イエス・キリストの福音をご紹介します。

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自分の命を救おうと思う者はそれを失い,わたしのために自分の命を失う者は,それを見いだすであろう。

2021-05-22 05:29:59 | 日記
奉仕は与える者と受ける者に幸せをもたらす

わたしたちが存在するほんとうの目的は幸福を得ることです。そして,幸福を得る最も効果的な方法は,同胞に奉仕することです。

人類は皆,幸福を望んでいます。また,多くの人は最善を尽くせるように精いっぱい努力しています。

ところが,幸福を得るための確かな指針がナザレのイエスが語られた次の宣言にあることを知っている人は驚くほど少ないのです。

「自分の命を救おうと思う者はそれを失い,わたしのために自分の命を失う者は,それを見いだすであろう。」[マタイ16:25]

この意義深い聖句には名や権力よりもはるかに大きな価値が秘められており,それは世界中の富にも勝ります。

それは一つの原則であり,それを応用するならば,落胆や憂鬱を希望と喜びに変え,生活をとこしえの満足と平安で満たすことを約束してくれます。

これが事実ならば,この原則を受け入れることは 混乱した暗い今日の世界に恵みをもたらすでしょう。

では人々や国家はなぜそれほど貴重なものをないがしろにするのでしょうか。

自分の命を失う者はそれを見いだすという逆説的な言葉に含まれている真理は,人類が理解できないほどとらえにくいものでしょうか。あるいは,それが生活の苦労からあまりにも懸け離れているために,人々は現実的でないと考えるのでしょうか。

たとえそうであるとしても,「道であり,真理であり,命である」〔ヨハネ14:6参照〕御方がここに不変の律法を定められたという事実は依然として存在するのです。・・・

具体的に言えば,この律法は,「わたしたちはより良い幸福な世の中を作るために努力するときに,最も完全な生活を営む」ということです。

純血種,適者生存の法則は、他のすべてを犠牲にすることによって成り立つ自己保存の論理です。

しかしこれに対して,真の霊的な命の法則は他人のために自分の欲望を抑えることです。・・・

このような目的を抱いて〔多くの〕男女は,俸給なしに,進んで奉仕し,毎週〔何万人もの〕子供や青少年の人格を築き,霊的な成長を促すために教え導いています。これら役員教師の軍勢に加えて,……神権に聖任された男性たちは同胞の間に幸福と喜びと平安を広めるために可能な限りの時間と才能を差し出すという義務を引き受けています。

受けるよりも与えることにより多くの霊性が表れます。霊的に最も大きな祝福は他人を助けることによってもたらされます。もし惨じめな,思いをしたければ,兄弟に憎しみを抱くだけでよいのです。も
し憎しみを抱きたければ,兄弟を不当に扱うだけでよいのです。れども,もし幸せになりたければ,思いやりのある奉仕を行い,だれかを幸せにしてください。


世界中の誠実な男女の呰さん,利己心や憎しみ,敵意、貪欲を人々への奉仕の律法に置き換えられるよう,熱心に心を一つにし,それによって人類の間に平和と幸福を促進しようではありませんか。

わたしたちは肉と霊という 二つの対照的な性質を持っている

2021-05-19 05:33:33 | 日記
デビッド・O・マッケイの教え

わたしたちは肉と霊という
二つの対照的な性質を持っている

人は二面的な存在であり,人生は神が計画されたものです。これは心に留めておかなければならない大切な基本的事実です。人は肉体と霊体を持っています。
聖文はこの事実をきわめて明確に述べて
います。

「神々は土のちりで人を形造り,彼の霊(すなわち,人の霊)を取ってそれを彼の中に入れられた。そして,命の息をその鼻に吹き入れられると,人は生けるものとなった。」〔アブラハム5:7〕

したがって,人の体は霊が宿る幕屋にすぎません。非常に多くの人々,それもきわめて多くの人々が,体を人そのものであると考え,その結果,体の楽しみや欲求,望み,熱情を満たそうと努める傾向にあります。人の本質は不死不滅の霊つまり肉体が与えられるまで一個の存在として生きていた「英知すなわち真理の光」であること〔教義と聖約93:29参照〕,そしてこの霊の存在は肉体がこの世を去った後もそのあらゆる固有の特質とともに存在し続けることを知らない人があまりにも多すぎます。救い主はこのように言われました。

「わたしは父から出てこの世にきたが,またこの世を去って,父のみもとに行くのであるo」(ヨハネ16:28)

キリストの前世の霊が骨肉の体に宿られたように,あらゆる人の前世の霊はこの世に生まれて骨肉の体を得ます。これが命の第1の基本的な真理であることを心に留めておいてください。

そこで問題となるのは,「物質的な満足を得ることと,霊性を伸ばすことのどちらがいっそう豊かな命をもたらすかということです。これは重大な問題ではないでしょうか。」3

肉体の欲望を満たすことは一時的な満足でしかなく,不幸や苦悩,時には堕落を招くことがあります。これに対して,需的な成長は「悔いることのない喜び」を与えてくれます。

パウロはガラテヤ人への手紙の中で,「肉の働き」と呼ぶものと みたま
「御霊の実」を具体的に挙げています。この分類に注目してください。肉の働きはこのような形で表れます。

