イタリアの泉

今は日本にいますが、在イタリア10年の経験を生かして、イタリア美術を中心に更新中。

Grado…今度こそ

2015年09月23日 00時10分50秒 | イタリアの小さな街・大きな街(Fi以外)

お約束通りGradoの続きです。
Gradoのバスターミナルに到着したのは丁度15時くらいでした。
帰りはここからUdineへ出るので、念のため帰りの切符を買っておくついでに時刻を確認。
15:35と17:00ということで賞味2時間。
見どころは一か所に固まっているので、それほど問題はなかったです。
まぁ、もう少し時間があれば、海を見ながらゆっくり一杯できたけど…

とりあえず大聖堂へと向かいます。
バスターミナルから10分ちょっとかな?
大して迷うこともなく到着しました。
ツーリストインフォーメーションも見当たらず、それでもなんとかなってしまうのは、便利なGoogleマップ君のお陰です。 
時々おさぼりしてますけどね。

出た、ここです。

まず最初に大聖堂の隣にあるBasilica di Santa Maria delle Grazie(サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ聖堂)へ
こちらと隣の大聖堂がGradoの中心にある唯一のpaleocristiane(初期キリスト教時代)の建物で、こちらは6世紀の終わりごろPatriarcaのEliaの命で建てられた。
Patriarcaというのは「大司教と枢機卿との間に位置する高位聖職者。
特にローマ、アクイレイア、ヴェネツィアなどの司教に伝統的に授けられる称号。」って辞書には書いてある。
ちなみに大司教はarcivescovo,枢機卿はcardinaleと呼ぶのですが、キリスト教徒ではない私には、誰がどうするとなれるのか、とかどれもこれもさっぱり分かりませんは。

例えば現在のフィレンツェのVescovo,これは司教ね、は数年前からCardinaleになってます。
昇格したということは分かりますが…それがどれくらいえらいことなのかよくわかりません。
2013年で207名の枢機卿がいたそうです。
この中でコンクラーベと呼ばれる教皇選挙の選挙権を持つのは117名。
というもの選挙権は「80歳以下の枢機卿」で定員が120名までなんですって。
そうそう、大学の授業で何度も聞いていたのは「Romaの司教=教皇」なんですよねぇ。
「ローマ教皇」という言葉は、全世界のカトリック教会のトップであるローマ教皇聖座を言いあらわすとともに、世界で一番小さな国、バチカン市国の元首をも言いあらわしています。
普段こちらの俗的な方はあまり考えませんけどね。
この「教皇」の原語、「POPE」という語彙は「父」を表す言葉です。 
”昔のギリシャ語の、子供が父のことを親しみを込めて呼ぶときの「パパス」が、後々のラテン語に転用され、「パパ」という敬称になりました。 
最初は司祭や司教に対してこの言葉を使っていたようですが、段々限定した用い方をされるようになり、「パパ」の称号は「ローマ司教」に対してだけ使われるようになりました。
イタリア語ではお父さんもpapaですが、教皇の場合は発音が異なります。
「ローマ教皇」は、初代の聖ペトロから現在のフランチェスコまで266代を数えます。 

この教会を建てた(立てたのは石工だが)Eliaはギリシャ出身ですね。 
571年からアクイレイアのpatriarca(総大司教と日本語えは訳していますね)になっていて、前回もちらっと書きましたが(いや、wikipediaから盗んだんですが)この時期ロンゴバルドがアクイレイアに攻め込んできたため、Gradoに総大司教の椅子を移さなくては行けなくなり、大聖堂を建てなくてはいけなくなった、というわけ。

実はpatriarcaと聞いて別の意味が浮かんできたんです。
ビザンチン帝国からイタリア(Ravenna)やアフリカに派遣されていた総督っていう単語と混同していました。
そちらはesarca
う~んややこしい、というか普段使わない単語は次々と忘れて行きます。
こうして残しておくことで、なんとか繋ぎ止められれば良いんですけどねぇ… 

