たっきーブログ

遊び心満載の「時遊人」、さてきょうは...

「癌から奇跡の復活・最終章 ①」

2014年05月20日 | 健康・病気
たっきーです。

天気予報通り雨が降っています。
今日は0のつく日、5月20日です。
シリーズは最終章①です。
がん患者の方、その家族の方の何かの参考になれば幸いです。

「癌から奇跡の復活・最終章 ①」

【肺転移から奇跡の復活へ・・・】

2回目となる前回の検査結果の診断は「肺転移はさらにやや縮小」でしたが、年末の第3回目の検査結果は「明らかな再発転移なし」というものでした。
順調に回復していると自分の中で確信をしてはいましたが、検査報告書のこの文字には正直驚きました。ただただ喜びを噛み締めていました。

2013年の目標を「一日1回大声で笑う」と決め、スタートした私ですが、奇跡を一層実感し、作り笑顔さえ辛かった状況からは想像すら出来ないほどの自然な、力のある笑いをするようになっていました。

元旦には久々に親戚の家族が我が家に集まり、楽しい新年会が出来ましたが、私の食べる量が増えたことに、皆さんビックリしておられ、笑いの絶えない本当に楽しい新年のスタートとなりました。

しかしながら、手術から一年経った頃でも、首・肩周りの筋肉はまだ元の状態には程遠く、右手はほとんど上に上がらず、首も回らずといった感じで、何をするにも不自由で、時にはそんな自分にイライラすることもありました。
健康な時でさえ激しい運動の後の筋肉痛は悩ましいものでしたが、この頃の状況はそんな生易しいものではなく、これまでに経験したことのない、また考えられないほどの痛みを伴うとても辛いものでした。
これを解消するにはリハビリのマッサージと運動しかなくリハビリについては治療院の先生に毎週状況を見ながらマッサージを受けていました。また、運動は軽めにということでウオーキングを20~30分程度行い、体力増強に務めていました。

筋肉をほぐすには温めるのが非常に効果的ということで、この時期には本当によくサウナや、動ける範囲であちこちの温泉に通っていました。 体全身が温まると本当に何をするのにも楽になり、のんびりリラックスできるし、何より嫌なことを忘れられました。

そんなある日、ショックな出来事がありました。 それは2人目の担当医であった先生の異動が決まった事です。病気が発覚して徐々に良くなりつつある中で、私にとって担当医がまた変わるというのは本当に残念なものでした。
自分の都合ですが、何でも話せる信頼のおける先生とのお別れは毎度のことながら辛いものです。 私は常々、医師と患者の関係は、お互いの信頼関係によってその後の病気の様子も違ってくるのでは、と考えています。
しかし、自分の都合だけで物事がすすむはずもありません。これまでお世話になった先生には私が元気になって恩返しするのが一番だと自分に言い聞かせつつ、先生にお礼を申し上げました。 新たに担当していただける先生は女医さんと聞いて、次回の診察が楽しみとなりました。

ところで、この歳の冬は本当に寒かったので、いろいろな楽しみの中で温泉旅行にもあちこち出かけていました。
そんな中で、突然、親友から台湾にがんに良いとされている温泉があるということでお誘いを受けたのです。まだ、体力的に自信がなかったので飛行機を使っての旅行には若干ためらいがありましたが、家族も勧めてくれたので勇気を出して、出かけることにしました。
ちょっと心配なところもあったのですが、大きな気分転換&チャレンジということでいざ出発。
ところが、広島空港で飛行機のトラブルが発生し、予定の時刻を大幅に過ぎたあと、一度広島空港を出国して待合室で約3時間待っても出発できず、説明もないまま足止めをくらい、挙句一旦出国取り消し、その場で帰国(入国)手続きという自分の中では前代未聞の珍事が起きました。後で聞いた話では朝、機体の整備中、足りない部品があることが判り、それを成田から取り寄せていたのだそうです。その飛行機は朝一の便で、多分前日からここに到着していたと思うのですが。向こうは春節まっただ中。そのせいかどうかはわかりませんが、その際のパスポートには「出国中止」の印が押してあります(笑)。
このパスポートは私の宝もののひとつになるかもです・・・。