「..….不品行,汚れ,好色,偶像礼拝,まじない,敵意,争い,そねみ,怒り,党派心,分裂,分派,ねたみ,泥酔,宴楽,および,そのたく、いである。わたしは以前も言ったように,今も前もって言っておく。このようなことを行う者は,神の国をつく’ことがない。

しかし,御霊の実は,愛,喜び,平和,寛容,慈愛,善意,忠実,柔和,自制であって,これらを否定する律法はない。
キリスト・イエスに属する者は,白分の肉を,その情と欲と共に十字架につけてしまったのである。
もしわたしたちが御霊によって生きるのなら,また御霊によって進もうではないか。」(ガラテヤ5:19-25)

動物のような生活よりも高度の生活があるのです。それは霊的な領域であって,そこには人の持つ神に最も近い特質である愛が存在します。また,同情,親切,そのほかの特質が存在します。

〔人〕はその内に,自らの弱さを克服し,環境を制御し,肉体その他のあらゆる物質的な事柄を統御し,より高くよりすばらしい世界で生きるよう駆り立てる力を持っています。

人には単に動物として生きるよりもはるかに大きな使命があります。それは霊的な特質です。それを感じ取った人は,男女を問わずだれでも、人は二面性を持った存在であるという証を自分自身で持ちます。人はほかのすべての動物と同じように肉体を持っています。

しかし,人は,天の御父からしか得ることのできないものを持っています。わたしたちと父なる神とその御子イエス.キリストの間の仲介者である聖霊を通して,天の親から与えられるささやきを感じ,力を受ける権利を持っています。

人生は二つの性質のいずれに従い,発達させるかを試すものである


人はこの世にいる間,物質的な慰めと満足を得ることに力と心と思いを向けるか,あるいは霊的な特性を身に付けるために人生を送るかを試されているのです。

すべての気高い思い,利己的でない愛の表れ,正しいことのために雄々しく受ける苦難,自分自身よりも高いものに自らをゆだねる心,理想に忠実に歩む心,原則に心から従うこと,人類への貢献,
自制心,見せかけや策略にひるまない勇気,正しく生きること,善い行い,好ましい生活,これが霊性です。

だれでも,人を前進させ高めようとする神聖な力を内に秘めています。この内に秘めた力は,神から来る霊であるとわたしたちは信じています。この地上へ来る前には前世があり,人は内に宿る霊を
完成するために,現在地上にいるのです。生活していて時折,神と交わりたいという欲求を自覚することがあります。人の霊が神を求めるのです。このような感情は万人に共通であり,すべての人は,深遠な真理の中で,霊的な平安と自由を追求し増し加えるという偉大な業に取り組むべきです。

わたしたちには,動物として物質的な世界に生きるか,神の前に戻るためにこの地上にあるものを霊的な世界で生きる手段として活用するかの選択肢が与えられています。

これは具体的に次のようなことを意味しています。

利己心に従うか,あるいは人の益のために自分を抑えるか。

欲望〔と〕情欲のとりこになるか,あるいは慎みと自制をはぐくむか。

不道徳を選ぶか,貞潔を選ぶか。

憎しみを募らせるか,愛をはぐくむか。

冷酷であるか,親切であるか。

悲観的か,楽天的つまり希望を持つか。
背信的であるか,つまり愛してくれる人々や自分の国,教会,神に対して不誠実であるか,あるいは誠実であるか。

人をだますか,あるいは正直に約束を守るか。

人を中傷するか,あるいは舌を制するか。
人がいわゆる動物界にとどまり,動物界がもたらすものだけで満足し,努力せず欲望と激情の赴くままに放縦の域にだんだんと身を落としていくか,あるいは逆に,自制を通して,知的,道徳的,霊
的な喜びを求めて自分自身を高めるかは,人生で本人が行う毎日の,いや,時々刻々の選択にかかっているのです。

人間としての尊厳をまとい,動物には識別できない領域にまで上ることができると知りながら,道徳規範に従うことによって得られる善良さ,清さ,自制,信仰の喜びを味わうために何の努力もせず
に、ただ動物的本能に従うだけで満足することは,人間として何と恥ずべきことでしょう。「ただ少しく人を神よりも低く造って,栄えと誉とをこうむ」っているにもかかわらず(詩篇8:5)、動物
の水準まで自分を引き下げている人は,何と惨めなことでしょうか。

地球はそのすべての威厳と驚異をもってしても,創造の最終的な目的にはなりません。「わたしの栄光」は「人の不死不滅と永遠の命をもたらす」ことであると主は述べておられます(モーセl:39)。

人は選択の自由という神から与えられた賜物を使うことによって,自分に課せられている義務を悟り,この神聖な目的を果たされる創造主を助ける義務があることに気づかなければなりません。

人生の真の目的は単に存在することでも,楽しむことでも.名声を得ることでも,金持ちになることでもありません。人生の真の目的は,神の霊感による導きを受けて,個々の努力を積み重ねること
により,人間性を完成の域にまで高めることです。

