gooブログはじめました!

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

⑧携挙について

2021-02-17 01:18:57 | 携挙

携挙に関係していますが、少し脱線して昨年、過去ブログに書いた個人的な夢の話をします。

昨年、携挙の夢を見たという人の英語動画のスレに行きました。自分が空を飛んでいる携挙の夢を見たという海外の人たちが動画をあげています。

そこである姉妹とスレで会話をしました。すると、“もうすぐ携挙が起こるから、天国で会おうねシスター!”と言われました。

それで、私はこう返信しました。“私は携挙については、どの説を信じれば良いのか未だ判らない。もし、携挙が起こるのなら、その啓示として夢で見れたら信じる!”と書き込みました。

すると、スレを読んだ何人かの人たちが祈ってくれたのだと思いました。なぜなら、ほとんど夢を見ない私が、その同じ晩、ある夢を見ました。

そのブログはあまりにも個人的な夢の話だったので、少し前、削除してしまいましたが、こんな夢でした:

 

父と母が国際線の搭乗ゲートに向かって、わたしよりかなり先に、ウイング( 飛行場の廊下) を歩いてました。

私は、だいぶ遅れをとっており、でも全く焦ってる様子もなく、余裕の気持ちで搭乗ゲートに着きました。ただ、足もひきずっており何だかボコボコに疲れ切っていた様子でした。それなのに、心は歓びでいっぱいでした。搭乗ゲートの女性スタッフ3人から、「お客様が一番最後ですよ、急いで下さい‼」と、冷たい表情で注意されるかとハラハラして到着しましたが、待ってました!といわんばかりの心からの笑顔で迎えられれました。

すると、スタッフの 1人が、疲れ切った私をヒョイと肩に担ぎ、搭乗口に向かって歩きだしました。とても細身の女性なのに、私を軽々と持ち上げる怪力な人でした。そして搭乗口の少し手前で私を下ろしたら、とても温かいハグをくれました。「さようなら~、行ってらっしゃい!!」と、笑顔で大きく手を振ってくれ、最高のもてなしで見送られました🥰

そして、わたしが、搭乗扉に向かって歩き出しはじめた所で、夢が終わりました。

 

目が覚めた時、久しぶりに見たこの夢に、何らかの意味があるに違いない、と感じ、“夢の意味を知りたい”、と祈り始めました。

私のパスポートは更新しておらずもう何年も有効期限が切れて使えないのに、国際線から家族全員でどこに旅立つ夢なのか?家族そろって旅行するなんてほとんどないし…一体どこに向かって旅立つ夢なんだろ?

と頭をひねりました。よくわからない夢でしたが、この夢に何らかの霊的な意味があると感じられ、意味を考え続けました。

 

そして、想いに来たのは、“国際線から国外に出発するのに、パスポートなしで入国出来る国はどこなのか??と、考えていたら、 紛れもなく、天国しかない!!と思いました。

外国に入国する時、パスポートやビザが必要になるのは地上の制度ゆえにです。でも、天国に入国するにはイエスを信じることだけがパスポートとなります。

神の国に旅立つ(携挙)される霊的な夢だったと納得しました。

スレで会話したクリスチャンたちが、私が携挙の夢を見れるように祈ってくれたから、その夜、こういう夢を見たのだと察知しました。

ですので、私は、この夢を見た後から、艱難前携挙があるのだと少しずつ信じ始めてました。

 

ところがです、

でも、現在の私は、艱難時代前携挙に疑いを抱き始めています..... 

ですので、昨日、神様に「昨年見たあの旅立つ夢は、携挙の夢ではなかったのですか?携挙の夢だという確信を神様が下さったのだと思いましたが・・・今になって、あの夢をどう理解すれば良いのですか?」と質問しました。

すると、数分後、想いに来た答えは、あれは紛れもなく天国へ行く旅立ち(携挙?)が起こるという意味だったと確信しました。

ただ、私が見た夢は、搭乗ゲートに向かって長いウイング(飛行場の廊下) を歩いて行く+搭乗ゲートに到着する夢 でした。空中に引き上げられ携挙体験している夢ではありませんでした。

そして、続けて、このような理解が想いに来ました。

携挙は起きるけど、スグに起きる事ではなく、携挙される時期に目指して歩んでいる過程(プロセスを歩んでいる)の夢であること。そして、夢の中の私が、一番遅れて到着し、かなり疲れ切っていたのは、艱難時代に入って神様のことを伝える苦労をしたからということでした。でも、神様の救いを伝える任務を果たせたので、その割に心は歓んでいたのです。

