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最も大いなる資産

2021-11-15 04:49:58 | 日記
最も大いなる資産
ジェフリー・R・ホランド長老
十二使徒定員会
わたしたちは,主の福音への妥協のない献身を伴って,キリストのもとに来るべきです。
聖典にこのような話が記されています。ある金持ちの若い役人がイエスのもとに走り寄ってその足もとにひざまずき,まっすぐな心でこう尋ねます。「永遠の生命を受けるために,何をしたらよいでしょうか。」イエスはこの若者が多くの戒めを守ってきたことを確認してから,彼に,持ち物をすべて売り払って貧しい人々に施し,自分の十字架を負って,御自分に従うようにと言われました。この大胆な言葉に,その若い役人は,高価な履物を履いているその足で二の足を踏み,悲しみながら立ち去りました。その理由として,聖典には彼が「たくさんの資産を持っていた」からだと記されています。


明らかに,これは財産を使って貧しい人を助けることの大切さについて教える話です。しかし,突き詰めていくと,これは神聖な責任に対して,心から,躊躇なく,自分をささげることについて教える話なのです。貧富の区別なく,キリストのもとに来るすべての人は,この青年に求められたような,福音に対する妥協のない決意が求められます。最近の言い方をすれば,「全部込みで」ささげますと宣言するのです。


C・S・ルイスは,その特異な印象深い散文の中で,主が次のように語りかけておられる様子を想像しています。「ささげてほしいのは,時間やお金や労働ではなく,あなた自身なのだ。〔この木をあなたは刈り込んでいるとすると〕ここの枝を1本,そこの枝を1本刈り込むのではなく,全部切り落としたい。〔そして歯にたとえるなら〕穴を開けたり,かぶせたり,〔詰めたり〕したいのではない。抜いて〔しまいたいのだ。〕〔つまり,あなたの〕ありのままを,全部そのまま差し出してほしい。……〔そうすれば〕代わりに,新しいあなたをあげよう。それどころか,わたし自身をあなたにあげよう。……わたしの望みがあなたの望みとなるように。」


この総大会のすべての話者は,キリストがこの金持ちの青年に語られたことを,それぞれの言葉で次のように述べることでしょう。「救い主のもとに来てください。完全に,真心から来てください。どれほど重くとも,自分の十字架を負って主に従うのです。」彼らがそう述べるのは,神の王国では,中途半端や,途中棄権や,後戻りなどはないということを知っているからです。人々がまず,亡くなった親を埋葬しに行かせてください,あるいはまず家族に別れを告げに行かせてください,と願ったとき,イエスは,厳しくはっきりとこう答えられました。「〔ほかの人〕に任せておくがよい。」「手をすきにかけてから,うしろを見る者は,神の国にふさわしくないものである。」困難なことや,自分の望みとは反対のことを求められたときには,キリストの大義に対する忠誠が,人生で最も尊い献身であることを思い出してください。イザヤは,「金を出さずに,ただで」それを得られると約束しましたが,わたしたちには,T・S・エリオットの言葉にあるように,「すべて」を差し出す覚悟が必要です。


もちろん,この御業に全身全霊をささげるのを躊躇させる可能性のある習慣や欠点や過去はだれにでもあります。しかし,神はわたしたちの父親であり,わたしたちが捨てた罪を赦し,忘れることに,とりわけ優れた御方です。それは恐らく,わたしたちが神にその機会をたくさん差し上げてきたからでしょう。どんな場合でも,わたしたちが行いを変えようと思うときはいつでも,一人一人に神の助けが与えられます。神はサウルに「新しい心」を下さいました。エゼキエルは,古代イスラエルの全家に,過去を捨てて「新しい心と,新しい霊とを得よ」と呼びかけました。アルマは,心を広げる「大きな変化」を遂げるよう呼びかけ,そして,イエス御自身は,「新しく生れなければ,神の国を見ることはできない」とお教えになりました。 確かに,自分を変え,より高い標準に従って生きるという可能性は,それを願う人にとって,常に神からの賜物の一つでした。


友人の皆さん,現在,ありとあらゆるグループやその分派が形成され,デジタル社会における数々の部族や政治集団が存在し,互いに対する過剰な敵意がはびこっています。わたしたちは,ネルソン大管長の言う「より高くより神聖」な生き方が,実現できたものだろうかと,疑問に思うのではないでしょうか。そんなときに役立つのは,モルモン書の中のあの驚くべき時代,その問いかけに心から賛同したあの民の生きていた時代を思い起こすことです。


「そして,全地ですべての民の中にまったく争いがなく,……民の心の中に宿っていた神の愛のために……争いがなかった。
また,ねたみや紛争,……どのような好色もなく,神の手によって造られたすべての人の中で,彼ら以上に幸せな民は確かにあり得なかった。
強盗も人殺しもおらず,レーマン人とか何々人とか言われる者もなく,彼らは一つであり,キリストの子であり,神の王国を受け継ぐ者であった。
このように,彼らは何と祝福されていたことか。」


