イタリアの泉

今は日本にいますが、在イタリア10年の経験を生かして、イタリア美術を中心に更新中。

マヨリカ焼きスペインより

2017年10月25日 15時26分00秒 | イタリア・美術

また雨ですね。
10月はいったいどのくらい太陽の顔を見たんだっけ?

さてさて、この雨で出かけなかったので、お約束通り(ほっ)昨日の続きです。
イスラムがスペインを征服したことでもたらされたラスター彩。

いやいや、イスラムの文化はすごいですよ、私の卒論テーマだった「金唐革」をヨーロッパにもたらしたのも彼らですから。
その話はおいておいて、アラブの陶工によってイベリア半島に伝わった錫白釉とラスター彩。
新しい技術によって各地に陶器工房が生まれました。
この時代にスペインで作られたイスラム風の焼き物は、一般的に「イスパノ・モレスク陶器」と呼ばれています。
イスパノ・モレスクとは「ムーア風のイスパニア」のことで、ムーア(モーロとも言いますが)、ムーア人とはモロッコ・モーリタニアなどアフリカ北西部に住み、イスラム教徒でアラビア語を話す人々のことです。

イベリア半島でも最後までイスラム教徒の支配下にあったアンダルシア地方は、アラブ最後の拠点として発展。
その最たるものがアルハンブラ宮殿でした。


偶像崇拝が禁止されたいるイスラム教の場合、ほとんどの装飾は幾何学模様。
しかしこの配色が素晴らしいわ。

ちょっと思い出してアルハンブラ宮殿で購入したガイドブックをを開いてみましたが、残念ながらタイルについて詳しく書かれているものはありませんでした。
アルハンブラ宮殿に彩釉タイルを供給したのが、グラナダから100キロほど南西に行った港町マラガです。
マラガと言えばこれです。


焼きイワシ
これ昨年の夏に行った時の写真ですが…あ~ほんと美味しかった。
いやいや、これではないですね。

マラガと言えばピカソの出身地。
主な観光名所はやはりピカソの家とピカソ美術館。
それに私は大聖堂に行きました。
グラナダからロンダに向かう途中に数時間寄っただけだったのですが、非常に後悔。
もっとゆっくりすれば良かった…だって美味しかったんだもん。
っていやいや、そこじゃないでしょう。
でも、スぺインって食べ物美味しいんだよねぇ~
それほど高くないし、飲める人には天国よ!!

ってそこではなく…
マラガの目的はピカソだったので、その他のことはあまり調べていなかったんです。
ちなみにピカソ美術館は行列していました。
だからマラガが陶器で有名だってことも最近知りました。

1350年、イブン・バットゥータという人がマラガを訪れた際にマラガを
「金色の美しい陶器をつくり、よほどの遠国まで輸出している」と期しているそうで、すでにこの頃からマラガの特産物はイワシではなく陶器だったようです。
しかし私の記憶には陶器がない。とても近代的な街、という感じでしたけどね。
スペインに戻ることがなかったピカソが、南仏の町で陶器作りに打ち込んだのも、生まれ故郷を懐かしく思った故かもしれませんね。

時代は中世。
マラガ産の陶器、中でもラスター彩はヨーロッパ市場を席巻。
海路でスペイン国内、フランス、イタリア、エジプトなどに運ばれていました。
ただアルハンブラ宮殿の建設が終わりに近づくにつれ、マラガの製陶業は衰退していきます。
そしてレコンキスタ(国土回復運動)の影響などで突然のごとくラスター彩の陶器生産が途絶えてしまいます。
マラガ亡き後の錫白釉とラスター彩陶器の生産を担ったのは、いち早くキリスト教国となったバレンシア地方のマニセスでした。

マラガやマニセス産のイスパノ・モレスク陶器はイタリアにもやって来ました。
今参考にしている「西洋陶器入門」によると
”今日、イタリアの錫白釉陶器を「マヨリカ」と呼んでいますが、その名は貿易船の経由地であったバレンシア沖合のマリョルカ島に由来するといわれています。しかし、当時の航路は必ずしもマリョルカ島から一気にイタリア半島を目指したとはかぎりません。マリョルカ島から一旦バルセロナに戻り、マルセイユ、ジェノヴァ、ピサなど地中海北岸を通ってイタリアに行く航路も盛んに利用されていました。その意味では、マヨリカの語源はマリョルカ島より、「obra de Malaga(オブラ・デ・マレーカ)」(マラガ産)という言葉が転訛したと考えるほうが妥当なのかもしれません。”
とあるのですが、ちょっと引っかかることがあります。

