2018/8/18(土) 午後 4:18
「ゾルゲ事件」とはリヒャルト・ゾルゲというソ連国籍のドイツ人を中心とするソ連のスパイ組織が日本国内で諜報活動および謀略活動を行っていたとして、太平洋戦争直前の1941年9月から1942年4月にかけてその構成員35名が逮捕され、ゾルゲと朝日新聞記者の尾崎秀実(ほつみ)が死刑判決を受けた日本史上最大のスパイ事件のことである。
この事件は満州事変(1931年 昭和6年)に始まる、日中戦争(1937年7月~45年8月)太平洋戦争(1941年12月~45年8月)という昭和史の重要部分を裏側からみた歴史の内幕である重大事件にも関わらず、非常に矮小化されてきたことも事実。
本日(8月18日付)6時配信の「毎日新聞電子版」が、「当時の司法省などが報道を厳しく規制した「新聞記事掲載要領」や関係各省と発言の文言・公開範囲を折衝していた内部文書が見つかった」と報じている。
この資料は事件当時思想事件などを担当した司法省刑事局第6課の課長だった太田耐造氏(1903~56年)が残していたもので、関係者が国立国会図書館の憲政資料室に寄贈したものだそうだ。
「毎日新聞」の記事によれば、「ソ連のスパイ網が国家の中枢にまで伸びていたことが判明する中、各省が都合の悪い表現を削除し、事件の重大性の矮小化を図るといった、政府の思惑や対メディア戦略」が『新聞記事掲載要領』という文書に記されていたようだ。具体的には「トップ扱其ノ他特殊扱ヲ成サザルコト」「四段組以下ノ取扱ヲナスコト」「写真ヲ掲載セザルコト」などが記されているそうだ。
つまり、衆目からなるべく注意をひかないような記事として報道せよ、ということである。ゾルゲ逮捕は41年10月、司法省による事件発表は翌42年5月16日で、事件発表の際のメディアへの詳細な指示という「メディア統制」は当時の外務省の意見も反映されていたとみられているそうだ。
当時の日ソの間には「日ソ不可侵条約(日ソ中立条約)」(1941年4月13日、モスクワで調印し締結。太平洋戦争末期45年8月8日にソ連が一方的に破棄し日本に宣戦布告)というものがあったため、当時の外務省は外交上、ソ連を刺激したくなかったということと、ソ連に対する日本人の国民感情の悪化を懸念したのかもしれない。
内部文書「外務省非公式意見」では逮捕された西園寺公一(きんかず)(注)の肩書に外務省嘱託を削除するようにとありまた、「大審院検事局意見」では「『重要機密要項』の『重要』という形容詞を削除する必要があるのでは」などの意見(要望)もあったようで、これらに意見はいずれも司法省の発表に反映され、新聞社が翌17日に記事掲載する際にこれらの「メディアへの政府側からの指示」は全て反映されていたそうだ。
注:西園寺公一は首相も務めた西園寺公望の孫
引用:https://mainichi.jp/articles/20180818/k00/00m/040/195000c
尾崎が当時、近衛文麿内閣のブレーン集団「昭和研究会」にまで入り込み、軍や政府上層部から二・二六事件、日独伊三国同盟、関東軍特別大演習など対ソ情報を入手諜報し、「日本軍が満州からソ連に進行する「北進」の作戦ではなく「南進」の作戦を取ることを選んだ」という重要な軍事情報等々をゾルゲを通してソ連に漏らし、同時に近衛内閣がそう決断するよう情報工作をかけていたということも判明している。泥沼の「南進」作戦から日中全面戦争へと進み、その延長戦上にある太平洋戦争突入に影響を与えたことなどは紛れもない事実であったのだ。
この事件の全容については現在、例えば中学や高校の歴史教科書レベルでは取り上げられることはもちろんない。
この事件は、「外国のスパイ勢力に日本政府や軍部にまで影響が及んで国家の方向性を狂わされ、国家の存亡危機にすら陥った歴史の氷山の一角」であるのだ。
