日本に戻って来てからというもの、テレビから得る情報が多い。
特に今までほとんど関心がなかった、日本美術について最近は気になることひとしお。
先日京都で開催中の「国宝展」に行った話はしましたが、そこでは全く触れなかった「曜変天目」が今日のお題。
実は先日記事を書いたときは、こと陶器には触れていない。
というのも、「曜変天目」という名前は聞いたこと有ったけど、実際見ても
「なんだこの黒い陶器は?」くらいにしか思わなかった。
恐るべしは自分が無知なことなのだが…
ところが日曜日、NHKの「日曜美術館」のテーマが「国宝展」だっただが、そこで初めてこの陶器の本来の魅力を見た。
「え~こんな素敵なものだったらもっとよく見ておけばよかった」と後悔。
いや、展覧会場では光線の関係で、こんなにきれいに見えなかったよ…
ふむ、残念。
そして、そういえば見忘れてしまったのですが、土曜日の「美の巨人たち」もテーマが「曜変天目」だったではないか。
更には、最近コメントで色々な情報を頂くY様のブログにも「曜変天目」の話が。(勝手に載せてすみません)
あれれ、気になる…ということで、とりあえずてっとり早く「美の巨人たち」の動画を検索して見てみたら、また色々出てきましたということで、備忘録として書いおく。
「曜変天目」は中国で作られたもので、日本国宝3点、重要文化財1点の計4点とされている。
リバイバルを制作している人はいるけど、それを「曜変天目」と認めるかどうかはまた別の話。
元々「曜変」ではなく「窯変」という字が使われていたそうで、それは陶器を窯に入れた時に変化が起きることから来ている。
日本で最初に「曜変天目」が登場するのは室町時代。
「曜変」とは、光り輝く物、宇宙の星を意味している。
”内側の黒い釉薬の上に大小の星と呼ばれる斑点(結晶体)が群れをなして浮かび、その周囲に暈天のように、瑠璃色あるいは虹色の光彩が取り巻いているものを言う。この茶碗の内側に光を当てるとその角度によって変化自在、七色の虹の輝きとなって跳ね返ってくる。これが曜変天目茶碗にそなわっていなければならない不可欠の条件である。”(Wikipediaより)
なぜ「曜変天目」を制作した中国には残っておらず、日本には有るのか?
これには3つのうちの1つの「曜変天目」を所有する藤田美術館館長の個人的な見解として
「中国では虹は良くないもの、男女の不貞を意味し、不吉とされてきた。
しかし、日本では虹を儚いものへの尊さ、吉兆の証と考えていたため、7色に輝くこの器は格別美しいものとして古来から愛されてきたからではないか。」とのこと。
現在京都の「国宝展」に出展されているのは
大徳寺塔頭の龍光院のもの。
3点の国宝のなかでは一番地味、らしい。
でもそこが幽玄の趣があるとして評価が高いそうだ。
”初世住侍江月宗玩以来伝わったもので、宗玩の父であった堺の豪商津田宗及が所持していたとされるが詳細は不明。
建立開基した黒田長政が筑前博多の豪商、島井宗室(博多三傑)の縁でこの院に帰した説もある。”(Wikipediaより)
そしてこちらは大阪の藤田美術館のもので、水戸徳川家に伝わったもの。
”曜変の斑紋が外側にも現れている。1918年に藤田財閥の藤田平太郎が入手し、現在は藤田美術館所蔵。”(Wikipediaより)
そして3国宝の中で一番のクオリティーを誇る通称「稲葉天目」
「美の巨人たち」ではこちらが取り上げられていて、所有者の静嘉堂文庫美術館のHPにも番組の宣伝が出ていた。(こちら)
こちらは徳川将軍家に伝わったものが家光→春日局、春日局の嫁ぎ先である稲葉家→岩崎家→この美術館に落ち着いた。
徳川3代将軍家光の乳母だった春日局は、家光が25歳の時天然痘かかった時、治癒を祈願して薬断ちをする。