そして、笑顔で迎えてくれた搭乗ゲートの3人の女性スタッフたちは、実は天使たちで、神様の任務を務めた私が、神様の国に旅立てることを心から歓んでくれたから、素晴らしい対応をしてくれたのでした。女性なのに、怪力だった理由は天使だからでした💪👼‼  

 

ほんとに個人的な解釈だと笑われるかもしれませんが、このような解釈を受けました。とにかく、天国に向かって飛び立てることは確認できた夢でした。後は、夢で終わらないようにです😅

 

16歳の時、「神様、私はあなたが存在する事さえもわかりません。世界には多くの宗教もありますから、だれが本当の神様かもわかりません。でも、もし神様がおられ、イエス様、あなたが神様なら、どうか、このことを叶えて下さい。もし、叶えて下さるなら、生涯あなたに着いて行きます。」とノートのページを破り、神様に対する契約書を書き、日付と署名をしました。そして、2週間、人生であれほど祈ったことないほど必死で祈りました。すると、大奇跡が起き、祈りが叶いました。

16歳の時に神様に生涯ついて行きますと誓いました。なので、これを全うしなければ、私がこの世に生まれてきた意味がないのです。本来、神に誓いを立てることは、やってはいけないことだと後で知りましたが、ド素人だったので、勢いで大胆にも誓いを立ててしまいました ^_^; 

信仰など全く縁のなかったド素人の16歳の私に、スゴい大奇跡が起きました。私は教会にも行ったことなかったですし、聖書も読んだことなかったです。ある時、クリスチャンの日系人のおばさんとの電話の会話の中で、「疑うことなく、イエスの御名で祈ったら何でも叶う」と言われたのがキッカケでした。神様という存在が本当にいるのかさえわかりませんでしたが、大ピンチが起きたので、一か八か藁をもすがる想いで、神様がいるかどうか試してみようと想い、真剣に祈り始めました。

神様の手を動かすことに、信仰の長さはあまり関係ないです。一回一回に、信念の深さが大事です。あなたも、私も同じラインにいます。神の国は、人間界の先輩後輩、上下関係のピラミッド・システムではありません。 謙虚になり、全能者である神様に結果を委ねるなら働かれます。

神様からの祈りの応えとして、YES ・NO ・GO・WAIT などの答えがあります。 たとえ、祈った通りにならなかっとしても、それ以上に最善な所に導かれることもあります。また、すぐに叶わなくても、時が来たら叶う事もあります。塵も積もれば山となる、信仰はコツコツが大事です。奇跡や異言を求める信仰よりも、単調な生活の中に神を見つけ、当たり前の事にでも感謝し、コツコツ継続し続ける信仰のほうが難しいと感じられます。もちろん、奇跡や異言を望むのなら、それは自身のチャレンジになるので、求めてもよいかとは思います。でも、イエスが救い主だと心で想い告白出来れば、既にその人に聖霊は宿っているのです。

 

あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。1ペトロ1:3〜12

イエス様はこう言われました。「見ないのに信じる人は、幸いである。」ヨハネ20:29

OGPイメージ

[リビングライフ]深く悟って従う良い心(マタイの福音書 13:18-30)|三好明久牧師

⛪ニュー・クリエイション・チャーチ[千葉]|三好明久牧師 📖リビングライフはツラノ書院出版の日々のデボーションガイドです。 📖テキストの...

youtube#video

 

 

OGPイメージ詩編 40

1【指揮者によって。ダビデの詩。賛歌。】
2主にのみ、わたしは望みをおいていた。
主は耳を傾けて、叫びを聞いてくださった。
3滅びの穴、泥沼からわたしを引き上げ
わたしの足を岩の上に立たせ
しっかりと歩ませ
4わたしの口に新しい歌を
わたしたちの神への賛美を授けてくださった。
人はこぞって主を仰ぎ見
主を畏れ敬い、主に依り頼む。
5いかに幸いなことか、主に信頼をおく人
ラハブを信ずる者にくみせず
欺きの教えに従わない人は。
 
6わたしの神、主よ
あなたは多くの不思議な業を成し遂げられます。
あなたに並ぶものはありません。
わたしたちに対する数知れない御計らいを
わたしは語り伝えて行きます。
7あなたはいけにえも、穀物の供え物も望まず
焼き尽くす供え物も
罪の代償の供え物も求めず
ただ、わたしの耳を開いてくださいました。
 