表向きの歴史では、1931年関東軍の独自行動によって起こった満州事変後に中国への侵略を開始し満州全土を制圧し傀儡国家「満州国」を建国。1932年国際連盟に中国政府は満州国建国の無効と日本軍の撤退を要求、32年6月にリットン調査団が現地及び日本の調査を行い、「日本の侵略」と認定し1933年2月に国際連盟は満州からの撤退勧告を可決、当時、外交能力の低下なのか思想的な偏りに陥っていったためなのか、1934年3月日本は国際連盟を脱退。
37年7月盧溝橋事件から日中全面戦争へ突入(~45年8月)39年ドイツによるポーランド侵攻により第二次世界大戦勃発。日本の大陸進出による利権の侵害を恐れた米国より日米通商航海条約破棄通告(40年1月より日米間の貿易ストップ)40年5月日本で「南進論」決定9月北部仏印進駐、同月「日独伊三国同盟」締結。41年6月独ソ開戦。41年南部仏印進駐、41年12月真珠湾攻撃から太平洋戦争へ突入(~45年8月)
これを「ゾルゲ事件」と重ね合わせてみると、1919年3月にモスクワで「共産主義インターナショナル(第3インターナショナル)」通称コミンテルンが創設。
1927年蒋介石の上海クーデター及び武漢政府の弾圧により中国コミンテルン組織が破壊されたため、その再建目的でRゾルゲが「ドイツの社会学雑誌の記者」として1930年1月に上海に移動。身分はコミンテルンから赤軍参謀本部第4局。詳細不明。(この時期に上海で尾崎秀実とRゾルゲが接近?)
1933年9月(不詳)尾崎は上海より帰国し大阪朝日新聞外報部に職を得る。本部の指令をうけたRゾルゲが1933年9月6日にナチス党員フランクフルターツァイトゥング紙記者の肩書で日本に来日。尾崎は転勤工作で東京朝日新聞本社記者となり東亜問題研究会の新設で東京本社に呼ばれ中国問題の評論家として頭角を現す。
36年末に突発した西安事件の本質をいち早くとらえたことで有名となり、優れたジャーナリストとして「中国問題の専門家」として重きをなし、37年4月近衛文麿内閣のブレーン集団「昭和研究会」に加わる。
(補足)コメントを頂き、当時の内閣総理大臣であった近衛文麿という人物について知べてみました。若き日の近衛は「マルクス経済学」の造詣が深い経済学者で共産主義者である河上肇という人物に学ぶため、東京帝大哲学科から京大法学部に転学しており、つまり共産主義思想の影響をうけた筋金入りの共産主義者だったようです。
38年4月尾崎は朝日新聞を退社して第1次近衛内閣の嘱託となり近衛内閣の有能なブレーンとして首相官邸内にデスクをもち秘書官室や書記官長室に自由に出入りし得た。政界上層部の動向に直接触れることの出来る地位にあった。39年1月彼は満鉄東京支社の調査室へ勤務。
40年7月の第2次近衛内閣成立前後には、国民再組織案を練るなど国策に参与する機会をつかみ、近衛内閣のブレーン集団「昭和研究会」の中にあって、尾崎は「東亜共同体論」なるものを提唱(共産主義インターナショナルの表向きの目標)
各国から送り込まれたコミュンテルン・メンバーに加え、国際共産主義運動の実現に燃える日本人活動家達によって構成されていたゾルゲ諜報団が通報した情報の中には「日独伊防共協定」「第2次上海事変」「ノモハン事件」そして最高国家機密である御前会議の内容までもが含まれていた。
36年以来本格化した諜報活動の中で高度な情報と正確情報分析をRゾルゲは無線や在日ソビエト大使館を通じて提供。「日ソ間の戦争回避とソ連の防衛のための活動」を助けた。こうして日本の「対ソ参戦回避と南方進出」の提唱をはかり、世界情勢を大きく塗り替えていったとされる。
日本政府や軍部に及んでいた「大東亜共栄圏」という非現実的思想背景には、これらの「国際共産主義運動の実現に燃える日本人活動家」が実は政府内に深く浸透していた影響という背景があったのだ。
更にその背後には「日ソ開戦」で日独に挟撃されることを避けたいソ連の思惑と、諜報活動と工作機関である「共産主義インターナショナル(コミュンテルン)」の工作があったのだ。
