになる。さらに、延々と漂流し続けた難破船は、北海道にたどり着く場合もあるほどだ。(最近は、北朝鮮からの難破船漂着のニュースは減ったが…)
古代においても、リマン海流や対馬海流は流れていたし、流れる方向も変わっていない。
古代においての渡来人がやってきた航海のルートと、弥生時代の遺跡の位置とは大いに関係があることを示している。
日本海側の沿岸部近辺で、土着の日本人と渡来人とが交流することによって、文化が発展していったと考えられる。
渡来人が時代とともに次から次へと、やってきたに違いない。弥生時代後期にはものすごい数の渡来人がやってきたらしい。(人口増に関する学問のデータあり)。
古墳時代になり、やってきた渡来人一族の代表的存在が、「秦氏」だったと予想できる。
渡来人に「秦」という氏を与えたのは、応神天皇(15代天皇)という説がある。応神天皇が活躍した場所は、日本海周辺である。若狭湾の敦賀を中心とした「日本海ルート」を仕切っていた。敦賀が日本の中心地だった時代(丹後王国の次の時代=敦賀王国時代)がある。(そういう説がる。)
敦賀周辺の主な神社は応神天皇などを祭っているのが証拠でもある。敦賀の(越前国一之宮の)気比神宮の祭神(6柱祭られている中の1柱)は、応神天皇である。
応神天皇はおそらく、渡来人たちをまとめる立場だったのかもしれない。
弥生時代にやってきた渡来人たちは、まだ大和朝廷との関係はなかったであろう。
渡来人は時代とともにどんどん日本にやってきたと予想できる。
古代にやってきた渡来人たちは「鬼」扱いされている場合がある。「赤鬼」のあの赤さは、日本人からは想像できない「異質な人々」だったに違いない。
古墳時代にやってきた渡来人は「鬼」扱いではなく、大切な扱いをされたと考えられる。「秦」という姓は、今日の日本に根付き、大和朝廷との関係を深め、重要な役職にもつき、活躍していった人々だろうと考えられる。
京都に太秦という地名がある。天皇の住まい(平安時代の皇居)の近くで、重要な役割を果たした秦一族の存在を思い浮かべることができる地名である。(と、私は認識しているが・・・? )
(この続きは、次のブログ「その2」へ記述予定です。)
(山口県日本海側) 土井ヶ浜遺跡 入口モニュメント
砂浜に埋もれていた人骨群(レプリカ)や人骨を囲んでいた石
300体の人骨が発見された埋葬遺跡 日本で最大数の人骨が溶けて消失することなく発掘された遺跡(弥生時代の人骨との鑑定)
(島根県・四隅突出型古墳群)
西谷古墳群(大和朝廷時代よりも古い古墳)
四隅がヒトデのように伸びている形 説明板の写真から想像してください。
(島根県)荒神谷遺跡 銅剣(日本最大級の数)や銅鐸が発見されたところ
実物は出雲大社横の博物館に展示・保管
(島根県)加茂岩倉遺跡 かなりの数の銅鐸が発見された場所
(この地の銅鐸はレプリカで、実物は上記博物館に)
(鳥取県)妻木晩田遺跡 少し高台の位置だが、日本海を見渡せる位置
住居跡に建物群が、復元されていた。
ここの古墳も四隅突出型である。大小たくさんの古墳も発見されている。
* 今回、写真を省略したが、(鳥取県)青谷上寺地遺跡から発掘された弥生時代の遺物の価値は、考古学上最大級のものが多い。とにかく「日本海沿岸部」は発掘しきれずに、古代を語る遺物が発見されずに眠っているようだ。
道路建設やゴルフ場建設などの際に発見されることがあるようだ。
山陰地方など、古代において「日本の王国」であった地域も、近代化されるにつれて、発掘は太平洋側や瀬戸内海方面に力点が置かれ、山陰地方の遺跡発見は少なくなっていったようだ。
日本海航行ルートの各港=「津」の地名が付いている箇所。 それらの近くに遺跡がまだまだある気がしている。
