【ひたすらに】2006・8・24
私は今どこに立っているのだろうか?
私の好きな尾崎豊の歌で『シェリー』という歌がある
セカンドアルバムの最後の曲
彼が10代の時に書いた歌である
何度聴いても・・・
何時聴いても・・・
何処で聴いても・・・
自分に言われているようにしか思えなくて・・・・・・あまり好きな歌ではない
でも尾崎豊の歌で一番よく聴いた歌だ
これはその歌の一部(サビ)である
シェリー俺はうまく歌えているか?
俺はうまく笑えているか?
俺の笑顔は卑屈じゃないかい?
俺は誤解されてはいないかい?
俺はまだ馬鹿と呼ばれているか?
俺はまだまだ恨まれているか?
俺に愛される資格はあるか?
俺は決して間違っていないか?
俺は真実へと歩いているかい?
シェリーいつになれば
俺は這い上がれるだろう
シェリーどこに行けば
俺はたどりつけるだろう
以前・・・2月28日のこと
『今』を生きると題した文を書いた
私が生きているのは
『今』ではなく、『過去』であることに気が付いた
「『今』を生きる!」「『今』を生きる!」と言いながら
『過去』にとらわれていたんだなぁと
『過去』に居座っていたんだなぁと
少し前の私は・・・もしかしたら
子ども達にとって“水泳のコーチ以上”のポジションに立っていたかもしれない
子ども達はいろんなことを相談してくれたし、悩みを教えてくれたし、思っていることを言ってくれた
そんな『過去』の自分に胡坐をかいていたわけで・・・
『今』の私は・・・もしかしたら
子ども達にとって“水泳のコーチ以下”のポジションにいるのかもしれない
私が“こころ”を閉ざしているように映っているのだろう
だから子ども達も“こころ”を開こうとはしない
当然だろう
コチラの“こころ”が鏡に映っているのだろうから・・・
だからいつしか
このブログを通して少しでも“こころ”を開こうと
このブログを通して少しでも“こころ”を伝えようと
このブログを通して少しでも“こころ”をかよわせたいと
でもここにあるのは文字
文字であって言葉ではない
言葉こそがコミュニケーションの全てである
文字ではその代わりは務まらない
言葉には
私の感情や
私の表情や
私の声とそのトーンや
私の身振り手振りが伴っているはずである
だから
私の“こころ”が少しは伝わる可能性はあるかもしれない
でも文字には
感情もなければ
表情も声も身振りも手振りも何もない
私がどんな思いを持ってこの文字を書いているかなど・・・分かるはずもない
もし分かってもらえるのならば
よほど私のことを信じてくれていて
未だに“水泳のコーチ以上”のポジションに立たせてもらえているのだろう・・・ありがたいことだ
世の中、便利になりすぎたのかもしれない
便利さ故に弊害もあるように思う
ブログ・メール・・・
やり取りしているのは
言葉と言葉でも
感情と感情でも
人と人でもない
文字と文字に過ぎない・・・
文字ではなく言葉ならば
言おうとしていたことでも
相手の表情や声のトーンなどから
言うことを差し替えたりもする
それこそが相手への思いやりのひとつなのではないだろうか
相手を傷つけまいと
相手に理解してもらおうと
その時の相手の表情や声のトーンなどから言葉を選ぶ
それをするから
お互い分かり合える・お互いに理解し合える可能性が生まれるのだ
でも
文字だけでは感情も表情も覗い知ることができない
だから
お互いの思いは単なる一方通行にしかならないのか・・・
自分の思いを相手に押し付けようとするだけになってしまうのか・・・
でも
離れた相手にでも即座に言葉を文字として伝えることができる
『今』思っていることをダイレクトに文字として伝えられる可能性はある
人間都合の悪いことは忘れられるようにできている
だから『今』思っていることでも数時間もすれば忘れてしまっていることなど数え切れない
そういった意味では
即座に言葉を文字に変換して伝えることができるメリットはある
しかし
先ほども書いたように
一方通行になる可能性があるために誤解が誤解を生む可能性は非常に高い
メールしたのに何も返ってこない
相手にだって都合がある
すぐに返事できる時もあればそうでない時だってある
後で返事をと思っていて忘れてしまう事だってある
そんな相手の都合も考えずに返事が来ないことに腹を立ててしまう
メールしたのに言葉を上手く文字に変換できなかったために思ったことが上手く伝えられない
思ったことを誤った文字にしてしまったが故に誤解を生む
そうじゃなかったのにと後悔しても遅い
文字として残ってしまっているのだから・・・
所詮
文字は文字であって言葉ではない
言葉なくしてお互いが分かり合うことなど不可能なのかもしれない・・・
まして自分の思いを文字で伝えようなどとは・・・自惚れるすぎである
では
ブログを書くのは辞めるのか?
・・・・・・
毎日読んでくれていたり、定期的に読んでくれたりしている人もいるようです
私の文字を見て
何か感じたり、考えたり、想像したり・・・
そう思うことがあったりするから毎日あるいは定期的に読んでくれるのだろう
そういう人が一人でもいるのであれば・・・
私がブログを書き続ける価値がある・・・のかもしれない
いづれにしても
『今』の自分としっかり見つめ合わなければいけないのだろう
『今』の自分をきちんと認めなければいけないのだろう
それは容易なことではないかもしれないが・・・それができなければ
いつまでも『過去』に胡坐をかいているだけで終わってしまうのだろう
2006・8・24
From Ken-O