仮に日本が「南進策」ではなく「北進策」をとって日中戦争ではなく、ドイツと共にソ連と戦い「中国利権」で米国に警戒されての日米開戦(太平洋戦争)に至っていなければ、現在の世界地図は現在のものとは異なっていたのかもしれない。この議論は無意味ですが。
この事例のように、外国勢力による「工作」よってその後日本にもたらされた深刻な歴史の結果などから考えれば、本来ならば当時のことをもっと広く世間に知らしめて、その当時の歴史的な事実や時代の世相、背景、社会情勢、「工作活動の実態」などを、社会学や心理学その他の専門家によって多角的に検証されることがもっと必要だと思う。
これは「事件」というよりも「裏側の歴史」そのものであり、外国勢力の「工作活動」とはどのようなものなのかを知り、それによって国家が被る損害についての教訓とすべき事例なのである。
もちろん、現在のロシアという国家と当時のソビエト連邦はイコールではない。とはいえ、微妙な外交関係や国民感情からはこの事件の取り扱いは慎重である必要は確かにあるといえるのもしれない。
引用:
http://www.marino.ne.jp/~rendaico/daitoasenso/what_kyosantosoritu_zorugegiken_gaiyo.htm
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E3%82%BD%E4%B8%AD%E7%AB%8B%E6%9D%A1%E7%B4%84
参考:
当ブログ「『ゾルゲ事件』にも関わっていた朝日新聞」
https://blog.goo.ne.jp/eternalturquoiseblue/e/5c6800a5df5235e7f67220ce9be97766
当ブログ「ソビエト連邦成立と崩壊の意味」
https://blog.goo.ne.jp/eternalturquoiseblue/e/42085fcd3fffdb63ac086c6aadcc35ed
コメント
大東亜戦争勃発以前からUSAも我が国も、相当に中枢部にまで浸透されて居た事が段々に解明されて来ました。軍事的な意味ではホットウォーは一応終了しましたが、日米戦争の本質部はまだ終わって居ない。彼らが法的にも違法な方法で罰した以上、我々も彼らが敗北した暁には百年たとうが二百年たとうが、その時は罰することが必要だろうと思います。シベリア捕囚のロシアも中共も同様です。スターリンの全体主義が明らかに成った戦後も、この共産主義に幻想を抱く人々が絶えなかった。日本にも多くの共産主義者が政策にコミットしていた事実が有ります。都留重人、蝋山正道、ほか多くの人が居ました。近衛でさえそうでした。何しろ川上肇の弟子ですから。
2018/8/18(土) 午後 7:46 [ 井頭山人(魯鈍斎) ]
> 井頭山人(魯鈍斎)さん
コメントを頂きありがとうございます。USAのルーズベルト大統領などはレイシストに近い人物だったそうですね。それも「浸透工作」による影響だったのでしょうか。
「洗脳」されるということが恐ろしいのは、本人が「脳を支配されている」ことに気づかず、(PCでいえばウイルスによって遠隔操作可能な状態に陥っている)元気に行動し続けて、本人が自爆テロ的なことまでやらかすのみならず、周囲に自分の「支配されている脳のままで」更に「被洗脳者」を増やしていき、集団や社会全体に影響が拡散していくことですね。「被洗脳者」が高い地位にいたり社会的影響力が大きい人物だとその集団や社会的の被る損害が甚大なものになりかねませんね。最近でいうと沖縄の翁長前知事や鳩山由紀夫元総理などもこの例でしょうか。
近衛文麿はかなり深刻だったようですね。五摂家の出だそうですが、今の皇室も相当入り込まれていると聞きます。
2018/8/18(土) 午後 8:24 kamakuraboy
> 井頭山人(魯鈍斎)さん
川上肇という人物の名前を挙げて下さったので調べるきっかけになりました。ありがとうございます。