8そこでわたしは申します。
御覧ください、わたしは来ております。
わたしのことは
巻物に記されております。
9わたしの神よ、御旨を行うことをわたしは望み
あなたの教えを胸に刻み
10大いなる集会で正しく良い知らせを伝え
決して唇を閉じません。
主よ、あなたはそれをご存じです。
11恵みの御業を心に秘めておくことなく
大いなる集会であなたの真実と救いを語り
慈しみとまことを隠さずに語りました。
12主よ、あなたも憐れみの心を閉ざすことなく
慈しみとまことによって
いつもわたしをお守りください。
 
13悪はわたしにからみつき、数えきれません。
わたしは自分の罪に捕えられ
何も見えなくなりました。
その数は髪の毛よりも多く
わたしは心挫けています。
14主よ、走り寄ってわたしを救ってください。
主よ、急いでわたしを助けてください。
 
15わたしの命を奪おうとねらっている者が
恥を受け、嘲られ
わたしを災いに遭わせようと望む者が
侮られて退き
16わたしに向かってはやし立てる者が
恥を受けて破滅しますように。
 
17あなたを尋ね求める人が
あなたによって喜び祝い、楽しみ
御救いを愛する人が
主をあがめよといつも歌いますように。
 
18主よ、わたしは貧しく身を屈めています。
わたしのためにお計らいください。
あなたはわたしの助け、わたしの逃れ場。
わたしの神よ、速やかに来てください。

 

 

 

 


⑦携挙について

2021-02-16 22:46:17 | 携挙

艱難前 携挙 が間違っている理由を訳してみました。

今回は、【黙示録 4章以下に“教会”というコトバが存在しないから、艱難時代前に携挙されている】という艱難時代前説 に対する反論を紹介します。

 

牧師さんの前書き:

When I was pretrib it was not because I was a coward, it was because I sincerely believed Pretrib/Dispensationalism was the truth. A Post-trib now (for 25 years), I can say it is equally wrong when I hear insinuations that Post-tribs are foolhardy masochists. I know that isn’t so. I do not particularly relish the thought of suffering. Here’s where it all really comes down to - what does the Bible really say? It’s not a matter of what I want.

私も、初めは艱難前携挙説を信じましたが、別に怖がりだったからでもなく、その時は、艱難前携挙/ディスペンセーション主義が真実だと想い込んでいました。その後 25年間、艱難時代後 携挙説を信じています。“艱難時代後説”について、無謀で向こう見ずな考えを当てこすっている、と批判する声も耳にしますが、そうは思いません。 とは言っても、私だって、艱難期に試練を体験することを楽しみにしているわけではありません。でも、自分の願望ではなく、聖書に何が書かれているのかを教えることが、私の信念の根底にあります。

 

<艱難前 携挙説の主張>

The word "church" is found often in chapters 1 - 3, but is missing in the tribulation chapters. 

「黙示録1-3章では、“教会”というコトバが引用されているけど、4章からは、“教会”というコトバが使われてないのは、艱難時代前携挙が起きて教会が取り去られているからです」

 

<上記の主張に対する反論>

However, this does not prove pretrib for the following reasons: 

上記の理屈が艱難前携挙を立証する事にはなりません。その理由はこれらです:

■ The first thing that should strike us is Revelation has more detailed information about the tribulation than anywhere else in the Bible - why such detail addressed to those who are not supposed to be there? The entire Revelation is addressed to the church in chapters 1-3, common sense would dictate that Revelation is addressed to those who are supposed to be there

黙示録では艱難時代について、聖書の他のどの書より、とても詳細に説明されています。では、艱難時代前に世界中の信者がいなくなるのなら、どうして、そこまで詳細に説明する必要があるのですか?艱難時代の詳細について、ヨハネは1~3章の名前のリストにあるアジアの7つの教会に手紙を宛てたから○○教会と書かれているだけで、4章以下に固有の教会名や教会というコトバがないのは、4章からは、未来(私たちの世代)のクリスチャンに対してのメッセージなのです。

 

■ The church (the seven churches of Asia)  is depicted on earth in chapters 1-3, and is supposed to be no longer on earth, but in heaven in chapters 4-19. The absence of the word "church" in the earthly scenes is supposed to prove the church is now in heaven. But this proves too much for the pretribs, it is a double edged sword. For in depictions of what's going on in heaven during the tribulation, 4:1 - 5:14; 7:9 - 8:5; 11:15 - 12:17; 14:1-5; 15:1-8; 19:1-10, "church" is not there either!. So, the pretrib inference is nullified, the non-mention of the church in heaven during the tribulation cancels out it's non-mention on earth.