この満ち足りた幸せな生き方に到達した鍵は何でしょうか。それは,「民の心の中に宿っていた神の愛」という言葉の中に凝縮されています。個人の生活,一人一人との関係,果ては全人類に対する思いに至るまで,神の愛がその中心となるなら,昔ながらの差別や,人の可能性を狭めるレッテル,人工的に作られた分断はなくなっていき,平安が広まります。それがまさしく,モルモン書に出てくるこの時代に起こったのです。彼らはもはやレーマン人でも,ヤコブ人でも,ヨセフ人でも,ゾーラム人でもありませんでした。「何々人」という区別は一切ありません。人々はただ一つの自己像を受け入れたのです。すべての人が「キリストの子」として知られたと書かれています。


もちろん,ここで述べているのは,全人類に与えられた第一の大切な戒め,つまり,誠心誠意神を愛すること,躊躇もせず,妥協もせず,心と勢力と思いと力を尽くして,神を愛することです。神をそのように愛することが,宇宙における第一の偉大な戒めなのです。一方,宇宙におけるいちばん大切な第一の真理は,神が御自分の心を尽くし,勢力を尽くし,思いを尽くし,力を尽くして,躊躇もせず,妥協もせず,わたしたちを愛しておられるということです。そして,神の心の壮大な力と人の心の力が何の妨げもなく交わるとき,霊的で道徳的な力がまさに爆発的に増加します。そのとき,テイヤール・ド・シャルダンが書いているように,「世界の歴史の中で再び,人間は火を発見するでしょう。」


その時に,実にその時にのみ,わたしたちは,うわべだけではなく,ほんとうの意味で,第二の大切な戒めを効果的に守ることができるのです。神に対して完全に忠実であろうと努力することによって神を愛するならば,神は人に,自分自身と隣人を愛する強さ,能力,意志,方法を与えてくださいます。恐らくそのときわたしたちは,再びこう言えるようになっていることでしょう。「神の手によって造られたすべての人の中で,〔わたしたち〕以上に幸せな民は確かにあり得なかった。」


兄弟姉妹,わたしたちがあの金持ちの青年のようにつまずきませんように。 どんなに重くても,どんな問題でも,どんな犠牲であっても,わたしたちがキリストの十字架を負えますように。主に従うと誓うときに,その道は,様々な形で,いばらの冠と寒々しいローマの十字架にさしかかるということをわたしは知っています。あの若い役人がどれほど裕福でも,金銭を積むことでその二つの象徴を避けて通ることはできませんでしたし,わたしたちにもできません。最も大いなる資産である永遠の命の賜物を受ける祝福に比べれば,「わたしたちが告白する信仰の……大祭司」,明けの「明星」,仲保者,王であられる御方に従う道にとどまるように求められるのは,ささいなことです。わたしは,あまり目立たない昔のアマレカイが述べたように,一人一人が「自分自身をキリストへのささげ物としてささげ」なければならないことを証します。そのような強固な忠誠について,わたしたちは歌います。
すばらしい山よ,わたしは離れません,
主の贖いの愛のその山を。……
さあ,わたしの心です,どうぞ結び固めてください,
天のあなたの家に。
イエス・キリストの聖なる御名により,アーメン。


(末日聖徒イエス・キリスト教会リアホナ
2021年11月号から、ご紹介しました。)


民の心の中に宿っていた神の愛

The love of God … did dwell in the hearts of the people

人民心中有神的愛

人民心中有神的爱


おはようございます。

本日も、お読みいただいてありがとうございます。

神さまの愛を心に抱いて、今日も頑張れますように、お祈りします。

啓示の霊

2021-11-14 08:48:12 | 日記

啓示の霊

デビッド・A・ベドナー長老
十二使徒定員会


啓示の霊は実在し,個人の生活でも,末日聖徒イエス・キリスト教会の中でも作用し,実際に機能しています。

啓示の霊

啓示のパターン


わたしのお話の後に歌われる賛美歌「今日きょうわれ善きことせしか」(『賛美歌』137番)が霊感によって選ばれたことを感謝します。わたしに霊感を与えてくれました。

ほとんどの人が光に関して経験したことのある二つのことについて考えてみましょう。

一つ目は,暗い部屋に入って電気のスイッチを入れたときの経験です。一瞬で部屋に光があふれ,闇やみが消え去ったときの様子を思い出してください。見えていなかったもの,何だかよく分からなかったものが,はっきりと識別できるようになります。この経験は,瞬時に強い光を認識するという点が特徴的です。


二つ目は,夜が朝に変わるのを見守っているときの経験です。地平線で光がゆっくりと,ともすれば気づかないぐらいに明るさを増していく様子を思い出してください。暗い部屋で電気のスイッチを入れるのとは対照的に,日の出の光は突然現れることはありません。むしろ少しずつ確実に光の強さが増し,朝の光が夜の暗闇に取って代わります。やがては建物や山の向こうから太陽が顔をのぞかせます。しかし間もなく太陽が現れることは,地平線のかなたに実際に日が昇る何時間も前からはっきり分かります。この経験は,微妙に,少しずつ光を識別するという点が特徴的です。


光に関するこの二つのありふれた経験から,啓示の霊について多くを学べます。わたしがこれから啓示の霊と,啓示が授けられる基本パターンについて話す間,聖霊がわたしたちに霊感を与え,教えてくださるように祈っています。


啓示とは,神から地上の子供たちへのコミュニケーションです。それは,偉大な祝福の一つです。それは聖霊の賜物たまものと,聖霊を常に伴侶はんりょにできることに関連しています。預言者ジョセフ・スミスは「聖霊は啓示者であられ」「だれも啓示を受けずに聖霊を授かることはできません」と教えました(『歴代大管長の教え─ジョセフ・スミス』132)。