「近衛文麿は哲学者になろうと思い東京帝国大学哲学科に進んだが飽き足らず、マルクス経済学の造詣が深い経済学者で共産主義者であった河上肇や被差別出身の社会学者・米田庄太郎に学ぶため、京都帝国大学法科大学に転学。在学中の1914年(大正3年)には、オスカー・ワイルドの『社会主義下における人間の魂』を翻訳し、「社会主義論」との表題で第三次『新思潮』大正三年五月号、六月号に発表したが、『新思潮』五月号は発禁処分となった。近衞の翻訳文が原因であるとするのが通説となっているが、異論も存在する、とあります。筋金入りの共産主義者だったのですね。貴重なご指摘を頂きありがとうございます。記事本文にもその旨を補足しました。
2018/8/19(日) 午前 0:13 kamakuraboy
川上肇→河上肇、です。ゴメンナサイ。
なぜか20世紀と云う時代は、進化・進歩信仰の時代でした。東京や京都の帝国大学に学んだ若者たちは、この共産主義という世界統一思想に魅了された様です。国境を排して世界を統一する夢を描く考えに魅惑された。万国の労働者団結せよ!、この様な謂わば幻想が学生たちを酔わせた。学生は純粋な心根の者が多い。人間の実相を深く知らず理想を追求するところに青年の夢と輝きが有るのですが、人間という物をすこし考えれば、それが絵空事である事はすぐに分る筈なのに、多くの人は本質を探究する事をしなかった。共産主義思想がどんな物であるかは、1920年代にすでに明らかに成って居るのに今も洗脳される人さえ居る。ポルポトは260万人の自国民を殺害したし、毛沢東は恐らく一億人の自国民を殺害した、スターリンは8千万に上るソ連邦の共産主義に反対する人々を殺害した。この様な事実は20世紀の病魔と云えます。
2018/8/20(月) 午後 10:16 [ 井頭山人(魯鈍斎) ]
> 井頭山人(魯鈍斎)さん
私も気づきませんでした。「河」の字に直しました。ありがとうございます。
「国境を排して世界を統一する夢を描く考えに魅惑された」純粋な若者たちを利用したのは狡猾な為政者であったり、共産主義のスパイだったということですね。「共産主義」というのは国富を平等に分配するような社会ではなく、一部のエリートのよる独裁体制を正当化する(これを彼らは「プロレタリアート独裁」と称していますね)いびつな社会でしかないということに気付かなかったということですね。
「国境のない世界」というのがそもそも未来においても実現するようにも思えませんし。人間の本質は決して「善」なるものばかりではなく、それは井頭山人(魯鈍斎)さんが挙げられた「虐殺の悲劇」にも現れていますね。
2018/8/20(月) 午後 10:45 kamakuraboy
「ゾルゲ事件」とはリヒャルト・ゾルゲというソ連国籍のドイツ人を中心とするソ連のスパイ組織が日本国内で諜報活動および謀略活動を行っていたとして、太平洋戦争直前の1941年9月から1942年4月にかけてその構成員35名が逮捕され、ゾルゲと朝日新聞記者の尾崎秀実(ほつみ)が死刑判決を受けた日本史上最大のスパイ事件のことである。
この事件は満州事変(1931年 昭和6年)に始まる、日中戦争(1937年7月~45年8月)太平洋戦争(1941年12月~45年8月)という昭和史の重要部分を裏側からみた歴史の内幕である重大事件にも関わらず、非常に矮小化されてきたことも事実。
本日(8月18日付)6時配信の「毎日新聞電子版」が、「当時の司法省などが報道を厳しく規制した「新聞記事掲載要領」や関係各省と発言の文言・公開範囲を折衝していた内部文書が見つかった」と報じている。
この資料は事件当時思想事件などを担当した司法省刑事局第6課の課長だった太田耐造氏(1903~56年)が残していたもので、関係者が国立国会図書館の憲政資料室に寄贈したものだそうだ。