結局当初予定の6時間後に台湾への旅路となりました。朝5時起きだったので、さすがに疲れましたが出発迄にこれだけのストレスにも耐えられたので、体力的にも大丈夫で楽しい旅になるよと励まされもしました。
台湾旅行ではやはり温泉に入っている時間が至福のひとときで、最高の思い出となりました。台北の温泉地・北投温泉は体の心から温まり色々なお風呂がありリラックス出来ました。また、温泉地から発掘された北投石で作られたブレスレットやネックレスなどが販売されていて、何でも微量の放射線とマイナスイオンが放出していることから癌にもいいと言われていました。
石ですから当然重たく、普段時計はおろかブレスレットなどしたことのない私には物凄く邪魔なものですが、いわゆるプラシーボ効果も期待して、腕輪と首飾りを買ってみました。
購入後は毎日肌身離さず付けています。

寒くて温泉通いだった冬が終わると、いよいよ私の大好きな春が訪れ、ガーデニング作業も始まります。
ショップに行ってプランターや重たい培養土等を買って帰って、庭に沢山の花を植え付けるなどの作業も、ある程度はこなせる状況まで回復していました。

体を動かしながら勉強部屋から庭の花が見渡せるようになり、本当に癒されました。
気持ちの良い時期になっての定期検診は新しい先生です。
先生は女医さんでもちろん初めてお会いしましたが、先生から「今度私が担当します。」と挨拶されたので、私も挨拶し頭を下げました。この時私は直感で、“この先生とは気が合いそうだな”と思いました。聞けば、最初に担当医でいらっしゃった片桐先生と、何と同期で顔馴染みとのこと。ここにもご縁のようなものを感じてほっとしました。その日の経過観察の結果もよかったこともあって、とても爽やかな気分で帰宅したのでした。

とても過ごしやすい時期でしたので行動範囲も少しずつ広くなり、田舎に帰って田植えの手伝いなどもできるようにまでなりました。また自宅にいろいろなお客さんをお迎えしてパーティーをしても、疲れをあまり感じないほどに回復していました。

しかし、この時期になっても、相変わらず副作用での口が渇くことと、首筋のハリが戻らないことが悩みのタネでした。特に唾液が出にくいことで食事するのも一苦労です。何も入っていない口の中もくっついてしまい、そうなると、しゃべることも出来なくなるのです。このため、常に外出時には温かいお茶かぬるま湯を入れた水筒を持ち歩く事が必須で、一時足りとも水分を欠かすことはありませんでした。 もちろん通院時にも水筒は持ち歩き、大声で笑うという目標を掲げて始まった新年も折り返しを迎える頃となり、また定期検診の時期となりました。

最終回へ続く


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「癌から奇跡の復活 ・ 第3章 ④」

2014年05月10日 | 健康・病気
たっきーです。
朝から良い天気に恵まれ気持ちよい一日です。

今日は0のつく日、5月10日です。
シリーズは第3章④です。
がん患者の方、その家族の方の何かの参考になれば幸いです。

癌から奇跡の復活・第3章 ④」
【肺転移3ヶ月後のCT検査は・・・】


腫瘍科の先生に抗癌剤治療の延期を申し出て3ヶ月の間、体力の回復に努めるため、少しずつの運動や出来る限りたくさんの食事を取ることを重点的にして過ごしていました。
特に食事に関しては唾液腺を手術で摘出したこともあって、唾液が少なく口が乾いて食べ物が口の中でくっつき飲み込むのに一苦労する状況がずっと続き、水やお茶など水分が無いと食事は出来ませんでした。また、普段、会話する時でもすぐ口が乾いて喋り辛くなり外出時には常に水筒を持ち歩いていました。

そして、予定の通院日にCT検査を受け、ドキドキしながら検査結果を待ちました。診察室に入って先生に挨拶するとすぐに先生から検査結果の書類を渡され説明が始まりました。
先生はモニターの画像を私達に見せながら、表情ひとつ変えず「中咽頭がんの局所再発やリンパ節転移は認められません。そして、肺に転移した影は縮小しています」と言われるではありませんか。

