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神の力とをもって,大いなる栄光のうちに (1ニーファイ14:14)

2021-11-20 04:46:06 | 日記
神の力とをもって,大いなる栄光のうちに(1ニーファイ14:14)

デビッド・A・ベドナー長老
十二使徒定員会

聖約を尊ぶことにより,わたしたちは義と神の力とをもって,大いなる栄光のうちに武装することができます。


時満ちる神権時代における救いと昇栄の驚くべき御業についてともに考えるときに,聖霊がわたしたちを啓発し,教化してくださるよう祈ります。


モロナイがジョセフ・スミスに初めて現れたとき

最初の示現から約3年後の1823年9月21日の晩,少年ジョセフ・スミスは,罪の赦しを受けるため,また神の前における自分の状態と立場を知るために祈っていました。一人の方がベッドのそばに現れ,ジョセフの名を呼び,「自分は神の前から遣わされた使者であり,その名はモロナイであること」を告げ,「神が〔ジョセフ〕のなすべき業を備えておられる」と説明してから,モルモン書の出現についてジョセフに教えました。重要なことは,モロナイの話の中で最初に語られた話題の一つがモルモン書だったことです。


モルモン書はイエス・キリストのもう一つの証であり,末日における,改心のためのすばらしい手段です。わたしたちが福音を伝える目的は,イエス・キリストのもとに来て,回復された福音の祝福を受け,救い主を信じる信仰を通して終わりまで耐え忍ぶよう,すべての人を招くことです。人々が大きな心の変化を経験し,神聖な聖約と儀式を通して主と結びつくのを助けることは,福音を宣べ伝えることの基本的な目的です。


モロナイがジョセフ・スミスにモルモン書について紹介したことにより,時満ちる神権時代における幕のこちら側の人々の救いと昇栄の業が始まりました。


モロナイはジョセフへの教えをさらに続け,次に旧約聖書のマラキ書から引用し,欽定訳聖書に書かれている言葉を少し変えてこう述べました。


「見よ,主の大いなる恐るべき日が来る前に,わたしは預言者エリヤの手によってあなたがたに神権を現そう。
……彼は先祖に与えられた約束を子孫の心に植え,子孫の心はその先祖に向かうであろう。そうでなければ,主の来臨の時に,全地はことごとく荒廃するであろう。」


神殿を建てる目的は,生者と死者の両方を含む人類家族の救いと昇栄に必要な,神聖な聖約と儀式が執り行われる,聖なる場を設けることです。エリヤの重要な役割と神権の権能についてモロナイがジョセフ・スミスに教えたことにより,幕のこちら側の救いと昇栄の業が拡大し,幕の向こう側の死者のための業がこの神権時代において開始しました。


簡潔に言えば,1823年9月にモロナイがモルモン書とエリヤの使命について教えた事柄は,幕の両側における救いと昇栄の業の教義的な基礎を確立したのです。



預言者ジョセフ・スミスの教え

ジョセフ・スミスがモロナイから学んだ教えは,ジョセフの教導の業のあらゆる側面に影響を及ぼしました。例えば,1837年4月6日にカートランド神殿で開かれた聖会で,預言者は次のように述べています。「結局のところ,最も偉大で最も重要な義務は福音を宣べ伝えることです。」


それからほぼちょうど7年後の1844年4月7日に,ジョセフ・スミスはキング・フォレット説教として今日知られる説教を行い,このように述べています。 「わたしたちがこの世で神から受けている最も大きな責任は,死者を探し求めることです。」


福音を宣べ伝えることと死者を探し求めることの両方が,どちらもわたしたちに課せられている一つの最も大きな務めであり責任であるのはなぜでしょうか。預言者ジョセフ・スミスはこの二つの言葉の中で,権能を有する神権の儀式を通して交わされる聖約は,わたしたちを主イエス・キリストに結びつけるものであり,幕の両側の救いと昇栄の業の中心を成す,という基本的な真理を強調していたのだと思います。


伝道と神殿・家族歴史の業は,一つの大いなる業の側面であり,相互に補い関連しているものです。この大いなる業は,わたしたちが生活の中で神性の力を受け,最終的には天の御父のみもとに戻ることを可能にする,神聖な聖約と儀式に焦点を当てています。このように,預言者のこの二つの言葉は,はじめは矛盾しているように見えますが,実際のところ,この大いなる末日の業の中心を強調しているのです。



聖約と儀式を通して救い主に結ばれる

救い主は次のように言われました。
「わたしは柔和で心のへりくだった者であるから,わたしのくびきを負うて,わたしに学びなさい。そうすれば,あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。
わたしのくびきは負いやすく,わたしの荷は軽いからである。」


わたしたちは,神聖な聖約と儀式について学び,それらをふさわしい状態で受け,尊ぶときに,救い主のくびきを負います。自分が受け入れた義務を忠実に覚え,それに従って生活しようと最善を尽くすとき,わたしたちは救い主と固く結ばれます。そして,主とのそのきずなこそが,人生のあらゆる時季に霊的な力の源となるのです。



主の聖約の民

聖約を守る,イエス・キリストの弟子に約束されている祝福について考えてみてください。例えば,ニーファイは「〔末日聖徒における〕神の小羊の教会を見」て言いました。「この教会に属している者の数は,……少なかった。……神の聖徒である小羊の教会の人々……の占める場所は,小さかった。」


また,「神の小羊の力が,地の全面に散っている小羊の教会の聖徒たち,すなわち主の聖約の民のうえに下るのを見た。彼らは義と神の力とをもって,大いなる栄光のうちに武装していた。」


「義と神の力とをもって,大いなる栄光のうちに武装していた」という言葉は,単なる良いアイデアでもなければ,美しい響きの聖句の一例でもありません。これらの祝福はむしろ,末日における無数の主の弟子たちの生活によく見られるものです。


十二使徒の一員としての割り当てのために,わたしは世界中を巡り,皆さんの多くと会い,記憶に残る教訓を学ぶという祝福に預かってきました。現代の主の聖約の民は,確かに義と神の力をもって,大いなる栄光のうちに武装していることを証します。わたしは,人の能力をはるかに超えた,そして神のみが与えることのおできになる,信仰や勇気,視点,粘り強さ,喜びを目にしてきました。


