「河野談話」とは、韓国の盧泰愚政権下に元慰安婦らが1991年、日本政府に補償を求めて提訴し、「政府の調査」を踏まえ93年8月に宮沢内閣の河野洋平官房長官が公表した談話で、慰安所は「当時の軍当局の要請により設営された」とし、慰安所の設置や管理、慰安婦の移送について「旧日本軍が直接あるいは間接に関与した」と認め、その上で元慰安婦に「心からお詫(わ)びと反省の気持ち」を表明した、などのように説明されている。
■河野談話が発表された当時の外務省
皇室の外戚である人物なので、決して公にこの背景が取り沙汰されてこのかったのではあるが、「河野談話」が発表された当時の外務省事務次官である小和田恒氏が事務次官を務めたのが1991年8月~93年8月であり、ちょうど「河野談話」発表までの「政府調査」と談話を起草した当時の外務省トップで、ご本人が「日本ハンディキャップ国家論」を展開し、この考え方が「外務省チャイナスクール」という親中派の外務省員らをいまだにを支配しているともいわれる。
その内容は「日本は他の大国と違って、憲法9条の平和規定が厳然としてある。仮にPKOなどの国際貢献でそれがハンディキャップとなっても、最大限尊重すべきで、あくまでも憲法の許される範囲内で、世界に貢献すべき」という論なのだそうだ。
これは、今日の南シナ海情勢や、尖閣諸島・沖縄など東シナ海での中国の「覇権主義」をみるにつけ、自虐史観で日本を永久に「戦犯国」と自らを位置づけて「普通でない国」として縛っておくことを目的とした中国よりの歴史観に基づいたものであることがわかる。
「河野談話」の正式名称は「慰安婦関係調査結果発表に関する河野内閣官房長官談話」といわれるもので、発表の2年前から小和田次官下の外務省の「政府による調査」が進められて93年8月4日に宮沢内閣の河野洋平官房長官が公表。
日本政府が実施した調査では、「日本軍が慰安婦の強制連行を行なっていた」とする公文書類資料は発見されなかったにも拘らず、河野氏は「組織として強制連行を行っていても、無理にでも連れてこいという命令書や無理に連れてきましたという報告書は作成されることはないだろう」という見方を示し、強制を認めた根拠として「募集・移送・管理等の過程全体をみてであり、自由行動の制限があったこと」を挙げたそうだ。
また、同時におこなわれた韓国人元慰安婦への聞き取り調査では、慰安婦の証言を記録するのみで、事実関係の検証は行われなかったそうだ。聞き取り資料は現在も非公開。
93年2月から大統領に就任した金泳三氏が同年3月に「従軍慰安婦問題に対し日本に物質的な補償は求めない方針だ」と言明したことを受けて、当時の日本政府は韓国政府との「密約」によって、慰安所は「当時の軍当局の要請により設営された」とし、慰安所の設置や管理、慰安婦の移送について「旧日本軍が直接あるいは間接に関与した」と認めた上で元慰安婦に「心からお詫(わ)びと反省の気持ち」を表明。
要するに当時の韓国政府の「日本に物質的な補償は求めない方針」とする言い分などを真に受けて日本が「広い意味の軍の関与」を認めて譲歩してしまったのであるが、「政府調査」といってもそもそも「事実関係の検証という調査」に基づいたものではなく、吉田清治という人物の偽証を元に書かれた「捏造記事」と慰安婦証言も基にしたものだったのだ。
朝日の慰安婦記事に関してはその後の2014年8月5日付の朝日新聞で、慰安婦問題に関する「慰安婦問題を考える」・「読者の疑問に答えます」と題した検証記事(16-17面)を掲載して吉田証言記事を取消。同年年9月11日朝日新聞社社長・木村伊量や取締役編集担当(いずれも当時)らが過去の記事の訂正に関して謝罪会見を行っている。
朝日の捏造記事や小和田次官(当時)在任中の外務省主導の「河野談話」が後々日韓の「慰安婦問題」を引き起こす大本になったことは事実なのである。
朝日が慰安婦証言記事の捏造を認めて謝罪しても、国家の尊厳を大きく毀損する談話を発表した当の河野洋平元官房長官を「国会に証人喚問せよ」という声がついぞ上がらない背景には、その当時の外務次官が小和田恒氏であったことも関係しているようだ。
河野氏を喚問すれば、それに関連して小和田元次官の証人喚問も必然で、しかしながら皇室の外戚である同氏を証人喚問することは出来ないため、現在まで河野洋平氏は安穏と謝罪はおろか、何ら説明責任を果たしていない。
小泉内閣の田中真紀子外相の「伏魔殿」調査で2001年に発覚した「外務省機密費流用事件」(注)に関して、当時の外務省の体質の問題が背景にありながら、流用事件の主犯である松尾克俊という人物以前、小和田恒氏退任前の93年以前の外務省の要人外国訪問支援室に調査の手が及ぶことがなく、従って小和田氏に塁が及ぶことはなかったのであるが、そのため残りの5億円は不明なままで、小和田氏以前のに外務省が完全にクリーンな組織であったとは到底思えないのだが、結局そこまでの調査で幕引きとなり、その後2003年から2014年まで同氏はオランダハーグの国際司法裁判所判事として長きに渡って海外生活をすることになったとも言われている。
(注)外務省機密費流用事件
1993年10月10日から1999年8月16日まで外務省の要人外国訪問支援室長に在任していた松尾克俊という人物が46回の首相外遊を担当。9億8800万円にのぼる官房機密費を受領し、このうち約7億円が詐取で、そこから競走馬(大井所属)14頭、サンデーサイレンスの種付け権、ゴルフ会員権、高級マンション、女性への現金に浪費していたというもの。当時の小泉純一郎総理の意向で、横領時の事務次官で、小和田氏の後を継いだ斎藤邦彦国際協力事業団総裁(93~95年に次官在任)、林貞行駐英大使(95年~97年に次官在任)、柳井俊二駐米大使(97年~99年)、川島裕事務次官(99年~2001年)の4人及び、飯村豊官房長が更迭され、また外務省の再発防止策の一環として、要人外国訪問支援室が廃止され、事件後11年間、外務次官退任後に駐米大使就任というコースが踏襲される慣例が廃止されていた。
この流れとして、外務次官、駐米大使、外務省顧問を歴任した故・栗山尚一宮内庁参与という方は「日本は永遠に謝罪し続けなければならない」という主旨の大論文を月刊誌『外交フォーラム』に連載(2006年1・2月)し、「首相が靖国参拝をやめても、ガス田、尖閣諸島、国連安保理常任理事国などすべての懸案問題で中国の譲歩は期待できないが、それでも謝れ」という主旨のことを展開していたのだそうだ。外務省チャイナスクール恐るべし。
因みに、英国の外交機密文書によると「1万人が殺害された」とされる中国共産党による天安門事件(89年6月4日)後、中国と距離を置く西側諸国の中で、「日中国交正常化(72年9月29日)20周年」として、日本の平成の天皇皇后両陛下がご即位後初の外国ご訪問(92年10月23日~28日)となる中国訪問を推進したのは当時の外務省トップ、親中派の小和田恒氏(外務省事務次官)であったことは紛れもない事実であるし、その翌93年に当時の皇太子殿下が雅子様とのご婚約が内定したことも無関係ではないらしい。