一瞬耳を疑いました。
モニター画像を食い入る様に見ても良くわからないので、妻と私は今一度、手渡された検査結果の文章に目を通しました。
そこにははっきり【診断・「肺転移縮小」】と書いてあったのです。

私は診察室で何の恥じらいもなく妻の手を握りしめました。
そして、もう一度ミニターの画像に映しだされた転移と確定した時の画像と3ヶ月後の画像に目を移し指で先生に「この部分ですか?」と訪ね、自分の目で比較したうえで今度は、はっきり確認ができ思わず心のなかで「やった~!」と叫んでいました。
本当は大声で叫びたかったのですが・・・。
先生からも「良かったですね!」と言葉をかけて頂きました。
先生はこれまで努めて冷静に言葉を選びながら接して下さっているのが伝わって来ていましたのでこの言葉は胸にしみ、やっと落ち着きを取り戻しました。

「肺転移縮小」という結果がわかったものの、全てが無くなったわけではなくまだ現存していることに変わりはなく、今後どのようにすればよいのかが次の心配で先生と相談したところ「もう少しこのまま薬剤の使用はしないで様子見をしましょう」ということになり、また3ヶ月後に再度検査しましょうと言う事となりました。

次の予約日を確定し先生にお礼を言い、嬉しさ一杯の顔をして病室を後にしました。まるで難関校に合格した学生のような感じでした。帰りの時の気分の良さと足の軽さは今でも忘れられません。


転移発覚3ヶ月後の結果が順調でこんなに良くなっているとは信じがたいものがありました。しかし、私達もただ手をこまねいていたわけではありません。


第一に規則正しい生活。
入院当時と同じようなタイムスケジュールで毎日を過ごし、食事に関しては栄養のバランスを考え色々なものを少しずつ数回に分けて摂り、時には搾り機によるニンジンジュースを毎食時に飲んで柑皮症になる時もありました。
しかし、食事の量は相変わらず少なく体重もなかなか増えず、喉の通りもイマイチで、ある時期は食事が苦痛となり、なげやりになって“もうどうでもいいや”の気分になったこともあります。
しかし、口から物を入れないと元気になれないと自分に言い聞かせ、美味しく感じないものでも無理矢理に口にしていました。その中で一番食べやすかったのが「とろ玉うどん」でした。
この時からいろいろな料理に山芋を使ってもらい少しずつ食べる量も増えていきました。
第二に気分転換。
環境の変化は気分転換に大きく影響することを実感し、冷え解消に温泉・サウナに通い、マッサージには毎週出掛けそして田舎に帰省して病気であることを忘れるほどの行動をするなど、「肺転移縮小」という結果を得るまでの3ヶ月間、様々な試みを行っていました。

第三は情報収集と行動。
肺に転移したことがわかり私の気力が萎えそうになった時から、妻は自分が病気になった如くいろいろ情報収集を行ってくれて、衣食住全てにおいて良いと思われることはほとんど試しました。
その中で妻の知人で同じような病気になられた方が、漢方薬を飲み続けて元気になったとの情報を聞きました。

妻がお願いしてご本人にお会いして話を伺うことになり私はドキドキワクワクでした。私は初めてお会いしたのですが、とてもがん患者とは思えないほどお元気でゴルフにも奥様と毎週行かれているとかの話など信じられないことばかりが目の前で伺えました。
一番知りたかったその元気になられた源をお聞きすると、たくさんの資料をお持ちなっていた中から漢方薬が良かったのではとお話になられました。
その漢方薬はアメリカなど海外では承認されているものですが、日本では薬として承認されておらず香港から個人輸入しているものということで、入手方法、服用方法など事細かに説明して頂き詳細な資料も頂きました。

資料を持ち帰って私も試すことにしたのですが、医薬品として認められていなく保険適用にもならないので結構な金額になるものでした。
しかし副作用がほとんど無いということが一番嬉しく、日本の代理店に即申し込み取り寄せて服用を始めていたのです。

漢方薬を服用するにあたって、取り寄せた説明書ではとっても飲みにくいもので人によっては合わない方もいるなどのことも書いてありましたが、私は丁度その頃は、味覚障害で味がわかりづらい状況で何とか飲むことは出来ました。
漢方薬は液体で20ml入りのもので、妻に言わせると匂いは墨汁のような匂いと言い、私も決して美味しいとは感じることはありませんでした。
その漢方薬を一日3回毎日飲み続けていました。