9世紀からアラブの支配を受けていたシチリア島。
アラブの後はスペインの支配を受けるため、ここには直接入って来たのではないか?
中でも有名なカルタジローネ(Caltagirone)

カルタジローネという名前は、“花瓶の丘”(qal'at-al-ghiran)というアラビア語からきているらしく、名前からも陶器が盛んだったことがうかがえます。
先史時代から陶器作りが盛んだったカルタジローネには、中世末マリョルカ島の商人によってイスパノ・モレスク様式の陶器が輸入され、その技法もムーア人の陶工たちによってもたらされました。
そしてカルタジローネからイタリア中にラスター彩の陶器が広まった、と言われている。

では地中海北岸を通って、というのはどうだろう?
確かにジェノヴァ、ピサは当時海洋都市として繁栄していた。
ただこれらの町、特にピサの陶磁器というのはあまり聞いたことがないなぁ…
ということはこちらは”品物”だけが入って来たのだろうか?
あっ、でも待てよ、この北イタリアに入って来たラスター彩の陶器が元で、トスカーナやウンブリアの有名な製陶がスタートしたのかも…
う~ん、この辺りはイタリアの資料でなければ分からないなぁ。
まぁ技術はスペイン→シチリア→南イタリアから全国に広まったと考えて良さそうですね。
そしてこのラスター彩と錫白釉陶器の製法を知ったイタリアでは、スペインを抜くレベルの高い作品がこの後各地で作られるようになるわけです。

ちなみに現在はウンブリア州のUrbania(ウルバニア)というここも陶器で非常に有名な街生まれ(1636年まではカステルドゥランテ(Casteldurante)と呼ばれていた)のCipriano Piccolobasso(チプリアーノ・ピッコロバッソ 1524-1579)という芸術家がいました。彼は生まれ故郷で学んだあと、中央イタリアのアンコーナ(Ancona),ファーノ( Fano),ペルージャ( Perugia) スポレート( Spoleto) などの町で要塞建設に携わった後、故郷に戻り有名なマヨリカ焼きの工場を作ります。
更に陶器についての本を3冊書き(「陶芸三書」Cipriano Piccolpasso, I tre libri dell'arte del vasajo : nei quali si tratta non solo la pratica, ma brevemente tutti i secreti di essa cosa che persino al di d'oggi e stata sempre tenuta nascosta,del cav. Cipriano Piccolpassi Durantino.)1857-58年初めてローマで出版されます。
この本はイタリアのルネサンス期における陶磁器の歴史や技術を知るうえで貴重な資料となっています。

実はこの本に”マヨリカという語はラスター彩陶器のみを意味し、他の錫白釉陶器はビアンキ(白という意味)、つまり白い陶器と呼ばれ区別されていあるのです。”とあるそうです。
だからラスター彩が伝わったのはシチリアから、その他の錫白釉陶器はシチリア以外からもと考えればいいのかな?と思ったりしています。

色々調べてみれば、今までみんな同じにしか見えなかった陶磁器も面白くなりますねぇ…って私だけかな?
ということでなかなか本題に入れないのでした…

おまけ
実はウルバニアの町には懐かしく、少々悲しい思い出が有ります。
その話はおいておいて、陶器で有名な街ですが、もう1つ。
実はミイラ博物館がマニアには結構有名です。
私はローマの骸骨寺ともう1か所ウンブリア州にあるミイラ博物館(?)に行ったので、ここはパスしましたが…
死者の教会の中に”ミイラの墓”(Cimitero delle mummie)というものがあります。
19世紀の初め、教会を改修することになった所多数のミイラが発見されたそうです。
男性が12体、女性6体の計18体のミイラが、ガラスケースの中に立った状態で安置されているそうです。
立ったまま…って保存状態かなり良いですよね。



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