「毎日新聞」の記事によれば、「ソ連のスパイ網が国家の中枢にまで伸びていたことが判明する中、各省が都合の悪い表現を削除し、事件の重大性の矮小化を図るといった、政府の思惑や対メディア戦略」が『新聞記事掲載要領』という文書に記されていたようだ。具体的には「トップ扱其ノ他特殊扱ヲ成サザルコト」「四段組以下ノ取扱ヲナスコト」「写真ヲ掲載セザルコト」などが記されているそうだ。
つまり、衆目からなるべく注意をひかないような記事として報道せよ、ということである。ゾルゲ逮捕は41年10月、司法省による事件発表は翌42年5月16日で、事件発表の際のメディアへの詳細な指示という「メディア統制」は当時の外務省の意見も反映されていたとみられているそうだ。
当時の日ソの間には「日ソ不可侵条約(日ソ中立条約)」(1941年4月13日、モスクワで調印し締結。太平洋戦争末期45年8月8日にソ連が一方的に破棄し日本に宣戦布告)というものがあったため、当時の外務省は外交上、ソ連を刺激したくなかったということと、ソ連に対する日本人の国民感情の悪化を懸念したのかもしれない。
内部文書「外務省非公式意見」では逮捕された西園寺公一(きんかず)(注)の肩書に外務省嘱託を削除するようにとありまた、「大審院検事局意見」では「『重要機密要項』の『重要』という形容詞を削除する必要があるのでは」などの意見(要望)もあったようで、これらに意見はいずれも司法省の発表に反映され、新聞社が翌17日に記事掲載する際にこれらの「メディアへの政府側からの指示」は全て反映されていたそうだ。
注:西園寺公一は首相も務めた西園寺公望の孫
引用:https://mainichi.jp/articles/20180818/k00/00m/040/195000c
尾崎が当時、近衛文麿内閣のブレーン集団「昭和研究会」にまで入り込み、軍や政府上層部から二・二六事件、日独伊三国同盟、関東軍特別大演習など対ソ情報を入手諜報し、「日本軍が満州からソ連に進行する「北進」の作戦ではなく「南進」の作戦を取ることを選んだ」という重要な軍事情報等々をゾルゲを通してソ連に漏らし、同時に近衛内閣がそう決断するよう情報工作をかけていたということも判明している。泥沼の「南進」作戦から日中全面戦争へと進み、その延長戦上にある太平洋戦争突入に影響を与えたことなどは紛れもない事実であったのだ。
この事件の全容については現在、例えば中学や高校の歴史教科書レベルでは取り上げられることはもちろんない。
この事件は、「外国のスパイ勢力に日本政府や軍部にまで影響が及んで国家の方向性を狂わされ、国家の存亡危機にすら陥った歴史の氷山の一角」であるのだ。
表向きの歴史では、1931年関東軍の独自行動によって起こった満州事変後に中国への侵略を開始し満州全土を制圧し傀儡国家「満州国」を建国。1932年国際連盟に中国政府は満州国建国の無効と日本軍の撤退を要求、32年6月にリットン調査団が現地及び日本の調査を行い、「日本の侵略」と認定し1933年2月に国際連盟は満州からの撤退勧告を可決、当時、外交能力の低下なのか思想的な偏りに陥っていったためなのか、1934年3月日本は国際連盟を脱退。
37年7月盧溝橋事件から日中全面戦争へ突入(~45年8月)39年ドイツによるポーランド侵攻により第二次世界大戦勃発。日本の大陸進出による利権の侵害を恐れた米国より日米通商航海条約破棄通告(40年1月より日米間の貿易ストップ)40年5月日本で「南進論」決定9月北部仏印進駐、同月「日独伊三国同盟」締結。41年6月独ソ開戦。41年南部仏印進駐、41年12月真珠湾攻撃から太平洋戦争へ突入(~45年8月)
これを「ゾルゲ事件」と重ね合わせてみると、1919年3月にモスクワで「共産主義インターナショナル(第3インターナショナル)」通称コミンテルンが創設。
1927年蒋介石の上海クーデター及び武漢政府の弾圧により中国コミンテルン組織が破壊されたため、その再建目的でRゾルゲが「ドイツの社会学雑誌の記者」として1930年1月に上海に移動。身分はコミンテルンから赤軍参謀本部第4局。詳細不明。(この時期に上海で尾崎秀実とRゾルゲが接近?)