恐ろしい自動車の事故で,体の一部がまひした若い教会員が,聖約と儀式に忠実であることを通して,大いなる栄光のうちに義と神の力を受けるのを目のあたりにしました。何か月にもわたるつらい快復期間と身体が自由に動かせない新たなライフスタイルへの順応期間の後,わたしはこの堅固な人物と会って話をしました。会話の中でわたしは「この経験は何を学ぶ助けとなりましたか」と尋ねました。すぐにこのような返事が返ってきました。「悲しくありませんし,怒ってもいません。すべては上手くいきます。」


わたしはまた,最近バプテスマを受けて教会の会員に確認された人たちが,聖約と儀式に忠実であることを通して,大いなる栄光のうちに義と神の力を受けるのを目のあたりにしました。この改宗者たちは,学び,奉仕したいと強く望み,古い習慣や根強い伝統を脇にやりたいと思いながらもどうすればよいか定かではないことがよくあります。それでも彼らは,「聖徒たちと同じ国籍の者であり,神の家族」になることを喜んでいます。
さらにわたしは,病気の末期にある伴侶と親を優しく世話する家族が,聖約と儀式に忠実であることを通して,大いなる栄光のうちに義と神の力を受けるのを目のあたりにしました。この雄々しい弟子たちは,家族として孤独を感じたこともあれば,主の御手に高められ,強められていると感じることもあったと話してくれました。この家族は,現世での困難な経験により,わたしたちが成長し,天の御父と贖い主,イエス・キリストにさらに似た者となれることに感謝を述べました。神はこの家族を助け,この家族が常に聖霊を伴侶とすることができるよう祝福し,この家庭を,神殿のような神聖な避け所としてくださいました。


わたしはまた,離婚による心の痛みを経験した会員が,聖約と儀式に忠実であることを通して,大いなる栄光のうちに義と神の力を受けるのを目のあたりにしました。この姉妹の霊的,情緒的な苦痛は,伴侶が聖約を破り,離婚に至ったことにまつわる不公平感によりいっそう強まっていました。彼女は,正義と責任を望んでいたのです。


この忠実な女性は,自分の身に起こった出来事に苦しみながら,それまでになく熱心かつ真剣に,救い主の贖罪について研究し,深く考えました。次第に,キリストの贖いの使命,すなわち,わたしたちの罪や苦しみ,弱さ,落胆,苦痛のために主が苦しまれたことに対するさらに深い理解が彼女の心に滴り始めました。そしてこの女性は,胸に刺さるこのような質問を自問するよう霊感を受けました。「これらの罪のための代価はすでに払われているのに,自分は二度払うよう求めるのか。」そして,そのように求めることは,正義でも憐れみでもないことに気づきました。


聖約と儀式を通して救い主に結びつくことで,ほかの人が道徳的な選択の自由を不義に用いることにより生じた傷は癒され,人を赦し,平安と憐れみと愛を受ける能力を見いだす能力が高められることを,この女性は学んだのです。



約束と証

聖約の約束と祝福は,救い主イエス・キリストによってのみ可能となります。主はわたしたちに,主を仰ぎ見て,主のもとに来て,主に学び,主の回復された福音の聖約と儀式を通して主と結ばれるよう招いておられます。聖約を尊ぶことにより,わたしたちは義と神の力とをもって,大いなる栄光のうちに武装することができることを証し,約束します。また,生けるイエス・キリストが救い主であられることを証します。これらの真理を,イエス・キリストの聖なる御名によって,喜びをもって証します,アーメン。


本日もお読みいただいて、ありがとうございます。

このお話は、末日聖徒イエス・キリスト教会リアホナ2021年11月号から、ご紹介しました。

赤字青字は追加しています。


「神の小羊の力が,地の全面に散っている小羊の教会の聖徒たち,すなわち主の聖約の民のうえに下るのを見た。彼らは義と神の力とをもって,大いなる栄光のうちに武装していた。」


“beheld the power of the Lamb of God, that it descended upon the saints of the church of the Lamb, and upon the covenant people of the Lord, … and they were armed with righteousness and with the power of God in great glory.”


「看到神羔羊的大能降在羔羊教會的聖徒身上,也降在……主的約民身上;他們在極大的榮耀中,以正義,並以神的大能武裝起來。」



「看到神羔羊的大能降在羔羊教会的圣徒身上,也降在……主的约民身上;他们在极大的荣耀中,以正义,并以神的大能武装起来。」


土曜日です。疲れが溜まっていると思いますが、注意深く頑張りましょう。

今日も良い1日になりますように、お祈りします。

信仰を込めて求めれば報われる

2021-11-19 04:46:08 | 日記
信仰を込めて求めれば報われる

パトリシオ・M・ジュフラ長老
七十人

キリストへの信仰を絶えず増し加えるよう皆さんに勧めます。主はキリストを求めるすべての人々の人生を変え続ける御方です。


1846年に始まり,何千人もの開拓者の男性,女性,および子供たちは,西部のシオンへと旅立ちました。開拓者たちの強い信仰は,彼らに計り知れない勇気を与えたのです。ある人々にとってその旅は,完遂できないものとなりました。道の途中で亡くなったためです。ほかの人々は,大きな逆境に直面しながらも,信仰をもって力強く進みました。


彼らのおかげで,何世代もの後に,わたしの家族はイエス・キリストの真の福音の祝福にあずかることができました。


後にお話しするもう一人の14歳の少年と同じように,わたしが宗教や自分の信仰について疑問を持ち始めたのは14歳のときでした。自宅に近いある宗派の教会に出席していましたが,数ある別の教会に行ってみたいと思っていました。


ある日の午後,わたしは隣人の家に入って行く,濃い色のスーツと白いシャツを着た二人の青年に目が留まりました。この青年たちは―特別に見えました。


次の日,わたしは隣人のレオノール・ロペスに会い,その二人の青年について尋ねました。レオノールは,彼らは末日聖徒イエス・キリスト教会の宣教師であると説明し,彼女の家族が昨年その教会でバプテスマを受けたことを,うれしそうに話してくれました。レオノールはわたしが関心を持っているのを見て,宣教師に会って教会について学ぶよう勧めてくれました。


2日後,わたしは宣教師に会うためにロペス家族の家に行きました。宣教師は自分たちのことを,ユタ州オグデン出身のジョン・メサリー長老と,カリフォルニア州ウォールナットクリーク出身のクリストファー・オソリオ長老ですと紹介しました。わたしは彼らのことを決して忘れません。