その甲斐あって家光は元気になるが、それから14年後春日局は病に倒れる。
しかし、家光のために薬断ちしていた春日局は薬を飲むことを拒否する。
そこへ家康が薬と共に曜変天目を春日局に贈る。
局もさすがにこの器を贈って来た家光の気持ちを察してこの器で薬を飲んだ。
そんなこんなで春日局から稲葉家へ伝わることになったとか。
「春日局はこの曜変天目に口を付けたんですねぇ」とテレビでは驚いたコメントが入っていましたけどね。
いやいや、ホントにこれは素晴らしい。
番組ではこの平成の時代に「曜変天目」を再現することに成功した陶芸家の桶谷 寧(おけたに やすし)さんが登場。
国宝にはできないことだが、再現した「曜変天目」に水を注いでいた。
水が注がれた「曜変天目」の内側は、本当に光輝いていた。
この器に時の権力者の心が奪われたのもよくわかる。
ちなみに同じく日曜日NHK大河ドラマ 「おんな城主 直虎」を見ていたら、なんと「曜変天目」が登場⁉
織田信長が徳川家康の長男、松平信康に婿として器を贈りたい、と言って出ていたんですよ、多分。
まぁ歴史公証的には全然おかしくないエピソードだなぁ、とは思ったのですが、自分にはあまりにもドンピシャだったので、ちょっと驚きましたよ。
3点の「曜変天目」はなかなか一般公開はされないそうですが、静嘉堂美術館の「稲葉天目」の方は来年4月24日から6月17日の間公開されるらしい。
これは是非見に行きたいわ。
とここまでで終わる予定だったのだが、昨日ヨーロッパの陶磁器について記事を書いてるという話をしましたが、それがらみで、面白いことを発見したのでまだ続く。
何でもかんでも一番初めに作ったのは中国人、ではない。パスタしかり。
いやはや、人生無駄なことってない!アンテナ張っておくと色々なことがひっかかる。
ヨーロッパの美術は、イスラムの影響を強く受けている。
陶磁器もしかり。
ヨーロッパでは太古の昔からテラコッタと呼ばれる素焼きなどの陶器の製作は行われていたが、磁器はなかなか自作できず。
磁器をヨーロッパで初めて作ったのは、メディチ家のフランチェスコ1世(Francesco I)らしい。
なぜなら、この人、錬金術が趣味だったから。
フィレンツェのヴェッキオ宮殿(Palazzo Vecchio)にStudioloという小部屋を作らせ、そこで日がな一日実験していた。
その部屋には今でも錬金術をしているフランチェスコ1世の姿が描かれた絵がある。
メディチが作り出した磁器は、もっぱら外交の贈り物として使われたようで、まだまだ商品化するほど作品を作ることは出来なかったようで、磁器はもっぱら輸入物。
特に中国から輸入されていた白磁は大人気。
ただ陶磁器の交易は決して中国だけではない。
何でもかんでも中国一番でもない。
他の芸術同様イスラムからだって入ってくる。
そう「曜変天目」の元祖はイスラムのやきもの、”ラスター彩”なのだ。
実は「曜変天目」を検索したら「ラスター彩」という単語が紐付きで出て来た。
「ん?なんで?」と思って開いてみると
”中国建窯の、曜変・油滴・禾目などの天目茶碗は、この影響を受けて作られ、ラスター現象が見られる。”(Wikipediaより)
とあるではないか。
こうやって古い知識と新しい知識がつながる瞬間ほど楽しい時はない。
陶磁器の記事を書いてなければ、こんな単語知らなかったし、引っかかることもなかった。
だから様々ことに興味をもつ、好奇心は旺盛な方が良い。
日本で見た「曜変天目」イタリアで見ていた「マヨリカ焼き」(マジョルカ、マイヨリカなどなど色々言い方は有るが、一番イタリア語に近い言い方で統一)これが一本の線で結ばれた!!