1933年9月(不詳)尾崎は上海より帰国し大阪朝日新聞外報部に職を得る。本部の指令をうけたRゾルゲが1933年9月6日にナチス党員フランクフルターツァイトゥング紙記者の肩書で日本に来日。尾崎は転勤工作で東京朝日新聞本社記者となり東亜問題研究会の新設で東京本社に呼ばれ中国問題の評論家として頭角を現す。
36年末に突発した西安事件の本質をいち早くとらえたことで有名となり、優れたジャーナリストとして「中国問題の専門家」として重きをなし、37年4月近衛文麿内閣のブレーン集団「昭和研究会」に加わる。
(補足)コメントを頂き、当時の内閣総理大臣であった近衛文麿という人物について知べてみました。若き日の近衛は「マルクス経済学」の造詣が深い経済学者で共産主義者である河上肇という人物に学ぶため、東京帝大哲学科から京大法学部に転学しており、つまり共産主義思想の影響をうけた筋金入りの共産主義者だったようです。
38年4月尾崎は朝日新聞を退社して第1次近衛内閣の嘱託となり近衛内閣の有能なブレーンとして首相官邸内にデスクをもち秘書官室や書記官長室に自由に出入りし得た。政界上層部の動向に直接触れることの出来る地位にあった。39年1月彼は満鉄東京支社の調査室へ勤務。
40年7月の第2次近衛内閣成立前後には、国民再組織案を練るなど国策に参与する機会をつかみ、近衛内閣のブレーン集団「昭和研究会」の中にあって、尾崎は「東亜共同体論」なるものを提唱(共産主義インターナショナルの表向きの目標)
各国から送り込まれたコミュンテルン・メンバーに加え、国際共産主義運動の実現に燃える日本人活動家達によって構成されていたゾルゲ諜報団が通報した情報の中には「日独伊防共協定」「第2次上海事変」「ノモハン事件」そして最高国家機密である御前会議の内容までもが含まれていた。
36年以来本格化した諜報活動の中で高度な情報と正確情報分析をRゾルゲは無線や在日ソビエト大使館を通じて提供。「日ソ間の戦争回避とソ連の防衛のための活動」を助けた。こうして日本の「対ソ参戦回避と南方進出」の提唱をはかり、世界情勢を大きく塗り替えていったとされる。
日本政府や軍部に及んでいた「大東亜共栄圏」という非現実的思想背景には、これらの「国際共産主義運動の実現に燃える日本人活動家」が実は政府内に深く浸透していた影響という背景があったのだ。
更にその背後には「日ソ開戦」で日独に挟撃されることを避けたいソ連の思惑と、諜報活動と工作機関である「共産主義インターナショナル(コミュンテルン)」の工作があったのだ。
仮に日本が「南進策」ではなく「北進策」をとって日中戦争ではなく、ドイツと共にソ連と戦い「中国利権」で米国に警戒されての日米開戦(太平洋戦争)に至っていなければ、現在の世界地図は現在のものとは異なっていたのかもしれない。この議論は無意味ですが。
この事例のように、外国勢力による「工作」よってその後日本にもたらされた深刻な歴史の結果などから考えれば、本来ならば当時のことをもっと広く世間に知らしめて、その当時の歴史的な事実や時代の世相、背景、社会情勢、「工作活動の実態」などを、社会学や心理学その他の専門家によって多角的に検証されることがもっと必要だと思う。
これは「事件」というよりも「裏側の歴史」そのものであり、外国勢力の「工作活動」とはどのようなものなのかを知り、それによって国家が被る損害についての教訓とすべき事例なのである。
もちろん、現在のロシアという国家と当時のソビエト連邦はイコールではない。とはいえ、微妙な外交関係や国民感情からはこの事件の取り扱いは慎重である必要は確かにあるといえるのもしれない。
引用:
http://www.marino.ne.jp/~rendaico/daitoasenso/what_kyosantosoritu_zorugegiken_gaiyo.htm
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E3%82%BD%E4%B8%AD%E7%AB%8B%E6%9D%A1%E7%B4%84
参考:
当ブログ「『ゾルゲ事件』にも関わっていた朝日新聞」
https://blog.goo.ne.jp/eternalturquoiseblue/e/5c6800a5df5235e7f67220ce9be97766
当ブログ「ソビエト連邦成立と崩壊の意味」
https://blog.goo.ne.jp/eternalturquoiseblue/e/42085fcd3fffdb63ac086c6aadcc35ed
