イタリアの泉

今は日本にいますが、在イタリア10年の経験を生かして、イタリア美術を中心に更新中。

Città del tufo、Pitigliano(ピティリアーノ) その2ゲットー

2017年02月10日 16時12分09秒 | イタリアの小さな街・大きな街(Fi以外)

ツーリストインフォメーションで教えてもらった一番の街の見どころが元ユダヤ人地区、ゲットーでした。
ユダヤ教、キリスト教、イスラム教は根底は同じアブラハムの教えです。
この3宗教とは全然関係ない場所で生きて来た私が理解していることと言えばこれくらい。

・ユダヤ教の聖書は旧約聖書、キリスト教は旧約と新約聖書。

・ユダヤ教徒はいつでも迫害を受けいる、その最たるものが第2次世界大戦。
救世主キリストが現れたキリスト教では教徒たちは救われたけど、ユダヤ教徒の救世主は今も現れていないのでそれが原因?

・ユダヤ教、イスラム教は偶像崇拝禁止、食事の制限など色々厳しい決まりが有るけど、キリスト教は昔昔はそうだったけど、今はそれほどない。

恥ずかしながら、こんな感じですかねぇ…

現在も”Ghetto(ゲットー)”と呼ばれる地域が世界中に残っています。
イタリアでも特に有名なのはRoma、Venezia。
Firenzeにも多くのユダヤ人が居ると聞いていますが、一番コミュニティーが大きいのはLivornoと言われています。

”ゲットー”という言葉を最初に使い始めたのはヴェネツィアと言われています。
中世、地中海貿易の覇権を握っていたヴェネツィアには、神聖ローマ帝国のユダヤ人が多くやって来て、ヴェネツィア船が東方から運んできた品を買い取り、中西欧に仲介をしていました。
Giudecca(ジュデッカ)という島が今でもヴェネツィアには有りますが、ここは最初にユダヤ人が住み始めた地区。
日本語版のWikipediaには「13世紀に強制的にこの場所に住まわされた」、と有りますが、
イタリア語の方にはGiudeccaとGhettoの違いとして、Giudeccaは「安全とユダヤ人の独自の文化を守るためにユダヤ人が好んで住んだ土地」で、Ghettoは「強制的な居住区」と書かれていました。
イタリア国内にはghettoを単に「貧しい人が住む地域」という意味で使っている地域も有りました。

色々と差別を受けてもヴェネツィアのユダヤ人は繫栄します。
そのあたりはシェークスピアの「ベニスの商人」からも読み取れる。
ユダヤ人は特別税を払う事でその後もヴェネツィアの財政に大きく貢献しました。

1516年、ヴェネツィア本島の西北部カンナレジオ地区の新鋳造所跡にユダヤ人居住区が建設され、ヴェネツィアのユダヤ人はここに移住を強制されます。
鋳造所はヴェネツィア語で”Getto”といい、これがユダヤ人”強制”居住区を意味する”Ghetto(ゲットー)”の語源になったといわれています。
現在このゲットーは”Ghetto Nuovo(新ゲットー)”と呼ばれています。
新ゲットーは四方運河に囲まれており、高い塀がめぐらされ、外向きの窓はすべて煉瓦でふさがれていて、設立当初は700人ほどのユダヤ人が生活していたとみられます。

そして1538年には隣接する旧鋳造所跡にもユダヤ人の居住が認められ、1541年にはここも”ゲットー”になります。
現在この地域はGhetto Vecchio(古ゲットー)と呼ばれています。
古い方が”新ゲットー”、新し方が”古ゲットー”とちょっとややこしいのですが、新旧はゲットーが建設される前の鋳造所のことなんですよね。
最盛期にはゲットーの人口は5,000人に達したと言われています。

その頃ヴェネツィアの東方貿易の主役はユダヤ人で、ユダヤ人が乗っていないヴェネツィア船はほとんど見当たらないほどでした。
それなのにゲットーの住民は日中だけはゲットーを出て、地の利の悪い所で商売を行う事を許されていましたが、夜は門が閉められ、事実上ゲットーに閉じ込められていました。
もちろん重い特別税も課せられていました。
ヴェネツィアのゲットーも、他の場所と同様にユダヤ人隔離を目的として作られた差別的立法の産物ではあったのですが、同時期の中欧のゲットーとは異なり、ヴェネツィア・ゲットーに対してヴェネツィア人が略奪や虐殺などを行うようなことはありませんでした。
これはヴェネツィア共和国が信教の自由を保障していた国であり、またヴェネツィア国民が宗教に無関心な人が多かったためではないかと見られています。
教皇庁からも独立した立場を取り、宗教よりも経済発展に重きを置いていたヴェネツィアならでは、という感じがします。