 
で、何でしたっけ?
そうそう聖堂へ到着。
中へと入ります。

わぁお~ってこの言い方が「日本人じゃない」とハーフの子に言われたんでしたっけ。
入ってすぐ、Romaの真実の口で有名なBasilica di Santa Maria in Cosmedinを思い出しました。
しまった…こっちの方向へはまり込んでいくと、今日も時間がかかるよ…とほほ、仕方がない、勉強のためだ。

これがそのBasilica di Santa Maria in Cosmedinの内部です。
マンホールの蓋だけではなく、是非教会も覗いてくださいね。
ちなみにこの教会
”最初、古代ローマの廃墟を利用し、東方の聖像破壊運動(イコノクラスム)の迫害から逃れてきたギリシャ人にあたえられた。コスメディンは、化粧を指すコスメと同じく、ギリシャ語で「装飾」を意味する。”
それは知らなかった…
去年ここに行った時、地下室に入ったこと…あ~あそれも書いてないなぁ。
なんかねぇ、「地下に入らない?」って勧誘している人がいるんです。
お布施でいいのに、しっかり2か3ユーロ要求してきて、おつりまでくれましたっけ。
地下には…何もなかったし、閉所も決して得意ではないので、そそくさと上がって来ましたけどね 

この2つの教会の共通点は簡単に分かりますよね?
真ん中の仕切り。
iconostasi,イコノスタシスと呼ばれ日本語では聖障と呼ばれていて、 ”初期キリスト教建築の聖堂において用いられた身廊と内陣、あるいは内陣とアプスを区切るテンプロンから発展した。”ものなんです。
もともとビザンチン様式の名残なのですが、初期キリスト教建築におけるこの”壁”によって聖堂の内陣は仕切られていました。
奥には聖職者の席が、一般の信者はその外にいました。 

これね、Giottoの作品で時代はちょっと上がりますが、分かりやすい。
身なりのいい聖職者は壁の内側、一般市民は壁の向こう側にいますよね。

こちらは現在の建て直されたサン・ピエトロ大聖堂はなく、その前の聖堂の中を描いたもので、こんな感じで大抵4本かそれ以上の柱の上に棒(?)が渡してあります。
時代が過ぎていくと、この内陣が高くなったり、内陣の地下にcriptaと呼ばれる地下聖堂が出来たりしてゆきます。 
ただこの壁も1545年のトレント公会議で撤廃されます。
この宗教改革によって芸術は大きな影響を受けます。

トリエント公会議をきっかけに、建築や絵画が重要な位置を占めるようになるわけです。
絢爛豪華で力強い教会堂を誇り、教義の重要性を激情的な絵画や彫刻で語った。
まさに1506年に着工されたローマのサン・ピエトロ大聖堂(上の絵)の改築はその事情を反映している。
ちなみにこの古いサン・ピエトロ大聖堂の様子を描いたのはラファエロ。
何を隠そう(隠してない、隠してない)、サン・ピエトロの再改修を請け負っていたのが他でもないラファエロだったんですね。
1514年それまで大聖堂の建築責任者だったBramanteが亡くなります。
同郷のよしみか何なのか、お鉢が回って来たのがラファエロだったんですね。
でも彼も1520年37歳の若さで腹上死(もしくは女遊びの末に病気になったなどなど、死因は様々な憶測が飛んでいますが)するんですよねぇ… 

同時代の2人の巨匠に比べイケメンで性格も良かったラファエロは女性には苦労しなかったようですね。
生涯独身でしたが、公認(?)の恋人はこの絵のモデル

シエーナ出身のパン職人フランチェスコ・ルティの娘「パン屋の娘 (La Fornarina)」マルガリータ・ルティ
Vasariは「ラファエロが夭折したのは「聖金曜日」(1520年4月6日)のことで、この日はおそらくラファエロ37歳の誕生日である。マルガリータ・ルティとの過度な情事が原因で熱病に罹患したが、体調を崩した理由を主治医に説明しなかったために誤った治療を受けたことが死因だとしている」がこれが真実か否かは分からないんです。