啓示の霊は,正しい神権の権能によって救いの儀式,すなわち罪の赦ゆるしのために水に沈めるバプテスマと聖霊の賜物を授かるための按手あんしゅを受け,「聖霊を受けなさい」という神権の命令を,信仰をもって果たすすべての人に与えられます。この祝福は教会の管理役員に限定されてはいません。これは責任を負える年齢に達し,神聖な聖約を交わしたすべての男女や子供の生活の中で働くはずのものです。心からの望みとふさわしさは生活に啓示の霊を招きます。


ジョセフ・スミスとオリバー・カウドリは,モルモン書を翻訳しながら啓示の霊に関して貴重な経験をしました。この兄弟たちは,信仰と正直な心を持ち,受けることができると信じながら求めれば,業を成し遂げるために必要な知識を何でも受けられることを知りました。啓示の霊が概して聖霊の力によって頭や心に浮かぶ考えや思いとして機能することを次第に理解していきました(教義と聖約8:1-2;100:5-8参照)。主が彼らに次のように教えられたとおりです。「さて見よ,これは啓示の霊である。見よ,モーセがイスラエルの子らを導いて乾いた地を通って紅海を渡らせたのは,この霊による。これがあなたの賜物である。この賜物を使いなさい。」(教義と聖約8:3-4)


わたしは啓示の霊に関して言われた「この賜物を使いなさい」という言葉を強調します。聖文では,聖霊は「静かな細い声」(列王上19:12;1ニーファイ17:45。3ニーファイ11:3も参照)や「まったく優しい静かな声」(ヒラマン5:30)と表現されています。御霊みたまは優しく,繊細にささやくので,なぜわたしたちがふさわしくないメディア,ポルノグラフィー,有害で依存性のある薬物や行為を避けるべきか,分かるでしょう。サタンはこれらの手段を使って,御霊の力によって伝えられる,神の静かなメッセージを認識してそれにこたえるわたしたちの能力を損ない,ついには破壊します。わたしたち一人一人が,悪魔の誘惑を拒み,「この賜物」すなわち啓示の霊を個人の生活や家族の中に義にかなって「使〔う〕」方法を真剣に,よく祈って深く考えるべきです。


啓示は様々な方法で与えられます。例えば,夢や示現,天の使いとの対話,霊感などです。ある啓示は即座に,強烈な方法で受けます。ほかの啓示は少しずつ,わずかに認識されます。前に話した光に関する2種類の経験は啓示のこの二つの基本的なパターンをよりよく理解するのに役立ちます。



暗い部屋で照明をつけることは神のメッセージを素早く,完全に,一度に受けることに似ています。わたしたちの多くは,神の御心みこころと時に応じて,心からの祈りがこたえられたり,必要な導きや守りを受けたりして,この啓示のパターンを経験したことがあります。このような即座で強い現れは,聖典や教会歴史の出来事,そしてわたしたちの生活の中に見つけることができます。確かにこれらの強力な奇跡は起きます。しかしこのようなパターンの啓示は一般的ではなく,むしろ珍しいことなのです。



日の出のときに少しずつ光が増していく様子は,「教えに教え,訓戒に訓戒を加えて」神からメッセージを受けることと似ています(2ニーファイ28:30)。ほとんどの場合,啓示は時間をかけて少しずつもたらされ,わたしたちの望み,ふさわしさ,準備の度合いに応じて与えられます。天の御父からのそのようなメッセージは少しずつ,優しく「天からの露のように〔わたしたち〕の心に滴る」ものです(教義と聖約121:45)。このパターンの啓示は珍しいことではなく,むしろ一般的であり,ラバンから真鍮しんちゅうの版を無事に手に入れるまでに様々な方法を試したニーファイの経験に現れています(1ニーファイ3-4章参照)。彼は最終的に,「前もって自分のなすべきことを知らないまま」御霊によってエルサレムへ導かれました(1ニーファイ4:6)。また,入念な造りの船を建造する方法は一度に学んだのではなく,主が「船材をどのようにしてこしらえるかを,〔彼に〕度々示して」くださったのです(1ニーファイ18:1)。


教会の歴史にも,わたしたちの生活にも,「教えに教え,訓戒に訓戒を加えて」啓示を受けるという主のパターンの例はたくさんあります。例えば,回復された福音の基本的な真理は聖なる森で預言者ジョセフ・スミスに一度に伝えられたのではありませんでした。それらの貴い宝は,状況が整ったとき,時宜にかなっているときに明らかにされました。

ジョセフ・F・スミス大管長はこのパターンの啓示が自分の人生でどのように起きたかを説明しています。「少年のころ,わたしは頻繁に 自分の証あかしを得たくて,何かすばらしい奇跡をお見せくださいと主に求めました。しかし,主は奇跡をお見せにならず,頭のてっぺんから足のつま先までわたしが真理を理解するまで,疑問や恐れが一掃されるまで,教えに教え を加えてくださいました。そのために天の使いを遣わしたり,天使長のラッパの声をもって語ったりなさいませんでした。生ける神の御霊の静かな細い声によって,神はわたしが今持っている証を与えてくださいました。そしてこの原則と力により,神は人の子らの心にいつまでも残る真理の知識をお与えになり,その結果わたしたちは神のように真理を知るようになり,キリストのように御父の御心を行うようになるのです。奇跡的な現れをどんなに多く経験しても,このような結果は得られないでしょう。」(Conference Report,1900年4月,41)