大和地方や太平洋側地域以外の地でも、遺跡発見・発掘のニュースが飛び込んでくる時を待ちたい。石川県や福井県にも注目している。日本産のヒスイを中国大陸に向けて輸出したルートと卑弥呼との関係にも注目している私。
全く個人的な勝手な想像に過ぎないが・・・古代を想像することは楽しい。
千種川と「渡来人・秦氏」とが、何らかの関わりがあるかどうかについて、日本地図をしっかり見ながら、私なりに考えてみたこと。
弥生時代の後期になると、朝鮮半島や中国大陸から文化が伝わってきた。邪馬台国の時代(3世紀ころ)には、日本から朝鮮半島へ渡るルートが確立していったようだ。しかし、外洋を移動するには、それに適した船が必要であり、航海ルートおよび航海術が必要になる。
邪馬台国の卑弥呼は航海に適した季節・時季を占う第一人者だったと思われる。弥生時代後期のころ、(日本が「倭」と呼ばれていた時代)、航海のルートは日本海が中心ルートだった。渡来人がやってきた航海ルートも日本海ルートだったと考えられる。
中国大陸や朝鮮半島からやってきた渡来人の多くも、日本海ルートを利用して渡ってきたと推定される。証拠もいろいろ見つかっている。
弥生時代の遺跡が発見されるのは、日本海側に多い。例としてあげると、山口県「土井ヶ浜遺跡」・島根県「西谷古墳群」「荒神谷遺跡」「加茂岩倉遺跡」・鳥取県「妻木晩田遺跡」「青谷上寺地遺跡」・・・と、有名な遺跡や古墳をあげてみたが、すべて日本海ルートと関係が深い位置にある。
島根半島は現代は「半島」だが、古代においては「島」だった。出雲大社の位置は、日本海ルートにおいて、対馬海流がぶつかる重要な島の(西の)先端部に位置していたことになる。
(古代において)渡来人の多くは、朝鮮半島南部から、対馬へ。そして、対馬から(沖ノ島を経由して)福岡県や山口県を目指したことであろう。対馬海流の流れに乗れば、早く安全に日本に到達することができたに違いない。
現代において、北朝鮮からの脱出民が乗った漁船や難破船が漂流・到着するルートも古代と変わりないルートである。
朝鮮半島東側の海域からリマン海流に乗って南下し、対馬気流の流れる位置まで南下したら、対馬気流の流れに乗って、島根半島・丹後半島・能登半島にたどり着くことになる。さらに、延々と漂流し続けた難破船は、北海道にたどり着く場合もあるほどだ。(最近は、北朝鮮からの難破船漂着のニュースは減ったが…)
古代においても、リマン海流や対馬海流は流れていたし、流れる方向も変わっていない。
古代においての渡来人がやってきた航海のルートと、弥生時代の遺跡の位置とは大いに関係があることを示している。
日本海側の沿岸部近辺で、土着の日本人と渡来人とが交流することによって、文化が発展していったと考えられる。
渡来人が時代とともに次から次へと、やってきたに違いない。弥生時代後期にはものすごい数の渡来人がやってきたらしい。(人口増に関する学問のデータあり)。
古墳時代になり、やってきた渡来人一族の代表的存在が、「秦氏」だったと予想できる。
渡来人に「秦」という氏を与えたのは、応神天皇(15代天皇)という説がある。応神天皇が活躍した場所は、日本海周辺である。若狭湾の敦賀を中心とした「日本海ルート」を仕切っていた。敦賀が日本の中心地だった時代(丹後王国の次の時代=敦賀王国時代)がある。(そういう説がる。)
敦賀周辺の主な神社は応神天皇などを祭っているのが証拠でもある。敦賀の(越前国一之宮の)気比神宮の祭神(6柱祭られている中の1柱)は、応神天皇である。
応神天皇はおそらく、渡来人たちをまとめる立場だったのかもしれない。
弥生時代にやってきた渡来人たちは、まだ大和朝廷との関係はなかったであろう。
渡来人は時代とともにどんどん日本にやってきたと予想できる。