真の人生は,わたしたちの内にある最善のものにこたえることです。欲望,快楽,面目,金もうけだけのために生きて,善意や潮切,清さ,愛,詩,音楽,草花,星,神と永遠への希望を大切にしない人は,生きる真の喜びを自分から拒んでいるのです。

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※本日は、ここまでです。お読みいただいてありがとうざいます。赤字は追加しています。

良い1日をお祈りします。

2021年5月19日

悔い改めは常に前向きです

2021-05-18 05:04:07 | 日記
悔い改めは常に前向きです
スティーブン・W・オーウェン
中央若い男性会長
わたしたちは悔い改めの道に足を踏み入れた瞬間に,救い主の贖いの力を自分の生涯に招き入れるのです。
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(このお話しは、末日聖徒イエス・キリスト教会2017年10月の総大会での説教のひとつです。)
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何年か前に,ゴードン・B・ヒンクレー大管長が,大学のアメリカンフットボールの試合を観戦しました。そこに来たのは,スタジアムの名称をチームの長年愛されてきたコーチにちなんだものにすると発表するためでした。コーチが退職することになったからです。チームは,コーチをたたえるために,是が非でもその試合に勝ちたいと思いました。ハーフタイムのときに,ヒンクレー大管長は,ロッカールームに来て励ましの言葉を述べるよう頼まれました。そして,大管長の言葉によって奮起したチームは,その日の試合に勝ち,最後はシーズンを優勝で飾りました。

今日,わたしは,人生で勝利を得ていないと不安に思う人々に向けてお話ししたいと思います。言うまでもなく,実際には,すべての人が「罪を犯し〔ており〕神の栄光を受けられなくなって〔います。〕」スポーツではシーズン中に一度も負けないということがあるかもしれませんが,実際の生活ではそういうことはありません。しかし,わたしは証します。救い主イエス・キリストは完全な贖罪を成し遂げ,わたしたちに悔い改めの賜物,すなわち,完全な希望の輝きと勝利の生活に戻る道を与えてくださいました。
悔い改めは幸福をもたらす
悔い改めは不幸な重苦しいものだと考えることがよくあります。しかし,神の計画は幸福の計画であって,不幸の計画ではありません。悔い改めは人を高め,気高くするものです。不幸をもたらすもの,それは罪です。それから逃れる方法が悔い改めです。D・トッド・クリストファーソン長老は次のように述べています。「悔い改めなければ人生にほんとうの成長も改善もありません。……悔い改めを通してのみイエス・キリストの贖いの恵みと救いにあずかることができます。……悔い改めは,自由と確信,平安へと導いてくれます。」皆さん,特に青少年へのわたしのメッセージは,悔い改めは常に前向きなものであるということです。

わたしたちは悔い改めについて語るとき,自己改善の努力についてだけ話しているわけではありません。真の悔い改めはそれ以上のものです。それは,主イエス・キリストと罪の赦しをもたらす主の力とを信じる信仰により引き出されます。デール・G・レンランド長老は,次のように教えています。「贖い主なくしては,……悔い改めは単なる惨めな行動修正になってしまいます。」わたしたちは自分で自分の言動を変えようとすることはできますが,わたしたちの汚れを取り除き,重荷を取り去ることができるのは救い主のみであり,そのおかげでわたしたちは,自信をもって力強く従順の道を進むことができるのです。悔い改めの喜びは,人並みの生活をする喜び以上のものです。それは,赦しを得て,再び清くなり,神にさらに近づいているという喜びです。ひとたびその喜びを味わうと,それに勝るものが少なくなります。

真の悔い改めは,従順を決意,すなわち聖約とするように促します。聖約はバプテスマから始まり,毎週主の晩餐である聖餐のときに更新されます。聖餐で,わたしたちは,「いつも御子の御霊を受けられる」という約束を受けます。それには,聖霊を常に伴侶とすることで得られる喜びと平安が伴います。これが悔い改めの結ぶ実であり,そしてこれが悔い改めを喜びに満ちたものにするのです。
悔い改めは続けることが必要である
わたしは放蕩息子のたとえが大好きです。放蕩息子が「本心に立ちかえっ〔た〕」その瞬間に心を打つ出来事があります。豚小屋に座っていて,「豚の食べるいなご豆で腹を満たしたい」と思ったとき,自分が父親からもらった財産だけでなく,自分の人生も無駄にしたということに気づいたのです。息子としてではなくても少なくとも僕として,自分を父は受け入れてくれるだろうと信じて, 反抗してきた過去を捨てて家に戻ることを決意しました。

その息子にとって家までの道のりは長かったことでしょう。ためらいを感じ,「父はどのように迎えてくれるだろうか」と何度も考えたのではないでしょうか。豚小屋に引き返そうとさえしたかもしれません。彼が諦めていたらその話はどう変わっていたか,想像してみてください。しかし,信じていたので彼は歩き続け,信じていたので父親は忍耐強く眺め,待ち続けました。その結果がこうです。

