死後550年、ボッティチェッリ(Botticelli)のヴィーナスのモデルになったと言われ、ルネサンス時代で一番美しかったと言われるシモネッタ・ヴェスプッチ(Simonetta Vespucci)の死因が珍しい腫瘍であることが分かった、という記事が出た。
写真:Wikipedia
これ、いたって真面目なお話。
だって、その結果がアメリカの内分泌学の学術誌Endocrine Practiceに掲載されたのだから。
シモネッタ・ヴェスプッチ(Simonetta Vespucci)は1476年、23歳という若さで死亡した。
この若き女性は脳下垂体の分泌に伴う腫瘍により引き起こされた脳溢血で亡くなったと考えられたいたのだが、今回あるイタリア人の研究が前出の学術誌に発表され、証明されたようだ。
その方法は墓を掘り返して、死体を調査したわけではない。
まずボッティチェッリによって描かれた彼女がモデルと考えられる作品を照合する。
それらの絵に描かれた彼女の顔の線を比べ、腫瘍からホルモンの分泌による腫れなどが見られないか調べる。
結果、顔のラインに変化が有ることが分かった。
ってあくまでもそれボッティチェッリの絵の中のことですが…と素人は考えますが?
イタリア語には「ヴィーナスの斜視(Strabismo di Venere)」という言葉があり、これは軽い斜視が女性をより魅力的に見せるということのようです。
ヴィーナスが斜視なのもこの病気が原因なのか?
参考:https://www.huffingtonpost.it/
Städel Museum, BOTTICELLI, 2009 November
Hans Körner著 SIMONETTA VESPUCCI The Construction, Deconstruction, and Reconstruction of Mythの冒頭部分「La bella Simonetta;Simonetta Vespucci died of tuberculosis on April 26, 1476. She died young. And even in death she remained what she had been to the living: la bella Simonetta. Her body lay in state uncovered.」
この文中にtuberculosis結核 とあったのでそう書きましたが、この本には死因が書かれている文書の原典が何であるかは出ていないので、これ以上のことは分りません。
さて、今回ご紹介のニュース記事、初めは冗談かと思ったのですが、イタリア語の文章をネット翻訳してみたところ、数点ある「シモネッタの肖像画」とされる絵やウフィッツイのヴィーナスの誕生などの顔を分析しているようで、医学的にはまじめな研究のようですね。ニュース記事の文中に「particolarmente chiara nella ‘Signora Allegorica’, dove è raffigurata la galattorrea:特徴の変化は乳汁漏出が描かれている“寓話的な女性”で特に明白」とあります。この絵は個人蔵(英国リッチモンドのクックコレクション旧蔵、下記URL)の作品で、私は見たことがありませんが、表情や輪郭に特別不自然な感じは受けません。この絵よりもベルリン絵画館の絵(下記URL)の額が大きいことが以前から気になっていましたが、これがその病気の特徴であるならば、上の乳を搾って出している女性像の額も同様に大きいという気がします(下記の他のシモネッタの絵では額の大きさはそれほど目立たない)。
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Botticelli_-Simonetta_Vespucci_as_Maria_Lactans.jpg
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Sandro_botticelli,_ritratto_di_profilo_di_una_ragazza,_forse_simonetta_vespucci,_1460-65_ca._01.JPG
ボッティチェリ(工房)作のシモネッタの肖像画とされている絵は上記のクックコレクション旧蔵、ベルリン絵画館の他、フランクフルトのシュテーデル、丸紅、ロンドンNG(丸紅とよく似た絵で色彩がやや地味)、オックスフォード・アシュモレアンの素描があります。これらはクックコレクション旧蔵の絵が「斜め前向きで乳汁を絞り出している」という形であること以外、全て同様の上半身横顔の絵(ベルリン絵画館のみ左向き)です。最も重要な作品はメディチ家ゆかりのカメオのペンダントを着けているという点でシュテーデル作品でしょうか。そして絵の出来がいいのは丸紅とシュテーデル作品です(現在はこれら全ての絵は工房作とされています)。今回の研究では多分これらの作品全て(及びシモネッタのイメージがあるとされるウフィツィのヴィーナスの誕生とプリマヴェーラ、ロンドンNGのヴィーナスとマルスなど)について、顔の輪郭からの腫瘍判定という方法を適用させていると思います。これら以外ではフィレンツェのピッティにシモネッタとされてきた絵がありますが、上記の作品と比べ、装飾品や衣服が地味なので、今ではシモネッタではないとされています(ボッティチェリ作品ではないとする研究者も多い)。