お陰様で私には本当に副作用もなく、何か体調も少しずつ回復しているような感じになり、この漢方薬の効果があったかどうかはわかりませんが、検査の結果が「肺転移縮小」となったので信じることにして飲み続けました。

そしてさらに3ヶ月が経過し、二回目のCT検査を受けました。

肺に転移しておよそ半年目の検査です。
いつもの様に通院で検査を受け、自分では体調も良くなりつつある感じを持っていたので以前よりは心に余裕がありましたが、検査結果を聞くまではやはりドキドキでした。

診察室に入ると以前と同じように画像がモニターに映し出されて先生の説明が始まりました。
先生はプリンターから検査結果の報告書を取り出し私たちに渡した後、画像を見ながら「順調ですよ。」とおっしゃいました。 私たちは先生のその一言でほっとし、さらに頂いた報告書に目を通すとそこにははっきりとこう書かれていました。
診断「肺転移はさらにやや縮小」

この文字を見たとき私たちは先生のおっしゃった「順調ですよ。」の言葉を理解したのです。 不思議なことに前回と違って検査結果が絶対に良くなっているとも信じていて、嬉しいことに変わりはありませんが、何か落ち着きのある気持ちでした。 抗がん剤も使用せず順調に回復しつつある状況となったので、先生に漢方薬を服用しているということをお話ししました。 先生は結果が良いこともあって漢方薬には触れず、このまま定期的に検査をして様子を見ましょうということになりました。 私は妻の手厚い介護によって順調に回復できたことに感謝し、また免疫力をupする食事をしっかりと食べるように妻に約束し、先の見えない、いや先の見えた日々を楽しく送るようになることができました。 自分でも少しずつ自信が湧いてきて、食事・運動・睡眠もバランスよく取れるようになりストレスを感じる機会も少なくなり、十数年ぶりに自宅で2013年の新年を二人で迎えました。
2013年の私の決意は「一日1回大声で笑う!」でした。

次回へ続く


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「癌から奇跡の復活 ・ 第3章③」

2014年04月30日 | 健康・病気
たっきーです。

今日で4月も終わりですね。そして0のつく日、30日です。

シリーズは第3章③です。
がん患者の方、その家族の方の何かの参考になれば幸いです。

「癌から奇跡の復活 ・ 第3章③」

【多発性転移・・・】



担当医が変わりましたが、妻も毎日私のそばにいてくれるようになったことから、まずは近場からですが安心して外出することができるようになっていました。

そんなある日、担当医からの突然の呼び出しがあり、説明を受けるために妻と2人で病院に行きました。ここからが前回の続きです。

先生は先日撮ったCTの画像を私たちに見せながら、説明を始められました。雰囲気がいつもと違った感じでしたので、私達も自然と身構えて耳を傾けるしかありませんでした。

先生の口から出た言葉は「肺に転移しています。」
というものでした。

電話を頂いた時から、決していい話では無いだろうとある意味“覚悟”は出来ているつもりでしたが、現実に宣告を受けた瞬間、冷水を浴びせられたような気がしました。
私達は、今一度食い入るように画像を見ましたが、両方の肺に以前には無かった無数の白い影が映っていました。どこか一箇所というのではなくあちこちに散らばっているという感じでした。


日本人男性の癌での死亡率第1位は肺がんです。
治療の難しいことでも知られています。

電話が架かって来た時に何となく、再発したのだろうとは考えましたが、肺に転移とは思いもよらないものでした。一瞬過去の体験が頭をよぎりました。

数年前になりますが、妻の父親の胆管に癌が見つかり、手術で全摘したものの、半年もしないうちに全身に転移して、治療の甲斐なく残念ながら亡くなりました。その時に段々弱っていく父親をただ見守る事しか出来なかった妻は「なにかもっと出来る事があったのではないか」とずっと苦しんでいました。

