◆『沖縄の歩み』国場幸太郎著 2019年 岩波書店
本書は、少年少女向けに書かれた『沖縄の歩み(新少年少女教養文庫60)』(アリス館牧新社、1975年)を底本として増補されたもので、若い人にわかりやすく語るように書かれているので、とても読みやすい。
著者は、米軍統治下で地下抵抗運動を組織し「島ぐるみ土地闘争」を支援した活動家でもあったが、後に沖縄を去り、現代沖縄研究に取り組みつつ、宮崎県で高校・高専の教員を務めた人。
著者「まえがき」
【沖縄を見る目は、日本を見る目をするどくすると、よくいわれます。沖縄の歴史を知ることは、沖縄の現実を理解し、沖縄の将来を考えるのに必要なだけではありません。それは、また、日本の真実の姿に照明をあて、日本の前途を考えるためにも必要なことです。私は、そう考えて、この本を書くことにしました。】
本書は、太平洋戦争と沖縄戦の話から始まる。 2章「沖縄戦の悲劇」では、慶良間の「集団自決」と沖縄本島や久米島での日本兵による住民(朝鮮人を含む)殺害を詳しく語った後、なぜこんな悲劇が起きたかについて次のように書いている。
【(当時の沖縄住民は)天皇のため、お国のためになるならば、自分の命を投げ捨ててもよいと考える人たちが少なくありませんでした。斬込や自決をして、自分で死を選んだ人たちは、その代表といえましょう。当時の沖縄人の大部分は、それほどまでに、天皇に忠誠をつくす、よき「日本臣民」だったのです。
それにもかかわらず、沖縄にきた日本兵からは、沖縄人はスパイではないかと疑いをかけられて、虐殺されたものもいます。……そこには、沖縄を日本本土とは異なる一種の植民地のように差別する見方や考え方が強くはたらいていました。そうして、よく観察するならば、こういう差別は、日本軍の沖縄作戦全体をつらぬいていたともいえます。
沖縄戦では、……本土決戦を少しでも先へのばすために、沖縄のすべてを破壊しつくし、住民を犠牲にしてかえりみない作戦がとられました。そうして、この沖縄戦を最後として、日本は本土決戦を待たずに降伏しました。こういう経過から見ても、沖縄は、日本本土と同じにあつかわれたのではなく、むしろ、太平洋の島々と同じく、日本本土から差別された植民地のようなあつかいをうけたのです。沖縄戦は、そのために、いろいろ深刻な悲劇をたくさん生み出し、ただでさえ悲惨でむごたらしい戦争を、より一段と悲惨でむごたらしいものにしました。】
この「植民地のようなあつかい」は、薩摩藩の侵攻、明治政府の琉球処分、日本独立後も継続された沖縄の米軍支配、日本復帰後も続く米軍基地集中・強化へと、沖縄の歴史のなかで繰り返されている。これが本書をつらぬく著者の考えだと思う。
日本本土の人間(大和人)の沖縄の人に対する差別意識は、沖縄を植民地のようにとらえる思いあがった意識からきていたのか。その差別意識は、日本が朝鮮をはじめ中国・台湾などに侵略していった長い年月の間に日本人の意識の中に根を下ろし、今日までも拭われずにあるのだろうか。そう考えさせられて、ため息がでた。2016年のヘリパッド建設工事に抗議する市民に対する機動隊員の「土人」発言も頭に浮かぶ。
わたしが生まれ育った兵庫の田舎は被差別部落が多い地域で、また在日の子もクラスにいた。中学校では、ホームルームで部落差別について学習したし、社会の教師は中国や朝鮮と日本の歴史に力点をおいて教えてくれた。しかし沖縄については、どれほどのことを教わっただろう。その後大人になっても、大阪・埼玉・東京で暮らしたわたしは、沖縄の歴史をよく知らないまま過ごしてきた。まったく、「無関心な大和人」と非難されて当然の人間だ。
せめて高校生の頃にこの本に出合えていたなら、と強く思う。
わたしは、2018年春に石垣島に引越してきた。引越にあたって沖縄のことをネットでいろいろ検索しているなかで、辺野古の新基地建設、琉球弧自衛隊配備など、現在進行中のさまざまな問題に沖縄が直面していることを知った。ネットでは、信用できないナイチャー(内地の人間の意)として移住者を嫌悪するウチナーンチュ(沖縄人)の声にもかなり出会った。
今は、沖縄に無関心だった自分をいたく反省して、これからちゃんと勉強していこうと思っている。
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