また、別の画家の絵ではシャンティイ・コンデにあるピエロ・ディ・コジモの作品、フィレンツェ・オニサンティのヴェスプッチ家礼拝堂にあるギルランダイオ作のフレスコ画「慈悲の聖母」に描かれたヴェスプッチ家一族中の女性像(右から3人目)が従来からシモネッタとされています。ピエロ・ディ・コジモの絵は時代が少し下ること(1500年頃か)、シモネッタ・ヴェスプッチと書かれた文字が後のものであること、寓意的な絵(蛇が巻き付いた首飾りをしているのでクレオパトラとも呼ばれる)なので必ずしもシモネッタの肖像画とは言えないことから除外するとして、ギルランダイオの絵に注目したいと思います。この絵についても上記2/4のコメント「シモネッタ・ヴェスプッチ(その2)」で少し触れましたが、今回注目する理由はドメニコ・ギルランダイオはサンタ・マリア・ノヴェッラやサンタ・トリニタで注文者や周辺人物の肖像をかなり写実的にフレスコ画に描いている、という点です(ロレンツォ豪華王、ポリツィアーノ、サセッティなど)。この点からヴェスプッチ家一族の肖像には必ずシモネッタも描かれているはずであり、制作年代(礼拝堂が作られた1472年頃)から見てシモネッタは18歳か19歳(マルコ・ヴェスプッチに嫁いでフィレンツェに来て3年後)。亡くなる4年前ぐらいなので、もし今回の研究のように腫瘍で亡くなったのならばその特徴が既に現れていると判断できるのか、この研究論文の中で(ボッティチェリ作ではないが)オニサンティのフレスコ画中の女性像も検討対象にしたのかどうかを知りたいところです。なお、ギルランダイオの描くこの女性像は髪の毛の表現はボッティチェリの一連のシモネッタ像に近いが、顔はそれほど似ていないと思います。
それにしても、ボッティチェリ(及び工房)作のシモネッタの肖像画やヴィーナスの誕生を分析してシモネッタの死因を推定するというのは、ちょっと首をひねってしまいます。これらの絵はどれにしても1476年春のシモネッタの死よりも数年から10年程度あとになって理想化して描かれたものだし、どこまで本人の実態を表現できているのか疑わしいでしょうね。カラヴァッジョの聖アンデレの殉教(クリーブランド美術館)の下方に描かれた老婆の首の部分の膨らみは甲状腺腫瘍を示している、といった例もありますが、理想化した肖像画やヴィーナスの誕生の絵では…? というのが正直な感想です。美術史の専門家の目で、従来からの結核による死という文献上の記録との信憑性の比較や理想化して描かれた絵の表現から医学的な判断をすることにどこまで信頼性があるのか、意見を聞きたいところです。
でも、上で引用したシュテーデルの2009年の本(引用した英文)のように「彼女の体は覆われていない状態で横たわっていた」というのだから、ボッティチェリを始めフィレンツェ市民の多くが棺の中のその顔を見たのでしょうから、ボッティチェリも死顔をデッサンし、それが工房には残っていてその後も利用され、理想化した肖像画やヴィーナスの誕生を描く時にも死顔の特徴が現れたと考えることもできるかもしれない、とも思ったりしています。(また、家が近かったボッティチェリもシモネッタの生前にはデッサンをしていると思いますが、馬上槍試合の直後から亡くなるまでの1年3カ月は外に出てきていないというのだから、槍試合の前にデッサンした顔にはどの程度病気の特徴が出ていたのか、この腫瘍の医学的なことも知りたいですね。)
ついでに丸紅のシモネッタの肖像画の追加情報です。上記コメントの2/1の投稿で丸紅が入手した経緯は芸術新潮1969年12月号に出ていると書きましたが、最近手持ち資料を見ていたらもう一つありました。朝日新聞社のアエラ1991年12/31-’92年1/7合併号に「フィレンツェの興亡と戦後日本 メディチ家の教訓 500年前のバブル大崩壊」という特集で「美しきシモネッタ 500年の流浪」という記事があり、その中に丸紅のことも詳しく書かれています。この中で、シモネッタの贋作騒動で購入の仮契約をしていた山種美術館がキャンセルしたことや、シモネッタを購入した時の社長であった桧山広会長が、購入7年後の1976年にロッキード事件で田中角栄元総理らとともに逮捕されたことも出ています。この特集記事にはサン・ジョバンニ洗礼堂天国の門扉レリーフの複製を日本人が寄付した話(その人は丸紅のシモネッタ輸入にも協力したそうです)や塩野七生氏のインタビュー記事も掲載されていますので、ご興味があれば図書館でご覧ください。
いつも詳しい情報をありがとうございます。
この記事を読んであくまでもモデルだと考えられているシモネッタの絵で死因を真面目に特定するとはどういうこと?、冗談かと思いました。詳細は分かりませんが、こういうことを真面目に研究した人がいるというだけでかなり驚きです。
アエラの記事は面白そうですね。是非読んでみようと思います。
開館記念展の第1回目は「日仏近代絵画の響き合い」。ボッティチェリのシモネッタが出るのは開館記念展第3回目の「美しきシモネッタ展」で2022年秋(下記URLの2番目)。
https://www.marubeni.com/gallery/
https://www.marubeni.com/jp/news/2021/release/00087.html
私の希望としては、「美しきシモネッタ展」というのだから、海外にあるボッティチェリのシモネッタの絵(特に上記コメントで書いた、まだ見たことのないクックコレクション旧蔵の乳を搾っている絵)が来てくれたら嬉しいのですが、無理でしょうね。また、丸紅のシモネッタは日本に来て以来、海外に貸し出したことはないので、欧米の研究書でもあまり詳しく書かれていません。ギャラリーを開くのだから、今後は積極的に海外にも出すようにすれば、研究者の目に触れる機会も多くなり評価も上がると思うし、バーターとして外国のボッティチェリ作品を借りるチャンスも出てくるというものです。
コメントありがとうございます。
「美しきシモネッタ展」、期待させるタイトルですが…とりあえず来年が楽しみですね。