コメント
大東亜戦争勃発以前からUSAも我が国も、相当に中枢部にまで浸透されて居た事が段々に解明されて来ました。軍事的な意味ではホットウォーは一応終了しましたが、日米戦争の本質部はまだ終わって居ない。彼らが法的にも違法な方法で罰した以上、我々も彼らが敗北した暁には百年たとうが二百年たとうが、その時は罰することが必要だろうと思います。シベリア捕囚のロシアも中共も同様です。スターリンの全体主義が明らかに成った戦後も、この共産主義に幻想を抱く人々が絶えなかった。日本にも多くの共産主義者が政策にコミットしていた事実が有ります。都留重人、蝋山正道、ほか多くの人が居ました。近衛でさえそうでした。何しろ川上肇の弟子ですから。
2018/8/18(土) 午後 7:46 [ 井頭山人(魯鈍斎) ]
> 井頭山人(魯鈍斎)さん
コメントを頂きありがとうございます。USAのルーズベルト大統領などはレイシストに近い人物だったそうですね。それも「浸透工作」による影響だったのでしょうか。
「洗脳」されるということが恐ろしいのは、本人が「脳を支配されている」ことに気づかず、(PCでいえばウイルスによって遠隔操作可能な状態に陥っている)元気に行動し続けて、本人が自爆テロ的なことまでやらかすのみならず、周囲に自分の「支配されている脳のままで」更に「被洗脳者」を増やしていき、集団や社会全体に影響が拡散していくことですね。「被洗脳者」が高い地位にいたり社会的影響力が大きい人物だとその集団や社会的の被る損害が甚大なものになりかねませんね。最近でいうと沖縄の翁長前知事や鳩山由紀夫元総理などもこの例でしょうか。
近衛文麿はかなり深刻だったようですね。五摂家の出だそうですが、今の皇室も相当入り込まれていると聞きます。
2018/8/18(土) 午後 8:24 kamakuraboy
> 井頭山人(魯鈍斎)さん
川上肇という人物の名前を挙げて下さったので調べるきっかけになりました。ありがとうございます。
「近衛文麿は哲学者になろうと思い東京帝国大学哲学科に進んだが飽き足らず、マルクス経済学の造詣が深い経済学者で共産主義者であった河上肇や被差別出身の社会学者・米田庄太郎に学ぶため、京都帝国大学法科大学に転学。在学中の1914年(大正3年)には、オスカー・ワイルドの『社会主義下における人間の魂』を翻訳し、「社会主義論」との表題で第三次『新思潮』大正三年五月号、六月号に発表したが、『新思潮』五月号は発禁処分となった。近衞の翻訳文が原因であるとするのが通説となっているが、異論も存在する、とあります。筋金入りの共産主義者だったのですね。貴重なご指摘を頂きありがとうございます。記事本文にもその旨を補足しました。
2018/8/19(日) 午前 0:13 kamakuraboy
川上肇→河上肇、です。ゴメンナサイ。
なぜか20世紀と云う時代は、進化・進歩信仰の時代でした。東京や京都の帝国大学に学んだ若者たちは、この共産主義という世界統一思想に魅了された様です。国境を排して世界を統一する夢を描く考えに魅惑された。万国の労働者団結せよ!、この様な謂わば幻想が学生たちを酔わせた。学生は純粋な心根の者が多い。人間の実相を深く知らず理想を追求するところに青年の夢と輝きが有るのですが、人間という物をすこし考えれば、それが絵空事である事はすぐに分る筈なのに、多くの人は本質を探究する事をしなかった。共産主義思想がどんな物であるかは、1920年代にすでに明らかに成って居るのに今も洗脳される人さえ居る。ポルポトは260万人の自国民を殺害したし、毛沢東は恐らく一億人の自国民を殺害した、スターリンは8千万に上るソ連邦の共産主義に反対する人々を殺害した。この様な事実は20世紀の病魔と云えます。
2018/8/20(月) 午後 10:16 [ 井頭山人(魯鈍斎) ]
> 井頭山人(魯鈍斎)さん
私も気づきませんでした。「河」の字に直しました。ありがとうございます。
「国境を排して世界を統一する夢を描く考えに魅惑された」純粋な若者たちを利用したのは狡猾な為政者であったり、共産主義のスパイだったということですね。「共産主義」というのは国富を平等に分配するような社会ではなく、一部のエリートのよる独裁体制を正当化する(これを彼らは「プロレタリアート独裁」と称していますね)いびつな社会でしかないということに気付かなかったということですね。
