イタリアの泉

今は日本にいますが、在イタリア10年の経験を生かして、イタリア美術を中心に更新中。

日本のパスタ発祥の地は長崎

2019年10月27日 16時41分58秒 | 日本・食

カルボナーラについて調べた時、ふとこの本の存在を思い出したんです。


「ジュニア新書」とはいえ、中々あなどれん興味深い一冊。
この本を読み直してみたところ、最初に日本の「麺」の歴史について言及されていました。

日本に最初にやってきたのはなんと「そうめん」で1200年代始めのこと。
京都に伝えられたそうめんは、室町から戦国期には京都市内の常設市場で実演販売されていたというから驚きです。
ただしそうめんの製法が確立したのは江戸時代中期になってから。
「そうめん」以外にも鎌倉時代には、南宋からうどんの元になる「切り麦」も伝わったそうです。
こちらはそうめんとは少々製法が異なりました。
そうめんは、練り粉を手もみしながらこよりのように細長く伸ばしていくのが難しいのですが、切り麦の方は、練り粉を麺棒で押し広げ、屏風畳みして包丁で切っていくだけ。やがてこの「切り麦」から「うどん」や「きしめん」が生まれ、室町時代には京都の寺院や公家の間に、江戸時代中期以降には庶民の口にも容易く入るようになり、お米以外の主食、間食として広まっていきました。
日本人的には「そば」がトップバッターでは?と思うわけですが、「そば」の方は江戸時代初期、朝鮮の僧天珍が東大寺でその作り方を教えたのが最初とされています。(「室町時代から食していた」など異説あり)
いずれにせよ、江戸時代には日本中に広まり、江戸の飲食店のうち6割以上がうどん類、そば類を合わせた麺類店だったとも言われています。
また昭和に入ると「ラーメン」や「焼きそば」はそのルーツである中国とは全く違う、日本独自の進展を遂げます。
こんな感じで、日本人ほど多種多様の麺を好む民族は、世界広しといえどそうはいるまい。
ということで、パスタが日本で市民権を得るまで、そう時間はかからなかったというわけです。

さて、では同じ「麺類」のパスタは、日本麺類を独占していたそばやうどんと変わらない地位までたどりつくまでどんな道のりを歩んできたのでしょうか?

日本で最初にパスタが食べられたのは、幕末の横浜外国人居留地だったそうです。
これは当然外国人の食べ物で、日本人の口には入りませんでした。
明治じだいになると、いくつかの書跡にパスタが「マカロニ―」の名で紹介され、日本人の一部の愛好家が輸入パスタを食べるようになりますが、これらは北方ヨーロッパやアメリカ経由によってもたらされたそうで、パスタはもっぱらスープの具。つまりスープパスタとして食べられていたそうです。

横浜など外国人やハイカラな人たちだけが食していたパスタですが、実は日本で最初に生産が始まったのは長崎。
長崎の外海の小さな村でした。
実は去年実際その地に行くまで知らなかったのですが、パスタ作りはこの昨年世界遺産に登録された教会の1つでもある、出津(しつ)教会堂

日本初のパスタ工場にこのそばに建てられました。
白亜の教会は、その見た目の繊細さからは分からない、堅固な作りになっています。

丘の上は風が強く、台風もよく来ることから、天井を低くし、強風をやりすごし、沖縄の伝統的な屋根を真似た屋根には瓦をしっかり止めるために漆喰が使われていますが、このしっくいがきれいな格子模様になっています。
またレンガの壁にも漆喰を塗ったり、窓には鎧戸まで付いています。
一番驚いたのは内部、土足禁止、つまり靴を脱いで上がる教会ですが、西洋の教会に慣れた私にはこの「靴を脱ぐ」ということが結構衝撃でした。
この教会を建築した人とパスタ工場を作った人は同じ。この人です。

フランス人宣教師マリク・マリ・ド・ロ神父
1868年未だキリスト教徒弾圧が続いていた日本に来日、
”1879年外海地区の主任司祭となった宣教師ド・ロ神父は、「陸の孤 島」と呼ばれ、田畑にも恵まれない貧しい自然環境の中、長期のキリシタン弾圧にも耐えながら、信仰だけを頼りに貧しい暮らしをしていた人々を見て、「魂の 救済だけでなく、その魂が宿る人間の肉体、生活の救済が必要」と痛感。
まず出津に教会堂を建て、教会を中心とした村づくりを始め、1883年(明治16 年)に救助院を創設。多彩な事業を授けることによって、外海の人々に「自立して生きる力」を与えました。”(抜粋:https://shitsu-kyujoin.com/publics/index/4/)


