2014/12/12
「東海道53次 歩き旅③草津宿~水口宿」 東海道53次歩き旅
草津(滋賀県)で中断していた「東海道五十三次歩き旅」を、久しぶりに再開した。今回は私一人だけの「徒歩旅行」。
青春18切符が使えるシーズン(冬=12月10日~1月10日)になったので、青春18切符を使うことにした。日帰りなら5回分旅行できることになる。
今日はとりあえず、前回(5月)最終地の草津からスタートした。草津宿 → 石部(いしべ)宿 →水口(みなくち)宿。(行程約21キロ)
生まれて初めて一日に20キロ以上歩いた。家からの万歩計歩数は、41455歩。距離計算では、24.8キロになっていた。(一歩=60cmの計算になっている)
それにしてもよく歩いた。一人だとグループ歩行ではないので、まったく自分だけのペースで歩ける。水口宿から帰宅するのに、(近くには、JRの駅がなかったので)私鉄の近江鉄道を利用した。JR貴生川駅で接続していたので、貴生川駅からは青春18切符を利用した。
近江鉄道なる私鉄に乗ったのは初めて。単線だった。時刻表を見たら、昼間は一時間に一本だった。「一時間に一本のバスなら分かるが、電車で一時間に一本とは・・・」と、ちょっとびっくり。滋賀県は「場所によっては、それなりに田舎なんだなあ」と実感した。滋賀県を理解する機会にもなった。歩いてみると、その地方がよくわかるものです。
今日は旧東海道を20キロ以上歩いたが、とにかく店が少なかった。コンビニは旧東海道に面している場所においては、たったの一軒であった。(旧東海道以外の道路にはコンビニはあったのであろうが・・・。)
今回歩いたコースは、古い家が太平洋戦争で焼かれかなったようで、歴史を感じさせてくれた。町並みは「東海道を美しく」をキャッチフレーズに、街道沿いの家々は木製花壇を並べていた。住民の方々の「街道を美しくする心」が伝わってきた。ゴミなどはほとんどなかった。町並みも延々と美しかった。一人でも一箇所以外は迷うことなく歩くことができた。
迷った箇所は、野洲川を渡るときのこと。江戸時代には「渡しの舟」があったのだが、今はない。旧東海道が途切れてしまっていた。「横田渡」というところで、舟で渡してもらうことによって、街道はつながっていた。現在、渡しはない。その上、渡しの近くに橋もなかったのだ。困った、困った。
そこで、地図を見て、橋のあるところを探した。その橋まで、かなり戻って「コの字型」に歩かなければ、対岸(すぐ目の前のところ)に行けない。これが、旧街道歩きの時間のかかる点であった。
今までは順調だったので、野洲川の「横田渡」での苦労は、いい経験になった。今後も何度も経験するであろう「渡し場」。「川を越える時は要注意」だと、実感できた。渡し場に(現在)橋があれば、何の問題もないのだが・・・。
江戸時代、「渡し場」(その一部)は関所としての役割もあった。大きな川の渡し場のある地域は幕府直轄地になっているところが多い。今回、現在渡し舟がなくて、遠回りしなければならなかったコースを歩いてみて、「なるほど!」と納得。江戸時代の旅においては、渡し舟は重要だったのだ。
草津宿から石部宿へ 旧東海道の町並みは立派な家が多かった。
旧和中散本舗の堂々とした店構え。すごい建物です(写真ではわかりにくいですが)。
「和中散(わちゅうさん)」とは、生薬を粉にしたもので、主に胃腸薬として旅人たちの必需品になり、重宝された。徳川家康の腹痛を治したことから、大ヒット薬になったとのこと。
「天保義民の碑」 江戸時代、幕府役人の不正を訴え、訴えは受け入れられたのだが・・・。訴えの中心人物たちは拷問にかけられることに・・・。理不尽ないい分を振りかざしたのであろう。今も、「お上」は時として理不尽なことを・・・。
権力への抵抗運動・訴えは、民衆から支持された。しかし、幕府によって運動の中心人物たちは迫害され、殺されてしまった。それらの人々を忘れないようにと、「義民の碑」を民衆たちが明治に入ってから建設した。高さ約10メートルもあり、見事な石碑である。今も、年に一度「慰霊の祭り」を行っていると案内板に書かれていた。
天保年間の出来事とはいえ、「権力者への命がけの訴え」は「人間の生き方」を考えさせてくれている。私を初め、多くの人々はまったく知らない事件だったのだが、碑の中に「生き様」がしっかりと表現されている気がした。
街道から少し離れた高台に碑はあった。街道から離れているのでパスしようかな・・・と、思ったのだが・・・。
「寄り道してよかった!」
「脱原発運動、がんばろう!」との思いを新たにすることができたから。
「横田渡し」の常夜灯。すごく立派な常夜灯だったので、感動しました。
水口宿方面に入るところに「石」が置かれていた。
水口宿中心部へ向かう道は? あえて分かれ道にしてあるらしい。宿に入ると一本道ではなく、どこかで直角に曲がる場合が多い。敵からの侵入をたぶらかすためであろう。東海道は、全国の街道筋同様、「街中の道」を見つけるのが、難しい。田舎道はほほ一直線だから易しい。