しかし、私は妻の顔を見ながら「絶対負けない、必ずうまくいく」と、目で訴えました。これに対して妻も無言で私の手を強く握りしめていました。



先生は「残念です」の言葉と共に、別の専門科での診察を受けるようにと手配をして下さいました。またセカンドオピニオンを受けるならいつでも紹介状を書きますなど本当に親身になって配慮いただきました。しかし私は先生を信頼しており同じ病院の呼吸器内科にて診察を受けることにしました。


呼吸器内科の先生も画像を見て転移は明らかであるが、元の場所のがん細胞か新たなものかを正確に見分けるには手術して胸を開け細胞を取って検査して見ないと分からないとおっしゃいました。しかも正式な癌治療はその傷が治った後からになるということなのです。

前回の手術のダメージから回復していない今、私はまた体にメスを入れるということが物凄く怖くなりました。そして手術による細胞の検査はしないと心に決めました。


肺への転移を告げられてから、正直心穏やかではありませんでしたが、胸の痛みもなく手術後の体力・筋力の衰え、首筋の張りが一番気になる事でした。そんな中、体重はついに治療前から20キロ減の42キロになり、鏡に写した自分の体を見て愕然となったものです。

その後、同じ病院の腫瘍科に移動して血液検査等を行ったのち、今後の治療方法を決めることになりました。

初めて腫瘍科に行ってみると、受付・待合ロビーが他の科より広々としており椅子などのファブリックも落ち着いた感じで、リラックスできるようになっていました。座り心地はいいのですがさすがにのんびりと身を任せるような気分にはなれませんでした。
すでに大勢の患者さんが診察待ちでいらっしゃっていて、なんとも重たい空気が漂っていました。深刻そうに家族と話し込んでいる方や、机に突っ伏しておられる方など様々でした。見渡した限りでは、これでも私はまだ随分症状が軽いほうではないかと思いました。

この時心の中で、いつものおまじない「必ずうまくいく」を唱え続けていると不思議に気分が落ち着き、何だか闘う勇気が湧いてくるように感じました。

初めてお会いする腫瘍科の先生から、血液検査の結果や画像を見ながら今後の治療方針の説明を受けました。内容は、今回の病変は、肺がんではなく中咽頭がん・多発肺転移であるとのことで、完治は困難なものであり、あくまでも病気の進行を遅らせるために、これまでに使用していない薬剤(抗癌剤)による治療を行うということでした。しかもこの薬は一生続けないといけないというものでした。

抗癌剤治療の小冊子があったので、目を通してみたのですが、ここにも脱毛、倦怠感、味覚障害などネガティブな症状が多く記載されており、前にも増していたたまれない気持ちになりました。

肺がんと聞くと、最近は 分子標的治療薬で「イレッサ」などの名前を耳にしていたので、この薬などはどうか尋ねたのですが、「肺にできてはいるが、今回のものは原発巣からの転移なので肺がんの薬は効かない」といわれました。


この時私は体力の衰えもあり、新しい抗癌剤を投与されることに対して自分の体が持ちこたえられるのか自信がありませんでした。
前回の治療では腎機能低下という後遺症が残っており、その上今後の治療では肝機能に影響が出る可能性が高いというのです。
だからといって標準治療である抗癌剤の投与をしなかったら一体どうなるのか、医療関係者でない私達にわかるはずなどありませんでした。
治療法については妻とも何度も話し合い、本当に悩みました。

その結果、先生に現状の行動や一日の過ごし方などいろいろお話しし、今しばらく抗がん剤を使用することを先に延ばしたいと申し出ました。
先生はしばらく考えておられましたが、私の考えを認めて頂きしばらく抗がん剤の使用は見送ることとなりました。もちろんこの時点で、先生の説明して下さった治療法以外に具体的なプランがあるわけではなかったのですが・・・


それからは体に負担の少ない体調の改善方法が何かないかと妻はあらゆる手段で情報を収集し始めました。同じような病気をした方で元気なった方の話を聞くなどし、それを参考に必死に私のサポートをしてくれました。
ある時妻は私にこう言ってくれました。「元気になることがあなたの仕事です」
この言葉が私を勇気づけてくれ嬉しかったものの、「元気になってみせる。どんなことをしてでも」と答えるのが精一杯でした。