アジアの7つの教会宛てに、この手紙が書かれた当時(1~3章)、これら教会は、まだ地上に存在していましたが、4~19章は未来の時代のことで、その頃には、これら教会は地上ではなく天国にいます。そういう理由で、4章以下は、アジアの教会の名前も“教会”というコトバも使われていません。 使徒ヨハネは、アジアの7つの教会に宛てて書きましたが、未来に起こる艱難期になると(4章以降)、アジアの7つの教会は地上に不在になることを念頭に、あなたたち“教会”という表現をしなかったのです。黙示録4:1-5:14;  7:9-8:5;  11:15-12:17;  14:1-5;  15:1-8;  19:1-10 の出来事が起こる時、アジアの7つの教会は既に天に上げられており、地上にいません。

 

■ Pretribs divide Revelation into very distinct sections: church (chapt. 1-3), tribulation (ch. 4-19), millennium (ch. 20), new heavens and earth (ch. 21 - 22:15), and conclusion (22:16-21).In the conclusion we find "churches:" "I Jesus have sent my angel to testify unto you these things in the churches" (22:16). Since this is at the end of the book"these things" includes the tribulation, millennium, and new heaven and earth. Obviously, this verse is a summing up of "things" that pertain to the "churches." Why single out the tribulation because the word "church" is absent? It's NOT in the millennium and new heaven and earth section either! Does the Millennium and the new heaven and earth pertain to the church? If so, then so does the tribulation.

艱難前携挙説を支持する人は、黙示録の時期を以下のように章を別けて捉えた後、艱難時代期だけは教会に関係ないと例外にします。

1~3章:教会  /  4-19章:艱難時代  /  20章:1000年王国  /  21-22:15:新天地  /  22:16-21:結び

注意すべき視点は、最終章である黙示録22章、16節に、複数形の“教会”(churches)というコトバが使われています。

16 わたしイエスは、これらすべて”を諸教会に知らせるため、あなたがたに使者を送りました。わたしはダビデの根であり、その子孫です。また、ひときわ輝く明けの明星です。

そして、22節には、“これらのこと”を知らせてくださった方が、はっきり宣言します。「そのとおり。わたしはすぐに戻って来ます。」アーメン。主イエスよ、来てください。

とあります。 黙示録22章(結びの章)に、“教会”というコトバが出てきます。また、“これら”(these things)とあります。“これら”が意味するのは、4~22章に描写されている艱難時代、1000年王国、新天地 で起きることの全てについてだということが明白です。そして、これら全てについての警告(アドバイス)が、諸教会宛てられたという事です。ですので、“艱難時代”も教会に関係するのであり、艱難時代だけは例外で、“教会”に関係しないとは主張出来ません。艱難時代が教会に関係ないなら、それ以降の1000年王国や新天地と地上 についても教会に関係ないということになります。

 

■  A glaring example of the error of making a doctrine out of the non-mention of "church" is Rev. 19:7: "The marriage of the Lamb is come, and his wife hath made herself ready." We dare not exclude the church here because the word "church" is not there. Is not the church the bride of Christ? What we have here is proof that other words can be used besides "church."

黙示録19章7節に、さあ、大いに喜び楽しみ、神をほめたたえよう。小羊の結婚の時が来て、花嫁のしたくも整った。 という箇所では、“花嫁” (his wife)のしたく と書かれています。“キリストの花嫁”のはずである“教会”(church)というコトバが使われていないのは、教会が既に艱難時代前に消えているからだという説明を耳にしますが、この章では、どうして“花嫁”と表現されているのかは、婚礼の表現に、“教会の支度”とするより、“花嫁の支度”と表現したほうが文章的に意味が通るからです。聖書では、“教会”が、別のコトバでも表現されます。

 

■  In the first fifteen chapters of Romans, a vitally important doctrinal part of the NT, the word church is not there. And, it's not in the following books at all: Mark, Luke, John, 2 Timothy, Titus, 1 Peter, 2 Peter, 1 John, 2 John, and Jude! Yet, we all know these books are for the church (especially the epistles) - even though the word "church" may not be there. The church in the se books, and in the rest o Peter, 1 John, 2 John, and Jude! Yet, we all know these books are for the church (especially the epistles) - even though the word "church" may not be there. The church in these books, and in the rest of the NT, is spoken of as "saints," the "elect," God's "people," God's "Israel," true "Jews," Abraham's seed, "servants," the bride of Christ, etc. THE SAME IS TRUE FOR REVELATION. 