まだ遠く離れていたのに,父は彼をみとめ,哀れに思って走り寄り,その首をだいて接吻した。

むすこは父に言った,『父よ,わたしは天に対しても,あなたにむかっても,罪を犯しました。もうあなたのむすこと呼ばれる資格はありません。』

しかし父は僕たちに言いつけた,『さあ,早く,最上の着物を出してきてこの子に着せ,指輪を手にはめ,はきものを足にはかせなさい。……

このむすこが死んでいたのに生き返り,いなくなっていたのに見つかったのだから。』
悔い改めはすべての人のためにある
兄弟姉妹の皆さん,わたしたちは皆,放蕩息子のようです。わたしたちは皆,通常は何度も「本心に立ちかえり」,そして家に戻る道を選ぶ必要があります。それは,生涯を通じて毎日行う選択です。

わたしたちは悔い改めを,「大きな変化」を必要とする重大な罪と結びつけて考えることがよくあります。しかし,悔い改めはすべての人,すなわち「禁じられた道に踏み込んで姿が見えなくなって」いる人はもちろん,「細くて狭い道に入〔り〕」「力強く進〔む〕」必要のある人のためにもあります。悔い改めは,わたしたちを正しい道に導き,正しい道にとどめます。それは,信じ始めたばかりの人,ずっと信じてきた人,またもう一度信じ始める必要のある人のためにあります。デビッド・A・ベドナー長老はかつて次のように述べました。「大半の人は,贖罪が罪人のためにあることを明確に理解しています。しかし,わたしたちは贖罪が聖徒のためにもあること,すなわち,従順で良心的でふさわしい人,また,より善い人になり,より忠実に仕えようと努力している善良な男女のためにもあることを理解しているでしょうか。

先日,わたしが宣教師訓練センターを訪問したとき,新しい宣教師たちが到着しました。彼らに会い,その目の光を見て,わたしは深く感動しました。彼らは輝き,幸せそうで,熱意が感じられました。そのときに一つの思いがわいてきました。「彼らは悔い改めを生じる信仰を経験してきた。喜びと希望に満たされているのはそのためだ」と。

彼らの全員が過去に重大な過ちを犯したということではありません。それでも,悔い改める方法を知っていたのだと思います。彼らは,悔い改めは前向きなものであるということを学んでいたのです。そして,この喜ばしいメッセージを世の人々に伝える準備をし,伝えたいと願ったのです。

悔い改めに伴う喜びを感じるときに,このことが起こります。エノスの例を考えてみてください。彼は「本心に立ちかえり」ました。そして,罪を拭い去られた後,すぐにほかの人々の幸いに心を向けました。エノスは,悔い改めるようすべての人に勧めることに余生を費やし,「俗世のことよりもそれを喜びとし〔た〕」のです。悔い改めによって次のことが起こります。すなわち,悔い改めはわたしたちの心を同胞に向かわせます。わたしたちの感じている喜びをすべての人が味わえると,わたしたちは知っているからです。
悔い改めは生涯にわたって行うものである
あまり活発でない末日聖徒の家族の中で育った友人がいます。ヤングアダルトのときに,彼も「本心に立ちかえり」,伝道の準備をしようと決意しました。

彼はすばらしい宣教師になりました。彼が故郷へ戻る前の最後の日に,伝道部会長は彼を面接し,証を述べるよう頼みました。彼が証を述べ,涙を流して抱き合った後,会長はこう言いました。「長老,あなたは最初に証を築いた事柄を行い続けないかぎり,今証したすべてのことを,数か月以内に,忘れるか,あるいは否定する可能性があります。」

後にわたしの友人は,伝道から戻って以降,毎日祈り,聖文を読んでいるとわたしに言いました。絶えず「神の善い言葉で養われ」ることによって,彼は「正しい道に」とどまっているのです。

伝道に出る準備をしている皆さん,また伝道を終えて戻る皆さん,次のことを覚えておいてください。証を得るだけでは不十分です。証を保持し,強める必要があります。すべての宣教師が知っているように,自転車はペダルを踏むのをやめると倒れます。また,証は養うのをやめると弱くなります。この同じ原則が悔い改めにも当てはまります。それは生涯にわたって続けるものであり,一生に一度のことではありません。

赦しを求めているすべての皆さん,すなわち,青少年,ヤングシングルアダルト,両親,祖父母,また曽祖父母の皆さんに申し上げます。家に戻りましょう。今がそうするときです。悔い改めの日を先に延ばさないでください。

さらに,一度それを決意したら,その道を歩み続けてください。御父は皆さんを迎えたいと切に願い,待っておられます。御父は「終日」皆さんに手を差し伸べておられます。その報いは努力する価値があるものです。

ニーファイの次の言葉を思い出してください。「あなたがたはこれからもキリストを確固として信じ,完全な希望の輝きを持ち,神とすべての人を愛して力強く進まなければならない。そして,キリストの言葉をよく味わいながら力強く進み,最後まで堪え忍ぶならば,見よ,御父は,『あなたがたは永遠の命を受ける』と言われる。

