イタリアの泉

今は日本にいますが、在イタリア10年の経験を生かして、イタリア美術を中心に更新中。

Benozzo Gozzoli(ベノッツォ・ゴッツォリ)の2枚のSan Sebastiano(聖セバスティアヌス)その3

2020年06月04日 15時20分18秒 | イタリア・美術

Benozzo Gozzoli(ベノッツォ・ゴッツォリ)がSant'Agostino(サンタゴスティーノ)教会に「祭壇画として描いた」San Sebastiano(聖セバスティアヌス)は、Madonna della Misericordia(慈悲の聖母)に影響を受けた作品であった、というところまでは昨日のお話。

San Sebastianoは慈悲の聖母の役をし、人々を保護し、聖母とのとりなしの役も担う。
この図像は、キリストと聖母の<二重のとりなし>に加え、聖人を介した<三重のとりなし>が行われていた。
とここまで調べてきたら、この作品は祈願の作品だと思っていたのだが、資料をよ~くよ~く読み込んでみたらこの作品は、ペストの収束を願って作られた、というより、「1464年7月28日のSan Gimignanoのペストの収束を記念したex voto(奉納物)」だとDiane Cole Ahlは書いていた。
ん?Benozzoが仕事を終えた日ではないの?
ここら辺は資料によって曖昧なんだよなぁ。何せ手に入る資料が少ないので…

「奉納」というと、私たちは神仏に何かお願いする時にお供えをする、というイメージが強いが、辞書で「奉納」と訳されるこのラテン語の「ex voto」は、人間から神への一方的な思いではなく、神と人間の契約とか約束が完了した証として捧げられるというルールがあったようだ。
だから神は目的をかなええてくれ、人間はお返しをする。
ヨーロッパの教会に行くと、よく銀のハートなどが鈴なりにぶら下がっているのよよく見かけるが、それもex votoである。

ex votoだということは、一番下描かれた群衆の中に、ペストを生き抜いた人たちの肖像が見られるということでもわかる。

ここまで来て気になったのは、このフレスコ画の注文主というか、お金を払ったのは誰か?という点。
実は「その1」で私はこう書いた。
”1464年3月、ペストがPisaとLivornoの港に上陸、6月には再びSan Gimignanoの街でも被害が出始めた。
こうなると、うやむやになっていた聖人像を描く計画が再浮上。
市民委員会は今度こそ対ペストで一番役に立つ聖人像を描くことを決めた。
最初はこの絵、市民にとって一番身近なPieve(教区教会)に描く予定だったのだが、いつのまにかEremitani di Sant'Agostini(アゴスティーノ修道会)になった。(その辺の記録は残されていない。)”
Eremitani diは不要だった、ごめんなさい。

ComuneはSant'Agostino教会にSan Sebastianoの祭式のための寄付をしている。
この寄付は、直接compagnia di San Sebastiano(聖セバスティアヌス信者会)に行き、この寄付が素晴らしい作品に対する寄付も含まれていた。
そしてこのフレスコ画を直接管理したのは、この信者会だった。

キリスト教徒でない私は、この辺、confraternita(信者会)とかcompagnia(信者会)の微妙な差がいまいちはっきりしないのだが、基本的に、confraternitaは互助会のようなもので、病院というものがなかった時代、医療行為に近いことをやっている。片やcompagniaの方は特に埋葬に仕事に関わっていたらしい、ということは分かった。
1244年フィレンツェには、Confraternita di Santa Maria della Misericordia(慈悲の聖マリア信者会)が出来、生活が苦しい人のために活動を始め、現在もMisericordia di Firenzeとして残っている。
イタリア最大のボランティア団体 Confederazione nazionale delle Misericordie d'Italiaには、700以上のMisericordiaが登録されている。

となんだか非常にもやもやしていたところ、昨日みつけた石澤氏の論文に非常に有益な情報を見つけた。
”(サン・バルナバ)祭壇画は同聖堂(サン・バルナバ聖堂)の主祭壇画であったが、この作品が成立する過程、および受容環境においては、フィレンツェ市内のいくつかの組織が関与していたことが知らされている。すなわちサン・バルナバ聖堂自体は、アウグスティヌス派に属する教会であったが、祭壇がおかれていた主礼拝堂はフィレンツェ政庁の所有となっていた。さらに当時の習慣では、教会内の設備の実際の管理運営あるいは装飾事業は、市内の同業者組合に委託されることになっており、本聖堂(サン・バルナバ聖堂)の場合、その任にあたったのは大組合のひとつである医師薬種業組合(Arte dei Medici e speziali)であった。<中略>本祭壇画の受注関係について整理すると、その主たる受容者はアウグスティヌス派の修道士たちだったが、祭壇画を実際注文したのはおそらく、医師薬種業組合であり、さらに作品はフィレンツェ政庁の保護下にあるというやや複雑な環境にあったということができる。”
ということで、大組合を信者会に替えると、全てははっきりする。
注文はComuneだったとして(はっきりした資料がない)、絵を管理していたのは信者会だったのだ。

じゃあ、Comuneはどうしたのか?
お金も払わず、この計画はうやむや?
というとそうでもない。
Comuneはちゃんと信者会に直接San Sebastianoの祭式のための寄付をしている。またその中には、この素晴らしい作品に対する寄付も含まれていたらしい。
じゃあComune主催のSan Sebastianoを描かせるのは止めたの?
いや、ComuneはSan Sebastianoを描かせた。
それもなんと同じ画家、Benozzo Gozzoliに⁉
まぁ、ペスト禍で人の往来が禁止されていただろうから、街にいた優秀な画家に依頼した、というのは当然の流れですけどね。

次回は確実に注文主がComuneのSan Sebastianoのお話。

引用:ボッティチェリ作<聖母子と四天使と六聖人(サン・バルナバ祭壇画)>-ダンテ『神曲』銘文と聖母信仰



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