イタリアの泉

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I Vivarini (ヴィヴァリーニ)ーヴェネツィア派の始まり

2016年06月03日 17時25分52秒 | イタリア・美術

今日も変な天気のフィレンツェです。今はとりあえず青空見えていますが、気温は上がりませんね。
パリではセーヌ川の水位が上がり、ルーブル、オルセー美術館が休館していると聞いています。
お~い美術品大丈夫かな???

さて今日は一つ真面目にヴェネツィア派のお話をしたいと思います。

いきなりですが、ゴンブリッチの「美術の歩み」にはこんな風に書かれています。

”物の輪郭おかすませ、物のもつ色を輝く光の中にとけ込ませる水の都の大気は、ヴェネツィアの画家たちに、他の都市の仲間よりいっそう慎重で敏感な色の用い方を教えたことであろう。
コスタンティノポリスの町やそこのモザイク職人たちとつながりをもっていたことも、こうした傾向を生む一因となったかもしれない。
色彩を文章で述べたり、言葉で説明したりするのはむずかしい。カラー図版にしても、原作が本当はどんなものであるかを充分にわからせはしない。
しかし、そうではあるが、ある程度説明できるものもある。
中世の画家たちは、あるものを「本当らしく」見せる色を、本当らしく見せる形と同じように大切に考えていた。
当時の装飾写本を七宝細工、あるいは板絵などでは、できるだけ純粋で高価な顔料が好まれ、きらきら輝く金彩と目の覚めるような青の組み合わせが大はやりだった。
フィレンツェの革新的な芸術家たちは、色彩よりは素描に関心を向けた。
もちろん彼らの色彩がすぐれていないというのではない。むしろその反対である。しかし、彼らのなかで、色彩を画面統一の基本要素の1つと見ていた者はほとんどいない。
さまざまの人物や形象をおだやかに融合させ、1つのまとまった画面を作るのは、むしろ遠近法と構図であると彼らは考えていた。
筆を絵具にひたす前に、素描でこの統一感を作り出すのを得意として。
一方、ヴェネツィアの画家たちは色彩を、ただ素描に色をつけるという、つけたしの飾りとは考えなかったようである。”

これがフィレンツェとヴェネツィアの画家たちの大きな違い。
Vasariも「デッサンもまともにできない」とヴェネツィアの画家たちを馬鹿にしていたようです。
まぁと言ってもVasariはフィレンツェ至上主義(フィレンツェ出身じゃないくせに、ねぇ)でLe Viteを書いているので仕方がない。
しかし、これはどちらが優れている、という優劣の問題ではない。
単なる特徴なのである。
フィレンツェは古代に帰ることで新しい様式を生み出したが、
ヴェネツィアはその土地柄、ビザンチンや北方ヨーロッパの影響を受け、最終的にはフィレンツェから始まったルネサンスの影響も受けざるを得なくなるわけである。

ただ少し気になるのは、Wikipediaに
ヴェネツィアに”初めは国際ゴシック美術が入り、後にフィレンツェ派の新様式がもたらされた。
それに伴い、ヴェネツィアではフィレンツェの芸術に対する反論が生まれ、ティツィアーノを筆頭とした芸術理論が持ち上がったといわれる。
ヴァザーリは『美術家列伝』第二版でヴェネツィア派は自発的に生まれたものでなく、レオナルド・ダ・ヴィンチの影響下で生まれた者であるとし、実際1500年初頭に短期間でレオナルドがヴェネツィアを訪問したことが明らかとなっている。”

という記述が有るが、これにはちょっと疑問???
ということでうちにあるVasariのLe Viteを朝から引っ張り出して、パラパラ見てみたけど、さすがにその記述は見つけられなかった。
レオナルドがヴェネツィアを訪れたことをヴァザーリは語っていないが、Luca Pacioliが1500年にレオナルドがヴェネツィアに来た事を記録している。
ヴァザーリが記録しなかった理由としては、レオナルドがここでは芸術作品を作らず、対トルコの軍事装置の設計だけをしていたからではないかと考えられている。
反対にこのヴェネツィア訪問で、レオナルドの方がヴェネツィア派、特にGiogioneやドイツ人だがヴェネツィアに滞在していたデューラーの作品から”光と影”の影響を受けた、と言われている…んですけどね。 

ここでヴァザーリのLe vite de' più eccellenti pittori, scultori, e architettori(通称Le Vite)について少々。
日本語では『画家・彫刻家・建築家列伝』と訳され、「芸術文学の古典としてもっとも有名で、もっとも研究された本」、「イタリアルネサンスを語る上でもっとも影響力のある書物の一つ」、「芸術史を最初に構築した文書の一つ」と言われている。
作者は言わずと知れたGiorgio Vasari
建築家、画家として万能の才能を持ちながら、本業よりもこの著書の方が彼の名を有名にしているのは明らかでしょう。
全てが信憑性のある話ばかりではないが、ルネサンス期の芸術について知る資料としてはこれ以上のものは存在しない。
CimabueからMichelangeloまでの中世からルネサンス期の芸術家合計178名について書かれているLe viteには2版ある。
第1版は1550年に出版されたTrentino版。
そして第2版は1568年のGiunti版である。
「第1版は2版に比べて文学的で芸術家の人間性の表現が優れているのに対して、2版は色々な話がごちゃ混ぜになった感じがする。」と違いを指摘している人もいる。
Vasariはこの2版目で30人を追加。
出版前にヴェネツィアを訪れたこともあって、第2版ではヴェネツィア派の記述が増えている。
しかし、目に見えてはっきり違うのは、1版の時はミケランジェロ以外は全て死んでいる芸術家について書かれていたのに、
2版ではまだ生きている芸術家を入れ、各々の肖像画が差し込まれた。

