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日本人として日々の暮らしの中で思うこと、知りたかったこと

竹島問題

2019-03-05 21:04:59 | 歴史

西日本新聞記事
一方的な領土主張であった韓国の「海洋主権宣言(李承晩ライン)」(1952年)竹島不法占拠のきっかけとなった。


現在、外務省のホームページには「日本の領土をめぐる情勢」というタイトルで、島根県竹島全体のカラー写真とともに、どのような経緯で竹島問題が起こり、今日に至ったのかの概略を説明するページがつくられ、日本語、英語、アラビア語、中文簡体(中国語)、中文繁体(台湾語)、フランス語、ドイツ語、イタリア語、韓国語、ポルトガル語、ロシア語、スペイン語などにも翻訳され、誰でもインターネットで検索可能となっている。

また、1月25日から東京の日比谷公園内に「領土・主権展示館(竹島・尖閣資料館)」がオープンしたそうだ。

外務省の竹島動画:
https://www.youtube.com/watch?v=TXg-NGVKuWI


尖閣諸島は今のところ日本が実行支配しており、海保や海上自衛隊が常に領土防衛にあたっており、また、トランプ米政権閣僚のマティス国防長官の「日米安保5条の適用対象」との発言(2017年2月3日)などもあり、他国に(相手国が戦争覚悟でもない限り)容易に上陸を許してしまうことはないだろう、と日本国民は思っている。

尖閣諸島についての中国側の不当な発言は今後も続くだろうし、尖閣・沖縄周辺の中国漁民の違法操業の取り締まりには毎年大きな国家予算が割かれており、北海道を中心とする自衛隊の戦力配置の比重は北方面(北海道)そから南方面へ(九州・沖縄)と移ってきているようだ。

外務省の竹島問題を扱ったページは、残念ながら生ぬるすぎて実際に起こったことが国際社会に対し正しく伝わらないだろうしまた、一般の韓国の人々にも経緯を正しく(自国の違法性や非道ぶりを)認識してもらえないのではないだろうか。(日韓併合は一発の銃弾もなく、両国の合意と国際法上違法でない併合であったが、「竹島占領」は44名もの日本人が虐殺された領土侵略だったのだ。)


「竹島問題」とは1952年6月からつづく隣国韓国による侵略・不法占拠状態のことで、まもなく66年が経過しようとしている。

李承晩韓国初代大統領は、サンフランシスコ平和条約の起草(調印:1951年9月8日、52年4月28日発行、GHQから主権回復)に際し、アメリカに「日本が放棄する領土に(朝鮮半島と台湾以外に)竹島と対馬を含めよ」と要求しており、アメリカ側が「これらの島が朝鮮の一部として取り扱われたことは一度もない」と却下。

それにも関わらず、李承晩は一方的に「海洋主権宣言」(李承晩ライン)(1952年1月)を宣言。そして54年から韓国の沿岸警備隊が常駐。実効支配しているのである。

当時の日本はGHQによって、日本刀に至るまで武装解除されており、また、(日本国憲法第9条もあり)韓国の違法な竹島占拠に対して無抵抗状態。

国交がなかった日韓間では、1965年6月に佐藤栄作総理大臣と朴正煕大統領との間で「日韓基本条約」が交わされるまでの13年間、韓国沿岸警備隊によって竹島周辺の日本人漁民44人が虐殺、328隻、3929人もの日本人漁民、漁船が拿捕抑留されるという事件が起きた。

朴正煕大統領が日本側に対し、日本が朝鮮半島に残してきた財産(GHQ調査52.5億ドル 大蔵省調査で軍事資産を除き53億ドル)の請求権を放棄することに加え、拿捕抑留された日本人漁民の解放条件として、戦後自由意志で日本に残っていた在日コリアンや、朝鮮戦争時の難民などで不法滞在中の在日コリアン1世、2世の特別永住許可を要求し、日本がこれを認めたことが今日の在日コリアン問題と結びついているのだ。

その他、この条約締結により日本は「独立祝賀金」と「発展途上国支援」として無償3億ドル、有償億ドルの供与、融資を行った。



『竹嶋之図』(1724年) 鳥取藩作成
現在の竹島は江戸時代には既に日本人によって政府(江戸幕府)公認の下、鬱陵島に渡る際の航行の目標及び船がかり(停泊地)として利用するとともに、アシカやあわびなどの漁猟に利用されていた。明治に入り無主地であった現在の竹島を、1905年(明治38年)1月の閣議決定で島根県 隠岐島の所管としている。日本が現在の竹島の存在を古くから認知していたことは、数多くの文献や地図から確認できるが、韓国の古文献や古地図に登場する「于山島」が現在の竹島だとする主張は事実とそぐわず根拠がない。(詳しくは于山島を参照) (竹島(島根県)wikipediaより用) 




引用元:
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%8E%E6%89%BF%E6%99%A9%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%B3

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%B9%E5%B3%B6_(%E5%B3%B6%E6%A0%B9%E7%9C%8C)


http://ironna.jp/article/1785

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E6%88%A6%E4%BA%89




2018年2月11日ヤフーブログに投稿した記事より

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2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
吉田松陰の書簡 (泉城)
2019-03-05 23:51:15
竹嶋に関して古田武彦が面白い証拠を提示しています。
それは安政五年(1858年)に吉田松陰が門弟の桂小五郎(のちの木戸孝允)に送った書簡に「竹嶋開墾位は難事非ざる可し」としてその竹嶋に「朝鮮鬱陵島」と注記が付されていて、朝鮮側が呼ぶ鬱陵島であるとしています。
竹嶋(鬱陵島)開墾は天下無事であるならば幕府の利益になり、また海外との事変があったり、朝鮮や満州への進出の時は日本の拠点になるからとしています。
当時から日本領の竹嶋と呼ばれていたのですね。
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客観的には (kamakuraboy)
2019-03-06 01:42:04
こんばんは。コメントをありがとうございます。江戸時代には現在の鬱陵島が「竹島」と呼ばれ、韓国では于山島を「独島」と解釈していたなど、大変ややこしいですね。

つまり、「吉田松陰の書簡」などからも、当時の「竹島」は鬱陵島で、
韓国のいう「独島」は于山島であった、ということでしょうか。

現在の竹島は1849年にフランスの捕鯨船 Liancourt 号が現在の竹島を発見し、「リアンクール島」と名付け、日本では「りゃんこ島」と呼ばれ、1905年に日本政府がりゃんこ島を「竹島」と命名して島根県に編入した、とありますね。
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