わたしはまだ14歳だったので,メサリー長老は,宣教師がわたしに教えていることをわたしの母が分かるように,隣のわたしの家に行くことを強く求めました。自宅に行くと,メサリー長老はイエス・キリストに関するメッセージを伝えるために来たことを丁寧に説明し,わたしに教える許可を母に求めました。母は承諾し,宣教師がわたしに教えている間,一緒に参加もしてくれました。


宣教師はまずレオノール姉妹に祈りをささげるように頼みました。わたしは彼女の祈りに深く感動しました。それは暗記した言葉の繰り返しではなく,彼女の心からの表現だったからです。わたしは彼女がほんとうに天の御父と話していると感じました。


祈りの後,宣教師はイエス・キリストについて教えてくれました。わたしは彼らが見せてくれたキリストの絵に感動しました。復活した生けるキリストの絵だったからです。



宣教師たちは続けて,イエスが古代に御自身の教会を設立された方法を教えました。十二使徒が加わった,イエスを頭とする教会です。彼らは,主の使徒たちが亡くなった後,真理とキリストの権能が地上から取り去られてしまった背教についても教えてくれました。


1800年代初期に,真理を求めて様々な教会を訪れたジョセフ・スミスという名の14歳の少年についても話してくれました。時がたつにつれ,ジョセフはなおさら分からなくなりました。知恵を得るために「神に,願い求める」ことができると聖書から読んだジョセフは,信仰をもって行動し,祈ってどの教会に加わるべきか尋ねるために森へ入って行きました。


宣教師の一人が,ジョセフが祈ったときに起こったことについての出来事を読んでくれました。


「わたしは自分の真上に,太陽の輝きにも勝って輝いている光の柱を見た。そして,その光の柱は次第に降りて来て,光はついにわたしに降り注いだ。


……そして,その光がわたしの上にとどまったとき,わたしは筆紙に尽くし難い輝きと栄光を持つ二人の御方がわたしの上の空中に立っておられるのを見た。すると,そのうちの御一方がわたしに語りかけ,わたしの名を呼び,別の御方を指して,『これはわたしの愛する子である。彼に聞きなさい』と言われた。」


そのレッスンの間,御霊が幾つかの真理をわたしに確認してくれました。


第1に,神はすべての御自分の子供たちの心からの祈りを聞かれ,天はごくわずかの人だけにでなくすべての人に開かれています。


第2に,父なる神とイエス・キリストと聖霊は,別個の御三方であり,「人の不死不滅と永遠の命をもたらす」という目的において一致しておられます。


第3に,わたしたちは神の形に創造されています。わたしたちの御父とその御子イエス・キリストは,わたしたちと同じように骨肉の体を持っておられますが,その体は栄光に満ちた完全なものであり,聖霊は霊の御方です。


第4に,イエス・キリストは,ジョセフ・スミスを通して御自身の福音と真実の教会を地上に回復されました。2,000年前にキリストの使徒たちに授けられた神権の権能は,ペテロ,ヤコブ,ヨハネによってジョセフ・スミスとオリバー・カウドリに授けられた神権と同じものです。



最後に,わたしたちはイエス・キリストのもう一つの証であるモルモン書について学びました。それは古代の預言者たちによって書かれたもので,イエス・キリストが降誕する以前と,主が地上におられた間と,主が亡くなられた後にアメリカ大陸に住んでいた人々について記されています。その書物から,復活された救い主として彼らに現れたキリストを,彼らが知り,愛し,礼拝していたことを知ることができます。


「見よ,わたしはイエス・キリストであり,世に来ると預言者たちが証した者である」と救い主が宣言されたことを学んだとき,御霊がわたしの心を大きく動かしました。


宣教師たちは,わたしたちにモルモン書をくれました。わたしたちは,モルモン書の終わりにある次の招きを受け入れました。


「また,この記録を受けるとき,これが真実かどうかキリストの名によって永遠の父なる神に問うように,あなたがたに勧めたい。もしキリストを信じながら,誠心誠意問うならば,神はこれが真実であることを,聖霊の力によってあなたがたに明らかにしてくださる。


そして聖霊の力によって,あなたがたはすべてのことの真理を知るであろう。」


母とわたしがキリストへの信仰を持つことの喜びと力について最初に学んでから45年近くたちます。ロペス家族が自分たちの新しい宗教について分かち合ってくれたことは,彼らのキリストへの信仰によるものでした。あの二人の宣教師がアメリカ合衆国の自分の家を離れ,わたしの母とわたしを見つけたことは,彼らのキリストへの信仰によるものでした。わたしたちの内に一粒のからし種ほどの信仰を植えてくれたこれらすべての愛する友人たちの信仰により,その種はその時から大きな永遠の祝福の木に成長しています。


これまでの祝福された数十年の間,わたしたちは,ラッセル・M・ネルソン大管長が宣言した次のことを理解していました。「人生における良いことのすべて—永遠にわたって重要な祝福となり得ることすべて—は,信仰から始まります。生活の中で神に勝利を得ていただくことは,まず神は喜んで導いてくださると信じる信仰から始まります。真の悔い改めは,イエス・キリストはわたしたちを清め,癒し,強くする力をお持ちであると信じる信仰から始まります。


キリストへの信仰を絶えず増し加えるよう皆さんに勧めます。主は愛する母とわたしの人生を変え,キリストを求めるすべての人々の人生を変え続ける御方です。ジョセフ・スミスが回復の預言者であること,また,ネルソン大管長が今日の預言者であることを知っています。イエスは生けるキリストであり,わたしたちの贖い主であられること,また,天の御父が生きておられ御自分の子供たちのすべての祈りにこたえてくださることを知っています。これらの真理をイエス・キリストの聖なる御名により証します,アーメン。


今日もお読みいただいてありがとうございます。

このお話は、末日聖徒イエス・キリスト教会リアホナ2021年11月号から、ご紹介しました。赤字は追加しています。


「人生における良いことのすべて—永遠にわたって重要な祝福となり得ることすべて—は,信仰から始まります。生活の中で神に勝利を得ていただくことは,まず神は喜んで導いてくださると信じる信仰から始まります。真の悔い改めは,イエス・キリストはわたしたちを清め,癒し,強くする力をお持ちであると信じる信仰から始まります。」


“Everything good in life—every potential blessing of eternal significance—begins with faith. Allowing God to prevail in our lives begins with faith that He is willing to guide us. True repentance begins with faith that Jesus Christ has the power to cleanse, heal, and strengthen us.”


