昨日の夜、というか今朝というか、深夜3時頃ものすごい雨と雷で、普段は起きることもない私ですが目が覚めました。
幸い30分ぐらいで峠を越し、被害もなかったようですが。
今朝は青空~と思ったらこの時間(16時ごろ)また雨が降っています。
なんか天気が落ち着かないなぁ…
さて、頑張って続きに参りましょう。
Salerno(サレルノ)と聞いてもピンと来る人は少ないでしょう。
まぁ、世界に名だたる有名なものは特にありません。
Napoliに比べれば、治安も良い港町、というイメージです。
だから、街めぐりも数時間、結局両親とはDuomo(大聖堂)に行っただけです。
そうそう、父はここでドイツ製の帽子を買いました。
店員さんがイタリアらしからず、押の弱い、というか売る気有るの?という感じのテンションだったのが、母と私には非常に印象的でした。
更に店員さんはこの帽子アメリカ製って言っていましたけどね。
さて、少々サレルノの話をした方がいいでしょうね。
サレルノと聞いて真っ先に思い出すのは「最古の医科大学(医学校)」
最古の大学はBolognaですが、医科大学はこちらなんですね。
8世紀ごろの事らしいです。
今でこそ、知名度がかなり低い、一小都市になり下がった(失礼!)サレルノですが、海洋都市ということで中世は非常に栄えていました。
地中海に面したサレルノは、その昔ギリシャの植民地でした。
そして医科大学が出来た当時は、北西部(西ヨーロッパ)にラテン・カトリック、北東部にギリシア・東方正教(ビザンチン)、南部(中東、北アフリカ、イベリア半島)にはアラブ・イスラム世界と、様々な異なる文化と宗教が入って来ていました。
そんな中、特にアラブやアラブやユダヤ出身の医師たちがサレルノに集り、医学が発展していきました。
特記することとしては11世紀、サレルノ医学校の教師たちが『サレルノ養生訓』という本が書かれます。
それは”ギリシャ医学の父”とも呼ばれる、ヒポクラテスの医学をひきつぎ、健康・食生活・衛生面など生活すべてについて考察された書でした。
『Regimen sanitatis salernitanum(サレルノ養生訓)』はラテン語の詩の形で記されているものの、医学校の評判が上がるにつれてヨーロッパ各国の言葉に翻訳され、1500版まで重版されたそうです。
今でも街の中心にその医科大学の後が残されています。
中に入ったことはないので、どんな風なのかは不明です。
オフィシャルサイトのアドレスだけ貼っておきます。
Museo Virtuale Scuola medica Salernitana
ちなみにこの「サレルノ養生訓」ですが、実は今流行り(?)の地中海式ダイエットについても言及されているそうです。
「サレルノ養生訓」は医学の素人むけに書かれた本で、最初のページには「よい食事をとること、適度に食事を取ることが大事である」と記されているそうです。
ちょっと調べたら日本語に翻訳した方がいるそうです。
駅からDuomoに向かうとこの前を通ります。
気にはなるけど、いつも素通りです。
18時に閉まってしまうということで、大急ぎでDuomoに向かいます。(帽子買ってる場合じゃない!)
1076~85年の間にRoberto il Giuscardoによって建設されたロマネスク教会。
教会として奉納されたのは1085年Gregorio VIIの時。
1700年代前半で翼廊など大部分が改装されています。
鐘楼もあります。
こちらはアラブ、ノルマンディー時代の特徴を残す数少ない鐘楼として大変重要です。
教会の入り口には
ライオン???
だよね?
怖いような、かわいいような…月日の流れを感じます。
ロマネスク教会特有の不思議な動物が随所で見られます。
ちなみにこのライオンさん、伝説によるとサラセン人がサレルノに攻め入って来た時、生きたライオンになって、大聖堂を冒涜しようとした蛮族に飛びかかって蹴散らしたとか。
面白いですね。
木の実をついばむ小鳥は天国の暗示
ちょっとかわいいこれは…狼?ライオン?