わたしたち教会員は奇跡的で劇的な現れを強調するあまり,聖霊が働かれる一般的なパターンを認識できずに見過ごしているかもしれません。小さな霊的印象が徐々に大きくなり,長い時間をかけて,待ち望んでいた答えや必要な導きになっていくという「方法が単純」であるために(1ニーファイ17:41),わたしたちは「的のかなた」に目を向けてしまうかもしれません(モルモン書ヤコブ4:14)。

奇跡的な,あるいは強烈な印象を頻繁に受けないために,自分の証の強さや霊的な能力を疑うたくさんの人と話したことがあります。おそらく,ジョセフが聖なる森でした経験やサウロがダマスコへ行く途中でした経験,息子アルマがした経験を考えると,そのようなよく知られた著しく霊的な例と同じような経験がない自分には何か問題や欠陥があるのではないかと思うようになるのでしょう。このような思いや疑問を持ったことがあるならば,皆さんはごく普通の人であることを覚えておいてください。従順に,救い主を信じる信仰をもって進み続ければよいのです。そうするなら,「迷うことはあり得」ません(教義と聖約80:3)。

ジョセフ・F・スミス大管長は次のように勧告しています。「教会にしっかり根付くために,奇跡やしるし,示現を必要とする末日聖徒がいるとすれば,彼らは 神の前で良い評価を得ておらず,ぬかるんで滑りやすい道を歩んでいる会員です。わたしたちが真理に根付くのは奇跡的な現れによるのではなく,神の戒めと律法に謙遜けんそんに,忠実に従うことによるのです。」(Conference Report,1900年4月,40)

光に関するもう一つのありふれた経験から,「教えに教え,訓戒に訓戒を加える」という啓示のパターンについて別の真理が学べます。時々,朝太陽が昇るときに空が曇っていたり,霧に覆われたりしていることがあります。薄暗いために光が見にくく,太陽が地平線から昇るまさにその瞬間を確認できません。しかし,そのような朝でも,新しい日が始まったことを認識したり,用事を済ませたりするための光は十分あります。

同様に,啓示をいつどのように受けたか正確に認識しないで啓示を受けることがよくあります。この原則は,教会歴史のある重要な出来事に現れています。

1829年の春,オリバー・カウドリはニューヨーク州パルマイラで学校の教師をしていました。ジョセフ・スミスとモルモン書の翻訳の業について知り,オリバーは若い預言者に支援を申し出るべきだと感じました。そこでペンシルベニア州ハーモニーへ行き,ジョセフの筆記者となりました。オリバーの到着時期と彼の提供した助けはモルモン書を世に出すためにきわめて重要でした。

その後,オリバーが導きを求めて祈る度に主の御霊から導きを受けていたことを救い主は明らかにされました。主はこのように宣言されました。「そうでなかったならば,現在あなたがいる所に来ることはなかったであろう。見よ,あなたがわたしに尋ねたので,わたしがあなたの思いを照らしたことを,あなたは知っている。そして今,あなたが真理の御霊に照らされたことを知るように,わたしはこれらのことをあなたに告げるのである。」(教義と聖約6:14-15)

このようにオリバーは自分が啓示を受けてきたことを知らせる啓示を,預言者ジョセフ・スミスを通して受けました。明らかにオリバーは神からいつどのように導きを受けていたか認識しておらず,啓示の霊について理解を深めるためにこの教えを必要としていました。つまり,オリバーは曇った空に昇りつつある太陽の光の中を歩いて来ていたのです


人生で直面する多くの不確実なことや困難の中で,神はわたしたちが最善を尽くし,作用される者ではなく作用する者となり(2ニーファイ2:26参照),神を信頼することを望んでおられます。わたしたちは天使を見たり,天の声を聞いたり,圧倒されるような霊的な印象を受けることはないかもしれません。神の御心に従っているかどうか完全な確信がないまま,望みと祈りをもって前進することが多いかもしれません。しかし,聖約を尊んで戒めを守り,善を行い善い人になるよう絶えず努めるなら,神が導いてくださることを確信して進むことができます。そして語るときには,神が霊感によって語るべき言葉を与えてくださることを確信することができます。それは「神の前においてあなたの自信は増〔す〕」という聖句が意味することの一つです(教義と聖約121:45)。

啓示の霊をふさわしく求めて従うときに,「主の光の中を歩〔める〕」ことをわたしは約束します(イザヤ2: 5;2ニーファイ12:5)。時々,啓示の霊は即座に強く働くことがありますが,それ以外のときは,わずかに少しずつ,そして多くの場合意識的に認識できないほど繊細に働きます。しかしどのようなパターンでこの祝福を受けても,啓示の霊がもたらす光は皆さんの心を照らして広げ,理解力に光を注ぎ(アルマ5:7;32:28参照),皆さんと家族を導き守ってくれるでしょう。


わたしは使徒として,御父と御子が生きておられることを証します。啓示の霊は実在し,個人の生活でも,末日聖徒イエス・キリスト教会の中でも作用し,実際に機能しています。これらの真理を主イエス・キリストの聖なる御名みなにより証します,アーメン。