時折,その旅は長く思われます。何と言っても,永遠の命に至る旅です。しかし,イエス・キリストを信じる信仰と主の贖罪にある希望をもって歩み続けるならば,喜びに満ちた旅となります。わたしは証します。わたしたちは悔い改めの道に足を踏み入れた瞬間に,救い主の贖いの力を自分の生涯に招き入れるのです。その力はわたしたちの足取りをしっかりとさせ,視野を広げ,一歩ずつ前進し続けるという決意を深めます。そしてわたしたちは,最終的にあの栄えある日に天の家に戻り,天の御父からこう言われるのです。「よくやった」と。イエス・キリストの御名によって,アーメン。

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※本日もお読みいただいてありがとうざいます。赤字は追加しています。

※イエス・キリストの贖罪を信じて、悔い改めるならば、新しい人生が開けてきます。

例えば、両目を真ん中に焦点を合わせて、じっと見つめると、見えなかった像が浮かび上がって来ます。ステレオグラムの感じです。


なぜ一部の人々は「ステレオグラム」の絵を立体的に見ることができないのだろうか? 」

悔い改めは、今見えている人生に、悔い改めることによって、見えなかった人生が見えてきます。ここに、喜びがあります。

神さまの御霊を感じる良い1日になりますように。

---------------------2021年5月18日




注意をそらす物事で天の光を遮ってはなりません

2021-05-17 03:42:01 | 日記
霊的な日食
ゲーリー・E・スティーブンソン
長老
十二使徒定員会
注意をそらす物事で天の光を遮ってはなりません
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(このお話しは、末日聖徒イエス・キリスト教会2017年10月の総大会での説教のひとつです。)
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今年の8月21日,二つの貴重な出来事が起こり,世界中の人の注目を集めました。一つ目は,愛する預言者,トーマス・S・モンソン大管長の90歳の誕生日を祝ったことです。その日,わたしは太平洋地域での割り当てを受けており,オーストラリア,バヌアツ,ニュージーランド,フランス領ポリネシアの聖徒たちが大管長の人生の節目に気付いていただけでなく,喜んでお祝いする様子に感激しました。偉大なモンソン大管長に対する信頼と愛をともに表すことができたのは幸運でした。末日聖徒 と預言者との結びつきを目にし,感銘を受けました。

モンソン大管長は,誕生日を祝いたいと願う人たちに気を留め,理想的な誕生日の贈り物についてこう話しました。「つらい思いをしている人や病気の人,寂しい人を見つけて,彼らのために何かしてください。お願いするのは,ただそれだけです。」大管長,わたしたちはあなたを愛し,支持しています。
日食
この日,もう一つの珍しい天に関する出来事が起こり,世界中の大勢の人を魅了しました。皆既日食です。このような日食がアメリカ全土を通過したのは,99年ぶりのことでした。皆さんは日食を見たことがありますか。詳しく説明してみましょう。

皆既日食は,月が地球と太陽の間に入り,太陽の表面から発せられる光をほぼ完全に遮るときに起こります。これは実に驚くべき現象です。太陽を一般的な自転車のタイヤの大きさだとすると,それに比べて月は小石ほどの大きさにすぎません。


わたしたちの熱,光,命のまさに源である太陽が,さほど大きくないものにそれほどうまく覆い隠されてしまうことは,どのようにして起こるのでしょうか。

太陽の大きさは月の400倍ですが,地球から太陽の距離も地球から月の400倍あります。この配置のために,地球から見ると太陽と月は同じ大きさに見えるのです。太陽と月が一列に並ぶと,月は太陽全体を覆い隠すように見えます。皆既日食が見られる地域にいた友人や家族は,闇が光にとって代わり,星が現れ,鳥が鳴くのをやめた様子を話してくれました。日食時には11度(華氏20度)以上温度が下がることもあるので,外気はひんやりとしたそうです。


彼らは,畏怖の念,信じられないような驚き,そして,ある種の危険が伴うことへの懸念も話してくれました。日食の最中には,「日食盲」と呼ばれる恒久的な眼の損傷を防ぐために,注意を払う必要があるのです。彼らは,眼を害から守るために,特別なフィルターがかかったレンズ入りの眼鏡を使いました。
たとえ
とても小さな月が壮大な太陽を遮ってその光と温もりを消すことができるように,霊的な日食も起こり得ます。日々の生活の中で出会う,小さくてもやっかいな障害物を近くに引き寄せて,イエス・キリストの光と主の福音が持つ偉大さや輝き,温もりを遮るときに,それは起こります。

ニール・A・マックスウェル長老は,このたとえをさらに掘り下げています。「人の親指ほどの小さなものでさえ,目に近づけると,巨大な太陽が見えなくなります。しかし,太陽は依然としてそこにあります。太陽を見えなくするのは,その人自身なのです。何かを優先して近くに引き寄せすぎると,天が見えなくなってしまいます。