ローマ書1~15章には、新約聖書の中でも、とても重要な教えが載っています。しかし、“教会”というコトバは1度も使われていません。マルコ、ルカ、ヨハネ、2テモテ、テトス、1ペテロ、1ヨハネ、2ヨハネ、ユダ 書においても使われていません。しかし、これら全ては教会に宛てられたものだというのは言うまでもないことです。特に書簡(the epistles)は、教会宛てだということが明白です。これらの新約聖書の書物の中に“教会”というコトバが1度も書かれてなくても、“聖徒”(saints)というコトバが使われています。もちろん、他の新約の書物にも“聖徒”、“選ばれし者”(the elect)、“神の民”(God's people)、“イスラ工ル”、“アブラハムの子孫”(Abraham's seed)、“キリストの体”(body of Christ)、エクレシア、“神の宮”(Temple of God)、“仕えるもの”(the servants)、“キリストの花嫁”(the bride of Christ) など、様々なコトバで“教会”が、表現されています。

 

"Saints" are definitely depicted in the tribulation in 13:7,10; 16:6; 17:6; 18:24, suffering at the hands of antichrist. Pretribs say, due to the usage of "saints" instead of "church," that this cannot be the church. But, that it is the church is manifest, for 19:7, 8 says: "Let us be glad and rejoice, and give honour to him: for the marriage of the Lamb is come, and his wife hath made herself ready. And to her it was granted that she should be arrayed in fine linen, clean and white: for the fine linen is the righteousness of the SAINTS." The bride, which all acknowledge to be the church, is arrayed in the righteousness of the SAINTS! The same "saints" Revelation depicts in the tribulation.

黙示録13:7-10, 16:6, 17:6, 18:24 には、艱難時代期の中での反キリストによる迫害が記載されています。“教会”ではなく、“聖徒“(saints)というコトバが使われていることに対し、携挙で取り上げられた“教会”ではなく、携挙で取り残された聖徒=クリスチャンに対する迫害のことであり、“教会”に対しての迫害ではないと主張していますが、黙示録19章には、このように書かれています。 

7さあ、大いに喜び楽しみ、神をほめたたえよう。小羊の結婚の時が来て、花嫁 のしたくも整った。 8花嫁は、輝くばかりの、きよく真っ白な麻布の衣を着せられた。」この麻布は、聖徒の正しい行いを表しているのです。

これから判るのは、“花嫁”=“聖徒”のことであり、“聖徒”=“教会”のとこです。黙示録の艱難時代(現代)において、“聖徒”というコトバは、“教会”と同じ意味で使われているのです。

 

The non-mention of "church" in the tribulation section is a faulty inference. The book of Revelation is, after all, only addressed to the seven churches in the province of Asia minor, not to the church at Antioch, nor the church at Rome, etc. - NOT to the church in it's totality. To a provincial church, not to the general church. Thus, a word that designated the general church in the endtimes such as "saints" would naturally be used. ["Saints" is used of the church some 50 times in the epistles.] To symbolize more specific aspects of the church, the bride (Rev 19:7); and the 144,000 "servants of our God" (Rev 7:1-8; 14:1-4), which is God's Elect, God's Israel (the Israel of God, Gal. 6:16), are used.  

艱難時代に“教会”というコトバが出てこないから、教会は既に携挙に預かっていると考えるのは、間違った推測です。

結局のところ、黙示録は、“アジアの7つの教会”だけに宛てられた手紙であり、アンテオケやローマの教会などには宛てられていません。全ての教会や一般の教会に宛てらたのではありません。アジアのある地方の教会に宛てられたのであり、その他全部の教会宛てではありません。ですので、アジアの7つの教会以外の、黙示録4章以降の終末時代に生きる教会の人たちについては、“聖徒”(saints)というコトバで呼んだのです。新約の書簡では、“聖徒”というコトバが50回程使われています。 他にも、黙示録19:7の“花嫁”(the bride)、黙示録7:1-8, 14:1-4にある14万4000人の“神の働き人=神に仕える者”(servants of our God)=“神の選ばれし者”、“神のイスラ工ル”(ガラテア6:16)などの詳細記述が、“教会”を象徴するシンボルです(別のコトバですが、全て教会のことを指します)。


③【イエスの再臨】2028年!!??

