イタリアの泉

今は日本にいますが、在イタリア10年の経験を生かして、イタリア美術を中心に更新中。

神奈川の記憶ー横浜市歴史博物館 その1

2018年12月17日 23時55分24秒 | 展覧会 日本

そしてようやく本物を見にすることが出来たのが先週の金曜日でした。

同じ横浜市なのですが、私が住む金沢区は、一般的にイメージされる横浜とは全然ことなる田舎で、子どもの頃は誰が呼んだのか「横浜のチベット(チベットに失礼!)」と言われていて、所謂”ヨコハマ”(カタカナというのが余計)ってこの辺りのことを言うのでは?と思ってしまいます。
横浜市営地下鉄、センター北駅で降りて10分弱で、「横浜歴史博物館」に到着!!

とても立派な建物です。
平成7年創設の割と新しい博物館で、私は存在する知りませんでした。
隣接地に国史跡の弥生時代の大塚・歳勝土遺跡公園があり、実物に触れながら横浜の歴史を学べる教育型の博物館です。
横浜市歴史博物館

良心的は入場料だし(各種割引が有りました。例えばJAFとか)2度と来ないかもしれないので、常設展と特別展の入場料を払いました。
まず特別展。

ここに例のお目当てのものが有るのですが、もう1つ


こんな展覧かもやっていました。
こちらの方「平成30年度 横浜市指定・登録文化財展」として平成30年度に横浜市の指定文化財にしていされたものや、過去に県や市の文化財に指定された作品が展示されていました。
中でも一番すごかったのは、このチラシの写真にも使われている瀬戸神社所有の木造随神坐像、二軀です。

 
瀬戸神社、地元です。
こちらは平成13年に指定されたもので、鎌倉時代のものだそうです。
作品数は少ないですが、他にもちょっとかわいそうな物語の「該当紙芝居(平成30年度市追加指定)」など、興味深いものがありました。

そしていよいよ待ちに待った例のものとご対面!!
と、その前に「神奈川の記憶展」は、2015年10月から朝日新聞神奈川版で連載が始まった「神奈川の記憶」という130話を超える(昨日138話でした)連載記事の中から20話ほどを選りすぐり、記事で紹介された資料とともに展示したもので、その記事と展示から様々時代の横浜が見えてくるという展覧会になっていて、横浜に住んで40年以上(うち12年くらいはいませんでしたが)ですが、知らない部分も非常に多い、興味深い展覧会でした。

そうそう、展覧会に出展されていた記事ではないのですが、昨日の記事は非常に印象的でした。
タイトルは「横浜裁判と捕虜収容所」というもので、ランドマークタワーの足元に今でも残る造船所跡、ドックヤードガーデンで、昔捕虜に強制労働をさせ、虐待を行っていた、という話でした。
虐待していたのは日本人、捕虜はフィリピンで捕らえられた米兵やシンガポールで捕らえられた英兵たちで、現中央卸売市場青果部の一帯にあった捕虜収容所には、当時500名が収容されていて、そのうち54名が死んだそうです。
戦後、収容所の所長らは”横浜裁判(BC級戦犯を裁いた)”で罪に問われ、死刑になったものも3人いたらしい。

「神奈川の記憶」を執筆するために、神奈川の様々な歴史に触れて来たこの記事の筆者、朝日新聞の渡辺延志記者でもこの話は「知らなかった」と書いているくらいなので、私が知るわけないのです。
私たちが歴史を学ぶ時、それは一方的な立場でしか語られず、被害者としての立場から語られることが多いことに気がついたのは、日本を出て、初めて第三者的な立場で自分の国を”観察”出来るようになった時でした。
この件は、「臭いものには蓋をしろ」と言わんばかりで、当時の詳しいことはよく分からなかったそうです。

1970年代に横浜市に転居してきた2人の女性が、保土ヶ谷区にある英連邦戦死者墓地に多くの若者が葬られていることに関心をもち、研究を重ねた結果行きついた収容所での劣悪な環境、虐待の事実…
なぜこんなにも多くの若者の墓地が日本に有るのか、誰も教えてくれなかったそうです。
「この沈黙は何なのでしょうか」と記事は締めくくられていました。

これは昨日新聞に載っていた最新の記事なのですが、会場には、戦時中関東大学で教鞭をとっていたジェームズ・ハワード・コベル宣教師に関する記事も興味深かったです。コベル宣教師は、1920年から39年まで関東学院に在職し、英語を指導した他、社会事業部のセツルメント活動の指導も行いました。また、財務担当理事として、関東大震災で大きなダメージを受けた校舎の復興にも携わりました。学生・生徒に平和を強く訴えた人物でしたが、軍国主義化が進む日本を1939年に離れ、次の任地であるフィリピンへ向かいます。太平洋戦争下のフィリピンで日本軍により、妻で同じく宣教師だったシャーマらとともに1943年に命を落としました。(引用:関東学院大学

他にもイタリアの大使館で働いたこともあり、ハンガリー公使大久保利隆氏に関する資料などもありました。
戦争の話ばかりでなんですが、私たちは学校で「日独伊三国同盟」というのは習いましたが、実はそこにハンガリーも入っていて「四国同盟」だったということを知りました。(ハンガリーがドイツ側についていたため)
大久保氏は、ドイツの敗戦が色濃くなったことを知り、早急に戦争を辞めるよう天皇に進言するためにする命がけで帰国する。
しかし、彼の思いは虚しく聞き入れられずに終わり、日本は泥沼の戦争、原爆へと突き進むことになった、という。

戦争のことだけでなく、大山信仰の事や中世の資料、幻の画家笠木治郎吉の作品などもありました。
なんだか、本題に入る前なのに長くなってしまったので、前座ということで今日はこの辺で。



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2 コメント

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知らないことが多いです (fontana)
2018-12-18 08:43:40
山科様
コメントありがとうございます。
時間に制限がある学校では教えてくれないことばかりです。国外に出ると、日本の知らない歴史を知らされて驚くことも多々ありました。
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日独伊三国同盟 (山科)
2018-12-18 07:07:05
ウィキペディアの安易な知識で裏取りはしてませんが、
ハンガリーどころか、デンマーク、ルーマニア、スロバキア独立国 。ブルガリア、クロアチア独立国も加盟していたようですね。
 また、戦争中、ヴェトナム・カンボジア・ラオスを統治したフランスの現地総督政府は、ヴィシー政権側だったので、日本軍と協調して二重統治やってました。これを忘却すると、当時の状況が全くわからなくなります。この件はハノイの極東学院のクメール美術研究と関係してるので、私も長年不思議に思っておりましたが、ヴィシー政権というカギを使えばある程度了解できました。
 また、スペインのフランコ将軍の老獪な外交も目立ちます。
 

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