新たな重石が加わった上に、体がだるい・歩くのが辛い・立ち眩みが多い・食事が摂りづらいなど、いろいろな副作用が重なり、それが気分的にも大きく影響を及ぼしたのか、前向きに行動しようとしても思うようにいかず、体調はなかなか回復しませんでした。

お盆が近づきつつある中、気分転換にと妻の運転で島根の田舎に帰りました。ひょっとしたらもう帰れなくなるかもしれないなどと弱気な考えも脳裏をかすめました。

しかし田舎ではサツマイモ堀や小豆のもぎ取りなど、出来るだけリハビリに繋がる農作業を楽しみながら手伝うなど、環境の変化による大きな気分転換が出来、少し元気になり気力もアップしました。鳥のさえずりや木々が風に揺れる音など自然の息吹を全身に感じました。

自分の生まれ育った所で、大地のパワーを浴びていると何だか「希望」と言う言葉が浮かんできました。

その時はこれ以上周りに心配をかけないようにと、肺に転移したことは一切口にしませんでした。その後現在までそうしており、ここで初めて知ることとなる家族や友人もいると思います。ご心配をお掛けして申し訳ございませんでした。


それからさらに3ヶ月が過ぎ、新たに受けたCT検査の結果の説明を受けるため病院へ行きました。
毎回のことですが、心中穏やかではありません。名前が呼ばれるまでの待ち時間の長かったことといったら・・・


次回へ続く


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「癌から奇跡の復活 ・ 第3章②」

2014年04月20日 | 健康・病気
たっきーです。
今日は0のつく日、4月20日です。
シリーズは第3章です。
がん患者の方、その家族の方の何かの参考になれば幸いです。

「癌から奇跡の復活 ・ 第3章②」
【不安と感謝・・・】


マッサージと通院の繰り返しが続いている中、副作用とみられる症状により体重の減少が止まらず、体力も衰える一方で、先生に相談した結果、抗がん剤の服用を一時中止することになりました。

点滴は栄養補給などいろいろな種類のものが行われ、一日がほとんど点滴で終わる日が続きました。


妻や家族、そして担当医の先生や看護師さんに随分心配をおかけしましたが、私にとって、またまたショックな事態が起こりました。

それは、私が初診時からお世話になっていた片桐先生が異動となられたことです。片桐先生は私の病気についてすべてのことを一番わかっていただいており、全幅の信頼を寄せていました。その先生が変わるということは私にとって大きな不安要素でした。


医者と患者の関係はどうあるべきか・・・なかなか難しいことですが、これまで先生は私のどんな相談に対しても、優しく気軽に答えて下さり、当然ながら『完治するまでしっかりと診ていただける』ものだと思っていました。

勝手な解釈ですが、軽い病気であれば先生が変わってもあまり心配することは無いと思うのですが、私の場合、残念ながらそうではありません。この時点での先生の交代は、ある意味「生きる!必ずうまくいく」という私の信念が揺らいでしまうのではないかと思われました。
しかし無常にも月日は流れ、先生がこちらで勤務される最後の日を迎え、お礼の挨拶に伺うことが出来ました。


先生には大変お世話になり、感謝の念で一杯です。 片桐先生、本当にありがとうございました。

2012年7月からは、高原先生が担当医となられました。
高原先生は、初対面ではなく私が入院中に病棟で診察をしていただいていたことがあり、私の症状を把握されているため、話がしやすく助かりました。

この頃になると食事も少しは食べられるようになりました。その中で、喉の通りがいい「とろ玉うどん」が一番食べやすかったのですが、それでも完食はできずいつも半分以上は残していました。以前程ではないですが、また食事が楽しみになってきました。

寒さと冷えが一番苦手な私にとって、夏になることはとっても嬉しい事ですが、放射線を浴び続けた私にとって引き続き先生から「紫外線に気を付けなさい」と言われていたので、残念ながら外出はできるだけ控え、マッサージに通うことと、気分転換で親友に時々天気の良い日にお昼を食べに連れ出してもらう程度で、ほとんどの時間を自宅で過ごしていました。

