母とのなにげないおしゃべりや、昔話のなかから思いついたことなどを
お話ついでに、もう少し続けてみますね。
実は、自分がどんな風に育てられたのか?ということを、ふと考えることがありました。
スクーリングの間、私の母に留守番を頼むことがあり
母のkirikouへの声かけをそばで見ていて、思わずドキッとすることがあります。
生真面目で、まともに向き合ってしまい、それはそれで良いところなんですけれど
ときに、あまりに直球勝負なので、かえってウマクいかなかったり…
余裕がなくなって、硬直してしまうことが、ままあります。
「きっと、そうなんだなぁ。私もこんな風にkirikouに接しているのかもしれないなぁ。」
と、自分で自分を見るような、そんなことにある時、気づきました。
これが、この間お話を聞いてきた「世代間連鎖」っていうことなんだろうなぁ…
というように何かがどこかでつながって、どこかにストンと落ちるような気がしました。
無意識の内に自分の中に取り込まれているような
いわゆる「性格」といわれるようなものや
「人への接し方」や「声のかけ方」などに、気づくことはありませんか?
それは、ひょっとしてDNAのレベルで伝わるナニモノかであり
さらには、長年一緒に暮らしてきたという環境要因として受け継いできたものであって
そのどちらも、影響しあって、どこがどうともはっきりとはいえませんけれど
確かに、親から子へと手渡される何かがあるのかもしれませんね。
「科学的」な範疇では、ほとんど証明することは、できないことかもしれませんし
私のお話しすることに、説得力がないのは、よ~くわかっておりますけれど
ただ、そんな風に感じられてならない、ことが確かにあるような気がします。
そうやって考えてみると、私の中には
私の父と母から、つながっているものがあって
その父とは母は、そのまたそれぞれの父親と母親
(つまり私のおじいちゃん、おばあちゃん)から何かを受け取って…
そのまた、父親と母親から…というように、連綿と受け継ぎ、手渡されてきたものがあって
いま、目の前にいるkirikouにも、そのナニモノかが届いているのでしょうか?
けれど、もうひとつ思うには
その受け継がれたものだけが、いまの自分をつくっているものなのでしょうか?
小さい頃は、確かに親から受ける影響は、大きいとは思いますけれど
その後の教育も含めて、出会った先生や友人や読んだ本やイロイロなものから受け取ったものは
さらに、図りがたいほど大きくて…
そんなもの・ことの総体が、私というものを、どこかカタチづくっているのでしょう。
もうひとつ、「自分について」気になることを広げていくと
私自身が、子どもとして育っていた頃のことを思い出してみても
さて、いつから大人になって、いつから自立したと言えるのか…
いまも、その「大人」や「自立」という言葉が、少なくとも私にとっては
実は、とてもあやふやで不確かなものに感じています。
経済的には、夫の収入で暮らしていて
自分で仕事をしていても、それは微々たるもので、実質的には全然自立していません。
生活面では…、このところイロイロと手を広げてしまいましたので
私の母や夫のお母さんに、何かと手伝ってもらうことも多くて
「自立しているか」というと、かなり怪しいところですね~
さらに「精神的には…」といわれても、これも、一番難しいところで
何をもってして「自立している」といえるかが、よくわかっておりませんので。
自分で考えて、自分で選択して、行動していくこと…ということであれば
何とか、あてはまるところがあるような気もいたしますが…
こんな風に考えてみると、情けないくらいに心もとない「自分」に気づいてしまいました。
ということは、夫や家族や、その他のたくさんの人たちのおかげで
ナントカカントカしながらも「今を生きている」のかもしれないような気がします。
そんな私にできること、ささやかでも自信をもってできること…
それを見つけながら、人はそれぞれに与えられたところで
毎日を生きていくのでしょうか?
kirikouが「なぜ学校へ行くの?」なんて質問をして
時々、立ち止まってしまうことがあるのは
こんな私のあやふやなところにも、原因があるのでしょうか?
毎日のアレコレを、まだまだ右往左往しながらやっておりますので
ことさらに申し上げることなど、できようもありませんけれど
それでもなお、ふと日々の暮らしの中で気づいたことを
そっと、つぶやいてみたい思いに駆られています。
どこかで、私自身が、自分の足でしっかりと歩いていきたいと想っているのでしょう。
いつしか、親やそのまた前の世代から「手渡されたもの」に気がついて
それを、反発したり肯定したりしながらも
ささやかな自信とともに「自分らしく、育てて」いき
何らかのカタチにして「次に手渡していくこと」を想うもの…
なのかもしれませんね…
お話ついでに、もう少し続けてみますね。
実は、自分がどんな風に育てられたのか?ということを、ふと考えることがありました。
スクーリングの間、私の母に留守番を頼むことがあり
母のkirikouへの声かけをそばで見ていて、思わずドキッとすることがあります。
生真面目で、まともに向き合ってしまい、それはそれで良いところなんですけれど
ときに、あまりに直球勝負なので、かえってウマクいかなかったり…
余裕がなくなって、硬直してしまうことが、ままあります。
「きっと、そうなんだなぁ。私もこんな風にkirikouに接しているのかもしれないなぁ。」
と、自分で自分を見るような、そんなことにある時、気づきました。
これが、この間お話を聞いてきた「世代間連鎖」っていうことなんだろうなぁ…
というように何かがどこかでつながって、どこかにストンと落ちるような気がしました。
無意識の内に自分の中に取り込まれているような
いわゆる「性格」といわれるようなものや
「人への接し方」や「声のかけ方」などに、気づくことはありませんか?