さて、今日の本題のヴェネツィア派についてに入りますが、どんな本を読んでも大抵ヴェネツィア派の祖はJacopo Belliniとしているようだが、
「新西洋美術史」という本にGiovanni Belliniをして”ヴェネツィア絵画の祖といえる”という記述が有るが、これは誤りだろう。
Wikipediaでも言っているがあくまでも”祖”、創始者は父Jacopoであるが、何も彼一人がヴェネツィア絵画の流れを作り出しわけではない。
ただ、これも本当は違うのではないか?
と思ったのはVivariniについて調べ始めてから。
当時ヴェネツィアの絵画の注文をBelliniの工房が一手に引き受けていたわけではない。


この図を見るとヴェネツィア派の流れがすごく良く分かる。(自分で書き直してみました)
ヴェネツィア派の元の元はJacobello del FioreとGentile da Fabrianoなんだと思います。

Jacobello del Fioreは14世紀終わりから15世紀の頭、Venezia, Marche 、Abruzzoで活躍していた画家。
末期のゴシック様式のスタイルで作品を制作していました。
なんとこの人の弟子にCarlo Crivelliがいた
そして上の写真ではGentile da Fabrianoの流れになっているMichele GiambonoもJacobello del Fioreの弟子、ということになっている。
う~ん確かに。

WikipediaにもMichele Giambonoは同期のヴェネツィアの画家の中で一番Gentile da Fabrianoスタイルをうまく引き継いでいる画家だと言われている。

こうして見てくると、ヴェネツィア派を語る上での最初のカギはGentile da Fabrianoということになる。
前出の「新西洋美術」の国際ゴシック様式の項目にはこんな風に書いてある。
”14世紀末から15世紀前半にかけて、およそ70年にわたって、ヨーロッパ全体に優美で宮廷的な美術が流布した。
この統一的様式は一般的に『国際ゴシック様式』と呼ばれている。その名の通り、ボヘミア(チェコ)からカタルーニャ(スペイン)、イギリスからイタリアまで、広くヨーロッパに共通した美術が認められるのである。
この様式はミニアチュール(彩色写本)など、持ち運びできる美術作品によって広まったといえる。したがってミニアチュールや私的性格の強い板絵、あるいはタピスリーなどの装飾的作品に優れたものが多い。≪ベリー公のいとも豪華な持祷書≫で名高いフランドルのランブール兄弟やイタリアのミケーリーノ・ダ・ベゾッツォなどの優れたミニアチュール画家がこの時期にでているのも偶然ではない。
この国際ゴシック様式の範囲を決定するのは難しいが、15世紀前半に北イタリアを中心に活躍したジェンティーレ・ダ・ファブリアーノとピサネッロが最も重要な画家だといえよう。”

ゴンブリッチの「美術の歩み」から加えましょう。
更にこの国際ゴシックですが、これ、Simone Martiniが先駆けを作ったと言われています。
シモーネ・マルティーニはゴシック期のシエナ派の画家。

ウフィツィ美術館所蔵のこの「受胎告知」は”シモーネ・マルティーニの個性的な造形感覚とシエナの繊細な美意識の結晶”と言われています。
ちょっと長くなりますが、シモーネ・マルティーニとリッポ・メンミの共作のこの作品についてゴンブリッチは

”それは、どの程度にまで、14世紀の理想と一般的な気運がシエナ画派によって吸収されたかを示している。
この絵は聖告の場面、すなわち聖母への目通りのために、点から大天使ガブリエルが到着した瞬間を表しており、彼の口から「めでたし、恵まるる者よ」の文字が出ているのを読むことができる。
その左手に、彼は平和の象徴であるオリーブの小枝を持つ。
右手は、まさに話しかけようとしているようにあげられている。
聖母が本を読んでいた。
天使の出現に、彼女は驚いて呆然としている。
彼女は天の使者を見かえりながらも畏れつつしみ、身を引いている。
この二人の中間に、純潔の象徴である白百合をいけた壺が置かれており、中央の尖頭アーチの上方に、聖霊の象徴である鳩が4つの羽根をもつ天童によって支えられているのが認められる。
これらの名匠たちにも、フランスやイギリスの作家たちと同じく繊細な形態と抒情的な感情への愛好が認められる。
彼らは、流れるような衣裳のやさしい曲線や、ほっそりとした体の神秘的な典雅さを楽しんだ。
つまり画面全体は、金色の背景にくっきり描き出された人物を含め、あまりに巧みに配置されているので、何か高価な金細工師の作品のように見える。
これらの人物像が、パネルの複雑な形にあてはめられている手法の巧みさはまったく驚くほどである。
天使の翼が、左の尖頭アーチで縁どられ、聖母の姿は右の尖頭アーチという隠れ場に後退している。その一方、両者の間の空間は、壺とその上方の鳩で埋められる。
この画家たちは、中世の伝統から、ある型へ画像をあてはめるこのようなやり方を学んだ。” 
とこのように説明しています。 