本日もお読みいただきたいて、ありがとうございます。
このお話は、2011年5月号末日聖徒イエス・キリスト教会リアホナから、ご紹介しました。
赤字青字は、追加しています。


ヒラマン(モルモン書)5章
30 さて、かれらはこのこえいたが、それはかみなりのようなこえではなく、おおきな騒々そうぞうしいおとでもなく、まるでささやきのような、まったくやさしいしずかなこえであり、それでいてこころそこまでもつらぬいた。
30 And it came to pass when they heard this voice, and beheld that it was not a voice of thunder, neither was it a voice of a great tumultuous noise, but behold, it was a still voice of perfect mildness, as if it had been a whisper, and it did pierce even to the very soul—

1ニーファイ(モルモン書)4章
6 わたしは、まえもってぶんのなすべきことをらないまま、たまみちびかれてった。
6 And I was led by the Spirit, not knowing beforehand the things which I should do.

良い安息日を、お祈りします。

「知っています」と言えないときはどうすればよいでしょう?

2021-11-13 04:48:11 | 日記
「知っています」と言えないときはどうすればよいでしょう?
スペンサー・W・マクブライド
教会歴史部
あなたの証の強さにかかわらず,教会にはあなたの居場所があります。


わたしの証は二つの要素で形造られています。真実だと知っていることと,真実だと信じていることです。


「知っています」と「信じています」:わたしが証を分かち合うときには,この両方の言葉を使います。


これらの言葉はわたしにとって重要です。それは言葉の違いによって自分の信仰を正確に伝えられるという理由だけでなく,イエス・キリストの回復された福音への信条を伝えるのに,すべての教義に関する完全な知識や教会歴史におけるすべての質問に対する完全な答えが必要ではないということを思い出させてくれるからです。


証の強さにかかわらず,教会にはすべての人にとっての居場所があります。それでも,教会内にはほかの人と証を比べる傾向のある人がいます。特にほかの人が確かな証を持っているような事柄に対して疑問や疑いを持ち葛藤している人たちがそうです。時折教会員が壇上から,何かが真実だと知っていると確信をもって述べるときに,わたし自身の証と一般的な証というものについて考えされられます。


「『知っています』と言えないときはどうすればよいでしょうか。」


「もし福音の,ある側面に関して,疑問や疑いすら感じる場合はどうでしょうか。」


「教会に自分の居場所はあるのでしょうか。」


新約聖書のある物語は,福音の祝福がイエス・キリストに信仰を持つ者すべてに与えられるという力強い確信を与えてくれます。ある男性が霊に取りつかれたわが子をイエスのもとに連れて来て尋ねました。「できますれば,わたしどもを憐れんでお助けください。」


イエスは答えました。「信ずる者には,どんな事でもできる。」


その男性は興味深い返答をしました。自分の信仰が不信仰に当たるほどであることを示すものです。「その子の父親はすぐ叫んで言った,『信じます。不信仰なわたしを,お助けください。』」


イエスはそれから,その子供を癒しました。( マルコ9:14-27参照)。


イエスは奇跡を行う前に,その男性に完全な知識を求められませんでした。揺らぐことのない信仰さえも求められませんでした。救い主に,その癒しの手で我が子に触れるように懇願したその男性は信仰を示していました。欠けていたのは信じようとする望みでした。


イエスにとっては,それで十分でした。


この教訓は,現在の生活においてキリストの癒しの力を求めているわたしたちにも当てはまります。現代の預言者や使徒が述べているように,信じようとする望みはスタート地点に立つのに十分なのです。もちろん,わたしたちは自分の証を強めようと努力していますし,強い信念が完全な知識になるように努めています。(アルマ32:21-22,26-34参照)。しかしそれでも,イエス・キリストの福音の約束が真実であるという希望や,現代の預言者を通して福音が地上に回復されたということを信じる望みは,信仰をもって前進して行くのに十分なのです。


それでは,もし「知っています」と言えないと感じる場合はどうすればよいでしょうか。それでもイエス・キリストの教会には,あなたの居場所があることを知って安心することができます。「真実だと信じています」という表現,あるいは「真実だと望んでいます」という表現を使ってさえも自信を持って自分の証を述べることができます。もちろん福音の祝福を享受しながらです。そしてわたしたちは一人一人,祈りを通して神に「不信仰なわたしを,お助けください」と伝えて,神の愛がわたしたちの生活に注がれ,奇跡が明らかになるのを目にすることができるのです。



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本日もお読みいただいてありがとうございます。

この話は、末日聖徒イエス・キリスト教会リアホナ2021年7月号からご紹介しました。

昨日は、玉ねぎの苗を植え付けました。
苗の定着や種の発芽は、雨と密接ですね。農業は天との共同作業です。

また、ご近所の方からバナナをいただきました。



鹿児島県姶良市ですが、バナナがなることに、ビックリしました。
3年目になったそうです。

良い1日をお祈りします。

マタイ10:39 使徒行伝9章

2021-11-11 05:04:29 | 日記

マタイ10:
39 自分じぶんいのちているものはそれをうしない、わたしのために自分じぶんいのちうしなっているものは、それをるであろう。
39 He that findeth his life shall lose it: and he that loseth his life for my sake shall find it.