2021-02-15 23:56:07 | 聖書メッセージ

この1カ月ほど、Figtree generation( 直訳:イチジクの木の世代)について調べるよう促されていました。

コトバは耳にしていましたが、あまり意味を理解していませんでしたので、気になっていました。

 

昨夜、最初にクリックした動画が、なんと、前回紹介した2028年再臨説のチャンネルオーナーの動画でした。

イチジクの木が葉っぱをつけて実がなるのと同じく、今の世代がイチジクの木の世代=終わりの世代 だというの象徴だという意味でした。

すごい時代に生きているのを実感します💦

 

見ていると、イエスの再臨の計算式がありました。なるほど!

4:10~

Parable of Budding Fig Tree Confirms Christ's Return AD 2028

http://www.2028END.com On the mount of Olives, Jesus told a parable o...

youtube#video

 

 

他の人の動画でも、Figtree generationはやはり1948年に始まると宣言していました。

そして、様々の動画で、似たような方法で計算していました。

■1948+70年=2018 1948+80年=2028 2018~2028年の間に再臨がある

■1948, 5月14日 + 80年+80年度目 = 2029, 5月14日      2029,5月14日 -7年  = 2022, 5月14日 までに艱難時代スタート 

 

■イチジクの木の実はヘブル語で、kate (カイツ) 、qets (ケッツ)と呼ばれるそうですが、

qetsの別の意味は“終わり”=end という意味だそうです。

OGPイメージ

The Parable of the Fig Tree / UNDERSTANDING JESUS

Modern-day Christians often bring their own presuppositions and assump...

youtube#video

 

 

関係ありませんが、ちなみに、イチジクに実をならすのは大変そうです!

OGPイメージ

【イチジク】摘心と芽かきを園芸農家が実演解説!

花の園芸農家による『植物と暮らす素敵な生活』の実現を応援していくチャンネル☆ 皆さん素敵なグリーンライフお過ごしでしょうか?(^^) 今回の...

youtube#video

 

 

また、他の動画では、1948年から数えて100年以内のどこかに再臨があるとする解説がありました。理由は、エジプトで奴隷

になっていた400年間の4世代から考えると、1 世代を100年単位としてイチジクの木の世代をカウントするらしいです。

1948+100=2048年  2048年以内に再臨ということです。早く来てもらわないと困りますね・・・😿💦

12 日の入るころ、アブラムが深い眠りにおそわれた時、大きな恐ろしい暗やみが彼に臨んだ。
13 時に主はアブラムに言われた、「あなたはよく心にとめておきなさい。あなたの子孫は他の国に旅びととなって、その人々に仕え、その人々は彼らを四百年の間、悩ますでしょう。
14 しかし、わたしは彼らが仕えたその国民をさばきます。その後かれらは多くの財産を携えて出て来るでしょう。
15 あなたは安らかに先祖のもとに行きます。そして高齢に達して葬られるでしょう。
16 四代目になって彼らはここに帰って来るでしょう。アモリびとの悪がまだ満ちないからです」。
17 やがて日は入り、暗やみになった時、煙の立つかまど、炎の出るたいまつが、裂いたものの間を通り過ぎた。
18 その日、主はアブラムと契約を結んで言われた、/「わたしはこの地をあなたの子孫に与える。エジプトの川から、かの大川ユフラテまで。
19 すなわちケニびと、ケニジびと、カドモニびと、20 ヘテびと、ペリジびと、レパイムびと、
21 アモリびと、カナンびと、ギルガシびと、エブスびとの地を与える」。 創世記15:12-21

*16-20節に登場する部族は巨人族(悪霊とのハイブリッド)です。これは、現代の世界政府レプタイル勢力の象徴です。この悪の勢力を、神が最後には滅ぼして下さるという預言の象徴です。以前にも書きましたが、聖書は繰り返しが多いので、一つの聖句が複数の世代のことに当てはまる事が多々です。

そして、私が神様から、イチジクの動画を観て教えてもらったのは、今は、良い実も悪い実も一緒に育てられていますが、最後の収穫の時、神様が選別されるということです。毒麦の譬え話と同じです。現代、キリスト教会でも悪魔に魂を売った偽牧師・偽教師たちがあふれていますが、収穫時、神様が選別されます。世界の全ての国の中に、毒麦や実がつかないイチジクの木があるということです。だから、特定の国や人種を“悪”だと指さしたりは違います。

 

