鬼井江の世界(gooブログ)

山陽道【51次=約489km】歩き旅開始① (9正條宿→10片嶋宿→11有年宿)2022年12月28日 日帰り

 真冬の歩き旅コースとして「山陽道」を選び、2022年12月28日に日帰りで実施しました。青春18切符利用で、山陽道(大阪~下関)歩きをスタートすることにしました。山陽道には51の宿場があるのですが、それらの宿場を順番に訪れるのではなく、まばらに気の向くままに訪れる計画です。

 初回は、JR竜野駅(兵庫県)で降り、駅前の道が山陽道だったので、そこから岡山方面に向けて歩き始めた次第です。竜野駅周辺は大阪から数えて9番目の宿場【正條(しょうじょう)宿】でした。竜野駅から歩き旅をスタートした時刻は午前10時30分でした。

 平坦な道を30分ほど歩いた地点に、片嶋宿がありました。(もう、次の宿に着いたんだ!)と、近さにびっくりしました。旧街道歩きでは、平均して宿間は約10km前後のことが多いので、びっくりした次第です。(何か理由があるらしい・・・)片嶋宿本陣跡の碑があったので、カメラでパチリ。

 10番目の宿・片嶋宿を通り過ぎ、11番目の有年(うね)宿を目指して歩きだしました。道は平たんで、歩きやすく道幅も車が通れる幅でした。国道2号線の近くの道で、ややS字状に曲がりながらの古い道が多かったですね。国道2号線は車がビュンビュンと猛スピードで走りますので、歩き旅に適していないのですが、旧街道は車が通るとはいえ、少ないので、安全です。ただ、山陽道の一部は国道2号線そのものの所があり、緊張して歩かなければならない。国道に歩道がないときはビビりますね。(木曽路歩きでも、国道19号線で歩道のない区間があり、ビビりました。トラックがものすごいスピードのときは怖いですね。)

 相生(あいおい)駅に近い地点で休憩しました。正午近くになっていました。相生駅は山陽新幹線・山陽本線・赤穂線の駅として、線路が3系列ある重要な駅である。山陽道は、(地図を見ると)山陽本線のレールに沿う道である。しかし、高架の下をくぐっていくので、道を見つけるのがややこしかった。国道2号線とは違って、その近くのやや細い道が山陽道だった。または国道2号線そのものが山陽道になっている箇所もあり、ちょっとややこしい思いをしながら(山陽本線)JR有年(うね)駅方面へ歩いて行った。駅が見えたときはほっとしました。

 去年の12月10日に、遺跡巡り仲間と一緒に来たことがあったので、少しは有年駅周辺の土地勘はあるつもりだったので。もっとも、古墳や遺跡巡りをする時は、リーダー格のTさんに連れていただくことがほとんどなので、私の「土地勘」はあてにならないのだが・・・。

 有年駅の近くの山陽道の町並みを歩いているときに、道で掃除をしていた年配の方(男性)から声をかけていただいた。「道歩きをされているのですか?」と。

 「有年は歴史あるところですね。去年、古墳めぐりで来たのですが・・・。今日は街道歩きが目的で、来ました。」と返答したのがきっかけで、有年について、いろいろ教えていただきました。

 10分ほど話ができて、(今日、話ができたのは、この人だけだったので)、心が温まりました。一人歩きの途中で誰かと話ができると嬉しくなるものです。

 「有年宿本陣跡を見学したら、大阪へ帰るつもりです。お話、ありがとうございました」と、声をかけて、有年宿本陣跡を目指して歩き始めた。時刻は午後2時40分になっていた。

 JR有年駅前の集落の中に「有年宿本陣跡」があるものとばかり思いこんでいたので、「すぐ近くにあるだろう」と想像しながら探してみた。古い家並みが集まっているところを目指して・・・。ところが、見つからない。あれ? 「川を渡って・・・」と書いてあるのに…??? 