そして見落としてしまったのですが、こんな子たちも教会の入り口の柱の近くにいたそうです。
ライオン
そしておどけた表情のサル。
とちょっとここで気になることが。
今は時間があるので、本を開いてみました。
実はもう2頭ライオンがいるんですよこの大聖堂には。
柱廊の入り口にあるんですが、こちらはメスライオン。
子ライオンに乳をあげています。
そして
こちらはオス
獲物を取り押さえています。
ライオンの話は以前もしたと思いますが、教会の入り口に鎮座するライオンは悪の番人。
悪いものが教会に入らないようにいつも見守っています。
このライオンについて特記していたのは、実はこの立体感。
完全に飛び出た感じではなく、かといって2次元でもない。
これ、イタリア国内でも珍しい例なんですって。
個人的興味はあまりないけど、言っておいた方がいい聖遺物が保管されている地下聖堂の様子から。
この写真では分かりにくいが、あまりのきらびやかさにお腹いっぱいな感じ。
上とは違ってこちらは17世紀にバロック様式に作り替えられているのでこのきらびやかさ。
当然こちら、サレルノで一番神聖な場所でございます。
だってマタイつまりMatteoってことは4人の福音史家のお一人、その人の聖遺物が納められているわけですからね。
実は今回は時間切れでこちらには入りませんでした。
個人的に一番の見どころだと思うのは
これ、だと思います。
閉まる直前なのでお掃除しています…ってそこではなくて、この説教壇。
いいねぇ~
とここで説教壇の事が気になりだし、(以前から興味は有ったのですが、無視し続けてきましたが)
ちょっと調べてみようという気になりました。
今回はこれを含めて3つの説教壇を見たしね。
キリスト教徒ではない私には、この説教壇の重要性がいまいち分からないのですが、
中世の説教壇って教会内の装飾の中でも特に豪華。
それはなぜなのか???
しまった…このテーマで論文を書けば良かった。
いや、一度そう思ったことも有ったのだが、そうすると担当教授に問題があったんですよねぇ。
ということで何とか自力で分かる範囲で調べましょう。
まず手っ取り早いところでWikipediaでイタリア語のPulpitoを検索。
幸い日本語が有ったので、まずそれを引用すると
”講壇 (こうだん、pulpit) は、キリスト教会において教役者が礼拝を導き、説教を行う場所。
説教することを講壇に立つという。
またキリスト教会において、初期教会などの聖書朗読台、または講壇のことをアンボ ambo という。”とある。
なんかいまいちな回答だなぁ…
ということでイタリア語の資料から自分の言葉で説明しましょう。
Pulpitoとはもともとラテン語のPulpìtumから来ています。
もともとはローマ人が何かを見せるため、聞かせるために上った台のことで、裁判や儀式などがそのうえで執り行われることも有りましたが、特にスペクタクルと強く結びついたものでした。
それが中世になると教会でも使用されるようになります。
教会内でのPulpitoの役割は、福音書や使徒の書簡、その他の書物を読み上げる、もしくは宗教曲を歌いあげたり、説教をする場所となります。
まぁ要は多くの人に声が届くように、高い位置に上がる必要性が有ったということでしょうね。
最初はフランス、ドイツでは読み書きする書見台や主祭壇の書見台をPulpitoと呼んでいたそうです。
このようなことからPulpitoは聖なる演説と密接につながってゆくことになります。
ここでイタリア語でPulpitoと同様Amboneという言葉が出てきます。
pulpitoを辞書で引くと”(教会の)説教壇”としか出てこないのに対し
ambobeは”(初期教会堂にある)高座、説教壇、読経台”と出てきます。
この2つの他にpergamoというのも同意語、”説教壇”なんですよ。
ただpergamoに関してはpulpitoと同義のようです。
で、問題はこのpulpitoとamboneの違い…
百科事典には「pulpitoには本来2本の階段が付いている。一方は上がる用、一本は降りる用。」
片やamboneには「階段は1本しかない。」と書かれていました。
ん~あまり納得できないんだけど…
Wikipediaによると
amboneのpulpitoとの違いは、14世紀ごろから現れていて、pulpitoはamboneより高く作られ、役割が特化された。
つまりこの台は説教をするためだけに作られたもので、それ以前のように宗教儀式を行うためのものではなく、人々を”教育する”ためだけに使われる台、つまり本当の”説教壇”となった。(但しこの説に根拠はない)
このことによって今まで内陣に有ったものが、身廊や教会の外に設置されるようになった、と。
ふむふむ、これには納得。
だから伊和辞典が言うように、amboneは中世の初めごろに多く、時代が下るとpulpitoが増えるんですね。
語源をたどるとamboneはもともとギリシャ語。
全ての表面が凸状、膨らんだ、という意味。
ということで多くのamboneが凸状の書見台を備えている。
ちなみにpergamoの方も語源はギリシャ語でこちらは”高い場所”という意味。
しかしこの区別、やっぱり曖昧。
色々読んでると、例えばこのサレルノの説教壇も”pulpito”と言ってる資料も有れば、”ambone”を使っているところもある。
いっそ日本語ならみんな同じl”説教壇”でいいか…ってね。
どうやらこの先更なる調査が必要のようです。
その辺は少々お待ちくださいね。
あと、暫定的に「なぜ説教壇はこれほどまでに凝った装飾なのか?」ということに答えを出すなら、
それはやはり人の目を集めるため、
もしくは説教を聞くために視線が集まっている説教壇に、耳からだけではなく更に目から”教育”をするため、ということですかね?