一方で、仕事と両立して私の面倒を一生懸命みてくれていた妻が、私の病気を完治させるためということで、25年間勤めた会社を退職しました。
私としては「本当にご苦労様」というねぎらいと「申し訳ない」という複雑な思いでしたが、それよりも、感謝の気持ちが一番強かったですね。最終日に帰宅した妻に「本当にありがとう!これからもよろしく。」と伝えました。


退職した妻は、本当は他に自分のやりたいことがあったと思いますが、私の為に、病院の治療と民間の治療等について猛勉強をし、特に食事については、徹底して工夫した食事を毎回作ってくれました。

しかし、その食事療法は多岐に渡り試行錯誤を重ねました。今では笑い話ですが、塩分がほとんどないもの、生のしぼりたて野菜ジュース、玄米菜食などありとあらゆる『体に良いと思われる事』を試していました。作ってくれた妻には悪いのですが、味覚がない私にとって、正直この頃は食事が苦痛に感じました。

毎朝生にんじんジュースを飲んでいた時など全身黄色くなり、黄疸が出たのではと先生に相談したこともありました。しかし、このことで「点滴でなく、口からものを食べないと身につかない」ということを思い知らされました。また、毎日妻が側にいるという安心感を強く感じていました。

誰かがいつも側にいてくれると、少々しんどくても気分転換に外出をしたくなるもので、ある日思い立って、県北の温泉宿に出掛けました。駅からの送迎バス付きですが。
温泉に入ると体が温まるのはもちろん、体のしんどさよりも、違った環境に自分が行けたという喜びの方が大きく、これが自信となり、もっと外出回数を増やそうと思ったものです。


この頃には、抗がん剤治療で髪の毛はすべて抜け、一時ツルツルの頭になっていました。自分では外見はほとんど気になりませんでしたが、周囲の目はやはり違っていて普段かぶっていなかった帽子をかぶるようになっていました。
そんな頭髪も半年後には再び生えてきて一安心。散髪に行けるほど伸びました。

そして少しずつ気力と体力が戻り始めた頃、手術後初めてのCT検査を受けましたが、検査結果は次回の受診日に聞くことにしていました。
それから何事もなく数日が過ぎたある日の夕方、突然に「検査結果についてお伝えしたい事があります。」と病院から電話がかかってきました。
検査の結果について病院から連絡などこれまでに一度もなく、思わず妻と顔を見合わせました。背筋に冷たいものを感じました。

次回へ続く


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「癌から奇跡の復活 ・ 第3章①」

2014年04月10日 | 健康・病気
たっきーです。

今日は0のつく日、4月10日です。
4月からはシリーズは第3章です。
がん患者の方、その家族の方の何かの参考になれば幸いです。

「癌から奇跡の復活 ・ 第3章①」
【通院治療へ・・・】

退院して自由に行動ができるようになると喜んでみたものの、現実はそんなに甘いものではありませんでした。入院生活による体力の衰えは著しく、思うように動かない体で不都合なことがいっぱい出てきました。 手術の後遺症ですが、筋肉が固まってしまったのか、右腕が動かないことや首が回らないことなどこれまで経験したことのない状態で、箸の上げ下げも難しく、左右を見るときは首と一緒に体ごとその方向に動かしてものを見る感じです。

退院1週間後に手術したところに貼ってあったテープを取ってもらうため病院を訪れました。傷痕は細い線が出来たくらいで、見た目にはほとんどわかりません。看護師さんからも「きれいきれい」と言われるほどでした。 これで私の体には治療に関するすべての付着物はなくなりました。

しかし、これで治療が終わったわけではなく、再発予防を含めてこの日からあらたに飲み薬による治療が始まりました。

この薬は「ティーエスワン」という抗悪性腫瘍剤で、一日2回、超夕食後に1回カプセル3個、2週間飲んでそのあと1周間休みです。これまでの治療で唾液がほとんど出なくなったうえに口が渇く、体がだるいなどの状況が続き、カプセルを飲むのも一苦労でした。食事に至っては、相変わらずの味覚障害と唾液不足で、食べたものが口の中にくっついてしまい、また、噛む力・顎を動かすのも怖く少しの量を口に入れては水やお茶で流し込む感じでした。水分ばかりでお腹がいっぱいになってしまうため、必要なカロリーには到底達していなかったでしょうね。