使徒しと行伝ぎょうでん
9章
1 さてサウロは、なおもしゅ弟子でしたちにたいする脅迫きょうはく殺害さつがいいきをはずませながら、大祭司だいさいしのところにって、
2 ダマスコのしょ会堂かいどうあての添書てんしょもとめた。それは、このみちものつけ次第しだい男女だんじょべつなくしばりあげて、エルサレムにひっぱってるためであった。
3 ところが、みちいそいでダマスコのちかくにきたとき、突然とつぜんてんからひかりがさして、かれをめぐりてらした。
4 かれたおれたが、そのとき「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害はくがいするのか」とびかけるこえいた。
5 そこでかれは「しゅよ、あなたは、どなたですか」とたずねた。するとこたえがあった、「わたしは、あなたが迫害はくがいしているイエスである。
6 さあって、まちにはいってきなさい。そうすれば、そこであなたのなすべきことげられるであろう」。
7 サウロの同行者どうこうしゃたちはものえずにっていて、こえだけはきこえたが、だれもえなかった。
8 サウロはからがってひらいてみたが、なにえなかった。そこで人々ひとびとは、かれいてダマスコへれてった。
9 かれは三日間かかんえず、またべることもむこともしなかった。
10 さて、ダマスコにアナニヤというひとりの弟子でしがいた。このひとしゅまぼろしなかあらわれて、「アナニヤよ」とおびになった。かれは「しゅよ、わたしでございます」とこたえた。
11 そこでしゅかれわれた、「って、『すぐ』という路地ろじき、ユダのいえでサウロというタルソびとたずねなさい。かれはいまいのっている。
12 かれはアナニヤというひとがはいってきて、自分じぶんうえにおいてふたたえるようにしてくれるのを、まぼろしたのである」。
13 アナニヤはこたえた、「しゅよ、あのひとがエルサレムで、どんなにひどいことをあなたの聖徒せいとたちにしたかについては、おおくのひとたちからいています。
14 そしてかれはここでも、御名みなをとなえるものたちをみな捕縛ほばくするけんを、祭司長さいしちょうたちからてきているのです」。
15 しかし、しゅおおせになった、「さあ、きなさい。あのひとは、異邦人いほうじんたち、おうたち、またイスラエルのらにも、わたしのつたえるうつわとして、わたしがえらんだものである。
16 わたしののためにかれがどんなにくるしまなければならないかを、かれらせよう」。
17 そこでアナニヤは、かけてってそのいえにはいり、をサウロのうえにおいてった、「兄弟きょうだいサウロよ、あなたが途中とちゅうあらわれたしゅイエスは、あなたがふたたえるようになるため、そして聖霊せいれいたされるために、わたしをここにおつかわしになったのです」。
18 するとたちどころに、サウロのから、うろこのようなものがちて、もとどおりえるようになった。そこでかれってバプテスマをけ、
19 また食事しょくじをとって元気げんきりもどした。サウロは、ダマスコにいる弟子でしたちととも数日間すうじつかんごしてから、
20 ただちにしょ会堂かいどうでイエスのことをつたえ、このイエスこそかみであるときはじめた。
21 これをいたひとたちはみな非常ひじょうおどろいてった、「あれは、エルサレムでこのをとなえるものたちをくるしめたおとこではないか。そのうえここにやってきたのも、かれらをしばりあげて、祭司長さいしちょうたちのところへひっぱってくためではなかったか」。
22 しかし、サウロはますますちからくわわり、このイエスがキリストであることを論証ろんしょうして、ダマスコにむユダヤじんたちをせた。
23 相当そうとう日数にっすうがたったころ、ユダヤじんたちはサウロをころ相談そうだんをした。
24 ところが、その陰謀いんぼうかれるところとなった。かれらはサウロをころそうとして、夜昼よるひるまちもん見守みまもっていたのである。
25 そこでかれ弟子でしたちが、よるあいだかれをかごにせて、まち城壁じょうへきづたいにつりおろした。
26 サウロはエルサレムにいて、弟子でしたちの仲間なかまくわわろうとつとめたが、みんなのものかれ弟子でしだとはしんじないで、おそれていた。
27 ところが、バルナバはかれ世話せわをして使徒しとたちのところへれてき、途中とちゅうしゅかれあらわれてかたりかけたことや、かれがダマスコでイエスの大胆だいたんつたえた次第しだいを、かれらに説明せつめいしてかせた。
28 それ以来いらいかれ使徒しとたちの仲間なかまくわわり、エルサレムに出入でいりし、しゅによって大胆だいたんかたり、
29 ギリシヤ使つかうユダヤじんたちとしばしばかたい、またろんった。しかし、かれらはかれころそうとねらっていた。
30 兄弟きょうだいたちはそれとって、かれをカイザリヤにれてくだり、タルソへおくした。
31 こうして教会きょうかいは、ユダヤ、ガリラヤ、サマリヤぜん地方ちほうにわたって平安へいあんたもち、基礎きそがかたまり、しゅをおそれ聖霊せいれいにはげまされてあゆみ、次第しだい信徒しんとかずしてった。
32 ペテロは方々ほうぼうをめぐりあるいたが、ルダに聖徒せいとたちのところへもくだってった。
33 そして、そこで、八年間ねんかんとこについているアイネヤというひとった。このひと中風ちゅうぶであった。
34 ペテロがかれった、「アイネヤよ、イエス・キリストがあなたをいやしてくださるのだ。きなさい。そしてとこりあげなさい」。すると、かれはただちにきあがった。
35 ルダとサロンにひとたちは、みなそれをて、しゅ帰依きえした。
36 ヨッパにタビタ(これをやくすと、ドルカス、すなわち、かもしか)というおんな弟子でしがいた。数々かずかずのよいはたらきやほどこしをしていた婦人ふじんであった。
37 ところが、そのころ病気びょうきになってんだので、人々ひとびとはそのからだをあらって、屋上おくじょう安置あんちした。
38 ルダはヨッパにちかかったので、弟子でしたちはペテロがルダにきているとき、ふたりのものかれのもとにやって、「どうぞ、はやくこちらにおいでください」とたのんだ。
39 そこでペテロはって、ふたりのものれられてきた。かれくとすぐ、屋上おくじょう案内あんないされた。すると、やもめたちがみんなかれのそばにってきて、ドルカスが生前せいぜんつくった下着したぎ上着うわぎ数々かずかずを、きながらせるのであった。
40 ペテロはみんなのものそとし、ひざまずいていのった。それから死体したいほういて、「タビタよ、きなさい」とった。すると彼女かのじょをあけ、ペテロをきなおった。
41 ペテロは彼女かのじょをかしてたせた。それから、聖徒せいとたちや、やもめたちをれて、彼女かのじょきかえっているのをせた。
42 このことがヨッパちゅうれわたり、おおくの人々ひとびとしゅしんじた。
43 ペテロは、かわなめしシモンというひといえまり、しばらくのあいだヨッパに滞在たいざいした。