「ド・ロさまの道」と呼ばれる道は、ド・ロ神父が日々歩いた道で、小さな畑と石積みが残る出津の原風景。
そんな中に今もひっそり救助院が残っている。


時間が無くて中には入らなかったのですが、ここが救助院。
ド・ロ神父は私財を投じて授産場、鰯網工場などの施設を建設。
1883年頃には煉瓦造・平屋建のマカロニ工場を建設し、村人と一緒にパスタの製造を始めたと言われています。





織布、織物、 素麺、マカロニ、パン、醤油の醸造などによって貧しい生活を助け、女性の自立を支援しました。

現在ド・ロ神父が教えた「マカロニ」製法を復刻させた、「長崎スパゲッチー」が地元の名産の1つとして販売されています。

http://www.nagasaki-spaghetti.jp/




そして純粋に日本人だけでパスタ(マカロニ)を作ったのは、新潟県。
加茂市で父子で製麺業を営んでいた石附氏に、横浜の貿易商がマカロニの製造を依頼したのが始まりで、1907年のことでした。
なぜわざわざ新潟なのかは疑問です。
その後1920年~30年頃、㈱明治屋がパスタを輸入し始めますが、当然庶民の口に入るような代物ではありませんでした。

パスタが身近なものになるのは戦後。
アメリカ進駐軍がピザやスパゲッティを食べているのを見た日本人コックがマネしてアメリカ式のミートソーススパゲッティやナポリタンを作り始めます。
カルボナーラと違って、ナポリタン発祥の店は「ホテルニューグランド」とはっきりしています。
ナポリタンごときで2000円近くもする!!

戦後しばらく深刻なコメ不足だった日本で、進駐軍は小麦粉を配給するなど、パン食が推奨されていました。
アメリカ人は日本人の舌を小麦粉に慣れさせ、日本に小麦粉を輸出しようというしたたかな戦力が潜んでもいたようです。
その小麦粉で日本人は水団などを作って食べる習慣が出来たことが、パスタを抵抗なく受け入れる要因の1つとなったとも言えるようです。
こうして、1995年フジ製糖㈱と日本精糖㈱が共同出資して、マ・マーマカロニ㈱の前身ともなる日本マカロニ㈱を設立、同年日本製粉㈱もオーマイブランドを立ち上げ、パスタ生産を始めたそうです。
両社ともに当時最新鋭のイタリア製のパスタ製造機を導入したところからその意気込みが分かりますね。

そんなこんなで「マカロニ」は日本人の食卓に普通に乗るようになったのが1970年代。
その頃のポジションはあくまでも「付け合わせ」。
せいぜいアメリカ風のケチャップ味のスパゲッティかマカロニグラタンくらいでした。
またこの時期「パスタ」なんて言葉を使う人はいませんでした。
それが一気に主役に踊り出したのは、70年代から80年代。おしゃれ洋食の代表がフランス料理からイタリア料理に移り、「イタリアン」という言葉が定着したころのことでした。
80年代末には今では「巨匠」と呼ばれるイタリアで修業を終えて帰国したシェフたちが次々とレストランを開き、「イタめし」ブームが起きたことは、記憶にあります。
落合シェフが銀座に一号店を開いた頃、朝予約表に名前を書くために仕事を休んだことも有りました。

とこうして日本にパスタは浸透してきたというわけでした。
忘れていた出津教会堂の話が出来て良かった良かった。(もしかして既に書いてたかなぁ…)

参考:パスタでたどるイタリア史、池上俊一
   旧出津救助院HP



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2 コメント

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長崎パスタ (山科)
2019-10-28 05:28:45
長崎のパスタのこと、とりあげていただき、ありがとうございました。長崎駅前の物産館には、色々なもの(海藻とか)を練り込んだ麺類が売ってありまして、当方も食べたことがないものも多いようです。

ド・ロ神父による長崎のパスタ製造ですが、おそらく商品として売るためのもので、村で消費するためのものではなかった、と思います。

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すごいですね (fontana)
2019-10-28 10:32:26
山科様
コメントありがとうございます。
日本橋にも「長崎館」が有るようですね。今度行ってみようと思います。

やはり買っていたのは、長崎に住んでいた外国人でしょうかね?
当時地元でパスタを消費していたとは想像しがたかったですが、これを売っていたと聞くと、ド・ロ神父は宣教というミッションを越え、貧しい人々のために本当に色々やってくれたんだなぁと改めて素晴らしいと思います。
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