ではゴシックとは何か?
「ゴシック様式」は建築から始まっています。

”12世紀半ばの北フランスから始まった大聖堂などの宗教建築は、次のような共通の特徴を持っていた。
第一には先の尖ったアーチ(尖頭アーチ)で建物の高さを強調し、天にそびえていくような印象を与えようとしていること、第二に建物の壁に大きな窓を開けて堂内に大量の光を取り入れていること、そして第三に、建物を外側から支えるアーチである飛梁などの構造物が外壁からせりだして、建物に異様な外観を与えていることである。
こうした特徴を持った大聖堂などの建築物は北方のヨーロッパが獲得し始めた独自の様式であったが、均整のとれた古典古代世界の文化を崇敬するイタリアの知識人たちは、いびつで不揃いな外見などに高い価値を認めず、侮蔑をこめてイタリア語で「ゴート人の (gotico)」と呼んだ。ゴート人はゲルマン人の古い民族で、実際には大建築とは無関係であったが、野蛮な民族による未完成の様式という意味をこめてそう呼んだのである。”(Wikipediaより)
イタリアではロマネスクの後、間髪入れずにルネサンスが訪れるため、ゴシック建築の建物は、その他ヨーロッパの国と比べると少ないんですよね。

ただ絵画においては、ペトラルカと仲良しだったシモーネ・マルティーニは彼を訪ねてフランスのアヴィニョンへ行くことでヨーロッパ各地へと広がって行きます。
当時教皇庁が置かれていたアヴィニョンはヨーロッパの中心。
ここから様々な文化が他国へ流れて行ったのはごく普通の流れでしょう。

片やイタリア国内は、と言いますと…
ここでGentile da Fabrianoに戻りますが、彼はda Fabrianoというんですから当然Marche州のファブリアーノの出身。
でも、この人は一生旅人画家で、お呼びがかかればどこへでも赴いていたようです。
1405年からはヴェネツィアに、ここではたぶん彼の工房にJacopo Belliniが働いていたようです。
更にこのヴェネツィア滞在中に、PisanelloやMichelino da Besozzoとも知り合ったようです。

とここまで色々な流れ、作品を見てくると、どうやらこの後のヴェネツィア派の流れは、国際ゴシック様式を色濃く残す派とフィレンツェを代表とするルネサンスの新しい風を色濃く取り入れた派に分かれることが分かってきます。
それが当時のヴェネツィアを二分していたVivariniとBelliniの2流派になる、というわけね。
ライバルとは言え両家はお互いに影響を与え合っていた。
また他にも例えばMantegnaやSquarcioneの工房、 Antonello da MessinaやPerugino当時ヴェネツィアやその周辺で活躍していた画家の多大な影響を受けている。

ということでやっとVivariniの話にたどり着いたというわけです。
う~ん時間がかかったけど、こうして時間がある時にゆっくり考えるのは良いことだ。

展覧会のタイトルにもなっていたけど、I Vivariniと言えばAntonioを筆頭に、彼の弟Bartolomeo,そしてAntonioの息子(ということはBartolomeoの甥)のAlviseを指す。
今回Coneglianoで行われていた展覧会も、年代順、3人の作品に分けて展示されていた…と思うんだよね。
既にどんな作品が有ったのか記憶になくて、サイトを見たんだけど「あれ?こんなの見た?」という感じで…困った、困った。
元はVivarini一家はPadovaの出身だが、Murano島へガラス職人となり移住、その道ではヴェネツィア一の評判の腕前だった。

ヴェネツィアのSanti Giovanni e Paolo教会にあるこのステンドグラスの構成がBartolomeo、もしくはAlviseの手によると考えられています。

写真は一部のものですが、こえ全体で15メートルを超える大作らしく、どうも最近修復された模様。 

一番年上のAntonioは1418年頃生まれ、1476-84年頃に亡くなっている。
最初の作品で制作年が確かなのが1440年、息子のAlviseが亡くなったのが1503-05年
ということでVivarini3人で約60間、精力的に制作を続けていた。
依頼者はほとんど宗教関係だったが、 唯一と言っていい、ヴェネツィア元老院からの依頼で2枚だけPalazzo DucaleのSala del Maggior Consiglioの為に作品を制作するも、
Palazzo Ducaleを飾っていた全ての初期1400年代の作品、Bellini, Carpaccio, Tizianoや他の画家が描いた作品全てが1577年の火事で消えてしまった。

と今日はここまで。
国際ゴシック様式とヴェネツィア派の始まり~というところまでで終了です。
明日は久しぶりのお仕事があるので、続きかけるかなぁ…ということでVivariniの詳しい話はまた次回。
あっ、また雨降って来た。



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