古代にやってきた渡来人たちは「鬼」扱いされている場合がある。「赤鬼」のあの赤さは、日本人からは想像できない「異質な人々」だったに違いない。
古墳時代にやってきた渡来人は「鬼」扱いではなく、大切な扱いをされたと考えられる。「秦」という姓は、今日の日本に根付き、大和朝廷との関係を深め、重要な役職にもつき、活躍していった人々だろうと考えられる。
京都に太秦という地名がある。天皇の住まい(平安時代の皇居)の近くで、重要な役割を果たした秦一族の存在を思い浮かべることができる地名である。(と、私は認識しているが・・・? )
(この続きは、次のブログ「その2」へ記述予定です。)
(山口県日本海側) 土井ヶ浜遺跡 入口モニュメント
砂浜に埋もれていた人骨群(レプリカ)や人骨を囲んでいた石
300体の人骨が発見された埋葬遺跡 日本で最大数の人骨が溶けて消失することなく発掘された遺跡(弥生時代の人骨との鑑定)
(島根県・四隅突出型古墳群)
西谷古墳群(大和朝廷時代よりも古い古墳)
四隅がヒトデのように伸びている形 説明板の写真から想像してください。
(島根県)荒神谷遺跡 銅剣(日本最大級の数)や銅鐸が発見されたところ
実物は出雲大社横の博物館に展示・保管
(島根県)加茂岩倉遺跡 かなりの数の銅鐸が発見された場所
(この地の銅鐸はレプリカで、実物は上記博物館に)
(鳥取県)妻木晩田遺跡 少し高台の位置だが、日本海を見渡せる位置
住居跡に建物群が、復元されていた。
ここの古墳も四隅突出型である。大小たくさんの古墳も発見されている。
* 今回、写真を省略したが、(鳥取県)青谷上寺地遺跡から発掘された弥生時代の遺物の価値は、考古学上最大級のものが多い。とにかく「日本海沿岸部」は発掘しきれずに、古代を語る遺物が発見されずに眠っているようだ。
道路建設やゴルフ場建設などの際に発見されることがあるようだ。
山陰地方など、古代において「日本の王国」であった地域も、近代化されるにつれて、発掘は太平洋側や瀬戸内海方面に力点が置かれ、山陰地方の遺跡発見は少なくなっていったようだ。
日本海航行ルートの各港=「津」の地名が付いている箇所。 それらの近くに遺跡がまだまだある気がしている。
大和地方や太平洋側地域以外の地でも、遺跡発見・発掘のニュースが飛び込んでくる時を待ちたい。石川県や福井県にも注目している。日本産のヒスイを中国大陸に向けて輸出したルートと卑弥呼との関係にも注目している私。
全く個人的な勝手な想像に過ぎないが・・・古代を想像することは楽しい。
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2021/12/11
「赤穂市・有年(うね)地区「歴史ウォーク」」 古代への好奇心
赤穂市の北部地域「有年(うね)」という地域の古墳巡りをすることができた。あまり有名ではない地域だが、(実際に歩いてみると)歴史ある立派な古墳群が残されていた。
一年以上前に、古墳に詳しいTさんが「歴史ウォーク」のコースとして計画してくれたのだった。去年の12月に実施するつもりだったが、コロナの影響で、ほぼ1年延期していたのだった。昨日(12月10日)やっと実施できたのだった。天候にも恵まれ、歴史ウォークとして、素晴らしい一日になった。
古墳巡りに関する資料をほぼ一年前から読み込んでいたのだが、一年間、延期している間にすっかり忘れていたことが多かった。
今年の「歴史ウォーク」実施前に追加の資料を、Tさんが送ってくださった。その資料も含めて、すべての資料を再読したうえで、参加したのだった。