「生命中的一切良善,一切具有永恆意義的潛在祝福,都從信心開始。要讓神在我們的生活中得勝,第一步就要相信:祂願意引導我們。要真正的悔改,第一步就是要有信心,相信耶穌基督有能力潔淨、醫治和加強我們。」


「生命中的一切良善,一切具有永恒意义的潜在祝福,都从信心开始。要让神在我们的生活中得胜,第一步就要相信:祂愿意引导我们。要真正的悔改,第一步就是要有信心,相信耶稣基督有能力洁净、医治和加强我们。


信仰を持つと人生に光がさしてきます。

困難があっても、イエス・キリストが助けてくださいます。

この真理は、すべての人々の人生に勇気と平安と愛を与えてくれます。

決してくじけることはないのです。

良い1日をお祈りします。


キリストにあってさらに大いなるものとなる:傾きのたとえ

2021-11-18 05:01:41 | 日記
キリストにあってさらに大いなるものとなる:傾きのたとえ

クラーク・G・ギルバート長老
七十人

主の定められた時に,どこから出発するかではなく,どの方向に向かうかが最も重要です。


少年のころ,わたしは大きな望みを抱いていました。ある日,学校から帰ったわたしは言いました。「お母さん,ぼくは将来何になればいいかな。プロバスケットボール選手,それともロックスター?」残念ながら,「歯の抜けた」クラーク少年には,将来スポーツや音楽で成功する見込みはありませんでした。そして幾多の努力にもかかわらず,学校の勉強では上級クラスへの選抜に落ち続けました。とうとう先生から,普通クラスで地道に頑張るよう勧められてしまいました。時がたつにつれ,力不足を補う学習習慣が身につきました。でも,自分の知的および霊的な可能性が見え始めたと感じたのは,日本で伝道していたときです。わたしは熱心に努力し続けました。しかし人生で初めて,自分の成長に意識して主にかかわっていただき,すべてが一変したのです。


兄弟姉妹,この教会では,わたしたちは神のすべての子供たちに神聖な可能性と,キリストによってさらに大いなる者となる能力があると信じています。主の定められた時に,どこから出発するかではなく,どの方向に向かうかが最も重要です。


この原則を示すために,基礎的な数学を用いましょう。総大会で「数学」と聞いて,うろたえないでください。BYUアイダホ校の数学の教員たちが,この概念は初学者でも理解できると保証しています。直線の式から始めましょう。切片が,今回の話の中では出発点です。出発点である切片は,位置が高いことも低いこともあります。直線の傾きは,上向きの場合もあれば,下向きの場合もあります。




人生において,わたしたちの切片はそれぞれ異なります。——異なる場所から出発し,境遇も異なります。生まれたときに切片が高く,機会に満ちている人がいます。最初の時点で,困難の多い,不公平に思える状況の人もいます。その後,人は個人の成長という傾きに沿って進歩します。わたしたちの将来は,出発点ではなく,傾きによって大きく左右されます。イエス・キリストは,わたしたちの出発点がどこであろうと,神聖な可能性を見ておられます。主は,貧しい人,罪人,心身の弱さを抱えた人,漁師,取税人,さらに熱心党の人の可能性を御覧になっていました。どこから出発しようと,キリストはわたしたちが与えられているもので何を行うかを考慮されます。この世はわたしたちの切片を重視しますが,神は傾きを重視されます。主は御自身の計算法で,人が傾きを天に向けられるように最善の助けを与えてくださいます。


この原則は,苦しむ人々に慰めを,そして恵まれている人々に立ち止まって考える機会を与えます。まず,難しい状況を出発点としている人にお話しします。それには,貧困や少ない教育の機会,また困難な家庭環境等が含まれるでしょう。身体的な障害,心の健康に伴う制約,強い遺伝的傾向を抱えている人もいるかもしれません。出発点が難しい状況で苦しんでいる人は,救い主がその苦しみを御存じであることを心に留めてください。主は「御自分の心が憐れみで満たされるように,また〔わたしたち〕を〔わたしたちの〕弱さに応じてどのように救うかを……知ることができるように,〔わたしたち〕の弱さを御自分に受けられ」ました。


難しい状況を出発点としている人に,二つの分野において励ましの言葉をお伝えします。まず,出発点ではなく,どこに向かうかに集中してください。自分の状況を無視するのは正しくないでしょう。——それは現実であって,対処する必要があります。しかし,困難の中での出発に意識を向けすぎると,それがあなたを閉じ込めて,あなたの選ぶ能力を制限してしまうことさえあります。




何年も前にわたしは,マサチューセッツ州ボストンで,福音も教会の期待事項もよく知らない都心部の青少年たちとともに過ごしました。彼らの状況に対する理解と気遣いを,神の標準を下げてあげたいという思いと混同してしまいそうになりました。最終的に,愛を示す最も強力な方法は,決して期待を下げないことであると悟りました。知るかぎりのすべてのことを行い,ともに彼らの持つ可能性に焦点を当てていくと,青少年の一人一人が自分の傾きを高くし始めました。福音において,彼らは緩やかに,しかし着実に成長しました。今日,彼らは伝道に行き,大学を卒業し,神殿で結婚し,私生活でも仕事でもすばらしい人生を送っています。


次に,あなたの傾きが上に向くよう主に助けを求めてください。わたしがBYUパスウェイ・ワールドワイドの学長を務めていたとき,ペルーのリマで大規模なディボーショナルに出席しました。カルロス・A・ゴドイ長老が話者でした。ゴドイ長老は集まった人々を見渡し,多くの忠実な第一世代の大学生を見て圧倒されたようでした。自身のかつてのつらい境遇を思い起こしたのでしょう。ゴドイ長老は気持ちを込めて語りました。主は「皆さんが自分で行えないところは助けてくださるでしょう。〔ですから〕このプロセスで主に助けを求めてください。」預言者ニーファイは,「わたしたちが自分の行えることをすべて行った後に,神の恵みによって救われる」と教えています。わたしたちは,悔い改めを含め,最善を尽くさなければなりませんが,主の恵みによってのみ,自分の神聖な可能性を実現できるのです。