青春18切符が使えるシーズン(冬=12月10日~1月10日)になったので、青春18切符を使うことにした。日帰りなら5回分旅行できることになる。
今日はとりあえず、前回(5月)最終地の草津からスタートした。草津宿 → 石部(いしべ)宿 →水口(みなくち)宿。(行程約21キロ)
生まれて初めて一日に20キロ以上歩いた。家からの万歩計歩数は、41455歩。距離計算では、24.8キロになっていた。(一歩=60cmの計算になっている)
それにしてもよく歩いた。一人だとグループ歩行ではないので、まったく自分だけのペースで歩ける。水口宿から帰宅するのに、(近くには、JRの駅がなかったので)私鉄の近江鉄道を利用した。JR貴生川駅で接続していたので、貴生川駅からは青春18切符を利用した。
近江鉄道なる私鉄に乗ったのは初めて。単線だった。時刻表を見たら、昼間は一時間に一本だった。「一時間に一本のバスなら分かるが、電車で一時間に一本とは・・・」と、ちょっとびっくり。滋賀県は「場所によっては、それなりに田舎なんだなあ」と実感した。滋賀県を理解する機会にもなった。歩いてみると、その地方がよくわかるものです。
今日は旧東海道を20キロ以上歩いたが、とにかく店が少なかった。コンビニは旧東海道に面している場所においては、たったの一軒であった。(旧東海道以外の道路にはコンビニはあったのであろうが・・・。)
今回歩いたコースは、古い家が太平洋戦争で焼かれかなったようで、歴史を感じさせてくれた。町並みは「東海道を美しく」をキャッチフレーズに、街道沿いの家々は木製花壇を並べていた。住民の方々の「街道を美しくする心」が伝わってきた。ゴミなどはほとんどなかった。町並みも延々と美しかった。一人でも一箇所以外は迷うことなく歩くことができた。
迷った箇所は、野洲川を渡るときのこと。江戸時代には「渡しの舟」があったのだが、今はない。旧東海道が途切れてしまっていた。「横田渡」というところで、舟で渡してもらうことによって、街道はつながっていた。現在、渡しはない。その上、渡しの近くに橋もなかったのだ。困った、困った。
そこで、地図を見て、橋のあるところを探した。その橋まで、かなり戻って「コの字型」に歩かなければ、対岸(すぐ目の前のところ)に行けない。これが、旧街道歩きの時間のかかる点であった。
今までは順調だったので、野洲川の「横田渡」での苦労は、いい経験になった。今後も何度も経験するであろう「渡し場」。「川を越える時は要注意」だと、実感できた。渡し場に(現在)橋があれば、何の問題もないのだが・・・。
江戸時代、「渡し場」(その一部)は関所としての役割もあった。大きな川の渡し場のある地域は幕府直轄地になっているところが多い。今回、現在渡し舟がなくて、遠回りしなければならなかったコースを歩いてみて、「なるほど!」と納得。江戸時代の旅においては、渡し舟は重要だったのだ。
草津宿から石部宿へ 旧東海道の町並みは立派な家が多かった。
旧和中散本舗の堂々とした店構え。すごい建物です(写真ではわかりにくいですが)。
「和中散(わちゅうさん)」とは、生薬を粉にしたもので、主に胃腸薬として旅人たちの必需品になり、重宝された。徳川家康の腹痛を治したことから、大ヒット薬になったとのこと。
「天保義民の碑」 江戸時代、幕府役人の不正を訴え、訴えは受け入れられたのだが・・・。訴えの中心人物たちは拷問にかけられることに・・・。理不尽ないい分を振りかざしたのであろう。今も、「お上」は時として理不尽なことを・・・。
権力への抵抗運動・訴えは、民衆から支持された。しかし、幕府によって運動の中心人物たちは迫害され、殺されてしまった。それらの人々を忘れないようにと、「義民の碑」を民衆たちが明治に入ってから建設した。高さ約10メートルもあり、見事な石碑である。今も、年に一度「慰霊の祭り」を行っていると案内板に書かれていた。
天保年間の出来事とはいえ、「権力者への命がけの訴え」は「人間の生き方」を考えさせてくれている。私を初め、多くの人々はまったく知らない事件だったのだが、碑の中に「生き様」がしっかりと表現されている気がした。
街道から少し離れた高台に碑はあった。街道から離れているのでパスしようかな・・・と、思ったのだが・・・。
「寄り道してよかった!」
「脱原発運動、がんばろう!」との思いを新たにすることができたから。
「横田渡し」の常夜灯。すごく立派な常夜灯だったので、感動しました。
水口宿方面に入るところに「石」が置かれていた。
水口宿中心部へ向かう道は? あえて分かれ道にしてあるらしい。宿に入ると一本道ではなく、どこかで直角に曲がる場合が多い。敵からの侵入をたぶらかすためであろう。東海道は、全国の街道筋同様、「街中の道」を見つけるのが、難しい。田舎道はほほ一直線だから易しい。