繁栄を極めたヴェネツィア共和国も1797年、ナポレオン・ボナパルト率いるフランス軍によって滅ぼされてしまいます。
これによりユダヤ人はようやく解放され、ゲットーに居住することを強制されなくなりました。
そしてイタリア統一運動にはゲットーから解放されたユダヤ人たちの協力があったようです。
1866年にイタリア国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世は改めてユダヤ人に居住の自由を認めています。
しかし解放された後もゲットーに留まったユダヤ人は多かったようです。
なぜならユダヤ人のうち裕福な者はゲットー外へ移住することもできたものの、貧しい者はそのままゲットーで暮らすしかなかったのです。
ユダヤ人が全てお金持ち、というわけではなかったのですね。
ゲットーの人口は少しずつ減っていきましたが、第二次世界大戦前まではヴェネツィアのゲットー地区ではヴェネツィア・ユダヤ方言が話され、伝統的な儀式がおこなわれていたそうです。
(Wikipedia参照)

とちょっとヴェネツィアに行ってしまいましたが、ヴェネツィアでのユダヤ人の立場はイタリア国内の他の地域よりはましな方です。
1555年教皇Paolo IV(パウルス4世)はRomaにゲットーを作り、"Cum nimis absurdum(クム・ニムス・アブスルドゥム)"という回勅を出し、ユダヤ人を特定の地区に住むように強制します。
パウルス4世は強烈な反ユダヤ主義者で、彼にとってユダヤ人は神から見捨てられた存在であり、キリスト者の愛を受けるに値しない民族であると考えていたとか。
ユダヤ人の生活は制限され、夜間は外出禁止、自由は奪われていたようです。

ちょっと脱線しますが、このパウルス4世は、芸術も解さない、非常につまらない教皇でした。
この人がシスティーナ礼拝堂にミケランジェロが描いた”最後の審判”に裸の人が描かれている事を嫌悪し、1565年Daniele da Volterraに腰巻を描かせています。
Daniele da Volterraはそのせいで「Il Braghettone」(ズボン作り)というあだ名で呼ばれるようになりました。(いい迷惑!!)
幸いその年の暮れにピウス4世が亡くなり、コンクラーベ(新教皇選出選挙)を行うために足場を外さなくてはいけなくなり、作業は中断したそうですけどね。

教皇Pio V(ピウス5世)の時代には教皇領内の各国にゲットーを作る要請が出され、16世紀から18世紀の間、全ての主要な街にはゲットーが有った。(例外はLivornoとPisa)
19世紀になってもピウス9世の保守的な政策の為、ローマのゲットーは西欧に最後まで残ったゲットーとなった。 

イタリア国内がこのような状況だった中、Pitiglianoはちょっと状況が異なっていました。
1556年ユダヤ人に好意的だった領主Nicclò IV Orsini、ユダヤ人だった彼のプライベートドクターにユダヤ人の墓地を造るようにと土地を与えます。

1598年にはシナゴーグが作られました。
1608年Pitigliano公爵領がToscana大公の併合され、1622年メディチ家によってゲットーが作られます。 
19世紀、ユダヤ人コミュニティーはPitiglianoの人口の4分の1から5分の1くらいを占めていて、”Piccola Gerusalemme”(小さなエルサレム)と呼ばれていました。
1861年イタリア統一によって自由を得たユダヤ人はPitiglianoを離れ、更に大きいユダヤ人コミュニティーの有るLivorno、Roma、Firenzeへと移って行きました。
1938年ユダヤ人の数は約70人に、人種差別に関する法律によって更に人数は減っていきました。
第2次世界大戦中、約30人のユダヤ人がPitiglianoに残っていましたが、キリスト教徒の家族たちの協力で、田舎にかくまわれたりして生き延びた人もいました。
山崩れによって60年代にシナゴーグが崩壊してから、ユダヤ人コミュニティーの再建の希望は無くなり、現在に至っています。

現在はそのユダヤ人地区では博物館と再建されたシナゴーグを見学することができます。
階段の先にまずユダヤ教徒でも食べられる食品などを扱うお店が有りました。

入場料は5€

中はこんな感じ
ユダヤ人ははじめ凝灰岩の中に掘られた洞窟に住んでいました。(1,2,4,5は洞窟の中です)
1番は宗教儀式に使う水槽”ミクワ―”

何の写真か全く分かりませんが…
雨水をためていたようで、完全に残っているものはなかったです。
Tevilàという儀式で使われるようで、その儀式はユダヤ教に改宗する、月経・産後、結婚式の前の儀式をいうみたいです。
この儀式中、女性は水との接触を妨げるようなものを身に着けることを禁じられている、つまり何も身に着けないで行われたようです。
また女性は水に体を浸す前に、完璧に体を洗っておかなくてはいけないそうです。
結婚式前に行われるTevilà以外は日が落ちて夜星が出てから行われます。

ちょっと不気味…という暗いトンネルを下って行きます。
足元注意!!