最後に,高い地点から出発している人に二つのことを助言させてください。まず,自分で生み出したのではないかもしれない状況で,謙遜でいられるでしょうか。BYUの元学長であるレックス・E・リーは,学生たちに次の言葉を引用しました。「わたしたちは皆,自分が掘ったのではない井戸から飲み,自分が起こしたのではない火で暖まってきました。」そしてリー学長は学生たちに,得たものを還元し,先駆者の築いた教育の井戸を満たすよう呼びかけました。ほかの人が植えた畑に種をまかないことは,タラントを増やさずに返すのに等しいことになりかねません。


次に,出発点が高いことに意識を向けすぎると,実際には内なる傾きがかなり下降していても,自分は成功していると感じるわなにしばしば陥ります。ハーバード大学のクレイトン・M・クリステンセン教授は,最も成功するのは最も謙遜な人たちである,なぜならほかの人から誤りを正してもらい,学べるだけの十分な確信のある人だから,と教えています。


D・トッド・クリストファーソン長老は,「喜んで改善の勧めを受け,さらには自ら勧めを求める方法を見つける」よう助言しています。物事が順調にいっているように見えても,祈りをもって請い願い,改善の機会を探さなければなりません。


出発点が恵まれていようと厳しい状況であろうと,神をパートナーとするときにのみ,人は自分の最高の可能性を達成することになります。最近,全国的に有名なある教育者と話をし,BYUパスウェイの学生たちの成功について尋ねられました。彼は聡明で,質問は心からのものでしたが,明らかにこの世的な回答を求めていました。わたしは定着プログラムとメンターの取り組みを紹介し,最後に次のように言いました。「これらはどれも優れた制度ですが,学生たちが進歩しているほんとうの理由は,彼らに神聖な可能性を教えていることです。もし生涯にわたって,あなたは成功できないと言われ続けたらどうでしょうか。では,あなたはほんとうに神の息子あるいは娘であって,神聖な可能性を持っていると教えられたらどのような影響があるでしょうか。」彼は少し間を置いてから,短く答えました。「それは力になりますね。」


兄弟姉妹,この主の教会がもたらす奇跡の一つは,わたしたち一人一人がキリストによってより大いなる者になれることです。奉仕し,還元し,悔い改め,より善い人になる機会を会員にこれほど多く提供する組織を,わたしはほかに知りません。出発点が恵まれていようと厳しい状況であろうと,わたしたちの目と傾きを,天に向け続けましょう。そうするときに,キリストはわたしたちをより高く引き上げてくださいます。イエス・キリストの御名により,アーメン。


本日もお読みいただいてありがとうございます。

このお話は、末日聖徒イエス・キリスト教会リアホナ2021年11月号から、ご紹介しています。


主は「皆さんが自分で行えないところは助けてくださるでしょう。

the Lord will “help you more than you can help yourself.

主給你的幫助,會比你給自己的幫助還多。

主给你的帮助,会比你给自己的帮助还多。


BYUパスウェイは、学校を卒業していなくても、低廉な費用で大学で学べる、あるいは努力したら卒業できるシステムです。
良い1日をお祈りします。



神の愛

2021-11-17 04:55:01 | 日記

神の愛

D・トッド・クリストファーソン長老
十二使徒定員会

御父と贖い主は,戒めによってわたしたちを祝福してくださいます。そして,その戒めに従うなら,御二方の完全な愛をさらに深く感じるようになります。


天の御父は,深く完全な愛でわたしたちを愛しておられます。その愛ゆえに,御父はわたしたちが望むあらゆる機会と喜びに加えて,御父の持つすべてを受け,御父に似た者となるための道を開く,贖いと幸福の計画を立てられました。これを成し遂げるために,御父は愛する御子イエス・キリストを贖い主として与えてくださいました。「神はそのひとり子を賜わったほどに,この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで,永遠の命を得るためである。」御父の愛は父親の純粋な愛です。それはすべての人に向けられていながらも,個人的なものです。


イエス・キリストは御父と同じ完全な愛をお持ちです。御父がこの偉大な幸福の計画について初めて詳しく説明されたとき,必要不可欠な要素として,わたしたちを贖うために救い主が必要であると言われました。イエスは自ら進んで言われました。「わたしがここにいます。わたしをお遣わしください。」救い主は「世のためになることでなければ何事もなさらない。 すべての人をみもとに引き寄せるために御自分の命を捨てるほど,主は世を愛しておられるからである。したがって主は,御自分の救いにあずかってはならないと,だれにも命じられることはない」のです。


この神の愛は,わたしたちがキリストの御名によって祈るときに,豊かな安らぎと確信を与えてくれることでしょう。御二方にとって見知らぬ人はだれ一人としていないのです。自分がふさわしくないと感じるときでも,ためらうことなく神を呼び求める必要があります。祈りが聞かれるように,イエス・キリストの憐れみと功徳に頼ることができます。わたしたちが神の愛の内にいるならば,人から認められることを指針とすることが次第に少なくなります。


神の愛により罪が見過ごされることはないが,罪の贖いが用意されている

神の愛はすべてを包み込むため,「無条件」の愛と表現する人もいます。それが,神の祝福も救いも「無条件で」与えられるという意味であると考える人もいますが,そうではありません。このように言う人もいます。「救い主はありのままのわたしを愛しておられる。」確かにそのとおりですが,救い主はありのままのわたしたちを神の王国に迎え入れることはおできになりません。「清くない​者​は​そこ​に​住む​こと​が​できない,すなわち,神​の​前​に​住む​こと​が​できない​から」です。まず,自分の罪を解決しなければなりません。


ヒュー・ニブレー教授はかつて,最も小さな罪であってもそれに身を任せるなら神の国は堪えることができないと言いました。「どんなに小さくとも腐敗のしみがあれば,来世は不朽でも永遠でもないということです。建物や施設,行動規範,人格は,ほんの小さな傷があるだけで,永遠という長い観点で見れば,間違いなく致命的なのです。」神の戒めが「厳しい」のは,神の国とそこに住む人たちは,常に悪を退けて善を選ばなければ立ち行かないからです。これに例外はありません。