 やっと、住民の方が道におられたので・・・「有年宿本陣跡はどこにあるのですか?」とお聞きできた。そしたら、「本陣跡があるのは、東有年集落だから・・・、千種川を渡って・・・」と教えていただけた。

 JR有年駅周辺が「有年宿の中心地」だと思い込んだのが、いけなかったようだ。江戸時代において、有年の集落は千種川近く(水運が可能)が栄えていた。有年本陣などがある街道筋も千種川と関係がったらしい。(JR有年駅周辺は、中心部ではなかったのだ。)

 私の「土地勘」はあてにならないなあ・・・と、反省。「渡った川は、千種川ではなくて、矢野川という川だったらしい。地図をしっかり見なければ!」と、気を引き締めた。

 教えていただいた住民の方のおかげで、千種川にかかっている千種橋を渡り、東有年集落へ行くことができた。有年駅からはかなり離れた場所だった。その集落の中心道路は700mほどの直線的な山陽道だった。立派な建物も並び、集落の中心部に「有年本陣跡」の矢印があった。その矢印の道を入っていくと、「有年宿本陣跡(旧柳原家宅)」の標柱と説明板があり、「明治天皇駐輦記念碑」もすぐ横に設置されていた。*駐輦(ちゅうれん)とは、行幸の途中で、一時その地にとどまること。有年本陣は、現在、別の家が建ち、碑のある所は畑になっていた。

 有年宿本陣跡を見学したのち、有年駅まで歩き、堺へ帰っていった。JR有年駅は無人駅だった。姫路方面行の列車は出た直後だった。30分近く待ち、午後4時40分発の列車に乗って帰った。相生駅・姫路駅で乗り換え、新快速利用で大阪駅へ。堺市駅に到着したのは、午後7時ごろだった。

 次回の山陽道歩きは、有年宿(本陣跡)から、続きの山陽道を岡山方面へ。(大阪から12番目の宿)三石宿まで歩くつもりです。(次回も日帰りで)

 

片嶋宿本陣跡の碑 (旧片島本陣跡)

山陽道の道幅はこれぐらいの幅が多いようです。古くからの家が結構残っていた。

大きくて江戸時代を連想させる建物も見受けられた。

有年へ行く途中に天満神社があった。神社の入口手前(山陽道)から写真を一枚。左手が、岡山方面へ。

国道2号線=山陽道と重なる区間。歩道がなかったので、怖かったですね。とにかくトラックが猛スピード。普通は、人が歩く道ではないらしく、運転手もリュック姿の(一人歩きの)私を見てびっくりしたかもしれない。しかし、この道も「山陽道」だった。

有年宿(JR有年駅近くを通る山陽道。このあたりで住民に声をかけられた。)

有年村道路元標(赤穂市)「兵庫縣」の石標もあった。

古い道標があった。「左 岡山 廣嶋道」 「右 上郡 鳥取道」

千種川 (千種橋から上流を撮ったもの) 中国山地を越えると鳥取県

大陸からの鉄などの文化が日本海ルートで持ち込まれたと考えられる。「有年」の地では、縄文時代・弥生時代・古墳時代の遺跡が発掘されている。千種川や岡山県の大きな川利用で、日本海側から大陸文化などが持ち込まれたことであろう。有年は吉備に近い。吉備こそ、大陸文化が持ち込まれた地域であり、渡来人「温羅」なる存在との関係も深いに違いない。吉備には日本で4番目に大きい古墳がある。吉備と有年とは関係が地理的にも近い。吉備王国の時代があり、播磨王国(西部が有年地域)の時代があったことであろう。そういう思いを抱きつつ、山陽道歩きを楽しみたい。

矢印のある建物は、本陣ではないが、細い路地を20メートルほど入った地点に「明治天皇駐輦記念碑」と「有年宿本陣跡」の碑などあった。

明治天皇が滞在したことをたたえた記念碑

  

本陣跡は畑になっていた。柳原家は有年家と同じように(江戸時代は)「庄屋」として栄えていたようです。

全国の本陣の多くは、建物はなくなり、「跡」の碑だけを目にすることが多い。残っている本陣もありますが、数はごくわずかです。街道歩き旅において、「跡」の碑を目にするたびに、「時代の変化」を考え込んでしまいます。

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