え~こちらの説教壇は左右2台有り、共に全面モザイク、 彫刻に覆われています。
典型的なビザンチン様式。
まず左のambone Guarna
1163年から1180年サレルノの大司教だったRomualdo Guarnaが寄進したことによりGuarnaの説教壇と呼ばれています。
欄干(長い方)に銘が刻まれています。
説教壇は4つの柱で支えられており、その3本の柱頭には人物や動物の装飾が施されていて、残りの一本は草花です。
んんん、珍しく写真がこれしかないぞ。
これでも分かりずらいね。
こっちの方が装飾は控えめだけど、洗練されているって。
片や右側にはAmbone D'Aiello
この名前は寄進したのが大司教のNiccolò D'Aielloの家族と考えられているから。
ただこれ、はっきりした根拠が未だにないので、もしそうでなかった場合でもこれは12世紀半ばくらいのものであろうとのこと。
ちなみにこの左2本目の左側に飛び出ている柱は、大型の燭台です。(5メートル強)
こちらのamboneは長方形で、12の柱に支えられています。
見事な装飾です。
このでっかい方の説教壇には今見えている身廊に向いた書見台と内陣とは逆方向(入り口の方)に向いた書見台。
この写真の書見台の下の彫刻は蛇と一緒の人間を鷹の爪が頭から抑えている、なんかこう書いてしまうとちょっと恐ろしい感じの彫刻。
もう一方はライオンの上に立つ若い神学生が二人。
この2台の説教壇はiconostasi、日本語では「聖障」と訳されていますが、内陣と身廊との界壁、の残骸に隣接しています。
聖障は800年代に破壊、たぶんこの聖障に有名なAvori salernitaniがくっついていたと考えられています。
avori salernitaniとは象牙に彫られた新約、旧約聖書の67枚の小板で、現在はMuseo Diocesanoに保管されています。
amboneの話はそれくらいにして、ずずいと奥へ。
内陣のモザイクはほぼ全て1954年にやり直したもので、ここだけがオリジナル。
この右の身廊の内陣はCappella dei Crociatiと呼ばれています。
サレルノは十字軍の通り道だったのですが、十字軍派遣の言い出しっぺPapa Urbano II(ウルバヌス2世)がサレルノを訪れていた時期に造られたからのようで、
聖地に向かう戦士の武器にここで祝福を授けていたとか。
Giovanni da Procidaによってこのモザイクで覆われた内陣は造られました。
礼拝堂のモザイクの中心には玉座に座ったSan Matteo(聖マタイ)、その頭上にはSan Michele Arcangelo(聖ミカエル大天使)。
脇にはSan Lorenzo, Giacomo, Fortunato、Giovanniが立っています。
San Matteo の足元には、寄進者であるGiovanni da Procidaが彼らとは比べ物にならないくらい小さな人物像で描かれています。
とまぁ、ここはこんな感じでしょうかね?
久々に色々調べて書いたので時間かかったなぁ。
やばいな、久しくイタリア語読むことから遠ざかっていたからなぁ…気を付けないと。
長くなってしまったので、この日の夕食の話は切り離して次回に~
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