最近参考にしている大平雅巳氏の「西洋磁器入門」によると
ラスター彩とは
”銀や銅などの金属酸化物を混ぜた顔料で陶器やガラスの表面に絵付けをし、これを低火度でいぶし焼きにして、表面にきらきらと虹色に輝く薄い皮膜を作り出す技法です。金や金泥を直接焼き付ける金彩とは違い、一種の化学変化によって金にも似た光沢を生み出すもので、高度な知識と技術、それに経験が求められる工芸技法です。”と。
「黄金の国ジパング」の私たちのご先祖様たちは、ヨーロッパの人ほど金に対する執着がなかったように思われる。
私の卒業論文のテーマ「金唐革」しかり、金ではないものを使っていかに”金”を表現するか、無から金を作り出すかということにご執心。これこそが錬金術。
富や権力の象徴、不変なもの、それが金なのだ。
材料や手法に共通するものが多く有り、錬金術師がラスター彩の陶工を雇って実験に立ち会わせることもあったそうだ。
1301年にイランのカシャーンのアブル・カーシムという人が書いたとされる陶芸技法書には、ラスター彩を「1種のアルケミー」(錬金術)と書かれている、とか。
ラスター彩の起源ははっきりしていない。
”おそらく9世紀頃、メソポタミア地方に始まったと考えられています。
その後、エジプト、シリア、イランなどに伝わり、12-14世紀にはイランのカシャーンやレイなどの町で、アラブ独特の装飾文字や細密な模様の描かれた華やかな陶器やタイルが生産されました。いわば、イスラムの世界にだけ伝承されていた陶芸の秘法の1つと言えます。”(大平雅巳「西洋磁器入門」岩波新書より引用)
この後はお決まりのスペイン周り。
正直スペインがイスラムに征服されていなかったら、ヨーロッパの美術工芸がここまで素晴らしいものになったのだろうか???と思わざるにはいられない。
学問しかりである。
そこらへんはちょっと省略して…
このラスター彩がイタリアにやって来て「マヨリカ焼き」となって全国に普及するわけだが、その辺りのお話はまた後日。
最後に面白いラスター彩の陶器をご紹介。
ロンドン、大英博物館所蔵、って見た気がしないけど、「ラスター彩紋章付き双耳壺」1465-92年
まるで像の耳のような持ち手がついています。ヨーロッパではこの手の部分をウイング(翼)と言っているらしい。
このタイプ、特に14,15世紀のスペインで好んで作られていたそう。
この壺は15世紀後半、スペインのマニセスという小さな町で作られた。
マニセスは現在でも陶芸が盛んな町ですが、当時はラスター彩の技法を駆使した黄金色の焼き物の産地として栄え、作品はヨーロッパ各地に輸出されていたと考えられている。
中央の柄を見ると一目瞭然だが、これをオーダーしたのは、メディチ家の豪華王ロレンツォ(Lorenzo Il Magnifico)
メディチ家のシンボルの丸薬と今やフィレンツェのシンボルとなっている白百合。
実は恥ずかしながら知らなかったのだが、なぜフランス王家と同じものがメディチ家のシンボルになったのか?
本には「1465年ロレンツォの父ピエロがフランス王ルイ11世から使用を許可された。」としか書いてない。
中興の祖とも言われるコジモ・デ・メディチ(Cosimo de' Medici)と豪華王に挟まれたピエロって全然存在感ないんだけど、何したんだろ???
ちょっと調べてみたけど、簡単には出てこないな。
15世紀半ばにフランス王に謁見したピエロが王に気に入られて百合のマークを使うことを許された、なんて記事も有るけど…どうも眉唾。
理由もなく他人を褒めるか、一国の王たるものが…
この頃のメディチ家の銀行家としての財力を考えての事ではないか?
どちらにせよ、ピエロ以降メディチの紋章には、赤い丸薬と共に青地に描かれた白百合の紋章が混ざるようになった。
この壺、非常に高価なもの。
本物の金を使ってあろうとなかろうと、黄金の輝きを放つ陶器は富と権力の象徴。
だからこそラスター彩を施された陶器は他の陶器とは別格だった。
そしてさらにこの壺にはもう1つヨーロッパの陶芸史上で重要な技法が使われている。
それは金色や青を引き立てている白地。
この下地の白い部分にはスズ白釉(錫釉・すずゆうとも言う)と呼ばれる釉薬が用いて作られている。
”錫白釉は、古くから用いられていた鉛釉(なまりゆう)を改良したもので、簡単にいえば、鉛釉に錫の酸化物を混ぜて焼成することで、錫が白濁し、不透明で白色の素地が出来るというものです。ラスター彩と同じく9世紀頃、メソポタミア地方で始められたといわれ、以来、イスラム文化圏の各地で盛んに取り入れられた技法です。良質の陶土に恵まれなかったイスラム諸国が、やきもの先進国である中国の白磁に対抗すべく生み出した知恵の産物といってもよいでしょう。”(大平雅巳「西洋磁器入門」岩波新書より引用)
ということで次回はすんなりイタリアの「マヨリカ焼き」についてお話しましょう。
ただ、ラスター彩は低火度釉で、曜変天目は高火度の灰釉です。全く違います。 まあラスター彩イスラム陶器が南宋に入って陶工に影響を与えたということはあるかもしれません。
この釉薬の問題は数千年の間、膨大な試みがあったので、なかなか難しい問題です。青釉だけでも鉄・銅・クロム・マンガン発色など様々なものがあり、なかなか難しい。専門書はまるで窯業の技術マニュアルみたいです。マイセンで白磁をつくったベトガーも錬金術師ですから、陶磁器の技術的側面はそういうものなので、美術史研究としては、あまりつっこみ難い領域ですね。
参考書:内藤 「古陶磁の科学」
科学ですからねえ。。
普段は何気なく見ている陶磁器が、実は偶然の産物だったり、とてつもなく考えられた結果出来上がったものなんだと知ったところで止めておきます。