ジェフリー・R・ホランド長老はこう述べています。「イエスは,現代の文化の中でわたしたちの多くが忘れてしまいがちな事柄が何かを理解しておられました。 それは,(主は無限に赦す力をお持ちでしたが)罪を赦しなさいという戒めと,(主は一度もなさらなかった)罪を大目に見てはならないという警告は明らかに異なるということです。」


わたしたちは,今は不完全であっても,主の教会と日の栄えの世界において,「名と地位」と居場所を得る希望を持つことができます。罪を大目に見ることも見逃すこともおできにならないことを明確にされた後,主はこう断言しておられます。


それでも、悔い改めて主の戒めを守る者は赦されるであろう。


そしてわたしは,民が悔い改める度に,わたしに対する彼らの過ちを赦そう。


悔い改めと神の恵みはこのジレンマを解決します。


「また,アミュレクがアモナイハの町でゼーズロムに語った言葉も覚えておきなさい。アミュレクは彼に,主は確かに主の民を贖うために来られるが,彼らを罪のあるまま贖うためではなく,彼らを罪から贖うために来られるのであると語った。


主は,彼らが悔い改めるときに彼らを罪から贖うために,御父から授けられた力を持っておられるのである。したがって,主は悔い改めの条件について告げ知らせるために,天使たちを遣わしてこられた。この悔い改めは人々を贖い主の力のもとに導き,彼らに救いを得させるものである。」


悔い改めを条件として,主は正義を損なうことなく憐れみをわたしたちに与えられ,また「神は神でなくな〔られ〕る」ことはないのです。


御存じのように,世の道は反キリストであり,「キリストでなければ何でも」よいのです。わたしたちの時代に,モルモン書の歴史が繰り返されています。カリスマ的な人物が人に対して不義な支配を続け,性的な放縦を称賛し,人が存在する目的として富の蓄積を奨励しています。彼らの哲学では「少しの罪を犯すこと」だけでなく,かなり大きな罪でも正当化されますが,贖いを与えることのできる人はいません。贖いは,小羊の血を通してでしか行えないのです。「キリスト以外」あるいは「悔い改め以外」は何でも受け入れる人たちができることは,せいぜい,罪は存在しないとか,存在するとしても最終的には何の罰もないという根拠のない主張です。この論法が最後の裁きで功を奏するとは思えません。


そもそも自分の罪を正当化するという不可能なことや,また一方で,自分自身の力だけで罪の影響を消し去ろうという不可能なことを試みる必要はないのです。


わたしたちが信じているのは,正当化する宗教でもなければ,完全主義の宗教でもありません。イエス・キリストを通じて得られる贖いの宗教です。わたしたちが悔い改めるならば,キリストの贖いにより,わたしたちの罪は主の十字架に釘付けられ,主の「打たれた傷によって,〔わたしたちは〕いやされ」るのです。



神の愛を映し出す預言者の心から願う愛

わたしはこれまでずっと,神の預言者が罪に対して警告するときに心から願う愛を感じ,その愛に感銘を受けてきました。彼らは,非難しようとしているのではありません。彼らの心の願いは,神の愛を映し出しています。事実,これが神の愛です。預言者たちは,だれであろうと,どんな人であろうと,自分が遣わされた相手を愛しています。主と同じように,主の僕たちは罪や誤った選びの苦しみをだれにも味わってほしくないのです。


アルマは,彼自身を含むキリスト教徒を迫害し,苦しめ,殺すことさえする憎しみに満ちた人々に,悔い改めと贖いのメッセージを宣言するために遣わされました。アルマは彼らを愛し,彼らの救いを切に望みました。アモナイハの民にキリストの贖いについて告げた後,アルマはこう嘆願しています。「さて,わたしの同胞よ,まことにわたしが心痛を感じるほどにひどく心配するとともに,心の底から願っていることがある。それは,あなたがたがわたしの言葉を聴き,罪を捨て,……終わりの日に上げられて神の安息に入れるようにしてほしい。


ラッセル・M・ネルソン大管長の言葉で言うと,「わたしたちが神の真理を宣言するのは,神のすべての子供たちについて深く気にかけているからにほかならないからです。」



神は皆さんを愛しておられます。皆さんは神を愛していますか

御父と御子の愛は無料で与えられますが,そこには希望と期待も含まれています。再びネルソン大管長の言葉を引用します。「神の律法の根底にあるのは,ひとえにわたしたちへの無限の愛であり,最大限に成長してほしいという願いなのです。」


御二方は皆さんを愛しているので,皆さんを「ありのままの状態」にしておきたいとは思われません。皆さんを愛しているので,喜びと成功を得てほしいと思っておられます。皆さんを愛しているので,悔い改めてほしいと思っておられます。それが幸福への道だからです。しかし,これは皆さんが選ぶことです。御二方は皆さんの選択の自由を尊重しておられます。皆さんは御二方を愛し,仕え,御二方の戒めを守ることを選ばなければなりません。そうすれば,愛だけでなく,さらに豊かな祝福を注いでくださいます。


御二方が第一に期待しておられることは,わたしたちも愛することです。「愛さない者は,神を知らない。神は愛である。」「愛する者たちよ。神がこのようにわたしたちを愛して下さったのであるから,わたしたちも互に愛し合うべきである。」


中央初等協会会長だったジョイ・D・ジョーンズ姉妹は若いころ夫婦で,長い間教会に来ていないある家族を訪問してミニスタリングをするよう召されました。自分たちが来ることをその家族が望んでいないことは,最初の訪問ですぐに分かりました。その後何度訪問してもうまく行かずに悩み,心から祈って深く考えた後,ジョーンズ兄弟姉妹の祈りは答えられ,この奉仕をする理由が,次の教義と聖約の聖句から分かったのです。「あなた​は​心​を​尽くし,勢力​と​思い​と​力​を​尽くして,主​なる​あなた​の​神​を​愛さなければ​ならない。また,イエス・​キリスト​の​名​に​よって,神​に​仕え​なければ​ならない。」ジョーンズ姉妹は言いました。


