San Sebasriano(聖セバスティアヌス)のイメージは、裸で矢が刺さった状態が一般的だが、ここでは服を着て、祈りのポーズで直立し、まるで昔の聖人像のようである。
顔にはひげが生えていて、髪の毛はクルクルで、キリストのイメージとよく似ている。
上の方には、怒れる神。その神を取り囲む羽根がまるで鱗のような天使たちの手にはペストを象徴する槍。
神の下で膝まづく救世主は自分の傷を神に示している。
そしてその横には聖母が胸を見せる慈悲のポーズを取っている。
この図像は1400年代のトスカーナ絵画にしばしば見られる、所謂”Doppia intercessione 二重のとりなし"を想起させる。
例えばこれ。
現在NYメトロポリタン美術館所蔵のLorenzo Monaco(ロレンツォ・モナコ)作か?と言われる1402年以前に描かれた”L'incercessione di Cristo e della Vergine(キリストと聖母の二重のとりなし)”
元はフィレンツェ大聖堂西側正面中央扉の脇に設置されていた祭壇画である。
”この図像は信者の祈願と救済を聖母とイエスの二人がともに(つまり二重に)父なる神にとりなすことをあらわしたもので、構図的には、聖母マリアが息子であるイエス・キリストに信者の救済を祈願する一方、それと向かい合うキリストが今度は父なる神に対し、聖母からの申し出を再度とりつぐという構図をとる。聖母は信者に対し乳房を露にすることで、所謂<授乳の聖母 Madonna lactans>のポーズをとり、一方のキリストはわき腹の傷を父なる神に示すことで、自らおこなった贖罪を強調する。”
引用:論文 ボッティチェッリ作《聖母子と四天使と六聖人(サン・バルナバ祭壇画)》ダンテ『神曲』銘文と聖母信仰、山形大学人文学部人間文化学科、石澤 靖典
この論文にもはっきり、このSan Sebastiano図が<二重のとりなし>図を導入していることに言及していた。
更に<二重のとりなし>はアウグスティヌス派のおはこである。
更に下に行くと、3組の天使たちがいる。
白い服を着て、空に浮いているような一組は、降って来た弓矢を折っている。
黄色っぽい服を着た中心の天使たちは、片手で聖人の頭上で冠を支え、それぞれ片手には聖人のシンボルであるヤシの葉と矢を持っている。
そしてピンクの服を着た天使たちは、人々を矢の雨から守るべく、マントを精一杯広げている。
人々は聖人の周りにきちんと並んでいる、男性は聖人の右側。人間の大きさはヒエラルキーにのっとっている。(1)
位階表現に基づいて、他者より極めて大きく描かれた聖人は、まるで祭壇のような台の上に立っている。
そこには"SANCTE SEBASTIANE INTERCEDE PRO DEVOTO POPULO TUO"(聖セバスティアヌスはあなたたち市民の祈りを神に仲介する)と書かれている。
プレデッラのような下部の四角い部分には、「キリスト磔刑図」が描かれている。
上記論文に、フィレンツェのSanto Spirito(サント・スピリト教会)のBotticelli(ボッティチェリ)作のMadonna Bardi(バルディ祭壇画)についてのアウグスティヌス派との関連を読んむと、この「磔刑図」も傷を見せるキリストと同じ意味を持っていると解釈できるだろう。
完全に服を着た聖人とは、Madonna della Misericordia(慈悲の聖母)のイメージに由来すると思われ、信者たちは青いマントに守られている。
青は聖母のアトリビュートの1つで、giustizia(正義), fedeltà(誠実)、spiritualità(崇高さ)のシンボル。また西洋では王者の威風をも表すことから、王子や君主、貴族などが重要な儀式の時に身に着ける色としても用いられている。
とこれがこのSan Sebastiano図の詳細。
私のようなキリスト教徒ではない人には、ぱっと見ただけではちんぷんかんぷん。
たぶんキリスト教徒だったBenozzoであったも、ここまで凝った作図は一人では出来なかっただろう、という非常に考えられた構図になっている。
だからやはりDomenico Strambiの介入は否めない。
ではなぜこのタイプの絵をSant'Agostino(聖アゴスティーノ教会)に書いたのか、ということはまた次回。
参考:Diane Cole Ahl, Due San Sebastiano di Benozzo Gazzoli a San Gimignano,
(1) 河田淳 ペスト流行期の慈悲、京都大学大学院では”ミゼリコルディアの図像では、マリアから見て右側が男性もしくは聖職者や貴族、左側が女性もしくは俗人が配される場合と、左右の描き分けがあまり厳格ではない場合とがある。左右を描き分ける表現については、『最後の審判』の光景を期した『マタイによる福音書』25章での「善き者を右側に、劣った者を左側に置く」という位階表現にもとづいている。つまり、マリアのマントのなかにいる人びとに与えらる慈悲は、均質なものとは限らなかったのである。
このことから、マントのなかで表される体の大きさとマリアへの距離も、注文主の団体内での権力構造を反映していると考えられる。”とある。また”ひとびとは単に救われる内側と救われない外側で二項対立的に分けられいるのではなく、慈悲の内側においても優先順位が段階的に定められているのである。”と述べている。
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