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本日は聖句をご紹介しました。
良い1日をお祈りします。

疑いの中にあるとき,信仰に対して扉を開いておく

2021-11-10 04:55:40 | 日記
疑いの中にあるとき,信仰に対して扉を開いておく
モリー・ホルト
教会機関誌
時に自分の霊的な経験に疑いを持ったとしても,確信がたちまち鮮やかによみがえることがあります。


教会で育ったか,後の人生で改宗したかにかかわらず,恐らくわたしたちの多くが,疑問や疑いの瞬間を経験したことがあるでしょう。例えば,驚くべき霊的な経験があったにもかかわらず,今,次のように思っているかもしれません:あの霊的な経験はほんとうだったのだろうか,それとも自分は御霊を感じていると思い込んでいただけだったのだろうか。この経験がどれも真実ではないとしたらどうしよう。そして,まだ答えを得られていないわたしの疑問はどうなるのだろう。もうこれが真実だという確信がないとしたら,どのようにして教会にとどまればよいのだろうか。

わたしの場合,自分でも驚いたのは,そうした疑問が湧いてきたのが伝道を終えた後だったことです!わたしは真理について強い確信があり,だからこそ,それをほかの人たちに宣べ伝えることに1年半を費やしたいと思いました。けれども今や,自分が知っていて教えてきたことのすべてを疑うようになっていたのです。もしそれらがどれも真実でなかったのなら,何という無駄なことをしたのでしょうか。結局のところ,わたしが教えてきたすべてのことは,真実だったのでしょうか。それとも,わたしはただそれが真実であってほしかっただけなのでしょうか。友人たちが教会を離れていくのを見て,自分自身の信仰に葛藤しながら,わたしは自分を欺いていたのではないかと思いました。


そんなふうに過ごす間も,わたしは教会に行くことや戒めに従うことはやめませんでした。なぜなら,わたしには大きな疑問があったからです。むしろ,わたしは疑問を持っていたからこそ,ラッセル・M・ネルソン大管長の「啓示を受ける霊的な能力を伸ばすように」という勧めに従おうとしたのです。


「天を開くために何よりも強力な組み合わせは,清さを増すこと,完全に従順であること,熱心に求めること,モルモン書に記されたキリストの御言葉を日々味わうこと,そして神殿・家族歴史活動に一定の時間を割くこと」だと,わたしは知っていました。神に近くあるためにはこれが不可欠だと感じました。結局のところ,わたしの疑問への答えを持っているとすれば,それは神だけだったのです。


ユーニスの物語

ある日,『聖徒たち—末日におけるイエス・キリスト教会の物語』を読んでいたわたしは,回復の初期の時代のある女性についての,驚くべき話に出会いました。ユーニス・フランクリンは,どうやらわたしと同じ疑問や懸念を持っていたようでした。


ユーニスはニューヨークでエライジャ・エイブルという宣教師からバプテスマを受けました。バプテスマを受けたとき,ユーニスは心から福音に改宗していました。ところが,エライジャが教えを説くためにカナダに旅立った後,ユーニスは福音と,それまで真実であると知っていた事柄に疑いを持つようになりました。ジョセフ・スミスはほんとうに預言者なのだろうか,モルモン書は真実の聖典なのだろうかと考え始めたのです。ユーニスは,自分は欺かれていたのかもしれないと思い,幾度も眠れない夜を過ごしました。


主が夢の中でエライジャにユーニスの葛藤を示されると,エライジャはすぐにニューヨークに戻りました。エライジャがドアをノックしたとき,ユーニスはとても驚きました。今度エライジャに会ったときには,自分はもう信仰を持っていないと言うつもりだったからです。しかし,ユーニスはエライジャを招き入れました。その夜,エライジャが自分の説教に来るよう招いたとき,ユーニスはためらい,行きたくないと思いました。しかしユーニスは最後には折れて,エライジャの話を聞きに行きました。