生活の中で,わざわざ天のビジョンを覆ったり,霊的な日食を起こしたいと願う人はきっといないでしょう。永遠にわたって霊的な害を与える霊的な日食を防ぐために助けとなることを幾つか話したいと思います。
福音の眼鏡—福音の視点を保つ
さきほど,日食を見る人を目の損傷や日食盲から守るために使われる特別な眼鏡について説明したのを覚えていますか。霊的な日食が起きても,目を守り,害を和らげてくれる御霊のレンズを通して見ることにより,福音の視点を得て,霊的な盲目を避けることができます。

幾つか例を見てみましょう。預言者の言葉を心に留め,聖霊を助言者とするならば,「福音の眼鏡」を通して,部分的に遮られている天の光を,霊的な日食の害をうけずに見つめることができます。

では,どのように福音の眼鏡をかけるのでしょうか。幾つか例を挙げましょう。福音の眼鏡をかけると,毎週聖餐を取り,聖文を研究し,日々祈るよう主から期待されていることが分かります。また,サタンがそうしないように誘惑することも分かります。わたしたちは,サタンの目標がこの世の誘惑を通して,注意をそらさせ,選択の自由を取り上げることだと知っています。ヨブの時代にも,霊的な日食を経験した人々がいたようです。次のように書かれています。「彼らは昼も,やみに会い,真昼にも,夜のように手探りする。

兄弟姉妹の皆さん,わたしがお伝えしている「福音の眼鏡を通して見る」ということは,問題に直面したときに見て見ぬふりをしたり,それについて話さないようにすることではありません。または敵が仕掛けた罠や悪に対して無知で,のほほんとしていることを意味しているのでもありません。わたしは,目隠しをすることではなく,逆に福音のレンズを通して問題を見るよう勧めているのです。ダリン・H・オークス長老は「視点とは,あらゆる関連情報を意味のある関係においてとらえる能力である」と述べました。福音の視点は,永遠の物の見方ができるようにわたしたちの視野を広げてくれます。

福音の眼鏡をかけると,優先順位や問題,誘惑,さらには自分の過ちについても,より善い視点,焦点,視野で見ることができます。眼鏡なしでは見えなかった,より明るい光が見えるでしょう。


皮肉なことに,霊的な日食を生活に引き起こすのは,負の事柄だけではありません。称賛すべき,良い事柄に取り組んでいても,近くに引き寄せすぎたために福音の光が遮られ,闇をもたらすことがあります。教育や繁栄,力や影響,野望,才能や賜物でさえもこれらの危険や目くらましになることがあるのです。

ディーター・F・ウークトドルフ管長はこのように教えています。「どんな良いことでも『過ぎたるは及ばざるがごとし』と言います。……一線を越えれば,目標は重荷になり,大志は足かせとなるのです。」

霊的な日食を避けるうえで,役立つ事柄についてさらに詳しくお話したいと思います。
ソーシャルメディア
数か月前,わたしはBYUの女性のための大会で話しました。ソーシャルメディアなどのテクノロジーが,「救い主についての知識〔を〕,あらゆる国民,部族,国語の民,民族の間に」広めるのを促進することについて説明しました。これらのテクノロジーには,LDS.org,Mormon.orgといった教会のウェブサイトや,福音ライブラリー,モルモンチャンネル,LDSツール,ファミリーツリーのような携帯アプリ,そしてフェイスブックやインスタグラム,ツイッター,ピンタレストといったソーシャルメディアが含まれます。これらのソーシャルメディアは何万もの「いいね」や「シェア」「ビュー」「リツイート」「ピン」を生み,家族や友人,仲間に福音を伝えるうえでとても効果的で有効な手段になりました。

しかしながら,これらのテクノロジーに多くの利点と適切な使い道があっても,近くに引き寄せすぎると霊的な日食を引き起こし,福音の輝きや温もりを遮る危険性があります。

ソーシャルメディアや携帯アプリ,ゲームの利用に過度に時間を費やすと,人との直接の交わりが減ってしまいます。このように個々の会話が失われることで,結婚に影響が及び,価値ある霊的な習慣が失われ,特に青年の間でソーシャルスキルの発達が抑制される可能性があります。

ソーシャルメディアに関連したもう二つのリスクは,現実を理想化することと,比較に疲れてしまうことです。

ソーシャルメディアへの投稿では,絵に描いたような理想的な写真が(ほとんどとは言わないまでも)多くなりがちです。室内装飾の美しい画像や,美しい休暇スポット,笑顔の自撮り写真,手の込んだ料理,手が届かないほどすてきなスタイルの人の画像などを目にします。

例えば,このような画像をだれかのソシャールメディアのアカウントで見たとします。これは,現実の生活の実際の出来事を完全に映し出した写真ではありません。

一見したところ平凡な自分の存在を,ソーシャルメディアに掲載される,美しく編集されたほかの人の生活ぶりと比較すると,失望や妬み,自分は不出来であるという感情まで抱くかもしれません。

自分の写真を数えきれないほどシェアしている人が,恐らく半分は冗談だと思いますが,こう言いました。「幸せだってことを投稿しなけりゃ意味がないのよ。」

今朝オスカーソン姉妹が話してくれたように,人生における成功は,「いいね」の数や,ソーシャルメディアの「友達」やフォロワーの人数で決まるのではありません。人々と意味のある結びつきをもち,彼らに光を加えることこそが成功なのです。