昨日の参加者は、6人だった。古墳などに詳しいメンバーばかりで、「知的好奇心旺盛グループ」だった。中心となる人はもちろんTさん。Tさんの影響で、まったく知らなかった遺跡や古墳を知ることになった。今回の「有年」という場所・古墳群を初めて知り、見て回ることができたのも、Tさんたちのおかげである。
有年には、巨大な古墳はなかったが、歴史的に価値のある古墳が、たくさん「あっちにもこっちにもこんもりとしているところ」があるようで、その多くが古墳だった。(日帰り、青春18切符利用という)時間の関係で、すべてを見て回ることはできなかったが、有意義な一日になった。
有年は兵庫県の西端地域だが、岡山県の吉備勢力圏に近い。有年地域に流れている大きな川は千種(ちくさ)川。
この千種川と「渡来人・秦氏」とが、何らかの関わりがあるかどうかについて、日本地図をしっかり見ながら、私なりに考えてみたい。(まったく素人の想像に過ぎない好奇心的考察だが・・・)
(この続きは次のブログへ)
石室に入って見学できた古墳の一つ。 懐中電灯を持って石室内を見学。石室内の高さは背丈よりも高かった。石を上手に組んだ石壁だった。天井部は大きな石だったので、驚いた。「この大きな石をどこからどのようにして運んだのだろうか?」と思いながら見学した。
こちらもこんもりとした古墳。(円墳らしい)このようなこんもりと盛り上がった古墳がたくさんあった。全部は見て回れなかった。
復元古墳のある遺跡公園 古墳に登ることができた。墳頂部に埴輪のレプリカがおかれていた。写真後方の古墳も復元古墳。
あれこれと話し合っている様子
一年以上前に、古墳に詳しいTさんが「歴史ウォーク」のコースとして計画してくれたのだった。去年の12月に実施するつもりだったが、コロナの影響で、ほぼ1年延期していたのだった。昨日(12月10日)やっと実施できたのだった。天候にも恵まれ、歴史ウォークとして、素晴らしい一日になった。
古墳巡りに関する資料をほぼ一年前から読み込んでいたのだが、一年間、延期している間にすっかり忘れていたことが多かった。
今年の「歴史ウォーク」実施前に追加の資料を、Tさんが送ってくださった。その資料も含めて、すべての資料を再読したうえで、参加したのだった。
昨日の参加者は、6人だった。古墳などに詳しいメンバーばかりで、「知的好奇心旺盛グループ」だった。中心となる人はもちろんTさん。Tさんの影響で、まったく知らなかった遺跡や古墳を知ることになった。今回の「有年」という場所・古墳群を初めて知り、見て回ることができたのも、Tさんたちのおかげである。
有年には、巨大な古墳はなかったが、歴史的に価値のある古墳が、たくさん「あっちにもこっちにもこんもりとしているところ」があるようで、その多くが古墳だった。(日帰り、青春18切符利用という)時間の関係で、すべてを見て回ることはできなかったが、有意義な一日になった。
有年は兵庫県の西端地域だが、岡山県の吉備勢力圏に近い。有年地域に流れている大きな川は千種(ちくさ)川。
この千種川と「渡来人・秦氏」とが、何らかの関わりがあるかどうかについて、日本地図をしっかり見ながら、私なりに考えてみたい。(まったく素人の想像に過ぎない好奇心的考察だが・・・)
(この続きは次のブログへ)
石室に入って見学できた古墳の一つ。 懐中電灯を持って石室内を見学。石室内の高さは背丈よりも高かった。石を上手に組んだ石壁だった。天井部は大きな石だったので、驚いた。「この大きな石をどこからどのようにして運んだのだろうか?」と思いながら見学した。
こちらもこんもりとした古墳。(円墳らしい)このようなこんもりと盛り上がった古墳がたくさんあった。全部は見て回れなかった。
復元古墳のある遺跡公園 古墳に登ることができた。墳頂部に埴輪のレプリカがおかれていた。写真後方の古墳も復元古墳。
あれこれと話し合っている様子