私は、前回2021~2028年ということを言いましたが、私は自分なりの根拠を次回書きます。

ただ、イエス様は、私たちの予期せぬ時に戻られるので、もう少し先になるのかもしれません。

2048年までの間だなんて、あまりにも遠すぎますよね… それって全然待てないです😓😿

 


⑥携挙について

2021-02-15 23:15:12 | 携挙

私は、昨年の夏から艱難前携挙説を頻繁に話題にする人たちの英語の動画登録をしていました。艱難前携挙説を信じている人たちを、わざわざ選んで登録したのではなく、米国には艱難時代前携挙を信じるディスペンセーション主義の人たちが圧倒的に多いのです。それは、沢山のハリウッドの携挙映画を観て育ったせいです。映画はビジュアルなので感情的に働きかける大きなインパクトがあります。

また、携挙に関する歌も流行りました。The Thief In the Night (夜の泥棒)という艱難前携挙シリーズの有名な映画の主題歌に使われました。曲として印象的な曲です。

例えば、イエスが迎えに来るのだったら自分たちも準備するべきだったと という内容の携挙の歌です。この曲は、それぞれの時代において大くの歌手がカバーして歌っています。普通にラジオでも流れますし、チャートに入った曲です。

歌詞の意味を訳してみました:

Life was filled with guns and war
毎日が、銃撃や戦争に満ちていた
And all of us got trampled on the floor
床に踏みつけられ乱暴に扱われた
I wish wed all been ready
あぁ、(神が戻られるまでに) 心の準備をするべきだった・・・


The children died, the days grew cold
子供たちも死んでいき、暗い日々が襲って来る
A piece of bread could buy a bag of gold
パン一切れが、袋いっぱいの金貨が買えるほどの高額な値段に跳ね上がった
I wish wed all been ready
あぁ、(神が戻られるまでに) 心の準備をするべきだった・・・

 [コーラス]
There's no time to change your mind
(御子が来てからでは) 心替わりするような時間はないよ
The son has come and you've been left behind
御子が戻られると、一瞬にして取り残されるのだから

A man and wife asleep in bed
 男と妻が同じ寝室で眠っていた
She hears a noise and turns her head he's gone
声が聞こえたから女がふり向くと、彼はもうそこにいなかった
I wish wed all been ready
あぁ、(神が戻られるまでに) 心の準備をするべきだった・・・

Two men walking up a hill
二人の男が丘を登っていたら
One disappears and ones left standing still
突然1人は消え、残された1人は茫然と立ち尽くすだけだった
I wish wed all been ready
あぁ、(神が戻られるまでに) 心の準備をするべきだった・・・

 [コーラス]
The father spoke, the demons dined
父(神)が こういうことが起こると予めに知らせてたじゃない、もちろん、悪魔はそんなこと起こるわけないと私たちに嘘ぶいていた
How could you have been so blind?
なぜ、神の言うことを信じず 盲目になっていたの?

I hope well all be ready
だから、今からでも(神が戻られるのだから) 皆が心の準備をすることを望むよ・・・
You've been left behind [Repeat: x3]
でなければ、君は取り残されるままだよ

人の子が現れる日にも、同じことが起こる。 その日には、屋上にいる者は、家の中に家財道具があっても、それを取り出そうとして下に降りてはならない。同じように、畑にいる者も帰ってはならない。 ロトの妻のことを思い出しなさい。 自分の命を生かそうと努める者は、それを失い、それを失う者は、かえって保つのである。 言っておくが、その夜一つの寝室に二人の男が寝ていれば、一人は連れて行かれ、他の一人は残される。 二人の女が一緒に臼をひいていれば、一人は連れて行かれ、他の一人は残される。 ルカ17:30-35

 

もちろん、携挙は起こりますが艱難前という時期ではありません。これら映画や歌は 米国での 艱難前携挙(ディスペンセーション主義) の宣伝に貢献しました。

私は、艱難時代前には携挙は起こらない という確信が日々強くなってきています。その理由は次回、続けて説明します。 

19世紀、ダービーが4度渡米して艱難前携挙説を大々的に宣伝してから、米国人は次第に艱難前携挙説に流れて行きました。米国人は、ダービーの時代から、ずーっと洗脳にかけられてきました。

そして、日本の牧師も米国の神学校に留学したり、留学生も米国でクリスチャンになることもあるので、ディスペンセーション思想を学んだり、その思想を教える教会で影響を受けた後、日本に戻って来ます。

日本で唯一プロテスタントのテレビ番組であったハ一ベストタイムの中川牧師も米国に留学したディスペンセーション主義者ですから、その思想を持って日本に戻って来ました。

テレビでの影響は大きいので、視聴者は教えを鵜呑みにしてしまいます。

 