比較することで気落ちするような,現実を理想化した画像を見たときに,わたしたちがもっと現実に根差し,ユーモアを見いだし,落胆することがないように願っています。

比較はこの時代特有の現象ではなく,過去の時代にも同じでした。使徒パウロは当時の民にこのように警告しました。「彼らは仲間同志で互にはかり合ったり,互に比べ合ったりしているが,知恵のないしわざである。」

理想化されたバーチャルの自分を映し出すためではなく,自分自身を教え,鼓舞し,周りの人を高め,最善を尽くすよう励ますために,適切かつ霊感を受けた方法でテクノロジーを用いましょう。また,テクノロジーの義にかなった使い方を次世代に教え,実践し,その使用にまつわる危険や有害な使い方について警告しましょう。福音のレンズを通してソーシャルメディアを見ることにより,生活における霊的な日食が起きるのを防ぐことができます
高慢
次に,昔からのつまずきの石である高慢についてお話します。高慢は,謙遜,つまり「主の御心に進んで従〔う心〕」の反対です。人は高慢になっているとき,主を含め,ほかの人よりも自分を尊ぶようになりがちです。高慢な人は,人と競争し,人よりも多くのものを求め,自分が人よりも優れていると思い込みます。高慢は怒りと嫌悪感をかき立てることがよくあります。この感情があると,恨みを抱くようになったり,赦すことができなくなったりします。しかし,高慢は,謙遜というキリストのような特質によって克服できるのです。

人との関係は,身近な家族や愛する人たちですら,いえ,特に身近な家族や愛する人たちだからこそ,夫婦の関係でさえ,謙遜になることによって育まれるのであり,高慢な気持ちがあると弱くなります。

何年も前に,大規模な小売企業の役員から,競合企業に買収されかけていた彼の会社について相談されたことがあります。彼を始めとする大勢の本部社員は,職を失うのではないかと非常に不安に思っていました。買収する側の会社の経営陣とわたしの親交が深いことを知っていたその重役は,その会社に自分を紹介して,強く売り込んでくれないかと頼んできました。面接の約束を作ってくれないかとまで言ってきたのです。そして,最後にこう言ったのです。「よく言うでしょう。『柔和な人は滅びるだろう』って。」

彼はユーモアのつもりで言ったのでしょう。冗談も理解しました。しかし,いずれ彼の役に立つだろう重要な原則がありました。わたしはこう答えました。「実際のところ,それはこう言うんですよ。さきほどの逆で,『柔和な人は,地を受け継ぐであろう』と。」

教会や仕事での経験において,わたしが知る最も偉大で有能な人は,最も柔和で謙遜な人たちでした。

謙遜と柔和は表裏一体なのです。「柔和で心のへりくだった人でなければ,神の御前に受け入れられない」ことを覚えていられますように。

わたしたちが謙遜という徳を受け入れ,高慢という霊的な日食を避けようと努力できるよう祈ります。
結び
話をまとめます。実に見事な自然現象である日食において,太陽の美しさや温もりや光は,比較的ささいな物によって完全に覆われてしまい,暗闇と気温の低下が生じます。

似たような現象を霊的な意味で再現することができます。普段は小さくてささいな物も近くに引き寄せすぎると,イエス・キリストの福音の美しさや温もり,天の光が遮ぎられ,代わりに冷たい暗闇がやってくるのです。

皆既日食の見える地域にいる人の視力を守るための眼鏡は,恒久的な目の損傷と失明を防ぐことができます。同様に,福音の原則と儀式についての知識と証から成る福音の眼鏡は,福音の視点を与えてくれます。これは霊的な日食の危険にさらされている人に霊的な守りと明瞭な視界を与えるものです。

生活において福音の喜びと光を妨げているように思えることを見つけたら,福音の視点で見てみるようにお勧めします。福音のレンズを通して見てください。そして,生活において小さくてささいなことが,偉大な幸福の計画の永遠の視点を見失わせることがないように,警戒しましょう。つまり,注意をそらす物事で天の光を遮ってはならないということです。
障害物が福音の光を遮ったとしても,光は依然としてそこにあることを証します。温もりや真理,輝きの源は,イエス・キリストの福音です。愛に満ちた天の御父と御子イエス・キリスト,そして救い主,贖い主としての御子の役割について証します。イエス・キリストの御名により,アーメン。

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※本日もお読みいただいてありがとうざいます。赤字は追加しています。
※「教会や仕事での経験において,わたしが知る最も偉大で有能な人は,最も柔和で謙遜な人たちでした。」

柔和で謙遜な特質を目標に、本日も努力できますように。

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完全とは、遠くのはるかな目的を達成すること

2021-05-16 05:40:54 | 日記

完成への道

十二使徒定員会会員
ラッセル ・M・ ネルソン

完成を目指す熱心な努力が、今 は困難 で果 てしないように感 じられるかもしれません。完成とは途絶えることのない過程 です。 それは復活の後のみに,主を通 してだ け完全 にもたらされるのです。