「わたしたちは,この家族とビショップに仕えようと誠実に努力していたものの,ほんとうに主への愛ゆえに仕えているかどうかを自問する必要があることに気づきました。……
主への愛ゆえに,このすばらしい家族への訪問を心待ちにするようになりました(1ニーファイ11:22参照)。主のために行っていたのです。主のおかげで,苦労は苦労でなくなりました。玄関先に立ち続けて数か月後,家族はわたしたちを中へ招き入れてくれるようになりました。やがて,ともに定期的に祈りをささげ,福音について親しく話し合うようになり,永続する友情が育まれました。わたしたちは神の子供たちを愛することで,神を礼拝し,愛していたのです。」


神が完全に愛してくださっていることが分かると,わたしたちはこう尋ねるでしょう。「自分はどれほど神を愛しているだろうか。わたしが神の愛に頼っているように,神はわたしの愛に頼ってくださるでしょうか。」わたしたちに過ちがあっても神が愛してくださるということだけでなく,わたしたちが目指していることのために神がわたしたちを愛してくださるように生きるのは,価値あることではないでしょうか。例えば,主がハイラム・スミスについて​,「彼​の​心​が​高潔​である​ので……主​なる​わたし​は​彼​を​愛する」と​​言われたように,皆さんやわたしについても言っていただけるかもしれません。ヨハネの親切な勧告を思い出しましょう。「神を愛するとは,すなわち,その戒めを守ることである。そして,その戒めはむずかしいものではない。」


実は,神の戒めは痛ましいものではありません。その反対です。戒めは,癒しと幸福,そして平安と喜びに至る道を示しています。御父と贖い主は,戒めによってわたしたちを祝福してくださいます。そして,その戒めに従うなら,御二方の完全な愛をさらに深く感じるようになります。


これこそが,絶え間なく争いが続くわたしたちの時代の解決策です。それは神の愛です。救い主が訪れて教えを説かれた後のモルモン書の黄金時代には,「​民​の​心​の​中​に​宿って​いた​神​の​愛​の​ため​に,地​の​面​に​は​​まったく​争い​が​なかった」と記されています。シオンを目指して努力するときに,黙示録にある約束を思い出します。「いのちの木にあずかる特権を与えられ,また門をとおって都にはいるために,自分の着物を洗う者たちは,さいわいである。

天の御父と贖い主イエス・キリストが実在の御方であり,変わることなく愛してくださっていることを証します。イエス・キリストの御名により,アーメン。


本日もお読みいただいてありがとうございます。
このお話は、末日聖徒イエス・キリスト教会リアホナ2021年11月号から、ご紹介しています。青字は追加しています。

黙示録22:14

いのちの木にあずかる特権を与えられ,また門をとおって都にはいるために,自分の着物を洗う者たちは,さいわいである。

Blessed are they that do his commandments, that they may have right to the tree of life, and may enter in through the gates into the [holy] city.”


那些洗淨自己衣服的有福了!可得權柄能到生命樹那裏,也能從門進〔聖〕城。


那些洗净自己衣服的有福了!可得权柄能到生命树那里,也能从门进〔圣〕城。

今日も、心の中に神の愛を持って、隣人に親切にできますように、お祈りします。





救い主の不変の思いやり

2021-11-16 05:04:32 | 日記
救い主の不変の思いやり

ウリセス・ソアレス長老
十二使徒定員会

ほかの人に思いやりを示すことは,イエス・キリストの福音の本質です。


救い主が地上で務めを果たしておられたときに教えられた最も際立った原則の一つは,思いやりをもって人に接することでした。この原則と実際の応用について,イエスがパリサイ人シモンの家を訪れたときの話を掘り下げ,よく考えてみましょう。


ルカによる福音書の中で,イエスがシモンの家におられたときに,罪人と見なされた一人の女性が入って来たことが述べられています。その女性は謙虚な悔いる気持ちでイエスに近づき,イエスの足を涙で洗い,自分の髪でぬぐい,その後,足に口づけして,特別な香油を塗りました。自分はその女性よりも道徳感が強いと考えた高慢な主人は,非難の気持ちから傲慢にも心の中でこう思いました。

「もしこの人が預言者であるなら,自分にさわっている女がだれだか,どんな女だかわかるはずだ。それは罪の女なのだから。」


そのパリサイ人は,独善的な態度で,イエスと女性の二人を不当に裁いたのです。しかしすべてを御存じである救い主は,シモンの思いを知り,大いなる知恵をもって,人を見下すシモンの態度に異を唱え,救い主のような特別な客を家に迎える礼儀に欠いていることを戒められました。実際,イエスがパリサイ人を直々に叱責されたことは,イエスが確かに預言の賜物を持っておられたこと,そして謙虚な悔いる心をもっていた女性が罪を悔い改めて赦されたことの証となったのです。


イエスが地上で務めを果たしておられた間の,他の多くの出来事と同様に,この話は,救い主がみもとに来るすべての人,特に助けを最も必要としている人々に対して——差別することなく——思いやりを示されたことを改めて証明しています。その女性がイエスに示した改心と敬虔な愛は,彼女が心から悔い改め,罪の赦しを受けたいと願っていたことの証拠でした。しかし,シモンの優越感は,彼のかたくなな心と相まって,彼がその悔い改めた人に思いやりを示す妨げとなりました。そして彼は,世の救い主にさえ冷淡に,軽蔑の念をもって接したのです。その態度は,彼がただ規則を厳格に形だけ守っているにすぎず,自らを美化する偽りの清さによって自分の信念をうわべだけ見せていることを表しています
イエスの思いやりに満ちた,個人に合わせたミニスタリングは,わたしたちが隣人に接する際の完全な手本を示しています。聖典には,救い主が深い不変の思いやりに動かされて当時の人々に接し,苦しんでいる人々や「飼う者のない羊のように弱り果てて,倒れている」人々をどのように助けられたかの,数え切れないほどの実例があります。救い主は,肉体的にも霊的にも重荷から解放する必要のある人々に,憐れみの手を差し伸べられました。


イエスの思いやりある態度は,慈愛,すなわち,贖いの犠牲の本質である純粋かつ完全な愛に基づいたものです。思いやりをもって行動することは,聖めを受けようと努める人々の基本的な特質であり,この神聖な特質は悲しむ人とともに悲しむことや,共感する,情けをかける,親切にすることなど,クリスチャンの別の特質とも結びつきます。人に思いやりを示すことは,実際,イエス・キリストの福音の本質であり,わたしたちが霊的にも情緒的にも救い主に近いことをはっきり示す証拠となります。さらに,それは救い主がわたしたちの生き方に及ぼしている影響のレベルや,わたしたちの霊の成熟度合いを表しています。