私も、米国で18,19歳の頃、キリスト教書店に行って、おススメの本をスタッフに尋ねると、携挙がテーマの映画Thief In the Night を真っ先に勧められました。

「古い映画だけど、終末期に起こることだから見たほうが良いよ」と勧められたので、そうなんだと思いビデオテープを買いました。この映画シリーズの第二弾がコチラです。古い映画ですが携挙映画の先駆けなので特に米国では有名です。この監督の携挙シリーズの映画の最後は、取り残されたクリスチャンたちが、ギロチンで殺される映画の描写で終わります。恐れを抱かせて艱難時代前携挙説を信じるよう扇動しているような気がします。まぁ、それで神様を求めるようになれば良いのですが、艱難時代前に携挙が起こらない可能性をも考えるべきです。

実は、日本に戻ってきた後、英語好きな日本人の英会話講師にこの映画のビデオを貸しました。その人と会う機会がなくなったこともありますが、貸したビデオが戻って来ませんでした。ビデオが戻ったら、あの人にもこの人にも貸そうと考えていましたが、1人目でビデオが戻らなくなり無念に感じてました。でも、今考えると、そのビデオが戻らず、艱難前携挙説を広めなくてホッとしています。

 

歌に話題を戻しますが、初代、この歌を歌ったラリー・ノーマンは CCM(コンテンポラリー・クリスチャン・ミュージック)の父で、今風のクリスチャン・ポップミュージック・インダストリーを立てあげました。90年代にこの歌をカバーして大ヒットさせた DC Talk のレーベルも目~です。 結局、日本もですが、音楽・映画業界はイルミが支配してしまっているのです。

私は、教会につまづき、15年近く教会から離れていました。その長年のブランク後、とある教会に通い始めた時、Hill Song のワーシップ・ミュージックを始めて耳にしました。また、ようつべでもHill Songが流れていますが、どうも霊的にHill Songに抵抗がありました。discerning が働き、嫌な霊を感じだのです。Hill Songのバンドが歌っている場合、必ず飛ばしました。どんなに穏やかな歌でもHill Songに抵抗がありました。

それから1年程して、Hill Songについて、偶然こういう事を知ったのです。Hell Songだと もじる人もいます。 結局、牧師・牧師の息子・リーダーたちが魂を売っていたようです。

いくら、今風のカッコいい曲だからと飛びついてはいけないのです。 歌を作った人の出自、音楽プロダクションの背景なども意識したほうがよいかと思われます。

私は、90年代初めにヒットしたDC TalkのCDを買いました。目玉の中に十字架が書かれていたロゴでしたが、その時はイルミの事なんて知らなかったので何も気付きませんでした。

とにかく、コンテンポラリー・クリスチャン・ミュージックなどにも相当前にとっくに入って来ていますので、騙されないように気を付けて下さい。そして、それだけではなく、カルバリーチャペルの

マラナタ・ミュージックにもイルミから莫大な支援が行ってます。チャック・スミスなど牧師たちが買収され魂を売ってしまっている状態です。

悪魔は神に復讐するため、キリスト教会の中をかきまわそうと狼を送り続けています。反キリストが起こる前に、アポスタシー(背教)が起こるという預言がこういうことです。

メガ・チャーチ、有名牧師、大勢が流れていく道にとらわれず、イエス・キリストだけに望みを置くのです。

 

神が艱難時代の中においても全てを支配しておられること、

神はワザワザ出てきて悪魔を相手にするような方ではないぐらい偉大な方だということ、

そして神を信じる私たちは、ひとりひとりが、神からとても愛されている Child of Godということ。

妻が自分の乳飲み子を忘れて,自分の腹の子を哀れまないことがあろうか。こうした女たちでさえ,忘れることもあり得る。しかし,わたしがあなたを忘れることはない。イザヤ49:15

 

 

 

 


世界的な異常気象 

2021-02-15 21:03:51 | 終わりの時代

クリスタルさんの動画を1年ぶりにぞいてみました。

彼女は勉強家な方ですが、法王も政治家も大手メディアも疑っていません。なので、ワクチン信奉者のようです。

生まれながらのカトリック信者のようですが、終末や再臨が来ることなんて、全く頭にないカンジです。

 

確かに、世界的に異常な気候が続いています。

 

2021年、既に、世界各地で色々と起きています。

口ックダウンに抗議する世界各都市でのデモ