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このお話しは、末日聖徒イエス・キリスト教会の1996年1月号の聖徒の道に掲載されています。
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(前略)

最 近 わた しは, 英語 版 とギ リシ ャ語
版 の 『新 約 聖 書 』 を研 究 し, 「完 全 」とい う言 葉 とその派生 語 の用 い方 に ついて集 中的 に調 べ ま した。 両 方 の言語を同時 に研 究 してい る と, ある興味 深い洞 察 が 幾 つ か得 られ ま した 。 ギ リシャ語が 『新 約聖 書』 の言 語 で ある ことに由来 す る考 えで す。

マ タ イ に よ る福 音 書 第5章48節 の完 全」 とい う言 葉 は, ギ リシ ャ語 の「テ レイオ ス(teleios)」 とい う言 葉を翻 訳 した もので , 「完 成 する」 という意 味 が あ ります 。 また 「テ レ イオス」は 「終わ り」の意味の名詞 「テロス(telos)」 か ら派 生 した形 容 詞 で す 。I0
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(聖句コピーします。)

マタイ5章
48 それだから、あなたがたのてんちち完全かんぜんであられるように、あなたがたも完全かんぜんものとなりなさい。
48 Be ye therefore perfect, even as your Father which is in heaven is perfect.
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この動 詞 の 不 定 詞 形 は 「テ レイ オ ノ(teleiono)」 で, 「果 てにた ど りつ く,十 分 に発達 す る,成 し遂 げ る」 とい う意 味 で す。11 こ の言 葉 に は 「失敗 を しな い」 とい う意味 は含 まれ て はお らず,はるか な 目的 を達 成 す る」 とい う意味 が あ ることに注 目して くだ さい。 実際 , ギ リシ ャ語 版 の 『新 約聖 書』 の著者 は 「品行 の完 成」, つ ま り 「人 間 の努 力 の正確 さ, 卓越 性」 を描 写 した い
ときに は, この 「テ レイオ ス」 の類 の言 葉 を用 いず に別 の言葉 を選 択 しています。12

「テ レ イ オ ス 」 は英 語 圏 の人 々 にとって はまっ た く耳慣 れな い言葉 で はあ りませ ん。 この言葉 か ら, 英語 に頻出 す る 「tele一」 とい う接 頭 辞 が 生 まれ た か らで す 。 「遠 い」 を意 味 す る接頭辞 で す 「telephone〈 電 話)」 は文字 どお り 「遠 くとの話 」 とい う意 味です し,「television(テ レ ビ)」 は 「遠く離 れ て見 る」 を, 「telephoto(望 遠写真)」 は 「遠 くの光 」 を意 味 す る とい った具 合 です。

この よ うな背景 を念 頭 に置 いて ,主が語 られ た もう一 方 の きわ めて意味 深い言葉 につ いて考 えてみ ま し ょう。 主は 十字 架 に おか か りに な る に 先 立 ち「わ た し は… … 三 日目 に 〔完 全 になる〕 であ ろ う」 とお っ しゃい ました。13

罪 が な く,過 ち を犯 さな か った主が ,つ ま り現世 の標 準 か ら見 れば すで に完全 で あ られた 主が ,御 自身 が完全 になるの は これか ら先 の こ とであ る と宣 言され たの です。14こ う して主 は, 「永 遠の完成 」 を,復 活 して 「天 にお い て も地 におい て も, い っ さい の権.威」 を受けた後 に, 遂 げ られ ま した。15

救 い主 がわ た したち のた め に心 に描いて お られ る完成 とは, 「誤 ちの な い行為 」以 上 の もの です。 それ は永 遠 の視野 に立 った期待 であ り,主 が御 父 にさ さげ られた次 の偉 大 な執 り成 しの祈りに も表 れ て い ます。 「わ た した ちが完 全 にな れ ます よ うに, そ して永遠 にと も に住 ま う こ と が で き ま す よ うに。」16

主 の御 業 の全 体 と栄光 は,一 人一 人の不死 不滅 と永 遠 の命 を もた らす ことです。17

(後略)

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※本日もお読みいただいてありがとうざいます。赤字、聖句は、追加しています。

※完全というのは、英語では、失敗しないというよりも、はるか先を目指して、たゆみなく努力を続ける語感を持っています。

これは、英語や、他の言葉を学んで、はじめて分かります。語学の勉強の大切さです。

※使ってみて、便利な単語帳アプリご紹介します。















画像が検索でき、裏面に張り付けできます。勉強の能率が上がるような気がします。



こんな感じです。あらゆる暗記に便利なアプリと思います。

勉強している皆さん、自分のためではなく、困っている人々の役に立つために、勉強頑張って。そうすると、自分の力を最高に伸ばせます。

マタイ10章
39 自分じぶんいのちているものはそれをうしない、わたしのために自分じぶんいのちうしなっているものは、それをるであろう。
39 He that findeth his life shall lose it: and he that loseth his life for my sake shall find it.

--------------------2021年5月16日