福音に従い,自分を制するときに,わたしたちは喜びと平安を受ける
真理の敵がこの世で自由に支配力を行使するかぎり,わたしたちは攻撃を受けます。それらの攻撃に対抗する唯一の方法は,福音に従って生活することです。
この福音は,この世界にあってその誘惑を克服して生活する機会 と,自制と克己を通して霊において生きる機会を与えてくれます。
それがこの世においても次の世においてもあるべきまことの生き方なのです。
個人の欲求を制御することこそ,キリスト教とすべての宗教の真髄であることをわたしたちがかつてないほどよく認識できるように願っています。
人は生来利己的で,そのときの衝動に従う傾向があります。生まれながらの人が持つ利己的な欲求を克服するには,宗教あるいは,個人や個人の集まりである社会よりも高度なものが必要となります。……自制心は,さほど重要でないものについて無欲になることから生まれます。このことをキリストは次のようなひときわ優れた言葉でおっしゃいました。
「自分の命を救おうと思う者はそれを失い,わたしのために自分の命を失うは,それを見いだすであろう。」(マタイ16:25)
自分を忘れて,他人のために,自分より高く優れたもののために努力するとき,あなたは霊の高みへ上るのです。口論しているとき,他人のあら探しをする誘惑に駆られているとき,自分が属している
教会のため,社会のため,特にイエス・キリストの福音の発展のために自己中心的な自我を捨てるならば,わたしたちは霊的な祝福を受け,幸福を報いとして受けることでしょう。
「敵を征服して,物や富を積み上げても,
何の益があるのだろうか。
自己に打ち勝つまでは,
まことに貧しい征服者にすぎない。J
〔作者不詳]
人前であろうとなかろうと思うままに自分の欲求を満たそうとする人は,激情に駆られそうになったときに助けとなる人格を備えてはいません。
機会が訪れたり,圧力を受けたりすると,人は普段考えているように行動するものです。欲望や衝動がわいてくるときにどのような対応をするかによって,その人の人格が分かります。その人に自己
を治める力があるか,あるいは屈して束縛されるかがこうした反応に反映されます。
神の律法や自然の法則と調和した行動は幸福をもたらし,神聖な真理に反する行動は不幸をもたらします。人はすべての行いだけでなく,愚かな言葉や思いに対しても責任を問われるのです。
救い主はこう言われました。
「審判の日には,人はその語る無益な言葉に対して,言い開きをしなければならないであろう。」(マタイ12:36)
善いことをするには必ず努力を必要とします。価値のあるものを手に入れるには体力,知力,霊の力が要求されます。
「求めよ,そうすれば,与えられるであろう。捜せ,そうすれば,見いだすであ
ろう。門をたたけ,そうすれば,あけてもらえるであろう。」(マタイ7:7)
けれどもあなたが求め,あなたがたたかなければならないのです。
これに対して罪は罪そのものを無理やりに押しつけてきます。罪はあなたに付きまとい,誘惑し,そそのかし,引きつけます。
あなたは何も努力をする必要がありません。・・・…それは酒を飲み,たばこを吸うようそそのかす広告板のようなものです。それはテレビやラジオを通じてあらゆる家庭に入り込んでくるコマーシャルのようなものです。……悪魔はあなたを求めています。それに対抗するには努力と不屈の精神力が必要です。しかし,真理と知恵を得るには,求め,祈り,努力しなければなりません。
人生はおおむね,わたしたちが作るものであり,人類の救い主は 喜びと平和を得る方法を簡潔明瞭に示しておられることを忘れてはなりません。それはイエス・キリストの福音であって,それに従う
ことです。
わたしたちが神の王国をさらに確立することを求めるときに,若人とあらゆる地に住む教会員に対して,体を弱め,霊を滅ぼす誘惑を退けるように教えることができますように。また,バプテスマの
水に入ったときのように心から悔い改めて,言葉どおりの意味で更新され,新しく生まれるように,わたしたちの心が聖なる御霊の光に浴し,地上における使命を果たすまでイエス・キリストの教会の
真の会員として前進できますように,神の祝福を願っています。
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※このお話しは、末日聖徒イエス・キリスト教会 歴代大管長の教え デビッド・O・マッケイ P.86~88から、引用しています。
※今日も、お読みいただいてありがとうざいます。
自分の人格を、少しでも向上できるように、優しい言葉と愛ある行いができますように。
2021年5月26日