「国境のない世界」というのがそもそも未来においても実現するようにも思えませんし。人間の本質は決して「善」なるものばかりではなく、それは井頭山人(魯鈍斎)さんが挙げられた「虐殺の悲劇」にも現れていますね。
2018/8/20(月) 午後 10:45 kamakuraboy
もう二年も前の記事なのですね。だが決して古びる事の無い話題です。恐らくは明治維新から現代までの150年間に亘る日本近代史の背景にある重要問題だと考えます。それらの歴史的事実の認識は、真の背景を知ることなしには理解できないものです。謂わば因果律でいう処の原因に当たるものです。20世紀という囲くで見た世界の百年間の戦争は、明治以降の日本が知った共産主義という魔物を深く知ること無しには理解できない。共産主義を創り、それを拡めた或る強力な宗教組織の内幕を知る事なしには、殆ど理解自体が不可能の様です。日本でも文明開化の明治以降にある種の欧化した人々は、日本人で在りながら徹底して日本を西洋化しょうとした人々でもあった。外国の植民地帝国主義国が理想のように見えた。その様な人々に取っては日本の伝統文化など取るに足りないものと思えたのでしょう。その過程で共産主義という虚構な思想に取り込まれる隙があった。事実、東京帝大の経済学部はマルクス経済学の牙城であり、そこの卒業生は殆どがマルクス経済学のシンパイザーであったから共産主義への親和性が強かった。彼らが大學に残り弟子を育てたり、左翼革命思想の卒業生が外部に就職するには、社会の世論を左右する新聞社が一番都合がよかった。それ故に朝日新聞を旗頭とするマスコミには多くの共産主義者とそのシンパイザーが現在でも多く居て社会の混乱を煽る為に活躍している。共産主義の脅威が現実化したのは、第一次世界戦争を起こしてロシア帝国を崩壊させた上でのボルシェベキに拠る武力クーデターでした。誕生したソ連は、その後に様々の画策を秘密裏に遂行している。ドイツ帝国も崩壊しやがてJudea国家であるワイマール共和国が出現する。ドイツは疲弊し、ワイマール共和国でもクーデターでソ連の様に共産化を志向したが鎮圧されている。第二次大戦の淵源は賠償も含めたこの辺にある。第二次大戦はドイツと日本が敗北し、ドイツの半分はソ連に占領され共産化した。成立から七十数年後にソ連は崩壊しドイツはその時期に再統一をされたが、次第にワイマール化が進んでいる。日本も同様にGHQの支配占領下で、日本実情を知らないニューデーラーによって学制、農地、産業、が改変された。最近、長らく一国社会主義を標榜するソ連は1991年に内部崩壊し、元のロシアに戻ったが、そこにはロマノフは居ないが、別の専制君主が居る。EU自体は、これはローマ帝国の模倣である。「EU」この国民国家を糾合するヨーロッパ連合の支配者は国際金融資本である。謂わば巨大なワイマール体制である。国際金融資本は日本を社会主義化、乃至、ワイマール化しょうとして、ワイマール憲法に似た日本国憲法を勝手に作り、現在も新聞メディアを使い日本国の混乱を醸成しその変質を画策しているのが現状であろうか。大多数の日本の国民性は温和で穏やかな心性を持っているのは、その自然環境が影響している。盆栽や箱庭を好む心性も同様だろう。我々の多くは戦後生まれで、金の力をユダヤ人の如く妄信する者も多いが、それでも、負け惜しみではない「足るを知る」真の智恵ある者が多く居る事も知っている。
今も日本学術会議の問題でもわかるように、共産主義思想に洗脳された東大や京大などで学んだ左翼学者を使って日本を「普通の国」にすることを拒む勢力、自虐史観の呪縛によって憲法9条を絶対視する人々が多いっことに驚くばかりです。
ご指摘のように、農耕民族のヤマト民族は穏やかで、侵略や奴隷制などとは相容れない民族で、それゆえに日本人の多くが不戦の誓いを「疑いもせず」受け入れてその枠から決して抜け出そうとしないのは無理からぬことではあります。
ですが、自国の国民の生命財産、自国の領土や海、空を守るのは自分たちの手で守らなければならないという至極当たり前のことを国民全員が真剣に考えるべき時期にきていると思います。
「巨大ワイマール体制」とのご指摘であるEUは、ドイツが第一次世界大戦の敗戦で負った巨額の賠償金などからナチズムの台頭をゆるして暴走してしまった教訓から、他のヨーロッパの国々がドイツを監視しつつ、互いに助あうという目的でつくられたECが母体でした。皮肉にも人道主義メルケル首相の極端な人道主義の「暴走」でEUは瓦解の危機を迎えていますね。