そうそう、Wikipediaを読んでいて思い出したけど、
” ラファエロは1515年に、ローマ近隣から出土するあらゆる古代美術品に関する総責任者の権限を与えられた。
ラファエロはローマ教皇レオ10世に古代遺跡の破壊を中止するよう求めた長文の書簡を送り、ローマに存在するあらゆる古代美術品を系統立てた手法で調査し、記録として残すことを提案している。
しかしながらレオ10世の思惑はラファエロとは必ずしも一致しておらず、サン・ピエトロ大聖堂、広場の建築資材として古代ローマの建築物を再利用することを考えていたが、ラファエロの求めに応じて銘文の記録と彫刻作品の保全は請合った。”(wikipediaより)と有るんです。
この時代は文化財の保護なんて考えている人はほとんどいなかったので、コロッセオの壁やローマ時代の遺跡から石を運んで家を作ったり普通にしていたのを止めさせるための法律を作らせた…んではなかったでしたかなぁ???
博物館学か修復の授業でやったんだけど、既に記憶が怪しいんです。 

その後サンガッロやラファエロの弟子だったジュリオ・ロマーノなどにお声がかかりますが、二人ともすぐ死んでしまいます。
そして結局最終的に任されたのは巨匠ミケランジェロ、当時71歳ですよ。
更にミケランジェロは17年間無給で働いたとか…恐ろしい。
現在私たちが目にする大聖堂はファサードを除いてほぼミケランジェロが計画した通りになっているんだそうですよ。
恐るべし…

完全に横道にそれましたが、RomaからGradoに戻りましょう。 

もともと5世紀にあった教会をリサイクルしているようです。
1924年の修復時に教会が2層になっていることが分かっています。 

写真だと分かりにくいかな。
このcosmatesco(モザイクのコズマ風)の床は結構低い位置にあります。

また

これらのモザイクも

こんな感じでかなり低い位置にあるんです。

保存状態良いですね。
でもね

模様ばかりなんですよ。

ちょっと鳥がいた。
でもアクイレイアなんかに比べたら寂しいくらい幾何学模様ばかり。
Ravennaにもこの手の幾何学模様が存在しているらしいが、はて?
初期キリスト教美術のと特徴である単純化とか平面性とかそういうことにも関係しているのでしょか?
あ~もう考え出したら切りがないので進みます。

柱も色々なところから持ってきたのか、柱頭が全て違います。

柱も様々です。

特にこれ、この頭の部分の四角い石を、さて何と言ったでしょう???
ひ~また思い出せない。
これはどこかにメモしてお有るはず…そうそうpulvinoと呼ばれる副柱頭が有るのはビザンチンの影響。
これもRavennaで結構見ましたねぇ。

面白いなぁとバシバシ写真を撮っていたら、一人のおじさんが近づいてきました。
入った時からいたので、てっきり教会関係者かと思ってあまり写真撮るなと注意されるか、何か説明してくれるのかと思ったらなんと
「signora,お腹空いているんです。子供がいるんです、お金下さい」って
むか~教会の外ならまだしも、中で物乞い!! 
「(お金なんか)ない」と言ってもしつこく近づいてくるので、身構えて無視していたら
「cattiva」と言われた。
辞書だと「意地悪」って意味なのだが、そんな優しい言葉ではなく、それ以上の悪口、悪態だと思う。
はぁ~?仕事もしないで物乞いしてる人になんで私がそんなこと言われなきゃいけないわけ???
無視、無視。
ここは写真に集中~ということで無視していたら離れて行きましたけど、ホント迷惑。勘弁してください。 
本当に助けを必要としている、大変な人たちは別なところに大勢いるんですから…

ちょっと不愉快な気持ちで外に出ました。
そして次は隣にある洗礼堂へ。

途中、きっと1000年以上雨風にさらされていたと思われる石棺。

洗礼堂です。
壁にはたぶんフレスコ画が描かれていたでしょうねぇ。
無残に何も残っていません。
ただ床の方は

少しだけど残っています。
もう少しきれいにしてくれれば見やすいのに…泥かぶってるんですよね。

ラテン語ですね…

ところどころにかわいい装飾が。
お願いだからきれいにして欲しい。

屋根
というところで隣の大聖堂へ向かうわけですが、ここまででかなり長くなってしまったので続きは次回でもいいですか?
ダメでも次会ということでお許しを。
睡魔が… 



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