それは、ひょっとしてDNAのレベルで伝わるナニモノかであり
さらには、長年一緒に暮らしてきたという環境要因として受け継いできたものであって
そのどちらも、影響しあって、どこがどうともはっきりとはいえませんけれど
確かに、親から子へと手渡される何かがあるのかもしれませんね。
「科学的」な範疇では、ほとんど証明することは、できないことかもしれませんし
私のお話しすることに、説得力がないのは、よ~くわかっておりますけれど
ただ、そんな風に感じられてならない、ことが確かにあるような気がします。
そうやって考えてみると、私の中には
私の父と母から、つながっているものがあって
その父とは母は、そのまたそれぞれの父親と母親
(つまり私のおじいちゃん、おばあちゃん)から何かを受け取って…
そのまた、父親と母親から…というように、連綿と受け継ぎ、手渡されてきたものがあって
いま、目の前にいるkirikouにも、そのナニモノかが届いているのでしょうか?
けれど、もうひとつ思うには
その受け継がれたものだけが、いまの自分をつくっているものなのでしょうか?
小さい頃は、確かに親から受ける影響は、大きいとは思いますけれど
その後の教育も含めて、出会った先生や友人や読んだ本やイロイロなものから受け取ったものは
さらに、図りがたいほど大きくて…
そんなもの・ことの総体が、私というものを、どこかカタチづくっているのでしょう。
もうひとつ、「自分について」気になることを広げていくと
私自身が、子どもとして育っていた頃のことを思い出してみても
さて、いつから大人になって、いつから自立したと言えるのか…
いまも、その「大人」や「自立」という言葉が、少なくとも私にとっては
実は、とてもあやふやで不確かなものに感じています。
経済的には、夫の収入で暮らしていて
自分で仕事をしていても、それは微々たるもので、実質的には全然自立していません。
生活面では…、このところイロイロと手を広げてしまいましたので
私の母や夫のお母さんに、何かと手伝ってもらうことも多くて
「自立しているか」というと、かなり怪しいところですね~
さらに「精神的には…」といわれても、これも、一番難しいところで
何をもってして「自立している」といえるかが、よくわかっておりませんので。
自分で考えて、自分で選択して、行動していくこと…ということであれば
何とか、あてはまるところがあるような気もいたしますが…
こんな風に考えてみると、情けないくらいに心もとない「自分」に気づいてしまいました。
ということは、夫や家族や、その他のたくさんの人たちのおかげで
ナントカカントカしながらも「今を生きている」のかもしれないような気がします。
そんな私にできること、ささやかでも自信をもってできること…
それを見つけながら、人はそれぞれに与えられたところで
毎日を生きていくのでしょうか?
kirikouが「なぜ学校へ行くの?」なんて質問をして
時々、立ち止まってしまうことがあるのは
こんな私のあやふやなところにも、原因があるのでしょうか?
毎日のアレコレを、まだまだ右往左往しながらやっておりますので
ことさらに申し上げることなど、できようもありませんけれど
それでもなお、ふと日々の暮らしの中で気づいたことを
そっと、つぶやいてみたい思いに駆られています。
どこかで、私自身が、自分の足でしっかりと歩いていきたいと想っているのでしょう。
いつしか、親やそのまた前の世代から「手渡されたもの」に気がついて
それを、反発したり肯定したりしながらも
ささやかな自信とともに「自分らしく、育てて」いき
何らかのカタチにして「次に手渡していくこと」を想うもの…
なのかもしれませんね…
私もささやかな自信が欲しいです。
自信というか自己評価というか、自己肯定感を高めてみたいといつも願っています。
自信があれば、新しい境地を開拓できるかな?・・・といつも無い物ねだりをしています。
おはようございます!!
私も、同じようなことを感じていると思います。
年代なのか、性格なのか環境なのか・・・はわかりませんが
おそらく、高い目標を目指して(自分の意思だったのかは、いま検討中???)
これまで、一生懸命勉強することを良しとされてきましたけれど
あまりほめられたり、「それでいいんだよ~」という肯定的なOKを
もらうことなく、大人になることを求められて・・・きたのでしょうか?
モチロン私自身ができていないことだらけなんですけれど
できれば、夫や親から
「がんばっているね~」とか「よくやっているね~」って言われたら
それは、うれしいし、もう少しがんばってみようかなぁ~って、
思えるのではないでしょうか?
たしかにほめられたくてやっている・・・と言うだけではないと思いますけど
やっぱりそこは人間、子どもに対するのと一緒のような気がします。
話は、飛びますけれど・・・
日本人って(ひと括りにはできないし
どんなものかもウマク言えませんけれど・・・)
きっと、もう少し自らのよいところも、わるいところも含めて
きちんと自己観察(?)自己洞察をするところからはじめたら
いまの自信のなさや元気のないところから
少しずつでも自信をもって、何かができるような気が、ふとしました。
私から見たら、RAMさんは
もう200%、素晴らしいと思いますよ~
本当は、きっと身近な人からの、OKが一番うれしいんでしょうけれど・・・
私は、はかない幻想のようなものに近いとしても…
こちらに来てくださる方々のおかげで、とっても助けられています。
いつも、ほんとうにありがとうございます!!
あります、あります…悲しいほどに・・・^^;
自分もですが、旦那を見てると凄く感じます^^;
私もそのことに気づいたことで、良い面は大切にしつつ
少しずつでも、改善する方向性が見えてきたように思います。
自分のことも同様ですけれど
いつしか、親の姿を客観的に観る時が来るんでしょうね~
そして、いつか親を支えていこうというように
意識が変わってくることもあると思います。
私の場合は、そろそろそんな周期に入りつつあるのかもしれません。
若い頃は、ほんとうにイロイロとあったとは思いますけれど
それはそれとして、冷静に見られるようになると・・・
だいぶ楽になるのかしら・・・