イエスの思いやりのある行動は,行うべき務めのリストに基づき,時折あるいは義務的に行われたものではなく,日々,神と神の子供たちに対する主の純粋な愛と,彼らを助けたいという主の不変の願いを現実に示すものであると気づくことが重要です。


イエスは遠く離れていても人々の必要を知ることがおできになりました。例えば,ある百卒長の僕を癒された後すぐに,イエスが,カペナウムからナインという町へ向かわれたことは驚くには当たりません。その地でイエスは,地上での務めの中で最も心優しい奇跡の一つを行われました。やもめとなった母親の一人息子である死んだ若者に,起きて生きるようにお命じになったのです。イエスは,その貧しい母親の深い苦悩だけでなく,彼女の人生の困難な状況をも感じ取り,心からの思いやりを抱かれました。
罪深い女性やナインのやもめのように,わたしたちの影響の及ぶ範囲にいる多くの人が,慰めや関心,受け入れられること,そしてわたしたちが提供できるあらゆる助けを求めています。わたしたちは皆,主の御手に使われる者となり,イエスのように,助けの必要な人に思いやりを示すことができます。


わたしの知っているある少女は,とても重い口唇口蓋裂を持って生まれました。生後2日目にして,一連の手術のうちの最初の手術を受けなくてはなりませんでした。この少女と両親は,同じ問題を抱えている人々への心からの思いやりに動かされて,複雑な現実に直面するほかの人々を支援し,理解し,情緒面で助けを与えようと努めています。彼らは最近,手紙にこう書いていました。「娘の問題によって,わたしたちは,慰めと支援と励ましを必要としているすばらしい人たちに出会う機会がありました。現在11歳になった娘は,かつて同じ問題を抱えている赤ちゃんの両親と話をしました。娘は,パンデミックのためにマスクを着けていましたが,会話の最中に少しの間外しました。それによって,その両親は,赤ちゃんの問題を解決するのに,この先数年かかるとしても希望があることを確認できたのです。救い主が行われるように,苦しむ人へ思いやりを示す機会があることにとても感謝しています。だれかの苦痛を和らげる度に,自分の苦痛が和らぐのを感じるのです。」


愛する友人の皆さん,救い主の模範に倣って,自分の生き方に思いやりを取り入れるよう意識的に努めるときに,人々の必要にさらに敏感に気づくことができます。その感受性が増すことで,心からの関心と愛の気持ちが,自分のあらゆる行動に浸透します。主はわたしたちの努力を認めてくださり,わたしたちが主の御手に使われる者となり,人の心を和らげ,手が「垂れている」人に安らぎをもたらす機会を必ず与えてくださいます。
またパリサイ人シモンへのイエスの忠告から明らかなように,わたしたちは,隣人を決して厳しく無慈悲に裁いてはなりません。わたしたちは皆,自分の不完全さのために,愛に満ちた天の御父の理解と憐れみを必要としているからです。これは,救い主が別の折に述べられた次の教えそのものではないでしょうか。「なぜ,兄弟の目にあるちりを見ながら,自分の目にある梁を認めないのか。」


人の態度や反応に影響を及ぼす状況すべてを理解するのは容易ではないということを,よく考える必要があります。見かけは当てにならず,多くの場合,人の振る舞いをそこから正確に測ることはできません。一方,キリストは,状況のあらゆる側面をはっきり理解することがおできになります。救い主はわたしたちの弱さをすべて御存じでありながら,すぐに非難はなさらず,時間をかけて思いやりをもって働きかけ続け,わたしたちの目から梁を取り除く助けを与えてくださいます。イエスは,外見ではなく,常に心を見られます。主は,「うわべで人をさばかない」ようにとおっしゃっています。


さて,ニーファイ人の十二弟子に対する救い主の賢明な勧告について考えてみてください。


「あなたがたが知っているように,将来あなたがたは,わたしがあなたがたに与える公正な判断力によって,この民を裁く者となるであろう。したがって,あなたがたはどのような人物であるべきか。まことに,あなたがたに言う。 わたしのようでなければならない。」


「わたしや天におられるあなたがたの父が完全であるように,あなたがたも完全になることを,わたしは望んでいる。」


つまり,欠点と思われるほかの人の弱さを,自分の判断で不当に裁く人々に,主は裁きを下されます。義にかなった裁きを行う資格を得るためには,救い主のようになり,思いやりをもって人の不完全さを見るように努めなければなりません。救い主の目で見るようにです。この先も完全に至る長い道のりがまだあることを考えると,ほかの人の不完全さに執着して多くの時間とエネルギーを費やすより,パリサイ人の家で悔い改めた女性のように,イエスの足もとに座して,自分自身の不完全さに対する憐れみを懇願する方がよいでしょう。


愛する友人の皆さんに証します。救い主の思いやりの模範を生活に取り入れようと努めるときに,隣人の徳をたたえる能力は増し,人の不完全さを裁く生まれながらの本能は低下します。わたしたちと神との交わりは深まります。間違いなく,人生はもっと思いやりに満ちたものとなり,柔和な気持ちが増し加えられ,終わりのない幸福の源を見いだすでしょう。わたしたちは平和をつくり出す人として知られるようになり,春の朝露のように穏やかな言葉で話します。


わたしたちが周りの人々に対してもっと寛容で,理解を示す人になれますように,また,完全な優しさの中で,主の憐れみが人の不完全さに対するわたしたちのいら立ちを和らげるように祈ります。

これはわたしたちへの救い主の招きです。わたしは証します。主は生きておられ,寛大で忍耐強い弟子の完全な模範となる御方です。わたしはこれらの真理について証します。イエス・キリストの聖なる御名により,アーメン。


本日もお読みいただいてありがとうございます。

このお話は、末日聖徒イエス・キリスト教会リアホナ2021年11月号からご紹介しました。赤字は追加しています。


わたしたちは,隣人を決して厳しく無慈悲に裁いてはなりません。

we should never make harsh and cruel judgment of our neighbor,

我們絕不可嚴厲、殘酷地論斷我們的同胞,

我们绝不可严厉、残酷地论断我们的同胞,


今日も、周りの人々に親切にできますように。