また、放射線治療のあと喉の痛みや腫れが残っており、嚥下障害で飲み込んではむせの繰り返しで、あんなに楽しかった食事の時間が苦痛になりました。「本当に食事などしなくていい、横になって休んでいる方がいい。」と思う日が何日もありました。

さらに、首周りの神経が過敏になっていることもあってか、着ている肌着が皮膚に触れるだけでピリピリ痛みが走るのでイライラし、いろいろなことを思うようになり違った病になったのではという日が続きました。

それでも我慢しながら出来る限り食べるようにし、リハビリ・マッサージも週一回は必ず通い固まった筋肉のほぐしに務めました。

しかし、手術、入院生活によって一旦固まった筋肉をほぐすことは、普段の凝りと違い一筋縄ではいかないようです。治療院の先生も「2~3年はかかりますよ」と仰られ、「えっ、そんなにかかるの?」と呆然としました。
ですが、気持ちを切り替えて、先生に言われた通り、毎日自分で出来る運動を、痛みに耐えながら続けていました。

二回目の通院で血液検査などは問題なかったのですが、二回目の「ティーエスワン」を服用し始めて間もなく、人生で初めてというほどの激しい下痢症状が約1周間続いたのです。毎日、食べてもすぐにトイレに駆け込む状態で、食事するのも怖くなりました。当然食欲など湧くはずもなく水分不足も重なってふらふらするようになりました。自分でもびっくりするほど、本当に“げっそり”した姿で、見る影もありません。
急遽病院に行き診察してもらうと脱水症状で即、点滴が始まりました。エネルギーの補給・ヴィーンD 注500mlを二本です。結構長い時間がかかりましたが終わると少し元気になった感じでした。
この間、食事は中々摂りづらく3日に一回のペースで点滴してもらいました。この時期自宅では私一人で、フラフラの状況はしばらく続き、ほとんど横になって休んでいましたが、急に立ち上がると意識がなくなり倒れたことが数回ありました。
ついには、立って二歩ほど歩いたのは覚えていますが、そのあと意識はなくなり倒れた時にドアノブか何かにぶつかったのでしょう、気がついた時はドアの前で倒れたままで顔の周りは血の海という事態が発生してしまいました。
鼻は痛く少し曲がったようでしばらく何が起きたのかわかりませんでしたが、鼻血が出たのだと。多量の血を見ると気分はますます悪くなり、動くのも慎重になり体重もついに入院時に比べて20キロ減って42キロになってしまいました。

さすがにここまで急激に体重も落ちると筋肉はなくなり、普通に歩くことも出来なくなり杖が必要になりました。

一度悪い方に向かうと段々気力も体力も弱り、退院して6ヶ月後頃には、まさに人生で最悪の状態を迎えました。そして、毎日点滴にはタクシーで通うようになっていました。

また、食事をするのがとても辛く、何を食べるにしても量は僅かで、味はなく生きるために食べ物を無理矢理口に入れるというある種 “苦行” といった感じで食事をしていました。

唾液が出るのが少ないので、口の中は常に乾いた状態であるため、歯にも影響が出始めました。歯科医から口の中に塗る保湿クリームも処方してもらい少しは楽になる時もありました。普段何も気にしていない唾液ですが、これほど唾液が重要であるとは、思ってもみませんでした。

さらに、飲み薬の副作用は目にも出はじめ、目ヤニがやたら出るのです。
ついつい擦ってしまうので、角膜に傷がついたのでしょう、目がしょぼしょぼするなど不快な状態で、眼科で目に塗る軟膏薬をもらいましたが、自分で塗るのはすごく怖かったので、妻にお願いして塗ってもらっていました。

退院して良くなるばかりと信じていましたが、逆に体のあちこちがボロボロになって行くように感じました。栄養補給の点滴も毎日するような事態になる中で、親友も心配して頻繁に声をかけてくれました。しかしこの時期、先生から 「紫外線にはあまり当たらないように」と言われていたので、気分転換での外出もままならず、「負けない!気力、気力、気力・必ずうまく行く」という言葉をを頭の中で唱えて過ごすのが精一杯でした。

次回へ続く


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする