前回ちらっとお話しましたが、この3日目…
10年イタリアにいて、いや海外に出るようになって初めての経験
「バス停がなくて、バスに乗れなかった」刑にあいました。
まぁ、いつも無謀な旅の行程を立てているので、いつかこんなことも起きるかなぁとは思っていましたが。
朝、この日はホテルをチェツクアウトし荷物も持っていざ出陣。
天気予報通り天気は下り坂…なんとかオペラ終了までもつか、午後オペラ前に一雨来い!ってな感じ。
でも風が有って、暑さもちょっと弱まっていて、午前中は気持ちが良かったです。
この日もまたまたバスターミナルで朝ご飯。
そしてMassa Fermanaという場所へ向かいます。
バス停は同じですが、今回は昨日までとバス会社が違ってSASPという会社のバスでSarnano行きにまず乗ります。
そしてAbbazia di Fiastraでひとまず降りて、約1時間半後近くのバス停から今度はContramというバス会社のMontegiorgio Scalo行きに乗り換える…はずだったんです。
グーグルマップ情報では、両バス停は5分位しか離れてない。
でも写真を見たら、なんとなくバス停…なさそうな気はしてたのよねぇ。
でもまさか本当にないとはね。
いや、見つからなかったんじゃなくて、存在しなかったんだと思うんだけど。
周りに人もいなくて、誰にも聞けなかったし、聞けたとしても「知らん」と言われるのがおちだったでしょう。
こんなところにバスで来てる人は私くらいだったと思います。
まぁ幸いこの乗り換え場所にも見るところは有ったのが救いですね。
そして美味しいものも食べたんだし…
何でもポジティブに考えないと海外では生きて行けません。
いやポジティブに考えて来たから10年も暮らせたんだと、最近特に思います。
しかし、ここのバス停が見つけられない限りリベンジはできないということに。
う~ん
さて乗り換え場所のには大きな修道院Abbazia di Fiastraが有り、この辺りは自然保護地区になっています。
修道院だけではなく、ホテルやレストランはもとより、自然や動物と触れ合えるような場所があったり、ちょっと不思議な(いや別に不思議はないけど)場所でした。
Macerataからたかだか30分なんですけどね。
そんなことはたどり着くまで全然知らなかったし、車がないと動きも取れないし、目的が違うので、とにかく興味のあるところにだけ向かいます。
まず最初に目に着いたのはこの建物
ここを入ると修道院のChiostro(回廊)から中の一部の部屋や博物館になっているスペースの見学などが出来ます。(有料)
回廊は修道院の生活では欠かせないもの。
その中心には8角形の井戸があり、地下の雨水をくみ上げることが出来たそうです。
めぼしいものはなさそうだし、時間がそれほど有るわけではないので、ここは外観のみ。
そして教会へ
971年には既に小さな教会が建っていたとされていますが、今のように広大なものになったのは、
1142年スポレート公爵でMarca di Anconaの公爵でもあったGuarniero IIが、広大な領地をミラノのシトー派修道院に寄進したのが始まり。
その後ミラノから修道士たちが集まり、修道院の建設が始まりました。
建材は408-409年西ゴート族Alaricoによって破壊されたローマ都市のUrbs Salviaの街に残っていたものを使用しました。
また建物だけでなく同時に森を切り開いたり開墾なども始まりました。
教会はフランス人の建築家修道士によるもので、シトー派の建築様式+ロマネスクーゴシック様式。
教会の横に現在もシトーはスタイルの修道院、15世紀に再建された美しい回廊が残っています。
”シトー派はもともとベネディクト派から派生したもので、改革を希求したフランス、ブルゴーニュ地方出身の修道士モレームのロベール(Robert de Molesme, 1027年 - 1111年)が1098年、フランスのシトーに設立したシトー修道院が発祥である。シトー会は、「聖ベネディクトの戒律」を厳密に守り、彫刻や美術による教示を禁止した点で、既存のベネディクト会修道院、とりわけクリュニー会(戒律のうち祈祷を重んじ、豪華な典礼を繰り広げ貴族的とも評された)と対峙する立場をとった。
服装面にもその姿勢は現れており、壮麗・華美なクリュニー会と異なって染料を用いない白い修道服を着たことから、シトー会士は「白い修道士」とも呼ばれる。
シトー会は戒律の中でも労働と学習を重んじ、自ら農具をとり農民らを指導して、森林に覆われていた北フランスの開墾や新農法の普及を行った。”(Wikipediaより)
ちょっと脱線しますが、San Benedetto da Norcia、日本語見てびっくりした「ヌルシアのベネディクトゥス」
ヌルシア???ノルチャですけど。
あっ、そうなんだ、現ノルチャで昔は「ヌルシア」だったのね。
でもイタリア語ではNorciaを使っているけど…
彼が一番最初に建てた修道院はお隣Lazio州のMonte Cassinoです
San Benedetto(聖ベネディクト)の"Ora et labora"(祈り、働け)の理念の元、
シトー派の修道士たちのお陰で、建築時から3世紀に渡ってこの地域の宗教的、経済的、社会的繁栄が築かれます。
ところが1442年Perugia出身の傭兵隊長Braccio da Montoneの略奪を受け、その後8人のcardinali commendatari(聖職給を支給される枢機卿)の手にゆだねられます。
1581年には Compagnia di Gesù、(私たちには馴染みの有る)イエズス会の手に渡り、
最終的に1773年、お金持ちのBandini家がこの修道院を所有することとなります。
最後の所有者Bandini家の意向により、現在この施設はFondazione Giustiniani Bandiniが管理しているようです。
1985年5月この財団の意向でシトー派の修道士たち、勿論ミラノのシトー派の修道士たちにも声がかけられ、Fiastraの修道院に再び修道士が戻って来ることとなりました。
彼らが戻って来たことにより、この修道院は新たな命を与えられ、大勢の人たちの精神のよりどころとしての役割を再び果たす任務を与えられました。
教会は、聖母マリアに捧げられています。
主祭壇は東向き。
東向きな理由は1つではないけれど、丁度私が教会をグルグルしていた時に団体に説明していた修道士さんは
「聖地エルサレムが東」という話ではなく、日が昇る→キリスト復活の象徴だからそちらを向いて信徒は祈りを捧げる、という説明をしていた。
ここは正面にバラ窓があるので、そこから日がどんどん差し込んでくるのでしょうね。
先ほどWikiから引用した通り、シトー派はフレスコなどの装飾を禁止していたため教会内はいたってシンプル。
ドアやバラ窓、柱頭などには植物とか幾何学模様やアラベスクなど最低限の彫刻が施されていますが、それも修道士自らが行ったもののようです。
ないと言っても少しは有ります。
この修道院、教会の資料はほとんどなくて結局Wikipediaに頼っていたのですが、記事を読みながら気になることが。
いや、教会を訪れた時に気になっていたことの答えが有りました。
この柱の構造が珍しいなぁ、と。
これってシトー教会の特徴の1つ何ですって。
メインの柱にくっ付いている柱は下まで届いていません。
でもmensoleという持ち出し(けた・上の部分)の部分にはくっついています。
なぜこうなのかは書かれていない。
何だろ、補強かな?美観かな?柱は9メートルもあるらしいけど。
でもこれが典型的な柱なのねぇ。今まで見たことない…と思うんだけど。
奥に行くと後陣には礼拝堂が3つ。
そこはフレスコ画が描かれていました。
一番右の
San Bernardoが一番豪華
なんか衣裳部屋みたいな感じですが…
電気は近づくと自動で付きます。
写真を撮っている間、何度電気が切れたことか…
聖人
どちらかはBenedettoかしらん?
多分右
だってSan Bernardoのアトリビュートはunica nera, bastone, fascio di verghe, calice con serpentelli, libro
黒いチュニカ、杖、小枝の束、曲がった杯、本など
良い感じです。でも説明がどこにもないのよねぇ…残念。
保存状態は決して良いとは言えませんが、スタイルはちょっと気になります。
隣の礼拝堂は
ここは完全に新しいものでした。
そして主祭壇
右側の壁に辛うじて残るフレスコ画、
あれ?
説明が複数形ってことは…と思ってよく見たら、向かって左側にも何か描かれていますね。
肉眼ではほとんど確認できなかったのよねぇ。
これは1473(だと思うんだけど、写真がボケてて…もしかしたら5?)年の作品でクリベッリ派の…お~来てよかった
Stefano Polchettiの作品だと考えられているそうですが…誰だろ?資料がないのよねぇ。
それにこの写真は望遠で撮っているので、辛うじて分かるけど、主祭壇の壁、遠すぎ~更に明かりがまぶしくて良く見えないんですよ。
そしてこちらは主祭壇向かって左側
こっちは右より前だな。
ジョットの流れかなぁ…まだまだ素朴感が。
なんだかんだで結構面白いなぁ、こんなに広いのに私一人だし、と思っていたらいきなり50人くらいの団体さんが入って来たので、そそくさと退出。
出口にもバラ窓。
外に出ると
噴水から水を飲んでいる人。
空気はいいし、曇っていたので気持ちがいい。バスの時間まではまだ有るので、トイレに行くついでに
先の事が分からないのでビールは止めました。
居心地良さそうなホテルが後ろに見えます。
20分くらい前、バス停の方へ移動。
グーグルマップではここから4分だったのに…
ちなみにこのエリア、フリーWIFIでした。
日本はいつそうなるのかなぁ???
ところがグーグルマップに記された場所は…何もない。
確かに写真で見たような看板(?)は立っていたのですが、それ全然違う交通表示だし。
え?え?と行ったり来たり。誰かに聞こうにも人はいないし…
そうこうしている間に乗るはずだったばすが…あ~待ってくれ。
ということで私はバスに乗れなかったわけです。
う~ん、バス停はいずこに。
この日行く予定だった美術館、実はこのバスに乗れても1時間前に着くのかどうかというくらいの危ない感じだったんです。
だから次のバスに乗って行っても(次のバスはMacerataからの直通なんで降りたところから乗れたんです)間に合わない。
ということでジタバタせずに、ゆっくりお昼にしようとMacerataへ帰ることにしたんです。
あ~あまぁこの修道院でいくつか面白いものを見られたので、午前中全てが無駄になったわけではないですが、
この日もCrivelliを見ることはできませんでした。
そして未だに疑問なのですが
これがMacerata方面のバス停で、降りた場所にバス停は有りませんでした。
でもこのバス停SASPのバス停だよね。
私が探していたのもSASPのバス停 なんだよね…
実はグーグルは別のバス停と言ってたけど、降りたバス停で良かったんじゃないかな???
って今となっては誰に確認することもできませんし、これはちょっとリベンジする気にはなれません。
もしいづれ美術館が午後もオープンしたら再度挑戦するか、別のルートを探すのが良策かと…
とこうして前回書いたDe Rosaで美味しいランチをしたというわけでした。
オペラの話しまで行けるかと思ったけど、長くなったので今晩はこれまで~
オリンピックはかなり盛り上がっているようですが、こちらのテレビでは(スカイとか入ってれば別だけど)イタリア人選手の出てる試合しかやってないからなぁ…
前回のオリンピックの時は確か日本はいまいちでイタリアか毎日のようにメダル、メダルと言っていたのを残念に思っていたような気がするのですが、
今回はイタリアはいまいち振るわないみたいですね。
そうそう競技とは関係ないのですが、数日前アーチェリーの女性選手を新聞に”cicciottelle azzurre”と書いた編集長が首になりました。
cicciottellaって「おでぶちゃん」という感じですかねぇ。
丁度見ていたニュースには、そう言われた選手のお母さんという人がコメントしていて「スポーツ選手であって、(単なる)でぶではない!」とかなり憤慨していましたけどね。
書いた方には悪気はなく、親しみを込めて、ということらしいのですし、分からなくもないですが、大半の意見はdispregiativoだと。
dispregiativoとは軽蔑語のことなんですよねぇ。
一気に大問題へ。そしてまぁそこまでしなくてもいいのでは?という意見は多いですが即刻くび。
こういうことに結構寛容そうに見えるイタリアですが、対処早かったですね。
やはり女性軽視はよくないですね。
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