説教の中で,エライジャは,ペテロの第一の手紙第4章12節の,「あなたがたを試みるために降りかかって来る火のような試錬を……驚きあやしむこと〔のない〕」ようにしなさいという言葉を引用しました。ユーニスの信仰を損なおうとしていた火のような試練は,その目的を遂げませんでした。エライジャの言葉を聞くうちに,ユーニスの疑いは溶けていったのです。『聖徒たち』には次のようにあります。「かつて感じた確信が,たちまち鮮やかによみがえってきたのです。」


確信がたちまちよみがえる


わたしはユーニスの経験に衝撃を受け,何度も何度も思い巡らしました。ユーニスと同じように,わたしもエライジャの簡潔で力強い言葉から学びました。わたしたちは,信仰について疑問を持つことを「驚きあやしむこと〔のない〕」ようにしなければなりません。疑問を持つことには何の問題もないのです。以前は真理が天から降り注ぐように思えたとしても,後になって,霊的な渇きを感じる時があるかもしれません。自分がほんとうに雨を感じたことがあるのかと疑問に思うこともあるでしょう。答えや確認がまだ与えられていない中で,わたしたちは啓示の雨を求めて祈り続けることができます。昨日真実だったことが今日も真実であることを知るための証を求めることができます。十二使徒定員会のジェフリー・R・ホランド長老は次のように教えています。「以前,ある事柄について祈り,確信し,それに従って生活したとき,それが正しいものであったならば,その正しさは今も変わりません。……自分の疑念を正面から見詰めてください。恐れを克服してください。」


なぜそうしなければならないのかと思いながらも,宣教師である友人に対して扉を開くことによって,ユーニスはもう一度自分の心を開いたのです。主は再びユーニスに手を差し伸べ,彼女がかつて知っていたすべてのことについて確認を感じられるよう助けられました。同じように,わたしたち一人一人も,たとえ疑いにもがき苦しんでいるときでも,信仰に対して扉を開いておくことができます。正しいことを行い,啓示を求め続けることができます。たとえ自分がなぜそうしているのかがよく分からないときでもです。


わたしたちの霊にとって良いと神が言っておられるささやかな行いを続けることによって,扉を開いておくのです。わたしたちは安息日を聖く保ち,集会に出席します。たとえ一度に一節ずつでも,聖文を読みます。賛美歌や,総大会の説教に耳を傾けます。自分の心配事や望みについて天の御父に話し,真理を知ることができるよう助けを願い求めます。戒めを守り,悔い改め,聖霊がともにいてくださるよう求めます。


信じようとする望みを持つことしかできなくても,それらのささやかな行いを続けて,その望みを育てていくことができます。わたしたちは心の中に,さらに信仰が成長するための場所を取っておくことができます(アルマ32:27参照)。

わたしが知っていること



時に疑問に思い,迷い,揺れ動いてきましたが,わたしは自分自身で,この教会がキリストの教会であることを学び,そして学び直してきました。不完全な人であったかもしれませんが,それでもジョセフ・スミスが神の霊感を受けた預言者であり,すべてを犠牲にして最善を尽くしたことを,わたしは知っています。また,モルモン書はまことの古代の記録であり,まさに現代のわたしたちのために保存されてきた聖典であることも知っています。天の御父はこれらの真理について日々わたしに確認を与えてくださっています。わたしはまた,御父がこれらの真理についてユーニス・フランクリンにも確認を与えてくださったことをうれしく思います。


わたしたちが真理に対して扉と心を開き続けるとき,神は聖霊を通して,何が真実で何が真実でないかを感じることができるよう助けてくださることを,わたしは知っています。わたしたちの霊的な経験は,そのときに否定し難いものとなるでしょう。そしてその後は,疑いが再び忍び寄ってくるのを感じる度に,わたしたちは自分がどのように感じたかを思い出すことができます。ユーニスの場合がそうであったように,福音の真理に対する確信がたちまち鮮やかによみがえることがあります。


自分の霊的な経験にしっかりとつかまり続けているなら,わたしたちはさほど長い間,疑いの渇きの中で生活せずに済むでしょう。十二使徒定員会のニール・L・アンダーセン長老は次のように言っています。「神聖な記憶を大切にしてください。……それらが天の御父とその愛する御子によってもたらされると信じてください。疑いの中に忍耐が,困難の中に理解がもたらされるようにしてください。人生において霊的に重要な出来事を大事に心にとどめておくならば,そのような出来事がさらにもたらされることを約束します。」


新しい霊的な経験を得ようと努力し,キリストを信じる信仰を働かせる人にとって,次の約束が真実であることを知っています。「〔キリスト〕を信じる者は決してかわくことがない。」(ヨハネ6:35)わたしたちが必要としている答えはやって来ます。わたしたちはサタンが投げかけてくる火のような試練を乗り越えることができます。そしてわたしたちは愛にあふれた神に日々忠実であり続けることができます。



本日もお読みいただいて有り難うございます。

このお話は、末日聖徒イエス・キリスト教会リアホナ2021年7月号からご紹介しました。

良い1日になれますように、祈って、神さまの導きがありますように。

ヨハネ
6:35イエスは彼らに言われた、「わたしが命のパンである。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決してかわくことがない。

35 And Jesus said unto them, I am the bread of life: he that cometh to me shall never hunger; and he that believeth on me shall never thirst.