突き当たった場所は、2番はカンティーナ、ワイン貯蔵庫です。

Kasherという特別なワインを貯蔵していたようです。
ユダヤ教徒には食べ物にかなり厳しい決まりがあります。
例えば肉製品と乳製品を同じ食事時間に食べてはいけないとか。
ワインはブドウを取ってから瓶詰めするまで厳しく行程が管理されていて、無添加。低温殺菌され、普通の温度より高く保存されているようです。
ワインはキリスト教でも「キリストの血」として大事なものですが、ユダヤ教では異教徒が触れたワイン、つまり異教徒が栓をあけたりしたワインは、使用禁止です(そのワインのことを、ヤイン・ネセフと呼びます)。
ブドウ以外の果実酒、ウイスキーなどは問題ないそうですね。

3番はMuseo di Cultura ebraica(ユダヤ教文化博物館)でここだけは撮影禁止でした。
宗教行事に使用する道具なども展示されていたせいですかね?
ユダヤ教の歴史や特徴が書かれた説明などもありました。
壁にはユダヤ教の祭りや儀式の様子が描かれた絵が飾られていました。 

昔のゲットーの様子。

この後番号通りではないのですが、シナゴーグへと向かいました。
シナゴーグは上です。
上に上がるとユダヤ人の墓地も見えました。

シナゴーグの入り口です。

信者はこちらの門からダイレクトに入れるようですが、現在はほとんど使用されていないようです。
というのも儀式に必要なMinianという10人の男性が不在だからだそうです。
1598年ユダヤ人Leon di Sabatoが出資して建設されましたが、1960年代に崩壊、1995年Pitigliano町の助成で再建されました。

2つの窓に挟まれているのが、一番重要なAron haQodeshですかね?
”聖櫃”と訳されるこの場所(箱やタンス)にはトーラーの巻物(セーフェル・トーラー)が保管されていて、エルサレムの方向に位置する壁に設置されています。
この写真は2階から撮っているのですが、女性はここから儀式に参加していました。 

4はMacello Kasher、正しいを行う場所です 。
 
ユダヤ教では、食べてよい食物と食べてはいけない食物を定めていて、この律法のことをヘブライ語でカシュルート(英語表記Kashrut、適正食品規定、食事規定)といいます。

食べてよい食物は一般にコーシェルと呼ばれ、ヘブライ語で「適正な」とか「浄い」ということらしいです。
健康で許可された動物しかできず、更に動物を苦しめないように、頚椎を一発で仕留めないといけないためエキスパートのShochetと呼ばれる人が専門に行っている。
また殺された動物の血抜きも完璧に行われなくてはならない。
なぜならユダヤ教では「血は命」と考えられているから、とか。
ユダヤ人が不浄な動物として絶対食べない動物が、蹄が割れていて、反芻する動物。
反芻?と言われても普段そんなこと考えたこともなかったので、分からなかったけど
”ある種の哺乳類が行う食物の摂取方法。まず食物(通常は植物)を口で咀嚼し、反芻胃に送って部分的に消化した後、再び口に戻して咀嚼する、という過程を繰り返すことで食物を消化する。”(Wikipediaより_
と言われても具体的に分からなかった。
羊、ヤギ、雄牛、鹿科の動物らしいです。
これに加えて家禽やエビやカキ、タコ、イカも食べられません。
ビーフステーキもウェルダンは良いけど、レアはダメ、フランス料理のカタツムリも、鯛の活け造りも、親子丼もダメなんだそうですよ。
ユダヤ人じゃなくて良かった、良かった。

5はForno delle Azzime、1年に1回しか使われない焼き釜。

ピザなら何枚焼ける?というくらい大きいんです。
ここはパスクア(復活祭)前の8日間だけ焼かれる酵母を使わないパンと焼き菓子を焼くための窯。
最後の使用されたのは1939年のパスクアの時。
その様子と思われる写真も残されていました、
その後は人種差別の法律で、彼らの伝統的な行事を行うことが出来なくなってしまいました。

全然気が付かなかったのですが、この部屋委はMezuzà(メズザー)と呼ばれる「門柱」がありました。
ケースに入った羊皮紙の巻物で、旧約聖書の申命記の一説が書かれているそうです。

この窯の部屋に入る手前に大きな部屋が有るのですがそこには

体重をかけてパスタやパンの生地を伸ばす装置(?)がありました。

他にもPitiglianoのユダヤ人の多くが紡績業に従事していたか、商人だったため、染め物をしていた場所もありました。
ここまで色々見せてくれるゲットーがないので、とても興味深かったです。
確かヴェネツィアでもゲットーツアーをやっていたので、そちらもやはり見てみたいと思ってしまいました。

ゲットーを堪能した後、街を散策。
その話はまた次回

ユダヤ教のシンボル「7本のろうそく」
早くからユダヤ教の象徴的存在となり、シナゴーグの床のモザイク、柱頭、石棺、その他の器具に模様が描かれるようになった”メノ―ラー”
ここにも有りました。

 つづく



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